諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【マルクス】【フランダースの犬】【ティモシー・リアリー】【セカイ系作品】進化論上「生き残る」なる言葉は何を意味してる?

2016年度米国大統領選挙の結果には国際SNS上の関心空間も動揺し、なんかガーベジ・コレクション(Garbage Collection)みたいな作業が始まっちゃいました。便乗して、これまでの投稿内容の整理に着手。

セカイ系」や「空気系」といった概念を2010年代の観点から「天動説」と退けるのは容易いですが、まぁ「十年後に自分も待ってる運命」なんだろうなぁ…

日本で2000年代後半に見られた「異類婚や彼岸と此岸の交流は悲劇しか生まない」なる物語文法の崩壊の進行、2010年代から顕著となる「風景オリエンテッド志向」と「(エピキュロス派やストア派を想起させる)痛みと快楽の適正バランスの模索」。前者はもしかしたら19990年代末から2000年代前半にかけて散々存在不安を煽られてきた反動かもしれない。後者への推移を単純に東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)のせいに帰して良いかも解らない。

それなら自分は何を見逃してる可能性が高いのでしょうか? 実は心当たりならないでもありません。そもそも進化論上「生き延びる」なる言葉は何を意味してるのでしょうか?

  • ラッサールと決裂する以前のカール・マルクスが彼の持ち出しで出版した「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の中で提示した「我々が自由意思や個性と信じているものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」なるテーゼはやがて独り歩きを始め社会学形成に大きな役割を果たした。ならば「マルクスは生き延びた」といえるのか?

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  • 多くのロマン主義作家が、社会の同調圧に屈して作品をハッピーエンドに終わらせる様になった時代、その流れにあえて逆らった英国人作家ウィーダの「フランダースの犬(A Dog of Flanders、1872年)」は欧米社会では忘れ去られたが、日本には「疲れたよ、パトラッシュ」の一言を残した。ならばフランダースの犬は生き延びた」といえるのか?

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  • ティモシー・リアリー博士の提言「Turn on Tune in Drop out」は今日なお国際的に名言として語り継がれ続けている。ならば「ティモシー・リアリーは生き延びた」といえるのか?

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それではセカイ系作品は生き残ったのか?」という設問についても、この観点からの検証が必要なのではないでしょうか。

 綺麗にはまとまってますが、むしろそれゆえにこのTweatを目にして、すずさんが「何トドみたあに転げとんな。おどれらみなしごうしてお好み焼きん入れちゃろか?」なんて啖呵を切る場面が脳裏に浮かびました。案外「この世界の片隅へ」の世界と「仁義なき戦い」の世界は表裏一体…

そもそも、こうの史代が「夕凪の街 桜の国(2004年)」「この世界の片隅に(2007年〜2009年)」を発表したのもゼロ年代なのに「セカイ系評論家」として、それについて一切触れないって一体どういう事?

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セカイ系評論家」がちゃんと当時を語り伝え様としないせいで、ただでさえ日本は「デスゲーム系作品は、セカイ系作品の発展型として登場した」なんて暴論までまかり通ってる有様なのに、さらに混乱が広がるのを望んでる?

*確かにヴァイマル政権(Weimarer Republik)時代(1919年〜1933年)のドイツでは社会学や政治学が純粋科学を志向し過ぎて社会的影響力を喪失して「決められない政治」が蔓延し、その状況を打破する為にカール・シュミッツの政治哲学とかが台頭した。でも同様のプロセスを経て日本にネトウヨが、アメリカにオルタナ右翼が溢れる様になったと決め付けるのは単なる寝言。

そういえば、こんな記事もありました。 やはりキーワードは「2000年代前半」。

実は、記者や映画業界関係者のなかには、予想はおろか、公開後に作品を鑑賞してもなお「なぜこの2作がここまでヒットするのか、ピンと来ない」と首を傾げる者も少なくないが、彼らには共通点がある。年齢がおおむね40代以上であるということだ。

このオジサンたちにとって、新海作品はとにかく「童貞っぽく、オタ臭い」。庵野作品はとにかく「クセが強く、マニアック」。両監督の作風を10年、20年スパンで知っていればいるほど、そのイメージは捨てがたく、したがってなぜここまで多くの観客に支持されたのかが、直感的に理解できないのだ。

もはや若者層にとって、「アニメっぽい表現」「エヴァ的なもの」は、童貞っぽくも、オタ臭くも、クセが強くも、マニアックでもなくなった。2作のヒットを感覚的に理解できない40代オーバーのオジサンは、その変化を認識できていない。おそらく彼らの認識する「アニメ」「サブカル」のイメージは、おおむね2000年代前半あたりで更新を停止している。

それでは海外では2000年代日本に何があったと思われているかというと…

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#notmypresident : the baby boomer who made this probably: Those...

  • まずはリチャード・バックマンスティーヴン・キングの別ペンネーム)の「死のロングウォーク(The Long Walk、1979年)」および「バトルランナー(Battle Runner, 原題: The Running Man、1982年、映画化1987年)」ありき。「殺人ゲーム」の起源はさらに「デス・レース2000年(Death Race 2000、1975年)」辺りまで遡る。その影響で高見広春バトル・ロワイアルBATTLE ROYALE深作欣二監督による映画化2000年〜、漫画化2000年〜2005年)」が執筆され、原作南條範夫・作画山口貴由シグルイ(2003年〜2010年)」や鬼頭莫宏「ぼくらの(2004年〜2009年)」の様な作品が登場し、その影響でスーザン・コリンズ「ハンガー・ゲーム(The Hunger Games、2008年〜210年)」やジェームズ・ダシュナー「メイズ・ランナー(The Maze Runner、2009年)」といったヤング・アダルト作品が米国でもヒットし、こうして形成されたファン層が諫山創進撃の巨人(Attack on Titan、2009年〜)」を諸手を挙げて歓迎する。



    *それにしても「武士道残酷物語」の南條範夫や「仁義なき戦い」の深作欣二の様な「焼け跡時代の生還者」のアシストが渋い。そういえば当時のアメリカでベストセラーとなっていた小説もナサニエル・フィルブリック「白鯨との戦い(In the heart of sea、原作2000年、映画化2015年)」や、マイケル・パンク「レヴェナント: 蘇えりし者(The Revenant、2002年、映画化2015年)」といった「アメリカの原点を辿る」孤立無援状態での壮絶なサヴァイヴァル物が多く、これがアンディ・ウィアー「火星の人(The Martian、2011年、映画化2015年)」の大ヒットへとつながっていく。

  • そして、こうしたメインストリームへの(2000年代前半まで遡れる)カウンター展開として、逆算的に河原礫「ソードアート・オンライン(Web連載開始2002年〜)」や、同人伝奇系ゲーム「ひぐらしのなく頃に(2002年)」や、 谷川流涼宮ハルヒ・シリーズ(2003年〜)」などが改めて思い出される事になる。

    米澤穂信「〈古典部〉シリーズ(Web掲載2000年、刊行2001年〜、アニメ化2012年)」の一作「愚者のエンドロール(2002年)」ラストにおけるヒロイン・千反田江留の「私も人が死ぬ話は好きじゃないんです」なる告白。「空気系」なる流行語が生まれる契機となった、かきふらいけいおん!(K-ON!、2007年〜2012年、アニメ化2009年〜2011年)」の大流行。そして劇場映画「聲の形(2016年)」。この辺りを結ぶと京都アニメーション山田尚子監督がどうやって「この時として残酷過ぎる現実に対する永遠の反逆者」なるバットマンジョーカーの如きカルト的定評を固めていったかが、何となく浮かび上がってくる。「空気系=絶対的絶望に対する絶対的拒絶」という解釈なら、こうの史代ワールドもまさにそれ。

  • そして、今でも国際SNS上の関心区間で引用され続けている当時の作品の名場面の一つが「ラーゼフォン(RahXephon 2002年〜2003年)」のこの場面。
    Dr. Rina-tan

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    *種明かしをしてしまうと、最初に大量にバラまいて広めたのは「serial experiments lain(1998年)」や「灰羽連盟(Ailes Grises)」も大好きな安倍吉俊画伯の信者層。今では日本の「疲れたよ、パトラッシュ」同様、作品から独り歩きして広まった感もある。2010年代より顕著となる「コミュニケーション志向(Communication Oriented)」なる長期トレンドの先駆け。

    whatever™

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    *同じく長期トレンド「コミュニケーション志向(Communication Oriented)」の先駆けにして、もう一つの長期トレンド「対象関係論志向(Object relations theory Oriented)」の先駆けと目される新海誠作品の画像引用が急増するのは「秒速5センチメートル(2007年)」以降で「ほしのこえ(2002年)」「雲のむこう、約束の場所(2004年)」は、まだそれほどでもない。

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  • 武内直子美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」からの国際的少女漫画ファン層から支持された「プリンセスチュチュ(Princess Tutu、2002年〜2003年)の国際SNS上の関心空間における回覧画像は当然バレエ場面中心だが、中にはこういう画像も混ざっている。まさしく「ピクチャレスク志向(Picturesque Oriented)」の先駆け?
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    ドロッセルマイヤー老人「自分の書く内容に責任を感じる?」
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    ドロッセルマイヤー老人「だから書けなくなってしまうのだ」
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    ドロッセルマイヤー老人「物語を考える時はもっと自由かつ無責任でいいんじゃ。でないと感じるままに書けるわけないじゃろ?」

    sorry aibou if this looks gay to the viewers
    *21世紀に入ってなお物語文法は「(決っして力尽くでは逆らえない)ある種の時代精神Zeitgeist)の体現者」を必要とし続ける。「そのたった一人さえ説得すれば(あるいは倒せば)世界全体が救済される」なる共同幻想が前世紀までに寿命を迎えてしまったにも関わらず。再建の途上でむしろそれは「絶対他者」としての側面を強めていく。鬼頭莫宏「ぼくらの(2004年〜2009年)」におけるコエムシ、「魔法少女まどか☆マギカ(2011年〜)」におけるきゅーべぇ、そして2016年におけるエベレスト山溪、里中真白、ゴジラ、ティアマト彗星、そして空襲…こんな展開、もしかしたらリスボン地震 (1755年) 以来かもしれない。そして我々はどれが「最恐」だったか決めないといけないの?

もちろん、ここまでまとまった意見がリアルタイムに同時代的に形成された訳ではありません。

  • そもそも海外SNSでリッチ・コンテンツ(静止画・GIF・音声データ・動画)が扱える様になったのは2007年以降。そして歴史のその時点では、多くのSNSがそうである様に「主張ごとにまとまったグループ同士の対峙状態」が存在していただけだった。

  • こうした海外SNSスマートフォンのFirst Screen化(何かあると真っ先に確認する媒体化)」と「SNSで回覧される内容のリッチ・コンテンツ化」を契機に言語の壁を超えて投稿が飛び交う「国際SNS」に統合され、擬似的な機械学習(Feature Learning)というかHFD(High Frequency Darwinism)というか、そうした側面まで備えた「関心空間」が登場するのは2012年以降となる。
    *日本において、ここでいう関心空間(匿名アカウント間における回覧数によってのみ投稿内容の価値が決まる世界)」の形成が進まないのは、もしかしたらマスメディア及び(マイクロ・インフルエンサーマーケティングとかまで繰り出してくる)ネット広告の世界への不信感がまだまだ不足してるからかもしれない。しかもその基本特性ゆえにマネタイズが恐ろしく難しく「顧客と消費者の間でのWin-Win関係構築」みたいなビジョンを打ち出すのが実に難しい。

  • いずれにせよ、そうやって国際SNS上の関心空間に顕現した日本文化史観に、高橋しん最終兵器彼女(2000年〜2001年)」や秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏(2000年〜2001年)」の居場所は存在しない。2000年代後半に作風を変えた植芝理一(「ディスコミュニケーション(DISCOMMUNICATION、1992年〜2000年)」「夢使い(2001年〜2004年)」から「謎の彼女X(2004年読切、2006年〜2014年連載)」へ)、田中ユタカ(「愛人[AI-REN](1999年〜2004年)」から「愛しのかな(2006年〜2009年)」 へ)、谷川流(「涼宮ハルヒ・シリーズ(2003年〜)」)が、2010年代の国際トレンド「コミュニケーション志向(Communication Oriented)」「対象関係論志向(Object relations theory Oriented)」「ピクチャレスク志向(Picturesque Oriented)」に復帰する兆しも見られない。こうした制約下「日本人の言ってるセカイ系作品って一体何なの?」と問われても、どう答えれば良いか分からない。
    *皮肉にも「厨二病(Chunibyou)系」と切り口を変えれば、それなりに当たりがついたりする。荒木 飛呂彦「JoJoシリーズ(1987年〜)」や、平野耕太HELLSING(1998年〜2009年)」「ドリフターズ(2010年〜)」や、上遠野浩平ブギーポップ・シリーズ(1998年〜)」や、奈須きのこ空の境界(1998年〜2001年)」「月姫(2000年)」「Fateシリーズ(2004年〜)」や、鎌池和馬とある魔術の禁書目録(2004年〜)」「とある科学の超電磁砲(2007年〜)」や、大久保篤ソウルイーター (SOUL EATER、2004年〜2013年)」 や、えすのサカエの「未来日記(2006年〜2010年)」や、「DARKER THAN BLACKシリーズ(2007年〜2009年)」の外連味なら、国際的にちゃんと日本独自文化として認められているという次第。

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    ブライアン

これだけ補助線を引まくると、逆にそれが絶対届かない領域がかえって鮮明になるのが興味深いあたり。当時幾人かが、結局根付かず無名のまま現在に至る「暗黒時代(The Dark Age、2011年〜2012年前半)」。どうバタバタあがいても、結局そこに引き戻されてしまうのですね。

  • 日本アニメ漫画GAME界隈に関していえば、東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)後に日本からの情報発信が自主規制によって途絶え、それまで日本から発信された情報を右から左に流していたまとめサイトやネットニュースサイトの多くが壊滅し、Fandom Warがあって、4chan VS Tumblr戦争があって、破れた4chan民が大挙してTumblrに入居してきた時代に該当。
    *「4chan VS Tumblr戦争」…米国メディアの報道によれば、今でも継続中って事になってるらしい。ざっと眺めた限りでは「Tumblr上の無政府主義者分署(C.R.A.C.のHPも真似してTumblr上にある)」と「4chan上のAlt-Rightの溜まり場」の衝突?

  • だが、それだけだったにしては起こった変化の規模が大き過ぎる。当時のアメリカについて印象に残っているのは、2010年に端を発する金融業界への不信感の高まりとエンジニアのデータエンジニアリング業界への転職急増に「ウォール街を占拠せよOccupy Wall Street、2011年9月17日〜11月15日)」デモ。どちらもリーマン・ショック(2008年9月15日)に端を発する動きと解説されていたが、いずれにせよ国際SNS側は「1% VS 99%、貴様らはどっちだ?」と連日の様にオルグしに現れる「正義派」の連中に終始拒絶感しか持たなかった。

    ウォール街を占拠せよ - Wikipedia

    *日米ともマスメディアは報道管制を敷いていたが、実はこのデモ、後半は浮浪者や逃亡中の犯罪者に潜り込まれてしょっちゅう凍死者や銃撃戦騒ぎを起こしていたらしいのである。下手したらアメリカ人の心に日本赤軍の「山岳ベース事件(1971年〜1972年)」以上のトラウマを残した可能性すらある。特にネット上で連日の様に「アメリカの警察がこれ以上存続し続ける方がよっぽど有害だ。この程度は自由を謳歌する為の最小限の犠牲に過ぎない」なんて無政府主義者アジテーションを聞かされていた人間にとっては。私もその一人だったが(最近「オルタナ右翼」の母体として注目されている)4chan民も確実に同じ思いをしているという次第。

    米国東部の雪とデモ

    http://www.y-asakawa.com/Message2011-2/11-message121-02.gif

    http://akerumade.tumblr.com/post/128558805018/jiro-kokuryo-國領二郎-jirok-2015年9月7日-twitter

    akerumade.tumblr.com

  •  日本にはアメリカがこの「正義派」と「反正義派」に分裂したと思ってる人達が多く、トランプ大統領勝利への反対を口実とした無政府主義者の暴動を応援してる人達も少なくないが、彼らはあくまでアメリカにおいて一般人から忌避されてる少数派。

    http://i0.wp.com/www.thelibertyshield.com/wp-content/uploads/2016/11/1024x1024.jpg?w=1024

    むしろ金融業界に対する不信感の方が深刻で根深く、これが2012年度大統領選挙に際してはロムニー候補の、2016年度大統領選挙に際してはヒラリー候補の足を引っ張ったとされている。

    https://67.media.tumblr.com/f70915548f42f5432260c00d37606e78/tumblr_nqszz2XRZn1slixf5o1_500.png

で、やっと話は冒頭の「2016年度米国大統領選挙の結果、国際SNS上の関心空間も動揺し、なんかガーベジ・コレクション(Garbage Collection)みたいな作業が始まった」に戻る訳です。私だけでなく誰もがどこかに死角が、見落としがないか一斉に気になりだしたんですな。

トランプ陣営のキャンペーンについては、当初から、そこはポピュリストの革命論者たちが出まかせを言っている場だという目が向けられている。大統領になるというトランプの野心は痛々しいほど明らかだが、彼にポピュリストの気質があるかというと、疑うべきかもしれない。国境の壁や移民に対する宗教テストなど、トランプ自身がほんとうにそれを望んでいるかは不確かで、トランプのチーフアドヴァイザーの1人、ポール・マナフォートは、トランプは予備選で「役を演じている」だけだと言った。確かにトランプのポピュリズムのどこまでが演技でどこまでが本当なのか、区別がつかなくなっている。

同じことがオルタナ右翼、“Alt-Right”についても言える。オルタナ右翼とは、ざっくり言うと「極右のムーヴメント」で、多くはインターネット上に存在し、その方向性はトランプキャンペーンや『Zero Hedge』と等しい。

「オルタナ右翼」という言葉を考え出したとされる白人ナショナリストのリチャード・スペンサーは、2015年12月、このムーヴメントは「ヨーロッパのアイデンティティーまつわるイデオロギー」だと表現している。しかし、オルタナ右翼はそれ以上のものとなっているようだ。白人ナショナリストや新反動主義、あるいは「#GamerGate」といった、ネット右翼のなかでも最も人目にさらしたくない部分の寄せ集めと化している。15年末には『BuzzFeed』が、トランプキャンペーンのおかげで盛り上がったこのムーヴメントが「大成功している」と宣言したが、以来、保守主流派からは不安の声が続いている。

ニューヨーク・タイムズ』のコラムニスト、ロス・ドウザットは、オルタナ右翼のあからさまな人種差別主義と伝統的な反動主義とをはっきりと区別した記事を書き、『National Review』誌は、このムーヴメントの特徴である「人種差別主義と倫理の腐敗」を強く非難した。『Commentary』誌は、オルタナ右翼が力をつけてきているとし、「次代の保守暗黒世代」への警戒を呼びかけた。

オルタナ右翼をイデオロギーとして真剣に受け止めるべきかというと、それは難しい。

スペンサーがこのムーヴメントを名付けたとき、彼は『Taki’s Magazine』の編集長だった。同誌の創刊者であり、名前の由来でもあるタキ・テオドラコプロスは、グシュタート(編註:スイスのリゾート地)をよく知る君主主義者で、ロンドン版『The Spectator』誌のコラムニストだった人物である。

右翼扇動家でもある『Breitbart』(編註:米国のオンラインニュースサイト)のミロ・イアノポウロスは、「反主流派の若者」たちは深い政治的理由ではなく、「楽しくて、法を犯せて、社会規範を乱せるから」という理由でオルタナ右翼に引きずられていると主張した。オルタナ右翼の多くはインターネット上におり、彼らはその匿名性の陰に身を隠せるのだ。

残忍なほどの女性蔑視にはじまり、新反動主義者の信奉者たちに至るまで、すべてを取り込んだオルタナ右翼全体をつなぎとめるもの。その本質的は中身にあるのではなく、“スタイル”だ。オルタナ右翼たちはトランプムーヴメントと同じく高慢なる芝居をうっており、それが彼らのポピュリズムをわかりにくいものにしている。オルタナ右翼を支持する白人労働者階級たちは、彼らは自己保身を求めているのではなく、その意図するところは「ノブレス・オブリージュ」(「高貴なるものは義務を負う」という意のフランス語)にあると主張していると、イアノポウロスは指摘した。

オルタナ右翼は、コンサヴァティズムにおけるスピーチの“タブー”がどの程度のものかを試しているようにも見える。何を、どのくらいはっきり言ってもよいのか、ということだ。人種によって頭のよさが違うことは科学的に裏付けられていると明言してもよいのか? レイプの脅威を訴えられるか? トランプを批判したユダヤ人の記者が強制収容所にいる合成写真をつくってもいいのか? どこまでなら許されるのか? 匿名のアカウントから流れ出るナチの映像に気がついても、それを誰が送っているかを特定するのは難しい。このムーヴメントについて最も慎重に報道している機関でさえ、オルタナ右翼の影響力のある声を伝えるには実名ではなく彼らの掲示板上の名前(CisWhiteMaelstrom や、JCM267)を使うしかないのだ。

オルタナ右翼を理解するには、これはムーヴメントではなく、アイデンティティーの実験であるととらえればいいかもしれない。多くの人が、自分の極端な一面をインターネットの匿名性を利用して実験するのと同じ方法だ。

町山智浩)オルト右翼はいわゆるみんなが考えているような右翼的なネオナチであるとか、スキンヘッドのような暴力的なところは全くないです。彼らは。年齢もすごく若いです。フレンドリーでした。僕、会って一緒にいろんなものを楽しみましたが。それで、彼らは日本が大好きです。

(南部広美)日本が大好き?

町山智浩)日本、超大好きですよ。もちろんアニメが好きっていうのもあるんですけども。出処が4chっていうアニメの情報とか絵柄を交換するサイトから生まれてきた運動なので。ただ、彼らはいま、日本という国が大好きなんですよ。

荻上チキ)ほう。それはどうして?

町山智浩)保守的で排他的だから。

荻上・南部)(笑)

(南部広美)ええっ?

荻上チキ)全然うれしくないな(笑)。

町山智浩)だから、リチャード・スペンサーなんかこの間、日本に行っていたんですよ。で、僕、Twitterでやり取りしていたんですけども。その時に、日本で原宿の前でビデオを撮って、それを拡散していたりしてたんですね。彼ね。その中でも、「日本っていうのは移民とかがあまりいなくて、非常に排他的で素晴らしい!」って言ってますよ。原宿の駅前で、彼は。

荻上チキ)ああー。なんか、(フランスの極右政党 国民戦線党首の)ルペンさんとかもね、たしか「日本が模倣すべき対象だ」みたいなことを言っていますけども。オルタナ右翼の方もそうなんですね。

町山智浩)そうなんですよ。最初はアニメっていうきっかけがあったんでしょうけど、いまは日本的な、たとえば三島由紀夫的なものとか、そういったものを非常に尊敬していますよ。

荻上チキ)へー。うーん……

町山智浩)ただ、彼らは半分ジョークなんです。これも重要なんですが、彼らは半分ジョークです。

荻上チキ)半分ジョーク?

町山智浩)ものすごく真剣ではないです。

荻上チキ)じゃあ、ネタでやっているところもあると自分でも思っている?

町山智浩)ネタなんですよ。半分、ネタなんですよ。だから、共和党に対する嫌がらせ攻撃っていうのも、アニメとかのコラージュにするわけですね。トランプとか、いろんなものを……まあ、旧・共和党議員とかをね。あれってジョークじゃないですか。半分。

荻上チキ)まあ、そうですね。面白おかしくいじるみたいな。

町山智浩)面白おかしくからかうっていう形でやっているんで、ものすごい真剣なのか? 熱狂的で狂信的なのか?っていうとそうじゃなくて、やっぱりニヒリストなんですよ。なにをやっても真剣に信じることなんてないんだ。だから一生懸命ポリコレとか言っているのも、そんなものも全部上から見る感じなんですよ。

荻上チキ)なるほど。

町山智浩)反ポリコレに近いですね。だから、正義とかそういったものを信じないと。

荻上チキ)ポリティカル・コレクトネス。政治的正しさっていうことですよね。女性を大事にしましょうとか。

町山智浩)そう。そういったものに対して「白人至上主義が正しい、正義だ」って言ってるのかというと、そうでもなくて。むしろ、逆にニヒリスティックで。「正義なんてものはないんだ。民主主義なんてものはないんだ」っていう感じなんですよ。ニヒリスティックなんで。

例えばTumblr上においては、いかなる形でもオルタナ右翼なんてまず見掛けません。暴れるにしてもTwitterとかで別アカを作って暴れてるんでしょう(アメリカではTwitterなんて流行ってないのに、こういう時は何故かTwitter。それでますます一般人が離れてTwitterが寂れていくとも)。ただその一方で「Jokeを飛ばし続ける事で自分を無理矢理Highな状態に保ってる4chan兼民」みたいなタイプのアカウントなら普通に混ざっていて、国際SNS上の関心空間のメンバーに数えられてたりします。まぁ4chanは右派左派それぞれのAnonimousの本拠地だったりもする混沌の坩堝で、そっちではまた別の顔を持ってるのかもしれませんが…

ここでふと思い出したのが、ビーダーマイヤー(Biedermeier)時代(1815年〜1848年)のドイツ。

ビーダーマイヤー - Wikipedia

歴史的には、フランス革命、ナポレオンの台頭の中で市民社会という概念が普及したが、王政復古によりその夢が破れ、再び自由の利かない閉塞的な社会に戻ってしまった。そのような諦念のムードがある中で、ドイツやオーストリアの市井の人々の中では理想主義的で観念的なものへの反発がおき、理念的なものを追求せず日常的で簡素なものに目を向け、探求する風潮が出てきた。

678夜『ビーダーマイヤー時代』マックス・フォン・ベーン|松岡正剛の千夜千冊

フォン・ベーンの600ページにおよぶ記述にしたがって順に選び抜いていくことにするが、まずもって、これまでドイツ人が頑なに重視してきた宗教事情は、この時期にいっさいの神秘性と魔術性を失っていた。宗派間の議論は絶え、プロイセン国王はカトリックプロテスタントの合同会派をつくろうとさえしていた。

しかしその「寛容」はあっけなく崩れていったのである。フリードリッヒ・ウィルヘルム4世は保守的なルター派正当主義を奉じ、ついにドイツの宗教文化を根こそぎにありきたりな、退屈なものにしていった。

愛国心も、この時期は単なる体制擁護の便利なキャッチフレーズで使われるだけとなっている。

フォン・ベーンが次に指摘するのは、ジャーナリズムのいかがわしい「匿名批評性」と市民による「教養願望」の盛行と「コピー文化」の隆盛である。新聞は匿名のときにのみ時代を罵り、町では公開講座の花が咲き、ヘタウマめいた特有の文体がもてはやされて、古典的な様式はことごとく失われていった。建築建材で使われるのは模造素材ばかりなのである。

ようするに“実体の文化”が退嬰し、“擬造の文化”が勃興したわけである。こういう時期はいうまでもなく、いまの日本がそうであるように、大学の質は最低のレベルまで落ちていた。しかしながらだからこそ、ビーダーマイヤー時代は初めて書店が町にいくつも登場し、銅版画がリトグラフに生まれ変わり、肖像画が写真に飛び移っていった時代でもあった。

いわば「思索の価値」よりも「展示の価値」が勝った時代なのである。

それゆえせっかくの書物と書店の爆発は、ただちにヴィジュアルな絵入りや挿絵や写真に覆われて、はやくも活字文化の曲がり角が伝統派の知識人によって懸念されたのだった。いかにもわれわれがよく知る国の、われわれがよく知る時代に酷似していよう。

その一方では「人間の幸福は時代精神Zeitgeist)と完全同一化を果たし、自らの役割分担を得る事である」なんて神中心主義の代替物めいたヘーゲル哲学が有識者の間に横溢し、若き日のマルクスが窒息死しかけていた時代でもありました。

江戸幕藩体制下の日本で近松門左衛門の心中物が流行したみたいに、タナトス(Thanatos、死の誘惑)の影が色濃いアンデルセン童話やシューベルトのロマン歌謡が流行した時代。「憂き世をあえて浮き世と生きて」という奴ですな。

とりあえずは当面、こんな認識で「隣はないをする人ぞ」問題は乗り越える事にしましょうかね。「分かり合うとは、全てを共有するという意味ではない」。本当に良いタイミングで名言が転がり込んできたものです。石田スイもかなり「こっち側の世界」に入れ込んでる人なので、狙って投入してきた可能性も?

実際、現時点では誰も大きな変化は望んでないので、実際全体的にそういう方向にまとまる可能性も高そうです。まぁ、迂闊に動かないのは経験者ほど「2012年に議会にSOPAを撤回させるのに成功するほど大きなネット運動が起こせたのは、FBIによるMega Uproad取り潰しなんて分かりやすくネット民全体の危機感を煽る事件があったから(今はまだその時ではない)」と熟知してるせいでもあるんだろうけど。いずれにせよ「日本でいうセカイ系評論の世界」との乖離がますます進む事に。

G:監督の書かれたコラムを読んでいると、その多くが「この資料を調べたら次はこうなって、ああなって」と資料探しがつながっていて、いつ「調べ終わり」が来るのだろうかと思いました。

片渕:そうなんですよね。「この世界の片隅に」の「世界」を調べているのだから。世界が読めてこないと片隅まで分からないんです。いきなり片隅だけ見てしまうと「周りにこんな世界があるからこその、この『片隅』なんだ」という位置づけができないんですよ。

G:「この世界の片隅に」ではそれが特に発揮されている感じがしますが、この「周囲のものを全部調べないとそういう感覚が得られない」というのは作品の企画最初の頃からあったのですか、それともやっているうちに徐々に気づいていったという感じなのでしょうか。

片渕:むしろ、原作の中に種がありますね。たとえば戦艦大和が入港する場面がありますが、原作に「19年4月」と書いてあって、そこから入港した日が特定できて「あぁ、できるんだ!」と思ったんですよ。別のシーンで、晴美ちゃんが「あれが利根」とすずさんに教えるところがありますが、その時に利根が呉にいたかというと、いないんです。つまり、晴美ちゃんは利根ではない別の軍艦を見て利根だと誤解しているんだと分かったので、「間違えるということは、利根に近い形をしている最上がいたのかな」という風になっていくわけです。そういえば、映画の台詞に晴美ちゃんが「今日は航空母艦はおらんね」と言うところもありますが、あれはマリアナ沖海戦で負けて帰ってきた艦隊が呉に入港しているところだからです。

G:そういうことが分かるものなんですね。

片渕:だから逆に、彼らは片隅にいて世界が見えていないんだけど、その向こうには大戦争をしている本物の世界があって、それをあの段々畑から眺めているという風に描こうと思ったんです。

G:今の話を聞いていると、同じ漫画を見ていても読解力のレベルが全然違うんだという感じがします。

片渕:関連するかもしれませんが、「BLACK LAGOON」原作者の広江礼威さんに会う機会があったとき「これは1995年の話ですよね」と切り出したらすごく喜ばれたことがあります。

G:え!BLACK LAGOONの舞台は1995年なんですか!

片渕:そうです。2005年の時点で「これ、10年前ですよね」と言ったら、「そうです、よく分かりましたね」と。

G:なぜ1995年の話だと分かったんですか。

片渕:Uボートが出てくる話があったと思いますが、そのときの「○年前」と書いてあるのが現実と合わなかったんです。だから、2005年当時、僕らが生きている同時代よりも、アフガンでソ連が戦争したり、そもそもソ連が崩壊したりという方にもっと近い時代なんですよね。今の話じゃないなら携帯電話がそもそも違って、当時多かった中央で二つ折れになる端末ではなく、ストレート式で通話口の部分だけふたが閉まるようなデザインになるわけです。そうなると作中でバラライカが東京にいて、携帯電話で命令を出したあと端末をパタッと二つ折りに……できれば格好いいんですがそれはできなくて、下だけ閉めることになります。

ただ上掲引用にきになる記述が。

町山智浩と荻上チキ オルタナ右翼を語る

http://i.huffpost.com/gen/4612706/thumbs/o-DONALD-TRUMP-570.jpg?7

荻上チキ)トランプ政権に(ニュースサイトの)ブライトバートの(スティーブン・)バノンさんが就くことの意味はどうお感じになられますか?

町山智浩)はい。だからこれは首席顧問ということなんですけども。でも、バノンさんっていう人はこの人、政治的バックボーンがゼロなんですよ。この人、もともとはハリウッドの映画のプロデューサーです。

(南部広美)へー!

町山智浩)この人、ショーン・ペン監督の『インディアン・ランナー』っていうインディーズ映画をプロデュースして出てきた人なんです。その後にアンソニー・ホプキンスの『タイタス』っていう映画も作ったんですけど、その一方でドキュメンタリー映画で「レーガン大統領は素晴らしかった」っていうドキュメンタリーを作ったことで保守勢力にそのプロパガンダ能力を買われたんですよ。

荻上チキ)ほう。

町山智浩)この人は政治家とかそういった形ではなくて、いわゆる右翼のプロパガンダ屋なんですよ。それが顧問に入るっていうことはどういうことなのか?っていうと、実際の政策は彼、全く作れないですよ。

荻上チキ)じゃあ、PR屋みたいな戦術っていうことになるんですかね?

町山智浩ゲッベルスです。

荻上チキ)ゲッベルス! ああ!

町山智浩)彼は、ゲッベルスです。(ナチス・ドイツの)ゲッベルスの地位を得たんですね。

荻上チキ)はー。そこにどんな思想が乗っかるのか?っていうのは、これからなんですかね。

町山智浩)これからですけど、実際にそのヒトラーの政策っていうのはゲッベルスによってかなり動いていますよね。

荻上チキ)そうですよね。

町山智浩)プロパガンダと政治が一体でしたから。ナチにおいては。だから彼は、そういう形でトランプを動かしていくことになると思います。

ゲッベルスといえば…

政権獲得期のヒトラーはあえて国民統合のビジョンは伏せ「すべての区画からシンデレラ城は見えるが隣同士の区画は完全視野外となるディズニーランド」としてNSDAPをプロパガンダした。「企業家は企業家なりの不満を。中産階級中産階級なりの不満を。労働者は労働者なりの不満を。国防軍国防軍なりの不満を。義勇兵義勇兵なりの不満を。どうぞ好きなだけ投影してください。その総体がNSDAPです」といった具合。

むしろ「Jokeを飛ばし続ける事で自分を無理矢理Highな状態に保ってる4chan兼民」みたいなタイプはこういう扇動に強かったりします。自分もある意味、ゲッベルス側の人間だから。でも、むしろ一般アメリカ人は…

もし、トランプ大統領がNSDAP式にアメリカ国民を糾合にかかったら要注意?

追伸…実はこういう記事を投稿した当日のうちにも「国際SNS上におけるガーベジ・コレクション(Garbage Collection)」は完了。というより正義派アカウントが関連投稿をネット検索で発見しては潰して回ったらしく(消される直前の実例を幾つか散見)過去投稿まで綺麗に消される展開に。なるほど、国際SNS上の関心空間におけるノンポリ性とポリコレ及び正義派への憎悪は、こうやって維持されてきたのか…