諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【この世界の片隅に】【君の名は】【黒澤明】【赤ひげ】この世には「大悪党」でなければ成し遂げられない事もある?

 そもそもの出発点は、長谷川町子サザエさん(1946年〜1974年)」や、片渕須直監督作品「この世界の片隅に(2016年) 」に「家父長的な父親や夫」が登場しないのはどういう事か、という疑問でした。

恋人

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新海誠監督作品「君の名は(2916年)」に至っては、伝統的に糸守町を支配してきたのは宮水家を頂点に頂く家母長制だったという設定。そのの古色蒼然たる体制に反抗して三葉パパが町長に立候補し、近代化政策に着手したという「裏設定」になっています。

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もちろん当時から既に日本において相応に男女平等が実現していたなんて口が裂けてもいいません。(商家や神社の家母長制を継承した家があった様に武家の家父長制を継承した家も当然あったのです。既得権益を守り伝える為に権威主義体制が敷かれるのはどの国でも見られる事。ただ日本の場合、そもそも(エディプス・コンプレックスなる言葉を生んだ)ドイツ語圏ほどには、その形態が画一的ではなかったらしいという事なのです。ましてや、そもそも守るべき既得権益なんて最初から所持してない庶民に至ってはどうでしょう? 確かに戦前制定された民法は家父長制寄りでしたが、本当にたかがそれくらいの事で全日本で一斉に伝統が覆され、画一的な形で「家父長制」が根付いたと信じて良いものなのでしょうか?
日本の家父長的家制度について

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国際的コンセンサスに基づく「家父長制」の成立過程

  • 開拓地型家父長制ドイツ語圏や東欧の多くは欧州大開拓時代(11世紀〜13世紀)に開拓された地域。この条件は1890年にフロンティア消滅宣言が出されるまで新興開拓地への移民が行われていた。こうした地域にそれぞれ孤立して割拠する領主や家族などの間には、農本主義的伝統を背景として、家長が最高権力者として所有地と住民(家族や使用人や奴隷)の全面的采配圏を握る体制が根付きやすい。
    *「マクニール世界史講義 (ちくま学芸文庫)」収録のフロンティア論辺りに詳しい解説が掲載されている。クロポトキンの「相互扶助論」や、トクヴィルの「アソシアシオン論(association)」との関係がどうなってるかは不明。
    トクヴィルと『アメリカの民主政治』
    ジェファーソン流民主主義 - Wikipedia

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  • 開拓限界型家父長制…一方、開拓限界に到達した地域の領主は「田分け者」となって勢力を衰退させない為に長子相続制を採用。女性や次男以降の息子達から所領相続権が剥奪され、結果として相対的に家長の権限が強まった。
    *欧州では次男坊以降は常備軍将校か聖職者(スタンダール「赤と黒(Le Rouge et le Noir、1930年)」の由来である軍服と僧服)、余った女子は修道院入りさせられるのが貴族の基本コース。この辺り、産業革命の時代に生き残りを賭けて政略結婚に励んだ英国ジェントリー階層や、農家や商家と血縁関係を結んで養子縁組で人口調整した江戸幕藩体制下の武家の対応の方が遥かに柔軟だった。

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  • 高度成長期型家父長制…アメリカでは1950年代、日本では1960年代を中心に経済的繁栄を背景として郊外の一軒家が飛ぶ様に売れる一方で専業主婦が急増。結果として「一国一城の主」たる家長が立てられる雰囲気が広まる。前者はアメリカにおいて「1950年代ノスタルジー」、後者は「昭和ノスタルジー(1955年〜1965年)」と深く結びついている。
    *これは当時米国においてそういうムードを牽引した映画「愉快な家族/一ダースなら安くなる あるマネジメントパイオニアの生涯 (Cheaper by the Dozen,原作1948年〜1950年、映画化1950年〜 1952年) 」やTVドラマ「パパは何でも知っている(Father Knows Best、ラジオドラマ1949年〜1954年、TVドラマ1954年〜1960年)」「ザ・ハネムーナーズ(The Honemooners、1950年代TV放映)」が日本へも輸入された事、かつ日本独自の動きとして源氏鶏太のサラリーマン小説(1948年〜1970年)が流行して次々と映画化されたりTVドラマ化された事によって広まっていったとも。

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どのケースも「維持するのに工夫がいる財産(主に土地)」と深く結びついています。また農本主義と関係が深い場合は貨幣経済浸透によって、経済成長と関係が深い場合は不況によって瓦解しやすい側面があるのが特徴。

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さらに日本には「理想主義的(空想主義的)家父長制」なんて系譜も存在するからややこしいのです。

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  • 儒学者貝原益軒「和俗童子訓(1710年)」は「五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)」を人間の理想に掲げつつ、それが当時の日本では(特に庶民の間では一切)実践されておらず、嘆かわしいとした。そこでせめて幼少時より読み書き算盤を叩き込み、日記や帳簿をつける習慣をつけさせて「(身の破滅を防ぐ為に)計算の出来る人間」に育てよとしている。当時から既に理想と現実の間にはそれくらいのギャップが生じていたのだった。
    *やがて武家そのものも官僚化し勘定方などが人気職に。

  • 江戸幕藩体制下では「武家の振る舞いは庶民に対する人倫の規範」とされていたので、成功した富農や富商の中には武家の真似をする一家もいた。概ね武家株を買ったりファッション面を模倣する程度だったが、中には町道場に通ってきちんと剣術の腕を身につけた本格派もいた(新撰組メンバーも多くがこの口)。また読み物や芝居の世界では「武家」は人気の題材であり続けてきた。
    *そもそも当時の言い回しにおいては「士道」とは多種多様な各藩の武家スタイルを指した。「武士道」の統一的イメージ自体、読本や芝居の世界の中にしか存在していなかったのである。

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  • 1890年代に端を発する講談速記本ブームに乗って創刊された立川文庫(1911年〜1924年)は「智謀真田幸村」「忍術名人猿飛佐助」「忍術名人霧隠才蔵「武士道精華塚原卜伝「武士道精華山中鹿之介」「剣豪柳生十兵衛旅日記」などの刊行によってそれぞれの物語のフォーマットを固めた事で知られている。
    *その最大の功績は、執筆陣の中心的役割を果した講談師玉田玉秀斎が創出した 「忍術講談」を普及、発展させた事にある。江戸後期、歌舞使や狂言や錦絵などで仁木弾正、 天竺徳兵衡、児雷也石川五右衛門といった悪役が繰り広げた妙術は、幻術、幻戯、妖術、仙術、神術などと呼ばれ、 一種の奇術とされ忍術とは呼ばれなかった。また「武芸十八般」には隠形術も含まれていたが、これも忍(しのび)の術であって忍術ではなかった。
    童戯立川文庫

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  • 当時の荒んだ世相を背景にニヒルな剣士・机竜之助を主人公に配して人気を博した中里介山作「大菩薩峠(1913年~1941年、日活映画2作1935年〜1937年、東映片岡千恵蔵主演渡辺邦男監督白黒版三部作1953年、東映片岡千恵蔵主演内田吐夢監督カラー版三部作1957年〜1959年、大映市川雷蔵主演版1960年、東宝仲代達矢主演版1966年)」は、幕末から明治に入らずに架空世界へと迷い込み、作者の死とともに未完に終わった。作者はこれを「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づいて人間の業を描こうとしたとしている。
    柴田錬三郎眠狂四郎(1956年〜1975年、鶴田浩二主演東宝映画3本1956年〜1958年、市川雷蔵主演大映映画12本1963年〜1969年)」に影響をあたえる。

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  • 戦前戦後にかけて日本においては野村胡堂銭形平次捕物控(1931年〜1935年、嵐寛寿郎版3作1933年〜1934年、大映長谷川一夫主演版18作1949年〜1961年)」が大流行。
    *好評の理由の一つは岡っ引の平次(銭形平次)や下っの八五郎(ガラッ八)を管轄する同心が「理想の上司」と描かれた事だった。つまり米国UPAが制作したアニメ「ディック・トレイシー(The Dick Tracy Show、1961年〜1962年)」におけるディック・トレイシーよろしく、必要最小限しか登場せず、後は全て現場まかせだったのである。まさしく「亭主元気で留守がいい」の世界? ただこれ手放しには褒められない。おそらく現場が勝手な判断で戦線を拡大していった旧日本軍の悪弊と表裏一体の関係にあったからである。

    エドガー・スノーは「アジアの戦争 (The Battle for Asia、1941年)」の中で中国に派遣された兵士がことごとくバイブルの様に携帯している事を報告し「この銭形平次なる人物は、咎人であっても情状酌量の余地がある場合は裁かない。免罪符的心理効果があるのでは?」なる憶測を披露している。
    *ところで捕物帳の起源は岡本綺堂「半七捕物帳(1917年〜1937年)」におけるシャーロック・ホームズ物の翻案に始まる。当初選ばれたのは「まだらの紐(The Adventure of the Speckled Band、1892年)」や「ぶな屋敷(The Adventure of the Copper Beeches1892年)」といった財産相続を巡る陰謀を扱った短編だった。大名の御家騒動と結びつけやすかったからだろう。ただし武家の事件は原則として町奉行の管轄外だから、まずそこが思案のしどころとなる。

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  • 吉川英治の「宮本武蔵(1935年〜1939年、映画化戦前10作1936年〜1942年、東宝三船敏郎主演版5作1954年〜1956年、東映中村錦之助主演版9作1961年〜1967年、松竹高橋英樹主演版1973年)」は「ロマン・ロランがベートーベンを理想視した様に)苦悩する精神修養者としての剣豪像」なるモダンなイメージを打ち出し、江戸時代から続い的t勧善懲悪観からの脱却を果たした点が画期的だった。

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  • 太平洋戦争に敗れ、GHQ占領下に入るとチャンバラ活劇が禁止される。苦肉の策で当時の売れっ子片岡千恵蔵が「二丁拳銃がトレードマークの変装探偵(元義賊)多羅尾板内11作(大映4作1946年〜1948年、東映7作1953年〜1960年)」や「民主主義の使者(戦前の因習にとらわれた封建的な動機による殺人を、戦後の民主的な精神によって断罪する)金田一耕助6作(1947年〜1956年)」や「刺青判官(遠山の金さん)18作(1950年〜1962年)」などを演じた。
    *同時期黒澤明監督は「羅生門(1950年)」「七人の侍(1954年)」「蜘蛛巣城(1957年)」「隠し砦の三悪人(1958年)」「用心棒(1961年)」「椿三十郎(1962年)」といった異色時代劇を撮影し続け、海外におけるSamurai Movieのイメージを固めていく。

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  • 子供向け娯楽作品が少ない時期だったので北村寿夫の「笛吹童子(NHKラジオドラマ1953年、映画化3部作1954年)」、「紅孔雀(NHKラジオドラマ1954年、映画5部作1954年〜1955年)」、笛吹童子スピンオフ「霧の小次郎三部作(映画1954年)」、笛吹童子スピンオフ作品「紅衣無法門(ラジオドラマ1954年)」、紅孔雀スピンオフ「風小僧(TVドラマ1958年、映画1960年)」が人気を博す。
    *本筋と無関係に妖術使いの霧の小次郎と魔法使い“提婆”に育てられた胡蝶尼の兄妹が人気だったが「紅衣無法門」で禁断の恋に落ち、雪崩に巻き込まれてあっけなく死んでしまう。

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  • 1960年代後半から「今まさに滅びようとしている古き良き家父長制の復権」を標榜する作品が増える。梶原一騎原作の「巨人の星(1966年〜1971年)」「タイガーマスク(1968年〜1971年)」「あしたのジョー(1968年〜1973年)」も、池波正太郎の「鬼平犯科帳(1967年〜1989年)」「剣客商売(1972年〜1988年)」「仕掛人・藤枝梅安(1972年〜1990年)」もこの時期の登場。よど号ハイジャック事件(1970年)の犯人達が「われわれは明日のジョーである」 と述べた様に、この流れはそれまで劇画などに夢中となっていた学生運動家達にも好評だった。その一方でこうした男尊女卑文化復活の動きは竹宮恵子学生運動との決別および「大泉サロン」あるいは「24年組」の組織展開といった動きを生み、これが1980年代における日本独自のフェミニズム運動につながっていく。
    *その一方では角川春樹が角川商法で売り続けた作品に「(自らの境遇を投影した)親子の葛藤」を主題とする作品が多かった。とどめとなったのが村上龍「愛と幻想のファシズム(連載1984年〜1986年、単行本1987年)」や庵野秀明監督作品「新世紀エヴァンゲリオン(TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」あたり。こうした過程を経て「日本はいまだに家父長制が支配し続ける後進国」なる考え方がある程度まで根付いていく。

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  • 1969年、1月に東大安田講堂陥落事件(大学側より依頼を受けた警視庁機動隊が学生運動家のバリケード封鎖を粉砕。同年の東大受験は中止)があったこの年、学生運動家達からバイブルの様に崇められていた「白土三平の忍者漫画」や「近未来における人類破滅を暗示するジュブナイルSF小説」などが人気を喪失。その空隙を埋める形で20世紀一杯続くロングセラー作品が出揃う。

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    「アニメ版サザエさん…突然打ち切りになった「白土三平忍者アワー」の後番組としてスタート。

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    藤子不二雄ドラえもん(原作1969年〜1996年)」…それまで掲載されてきた「人類の滅亡を暗喩するジュブナイルSF小説」に代わって学習誌の顔に。
    *秘密道具の元ネタは1960年初頭に遂行された「二丁拳銃ヒーロー狩り」の後釜として現れた少年探偵達が使う「(博士が秘密基地で開発する)非現実的な秘密兵器」とも。ただし、それらの作品を掲載した少年向け月刊誌は週刊少年漫画誌の人気に押されて次々と廃刊に追い込まれていく。

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    山田洋次監督作品「映画版男はつらいよシリーズ全48作(1969年〜1995年)」…「今の人間の感覚には合わない」と弾劾され絶滅寸前だった伝統的任侠物のパロディとして製作されたTV版(1968年)が思わぬ反響を呼んで映画化が始まった。*TV版の最終回で渥美清演じる寅次郎は死んでしまったが、それを惜しむ声が殺到したのが発端となっている。

新渡戸稲造の「武士道(Bushido: The Soul of Japan、1898年)」には「武士は忠誠心によって組織を編成し、民衆に範を示す」とありますが、どうやら民衆の目に映ってきた「」は全く別物だった模様。ならば1960年代後半における「家父長制復興ブーム」はどこからやってきたのでしょうか?

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  • もしかしたら、1960年代後半の映画業界における家父長スタンスの台頭には「往年のスター役者と観客層の高年齢化」とか「TVの軽薄演出への対抗意識」がからんでいるのかもしれない。
    *まぁ敵は植木等の「スーダラ節(1962年)」とかだったのである。

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  • 漫画界の関連する動きには明らかに劇画の流行を取り込む意図があった。やはりここにもTVの軽薄演出への対抗意識」が見て取れる。少年向け月刊誌「少年」に「 鉄人28号(1956年〜1966年)」を連載していた横山光輝も時流を読んで「週刊少年サンデー」に「伊賀の影丸(1961年〜1966年)」を連載している。東宝の子会社国際放映もTV番組「忍者部隊月光(1964年〜1966年)」を提供。

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  • そもそも1960年代は「残酷ブーム」があった時期でもある。①山田風太郎忍法帖シリーズ(1958年〜1974年)」ブームの最中。②ヤコペッティ監督作品「世界残酷物語(Mondo Cane、1962年)」の日本上陸。③中村錦之助の7役主演で海外においても話題となった「武士道残酷物語(原作南條範夫「被虐の系譜(1963年)」、仲代達矢主演版「四谷怪談(1965年)」、増村保造監督脚本作品「盲獣(1969年)」などが制作された時期。④「マタンゴ(1963年)」や「吸血鬼ゴケミドロ(1968年)」といった怪奇特撮映画が制作された時期。これもまた「「TVの軽薄演出」の隙を突く為の試行錯誤の一環といえなくもない?
    Strange Memories - Tatsuya Nakadai in The Sword of Doom (1966)

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その一方では第一次怪獣ブーム(1967年〜1968年)が軽薄化と粗製乱造によって自滅した時期でもあったのです。
*時代は確実にディティール(解像度)追求の方向に推移。ビニール革命やプラスティック革命によってその要求を満たすインフラが確実に整えられていく。

そして1960年代末からは「小栗虫太郎冒険小説全集」刊行や週刊少年漫画巻頭カラー特集ページでのエドガー・アラン・ポー特集や江戸川乱歩特集を皮切りに1980年代まで続く「怪奇/オカルト/超能力/UFO/サイキック・ブーム」が始まってしまうのです。
*あれ、家父長制復興ブームどこいった? それ以前に「スポ根ブーム」ブームの先行きが怪しくなってしまったとも。女子バレー漫画ブームとかも伴って本筋からどんどん離れていったし。
スポ根 - Wikipedia

問題はこうした展開のどこに黒澤明監督作品「赤ひげ(1965年)」をどう位置付けるかなのですね。

そもそもこの作品、散々「家父長的ファンタジーとしての放蕩息子の帰還譚」とか「泥臭いヒューマニズムの完成形」と決めつけられてきましたが、本当にそれだけの作品だったのでしょうか?
放蕩息子のたとえ話 - Wikipedia

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山本周五郎赤ひげ診療譚(1958年)」

「すると、治療法はないのですね」

「ない」と去定は嘲笑するように首を振った

「この病気に限らず、あらゆる病気に対して治療法などはない」

登はゆっくり去定を見た。

「医術がもっと進めば変わってくるかもしれない、だがそれでも、その個躰のもっている生命力を凌ぐことはできないだろう」と去定は云った。「医術などといってもなさけないものだ、長い年月やっていればいるほど、医術がなさけないものだということを感ずるばかりだ、病気が起こると、或る個躰はそれを克服し、べつの個躰には多少の助力をすることもできる、だが、それだけのことだ、医術にはそれ以上の能力はありゃしない」

去定は自嘲とかなしみを表白するように、逞しい肩の一方をゆりあげて、「ーーー現在われわれにできることで、まずやらなければならないことは、貧困と無知に対するたたかいだ、貧困と無知とに勝ってゆくことで、医術の不足を補うほかはない、わかるか」

それは政治問題ではないかと、登は心の中で思った。すると、まるで登がそう云うのを聞きでもしたように去定は乱暴な口ぶりで云った。

「それは政治の問題だと云うだろう、誰でもそう云って済ましている、だがこれまでかつて政治が貧困や無智に対してなにかしたことがあるか、貧困だけに限ってもいい、江戸開府このかたでさえ幾千百となく法令が出た、しかしその中に、人間を貧困のままにして置いてはならない、という箇条が一度でも示された例があるか」

去定はそこでぐっと唇をひき緊めた。自分の声が激昂の調子を帯びたこと、それがかなり子供っぽいものであることに気づいたらしい。だが登は、その調子にさそわれたように、眼をあげて去定を見た。

「しかし先生」と彼は反問した、「この施薬院……養生所という設備は、そのために幕府の費用で設けられたものではありませんか」

去定は一方の肩をゆりあげた。

「養生所か」と去定は云った、その顔にはまた嘲笑とかなしみの色があらわれた、「ここにいてみればわかるだろう、ここで行われる施薬や施療もないよりはあったほうがいい、しかし問題はもっとまえにある、貧困と無知さえなんとかできれば、病気の大半は起こらずに済むんだ」

 映画にもそのまま採用された台詞回し。ここで言ってる事って実は数学者でもあったコンドルセが主張した「公教育の原理」そのものなんですね。

赤ひげ診療譚」は、どうやらオノレ・ド・バルザックゴリオ爺さん(Le Père Goriot、1835年)」や、トーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles、1891年)」といった欧州の写実主義(Realisme)/自然主義(Naturalisme)系統の作品の影響を色濃く受けているらしく、山本周五郎作品にしてはドライで科学主義(Scientisme)的な雰囲気を漂わせています。

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オノレ・ド・バルザックゴリオ爺さん(Le Père Goriot、1835年)」

「すまんなあ、ビアンション君」とウージェーヌが言った。

「なあに、医学上の研究材料だからさ」と新人信徒の熱心さで医学生は答えた。

「なあんだ、じゃこの哀れな老人を、情けをもって介抱してるのは、僕一人っていうわけか」とウージェーヌは言った。

「俺のけさの介抱ぶりを見ていたら、君にしてもそんな口はきけないと思うが」とビアンションは言った。ラスティニャックの言葉に、そう腹を立てたふうにも見えなかった。「経験に富んだ医者は病気をしか見ない。僕なんかはまだ病人が目につくんだよ、君」

まぁ、この感じ。そもそも「赤ひげ」先生自体、そのヒゲの色からしてバルザック作品中では屈指の人気を誇る「自称義賊」ヴォートラン(Vautrin)っぽい。

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フランスの警察署長って、何だかこんなのばっかり。ナポレオン体制下の警察大臣はジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché,1759年〜1820年)だったし。そういえばヴォートランは当時のもう一人の奸物、タレーランこそ認められる人物と述べています。これもヴィドック当人の持論だったとしても何ら不思議はありません。
ジョゼフ・フーシェ - Wikipedia

山本周五郎赤ひげ診療譚(1958年)」

「おれは売色を否定しはしない、人間に欲望がある限り、欲望を満たす条件が生れるのはしぜんだ」と去定は云った、「売色が悪徳だとすれば料理茶屋も不必要だ、いや、料理割烹そのものさえ否定しなければならない、それはしぜんであるべき食法に反するし、作った美味で不必要に食欲を唆るからだ」

もちろん料理茶屋はますます繁昌するだろうし、売色という存在もふえてゆくに違いない。そのほか、人間の欲望を満たすための、好ましからぬ条件は多くなるばかりだろう。したがって、たとえそれがいま悪徳であるとしても、非難し譴責し、そして打毀そうとするのはむだなことだ。むしろその存在をいさましく認めて、それらの条件がよりよく、健康に改善されるように努力しなければならない。

「こんなことを云うのは、おれ自身が経験しているからだ」と去定は云った、「どんなふうにと説明することはないないだろう、おれは盗みも知っている、売女に溺れたこともあるし、師を裏切り、友を売ったこともある、おれは泥にまみれ、傷だらけの人間だ、だから泥棒や売女や卑怯者の気持がよくわかる」

 好んで人に嫌われるような人間などいる筈はない

「おれはあの二人には同情こそしたが、決して怒りは感じなかった」

「――同情ですって」

「数年まえから、ああいう若いやくざがふえるばかりだ」

と云って、去定は太息をついた、「その原因の一つは幕府の倹約令にある、無用の翫物と贅沢を禁じたのはいいが、その取締りが度を越したために、商取引が停滞し、倒産する者や職を失う者が多数に出た、また大きな埋立て工事や、川堀の普請の中止などで、稼ぎ場をなくした者も少なくない、――それでも年配の家族持ちや、才覚のある者ならなんとか生きるみちを掴むだろうが、まだ気持のかたまらない若者などはぐれてしまい易い、生れつきやくざな性分を持っている者はべつとして、ふつうの人間なら誰しもまっとうに生きたいだろう、やくざ、ならず者などといわれ、好んで人に嫌われるような人間などいる筈はない」

おれは今日の二人に限らず、街をうろついている若者たちを見ると、可哀そうでたまらない気持になる、と去定は云った。

「娼家の主人たちも同様だ、女たちを扱う無情で冷酷なやりかたを見ると、捉まえて逆さ吊りにでもしてやりたいと思う、初めのうちはいつもそうだったし、いまでもしばしばそういう怒りにおそわれるが、よく注意してみるとかれらも貪欲だけでやっているとは限らない、やはり貧しさという点では、雇っている女たちに劣らないような例が少なくないことがわかる」

去定はそこでちょっと口をつぐみ、こんどは自分を責めるような調子で続けた

「世間から疎まわれ嫌われ、憎まれたり軽侮されたりする者たちは、むしろ正直で気の弱い、善良ではあるが才知に欠けた人間が多い、これがせっぱ詰まった状態にぶっつかると、自滅するか、是非の判断を失ってひどいことをする、かれらにはせっぱ詰まる条件が付いてまわるし、その多くは自滅してしまうけれども、やけになって非道なことをする人間は、才知に欠けているだけにそのやりかたも桁外れになりがちだ、それは保本もずいぶん見て来たことだろう」

この世から背徳や罪悪を無くすことはできないかもしれない。しかし、それらの大部分が貧困と無知からきているとすれば、少なくとも貧困と無知を克服するような努力がはらわれなければならない筈だ。

「そんなことは徒労だというだろう、おれ自身、これまでやって来たことを思い返してみると、殆んど徒労に終わっているものが多い」と去定は云った、「世の中は絶えず動いている、農、工、商、学問、すべてが休みなく、前へ前へと進んでいる、それについてゆけない者のことなど構ってはいられない、だが、ついてゆけない者はいるのだし、かれらも人間なのだ、いま富み栄えている者よりも、貧困と無知のために苦しんでいる者たちのほうにこそ、おれは却って人間のもっともらしさを感じ、未来の希望が持てるように思えるのだ」

これもコンドルセっぽい「計算癖(独Rechenhaftigkeit、英Calculating Spiri)」的立場からの発言。同時にヴォートランが大口舌を振るう時の口調が、割と忠実に再現されています。さすがは「ゴリオ爺さん」の主人公ラスティニャック(Rastignac)が父親像を重ねるのを拒絶した大悪党。これって本当に単なる「泥臭いヒューマニズム」なのでしょうか。むしろ真逆の「現実をありのままに客観的に眺める科学的観察眼」と考えるべきなんじゃないでしょうか? なにしろ、こういう感想も飛び出してくる作品。

現在のフィリピン社会に似た一面が描かれていて、何度読んでも考えさせられるそして面白い作品です。フィリピンの貧困層を理解するのにも役立つ一冊、是非ご一読を。

するとどう考えるべきなのか。もしかしたら「用心棒(1961年)」「椿三十郎(1962年)」「天国と地獄(1963年)」「赤ひげ(1965年)」を三船敏郎演じる「名無しの素浪人」の成長譚として捉えるべきなのかもしれません。すると「世間から疎まわれ嫌われ、憎まれたり軽侮されたりする者たちは…」なる台詞が「彼(中の人たる黒澤明当人も含む)」に救えなかった悪人達、すなわち「用心棒」の卯之助(仲代達矢)、「椿三十郎」の室戸半兵衛仲代達矢)、「天国と地獄(1963年)」、「天国と地獄」の竹内銀次郎(山崎力)に被さる展開となります。

“For a long time I’d wanted to make a really... : are you a human or an angel?

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Akira Kurosawa

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michael pitt

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まぁ黒澤映画の悪役達は(ドストエフスキーの影響もあって)どちらかというと「如才がなくて破滅した」というより「如才がありすぎて破滅した」ケースが多いとも見て取れます。ただ実際には「彼」に肝心のタイミングで如才が及ず破滅していったのもまた事実。あるいは、さらに遡って「隠し砦の三悪人(1958年)」であえない最後を遂げる真壁六郎太(三船敏郎)の妹の小冬や長倉和泉(志村喬)にさえ捧げられている可能性すら視野に入ってきます。こうなると「(1950年代娯楽作品には横溢していた)盲目的忠義」さえも「如才のの不足」の範疇に含まれてしまう事になりますが。
*「盲目的忠義の否定」…ヴォートランだけでなく「赤ひげ」先生の同意も得られそうな気がする。

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*今でも犠牲者を増やし続けている、スターウォーズの世界屈指の死亡フラグ…国際的にトラウマを残した?

そういえば、死期が迫っても重病人の佐八(山崎力)が(死なせてしまった女房への贖罪の意味を込めた)大工仕事を最後まで止めない場面も実に丁寧に映像化されています。ここにも監督自身の「過去の死者に対する贖罪の念」が重ねられているのかもしれません。
*というか「天国と地獄」で竹内銀次郎を演じた当人が演じている…これが偶然の筈ってある? もしかしたら黒澤明監督の脳内では、仲代達矢は「天国と地獄」で悪を裁く側に回ったから既に「供養済み」という解釈が成立していたのかも。

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もし推測通りこの佐八のエピソードの元話がトーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles、1891年)」だったとしたら、「赤ひげ診療譚」における改定そのものがオリジナル作品に欠けてた「贖罪」になっているという念入り具合…

これが東宝で製作する最後の作品となる」予感は最初からあったといいますから、細部はともかく「全過去作品における死者達へのレクイエム」といった意味合いが持たされていても、一応不思議はないと思います。ただこの解釈で合ってるなら…もはやこの路線で「続き」が撮影出来なかったのは当然とも?

A Woodworking Blog

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かくして問題は最後の一点に集約する事に。「赤ひげ」は果たして家父長制ファンタジーとしての「放蕩息子の帰還譚」の要件を満たしているのだろうか?

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  • オノレ・ド・バルザックゴリオ爺さん(Le Père Goriot、1835年)」の主人公ウージェーヌ・ラスティニャック(Eugène Rastignac)と、山本周五郎赤ひげ診療譚(1958年)」の主人公保本登(加山雄三)を比較してみる。

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  • トマス・ピケティいうところの「ラスティニャックのジレンマ(The Dilemma of Rastignac)」の語源となったラスティニャック。ただし当人の目にそれは「自助努力か? それとも金持ちとの結婚か?」の二択問題として映っていた訳ではない。①ラスティニャック当人は、まず現在自分の視界内にある世界を数え上げる。すなわち「人間を次々と置き去りにして急速な発展を遂げていく無常な世間」「ヴォートランの生きる大悪党の世界」「時間の流れから切り離された日日平安たる実家の世界」の三択。②そしてラストシーン間近でラスティニャックは「さぁ、これからはパリと俺との一騎打ちだぞ」と宣言。とりあえず「日日平安たる実家の世界」に回帰する選択肢は放棄されたのだった。そもそも彼は領主の家系とはいえ後継ではない。ゴリオ爺さんが生涯求め続けた理想の父娘愛の世界同様、小領主として安寧な生涯を送る道など最初から閉ざされていたのだった。③いよいよラストシーンにおいてラスティニャックは「社会に発した挑戦の第一歩として、ラスティニャックは(ゴリオ爺さんを見殺しにした)ニュシンゲン夫人の邸に、晩餐をとりに出掛ける」と宣言する。まるで自らを無理矢理鼓舞するかの様に。おそらく彼が選んだのは「法律家として大成を目指す」戦略ではなく、「ヴォートラン流の大悪党主義で無情な世間を泳ぎ渡る」戦略だった事を暗示している。それはまさに著者バルザック自らが選んだ道でもあったのである。

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  • それに対し、単なる「放蕩息子の帰還譚(家父長制的ファンタジー)」と思われがちな保本登の選択も見た目ほど単純ではない。①保本登が選んだ道は「ラスティニャックのジレンマ」に鑑みると「自助努力を続けながら金持ちと結婚する」なる大変欲張りなものだった。「ゴリオ爺さん」の世界においては物語の途中で「二兎を追う者は一兎をも得ず」なる理由で完全放棄されてしまう選択肢。だが実はそれは「天国と地獄」において権藤金吾(三船敏郎)が選んだ選択肢でもあったのではあるまいか? ②その一方で保本登はラスティニャックと異なり「ヴォートラン流=赤ひげ流の大悪党主義を掲げて無常なる世間に向かい合う決意」まで固めた訳ではない。これを可能としたのが、ちぐさ(藤山陽子)の妹のまさを(内藤洋子)と内祝言まで交わした余裕。ただし彼女の堪忍袋は一体どれくらい保つのだろうか? そういえば「天国と地獄」においてもこの問題に関する議論が権藤金吾とその妻伶子の間で繰り返された。試練はただ単に先送りにされたに過ぎない。③ここに「フランンスの貴族女との結婚」からは決っして生まれ得ない「金持ちと結婚してその持参金を食い潰し一緒に貧乏する」なる選択肢が現出する。それはヴォートランにもラスティニャックにも(そして当然「赤ひげ」先生)にも想像だに出来なかった展開だった。「きっといまに後悔するぞ」と「赤ひげ」先生から問われて「試してみましょう」と答える保本登は、もはや一人の男としてそれに答えている訳ではない。まさをと二人で夫婦として答えているのである。そして予定調和を好む山本周五郎らしく、結語は「椿三十郎」の原作とされた「日日平安」と同じ言葉で締めくくられる。「有り難うございました」。

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  • こうした「一見無駄としか思えない抵抗」は確かに時間稼ぎに過ぎないのかもしれない。実際にこうした堂々巡りの状況を打破するには、大なり小なりある種のパラダイムシフトを必要とする。要するにそれを自ら起こすか、誰かが起こすのをひたすら待ち続けるかなのである。

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    ①当時のフランスの閉塞状況を根本から変えてしまったのは「ヴォートラン=赤ひげ」流の悪を極めて頂点まで成り上がった「究極の大悪党」にして「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン三世が主導した「上からの産業革命導入」だった。*これなしにドイツ帝国の成立と発展はなく、さらにはそれを模倣したアメリカや大日本帝国の急速な工業発展もなかった。その意味ではこの「大悪党」の影響力は世界に及んだのである。

    ②「無力な法律家」からの反撃は「社会心理学ガブリエル・タルド(Jean‐Gabriel de Tarde、1843年〜1904年)の登場」という思わぬ形で達成される事になった。彼は犯罪は遺伝的なものであると考えるイタリアのロンブローゾの犯罪学に対し模倣犯罪学を立てて反駁。方法論的集団主義を引っ下げたエミール・デュルケーム(Émile Durkheim、1858年〜1917年)と「社会実在論」論争を経て社会学(Sociology)なる新科学分野が樹立される。
    バルザック写実主義(Realisme)の精神は、エミール・ゾラ自然主義(Natulelisme)へと継承されたが、遺伝子決定論に肩入れし過ぎた事が仇となり、この歴史的流れが事実上の死刑宣告となってしまう。一方、デュルケームの方法論的集団主義を強力に後押ししたのはマルクス(Karl Heinrich Marx、1818年〜1883年)が「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の中で掲げた「我々が自由意志や個性と信じているものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」なるテーゼだった。

    ③「天国と地獄」の権藤金吾(三船敏郎)を権力闘争の世界に奔らせた「コストかデザインか」なるジレンマを解決したのは、ある意味その後に起こったビニール革命とプラスティック革命だったともいえる。

山本周五郎赤ひげ診療譚(1958年)」

visual introspection

おれは盗みをしたことがある、友を売り、師を裏切ったこともある、と去定はいつか云った。その言葉が、現実にどれほどの意味をもっているかわからないけれども、登を立直らせた辛抱づよさや、貧しい人たちに対する、殆んど限度のない愛情を見ると、自分の犯した行為のために贖罪をしている、というふうにさえ感じられるのであった。
*既に原作時点で佐八の生涯と「赤ひげ」先生の生涯が重ね合わされているのである。この側面は「ゴリオ爺さん」のヴォートランというより、モーリス・ルブランの泥棒紳士ルパンにおいて表出する事に。それはまた池波正太郎鬼平犯科帳」において密偵達が抱える「罪の暗さと重さ」とも重なってくる。

――罪を知らぬ者だけが人を裁く。

登は心の中でそう云う声を聞いた。

――罪を知った者は決して人を裁かない。

どういう事があったかは知らないが、先生は罪の暗さと重さを知っているのだ、と登は思った。食事が終ったあと、登は二人だけで話したいことがあると云って、まさをまさをを自分の居間へ呼んだ。まさをは着替えをしてから来た。裾にちょっと模様のある江戸小紋の小袖に、こまかく紅葉を織り出した帯をしめ、化粧はきれいにおとしていた。白無垢のときよりはずっと若く、いかにも健康そうな、ひき緊った頬のあたりは、生毛が行燈の光を吸って、熟れかけた桃の肌のように、ぼうと暈に包まれていた。登は火桶を押しやった。

「一つだけ訊いておきたいことがある」と登は云った、「天野さんはいま、三月には目見医にあげられると云われましたね」

「はい」とまさをはこっくりをした。「私はそれが望みだった、長崎では私なりに勉強し、会得した治療法もある」と登はゆっくり続けた、「幕府の目見医にあがるかたわら、この医術で名をあげ、やがては御番医から典薬頭にものぼるつもりだった、しかし、いまの私にはそういう望みはない」

まさをは二三度またたきをし、きれいな、よく澄んだ眼で登をみつめた。眼で登をみつめた。

「つづめて云えば、私は養生所に残るつもりなんだ」と登は続けた、

「この考えが終生変らずにいるかどうか、自分にもまだ確信はないが、いまは栄誉や富よりも、養生所に残るほうが望ましい、これは新出先生とも相談しなければならないが、もし残るとすると、生活はかなり苦しく苦しくなるし、名声にも金にも縁が遠くなる、もちろんあなたにも貧乏に耐えてもらうことになるが、それでもいいかどうか考えてみて下さい」

返辞はいまでなくともよい、よく考えたうえで、正直な気持を聞かせてもらいたい、と登は云った。こまかに感情のあらわれる、大きなまさをの眼は、まともに登をみつめたまま、ぱちぱちとまたたきをした。すると、眸子が水で洗ったように澄みとおり、わたくしに異存はないという意味を、はっきり答えるかのようにみえた。

「よく考えてからです」と登は念を押すように云った、「貧乏ぐらしというものは、あなたには想像もつかないだろうと思うが、私はそれに耐えても、いまの仕事に生きがいがあると信じているのです、考えがきまったら手紙でもよこして下さい」

「はい」とまさをがしっかりした調子で云った、「仰しゃるように致します」

登は急に胸が熱くなるのを感じた。まさをの気持はもうきまっている、考えてみるまでもないし、どんな辛抱でもする気になっている。そして、それは意志のない盲従ではなく、どういう状態にも耐えてゆこうという、積極的な肯定の上に立っているように思われた。登は心をこめて、まさをを見まもりながら微笑した。まさをも頬笑み返したが、眼のふちを染め、それからそっと俯向いた。

「大丈夫だ、あれなら大丈夫だ」

別れを告げて、天野の家族より先に外へ出た登は、声に出してそう呟いた。曇った夜の気温は冷えていたが、昂奮している彼にはその寒さがこころよく、力のこもった大股で、登はいさましく歩いていった。

なんたる大悪党!! ここで興味深いのは、まさをが「ちゃんと返事はする」とまでしか口にしておらず、その返答がいかなるものかについては保本登の憶測に過ぎないというあたり。そういえば、黒澤明監督は映画撮影の為に持ち家を抵当に入れ、しかも撮影が長引き過ぎて最終的に競売にかけられてしまう。まさしく一世一代の勝負を誘拐事件に流されてしまった「天国と地獄」の権藤金吾の様に。黒澤明監督が真っ先に謝罪すべき相手は実は自らの妻子だったのであり、そういう側面もまた「天国と地獄(1963年)」や「赤ひげ(1965年)」には見て取れるという事である。

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そしてここにまた一人「21世紀の大悪党」が。「この世界の片隅に」制作費に全財産を注ぎ込んだ片渕須直監督は、奥さんから「今日の食費は300円よ!!」と言い渡された日すらあったという。これはもう同じこうの史代作品でも「この世界の片隅に(2007年〜2009年)」のすずさんの世界を通り越して「長い道(2001年〜2004年)」の道さんの世界に足を踏み入れているんじゃ?

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この現状を承認してるとも承認してないともつかない恐るべき笑顔…これって「家父長制の残滓」なの? それとも、この世には「大悪党」でなければ成し遂げられない事もあるという事なの?

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ちなみに「赤ひげ」に出演するまで保本登を演じた加山雄三は俳優を続けようか辞めようか悩んでいたそうです。それが本作の出演をきっかけに生涯俳優として生きていくことを決意したというのですから、この映画はそういう教養主義的側面からも鑑賞可能という事なんですね。