諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【人工知能にブログを書かせた】「数値化の抱える根本的短所」について。

https://lh3.googleusercontent.com/-LDrEJYofsyw/UdgDIhB8fAI/AAAAAAAAC9s/L5FeRZ7-DPg/s0-d/201207061920%25C3%25971080.jpg

Twitter上を彷徨う人工知能さんに指摘された「旧制度を廃して新制度に移管するのに必要にして十分な時間はどういう基準で算出されるべきか?」なる設問、まだまだ当分解けそうにありません。

他のサイトにはどんな突っ込みを入れてるのかな? と思って後を追っかけてみました。そしたら、こんなのが。

貨幣経済の利点は、本来多様である生産物や価値観を貨幣に換算することによって抽象化し、互いの交換を容易にしたことだ。これによって様々な経済活動が標準化されその相互作用が円滑に行われるようになる。しかしながら、それゆえに逆に全てのものが貨幣価値で評価されるようになり、生産物の本来の価値が評価されなくなってしまう。絵画はその芸術性よりも価格が何百万円であるかで評価されるようになる。

そのこと自体は問題はないが、貨幣にはもう1つの顔がある。それは、貨幣を通じての支配だ。貨幣は様々な必需品と交換されるため、人々の生活の全てが貨幣に依存するようになってしまっている。そのため資本家は貨幣によって容易に他の人の労働力や、ある意味人生そのものをも支配できることになる。そのため社会が、貨幣によって支配される大多数の人々と、その人達を貨幣によって支配する少数の資本家に二極化していくのは当然の流れだ。

しかし、この傾向は結局社会全体のシステムの機能不全を起こし、最悪社会全体の混乱と崩壊につながっていく可能性がある。この社会全体の崩壊を防ぐための方策は支配するものの側に委ねられているが、歴史を見ると彼らはその土壇場までそれが起きることを予見できないことが多い。トランプ大統領も盲人を手引する盲人でなければいいのだが。

ICT の発達とともに現れてきた非貨幣的な価値に重きを置く考え方は、貨幣経済の欠点を補うために現れたわけではないが、貨幣経済のいびつさに光を当て、それが不可避的に崩壊へと向かう流れを変えてくれるかもしれない。

注目点「ICT の発達とともに現れてきた非貨幣的な価値に重きを置く考え方は、貨幣経済の欠点を補うために現れたわけではないが、貨幣経済のいびつさに光を当て、それが不可避的に崩壊へと向かう流れを変えてくれるかもしれない」。

  • 貨幣経済の利点は「本来多様である生産物や価値観を貨幣に換算することによって抽象化し、互いの交換を容易にしたこと」

  • それなら貨幣経済の欠点とは?「絵画がその芸術性よりも価格が何百万円であるかで評価されるようになる事」? それとも「貨幣を通じての支配が行われる事」?

「感情」の対語は「理性」。「欠点」の対語は「美点」。そういう観点からの文脈整理が必要です。

そもそもは貨幣経済浸透以前の「支配」は「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」として実現されていました。ラッサールは「既得権の体系全2巻(Das System der erworbenen Rechte、1861年)」の中でその状態からの脱却過程を以下の様に説明しています。

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初め権力者はこの世の全てが部が自分の物だと思い込んでいたが、次第に漸進的にその限界を受容してきた。

  • 神仏崇拝の自由化は、神仏の私有財産状態からの解放に他ならない。
    *かつて都市国家の神殿宗教は祭政一致体制を敷いて土地と農業ノウハウを独占し、人類そのものを「神に奉仕する目的のみで創造された奴隷」と規定し領民を完全隷属下に置いていた。この状態では神殿が破壊されると人間集団そもものも霧散してしまう。かくして啓典宗教が発案され(神殿の付属物に過ぎない)神官に代わって(究極的には民の一員たる)啓典を奉じた教導者の時代が訪れる。

  • 農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者へと変遷していく過程は農民の私有財産状態からの解放に他ならない。
    *「領主による領土と領民の全人格的支配」からの脱却過程。地主は土地使用料を受け取るだけの存在に、雇主は賃金を支払う対価として労働者から労働力の供給を受けるだけの存在に変貌していく。

  • ギルドの廃止や自由競争の導入も、独占権が私有財産の一種と見做されなくなった結果に他ならない。
    *かつて特権商人や特権組合は「領土と領民を全人格的に支配する領主」の認可を受ける形で特定商品の生産権や取扱権、特定商人と特定集団の取引権、特定領域における通商権を独占し、私有財産の様に継承してきた。これが最終的に全て自由競争に置き換えられていく。

  • そして現在世界は資本家と労働者の富の収益の再分配はどうあるべきかという問題に直面している。
    *この問題には今なお答えが見つかっていない。王侯貴族や教会からの特権剥奪によって、生産を支える労働者がそのまま市場を支える消費者と目される様になった。それでは、このシステムを支えるには「資本家と労働者の富の収益の再分配」はどうあるべきなのか? 共産主義が最終的に到達したのは「全てを統制下に置いて完全管理すれば誰もが幸福になれる」というもの。しかし実際には自由主義圏より先に暴走し、あっけなくシステムとして崩壊してしまったのである。

何が人類の足を引っ張り続けているかといって「人類は神に奉仕する為に創造された奴隷に過ぎない」とする神中心主義や「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」といった権威主義的体制が「人間にとって幸福とは、時代精神Zeitgeist)との同一化を果たして自らの役割を得る事である」と規定したヘーゲル哲学にリニューアルされる形で新たな生命を得てしまったのが最大の問題。当初はそれに対する抵抗手段として始まった筈の共産主義も、気付くと最後には自らがその体現者と成り果てて滅んで行きました。その1点においてはファシズムやナチズムと五十歩百歩としか言い様がないのです。

こういう前提から、全体像の再構成を試みます。

http://articleimage.nicoblomaga.jp/image/72/2015/0/f/0fd519b4fd9b61087c7a2473ec4a341dbaf83ab91451553078-s.jpg

  • 貨幣経済の利点が「本来多様である生産物や価値観を貨幣に換算することによって抽象化し、互いの交換を容易にした事」である事実は動かない。まずこれをそれ以前の時代と一線を課す為に「数値化」と言い換える。

    マックス・ウェーバーゾンバルトはともにこれを「Rechenhaftigkeit」と呼んだ。英語のCalculating Spiritのドイツ語訳で「計算癖」を意味し、これが部分的判断からあらゆる判断を全人格的に代表する基本原理へと昇華される事を「資本主義化」としたのである。

  • 「数値化」によって理論上全てがコンピューターで計算可能となった事は、対価として新たな問題を浮上させた。その1。公害による環境破壊や資源枯渇といった「数値化に際して視野外に置かれた要素」が数値そのものに与える影響の表面化。その2。HFT(High Frequency Treading)やアルゴリズム取引の暴走といった「数値処理をコンピューターに任せる事」そのものが潜在的に抱える危険性。こうした問題への対応はどうしても後手後手に回らざるを得ないのが 「利点(長所)」に対する「欠点(短所)」といえよう。もちろん「貧富格差の放置により"生産を支える労働者がそのまま市場を支える消費者でもある現行システム"の運用が障害をきたす問題の除去」もこの枠組みにおいて対処される事になる。
    *数値化の欠点(短所)…どちらも別に新しい問題ではない。インダス文明(紀元前2500年〜紀元前1800年)を筆頭に「公害や資源枯渇の放置が命取りとなって滅んだと推測される文明」は数知れないし、「完全無欠な名君に国政を預ければ国は安泰」なる共同幻想だって暗君や暴君が登場する都度、破られてきたではないか。まぁそれと同じ事。

    http://s.eximg.jp/exnews/feed/Buzzap/Buzzap_21027_1.jpg

  • 絵画がその芸術性よりも価格が何百万円であるかで評価されるようになる事」は「貨幣経済=数値化」の「欠点(短所)」そのものではない。適正価格がつけられないのが問題なら数値化のアルゴリズムそのものを見直せば良いし、数値化そのものが問題というなら、それはもはや貨幣経済=数値化」の話ではなくなってしまうだけである。

  • 貨幣を通じての支配が行われる事」もまた「貨幣経済=数値化」の「欠点(短所)」そのものではない。原則として貨幣経済=数値化」は人間が人間を支配する為の手段ではないし、ましてや人間が人間を支配する方法なら他にいくらだってある。例えば共産主義圏においては「政府が全国民に対する職業の与奪権を掌握していた事」が国家の国民に対する支配力の源泉となっていた。自由労働市場など一切存在しない世界においては、職業を与えない事がそのまま餓死に直結するのであり、その恐怖を武器に転居の自由も信条の自由も全て奪われ尽くされたという点でむしろ「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」への回帰だったとさえいえそうだったりする。
    *ましてや「(「社会を回す潤滑油」として賄賂の存在を肯定する)贈与経済こそ、人類が回帰すべき理想の自然状態」とか本当に意味が分からない。

    http://www.ebigbridge.com/wp-content/uploads/2013/09/00539-600x322.jpg

    *ちなみに、ここで指摘されている「雇い主が雇用者に及ぼす支配力」の完全排除を狙ったのが所謂ベーシックインカム(basic income)論で、マルクス再読から出発したアントニオ・ネグリマルチチュード論はその発展型となる。
    1029夜『構成的権力』アントニオ・ネグリ|松岡正剛の千夜千冊

    第一回 〈帝国〉〈マルチチュード〉とは何か?|模擬授業|京都アカデメイア

    ネグリ=ハートの戦略に現実可能性はあるのだろうか?そもそもなぜ〈帝国〉に対抗しなければならないのだろうか?こういった疑問もディスカッションの中で取り上げられ、大いに議論を呼びました。

まぁこういう観点からラッサールは貧富格差是正や失業問題には国家が干渉する福祉主義を提唱して「社会民主主義の父」となった訳です。ラッサールとマルクスヘーゲル哲学を否定すべく「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」が提唱した「我々が自由意志や個性と信じているものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」なる理念こそ共有していましたが(そもそも「経済学批判」はラッサールの費用負担で出版されている)、それ以外の部分で意見の相違が多く後に決裂。

*相手に絶交を言い渡してなおマルクスはラッサールにパトロネージュの打ち切りを許さなかったという。この問題、おそらく「帝国は自らの打倒を目指す抵抗者達を打倒される最後の瞬間まで養い続ける」としたネグリの革命論の「甘さ」と無関係ではない。

そもそも「ICT の発達とともに現れてきた非貨幣的な価値に重きを置く考え方」って一体何なんでしょうね? ICT(Information and Communication Technology)はあくまで「(リスクを承知した上であえて)数値化された世界のみを扱う」スタンス。もしかして、かつて左翼陣営が取り憑かれた「全てを計算可能とした完璧無比のコンピューターに何もかも丸投げしてしまえばいい」幻想に回帰しようとしてる?

2016年にして人類は自分たちより学習能力の優れた人工知能と共存することを学び始めなくてはならなくなっているのだ。

人間が学習して知識を得ることの意味に質的な変化が起きようとしている。

 まぁ例えば量子コンピューターが汎用的に使える様になれば「経路探索問題」みたいなフォン・ノイマン型環境(von Neumann architecture)では組み合わせ爆発を起こして到底計算不可能な問題が比較的容易に解ける様になり、とんでもない技術革新が起こるでしょう。でも、それだけで「数値化の欠点(短所)」そのものが克服される訳じゃないんですよね。どう考えても、その辺りの事が分かってるとは思えなくて…

そういえば、こうした系譜の作品群にも「数値化された世界に背を向けてる側面」はない訳じゃない。ならば何処でどう線引きしたらいいの?

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…