諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【キングコング】【アマゾンの半魚人】【水爆実験】【ゴジラ】【シン・ゴジラ】何が継承され、何が切り捨てられてきたか?

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シン・ゴジラ(Shin Godzilla2016年)」鑑賞後、「ゴジラ第一作(Godzilla、1954年)」を見返してみました。

まず最初に念頭に浮かんだ光景がこれ。

橋本忍「複眼の映像 私と黒澤明」

*1946年、脚本家橋本忍は同年亡くなる師匠伊丹万作の病床を訪ね、こう聞かれている。

「原作物に手をつける場合には、どんな心構えが必要と思うかね」

瞬間だが私は正座のまま両腕を組んだ。

伊丹さんには、戦前戦後を通じ最高傑作といわれる映画脚本『無法松の一生』がある。原作者は岩下俊作氏、九州八幡製鉄所の職員で直木賞候補作品である。

この原作に取り組む伊丹さんの心労や経緯は自分もよく知っており、伊丹さん著作の『静臥雑記』にも一部が記載されている。要は、テーマを難解にしてはいけない。完結した形の最も短いストーリー、『無法松』の場合には〈ある人力車夫の未亡人に対する風変わりな恋愛映画〉、このように凝縮し、完結した分かり易いものにする。伊丹さんのテーマ設定に関わるこうした提言が、シナリオライターの間で物議を醸し、以後は原作物を扱う場合の最重要課題ともなったものである。

だが、私はそれには触れなかった。

「牛が一頭いるんです」

「牛……?」

「柵のしてある牧場みたいな所の中だから、逃げ出せないんです」

伊丹さんは妙な顔をして私を見ていた。

「私はこれを毎日見に行く。雨の日も風の日も……あちこちと場所を変え、牛を見るんです。それで急所が分かると、柵を開けて中へ入り、鈍器のようなもので一撃で殺してしまうんです」

「…………」

「…………」

「もし、殺し損ねると牛が暴れ出して手がつけられなくなる。一撃で殺さないといけないんです。そして鋭利な刃物で頸動脈を切り、流れ出す血をバケツに受け、それを持って帰り、仕事をするんです。原作の姿や形はどうでもいい、欲しいのは生血だけなんです」

 割と庵野秀明監督は、ストレートにこれ式で「ゴジラ第一作(1954年)」に対処した様に思えます。という事は、その過程で如何なる「生き血」を抽出したかに1950年代と2010年代のファクターの違いを見てとる事も可能なんじゃないでしょうか?

1954年3月1日 ビキニ環礁で最初の水爆実験(キャッスル作戦ブラボー実験)

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一般にブラジャーに似たトップスと短いパンツ(ボトム)を組み合わせたセパレート型女性用水着はビキニ・スタイル(bikini Style)と呼ばれるが、これはこの水爆実験が起源ではない。そうした誤解は日本だけでなく海外にも拡がっている。

  • この年より遡る事8年前の1946年7月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁において米国によって、第二次世界大戦後初の原爆実験(クロスロード作戦)が行われた。

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  • その実験直後の1946年7月5日にパリで母親のランジェリーショップを経営していた自動車技師のルイ・レアールが、その小ささと周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえ("like the bomb, the bikini is small and devastating")、ビキニ(bikini)と命名してこの水着を発表。フランスでは即座に熱狂的歓迎を受けたが、保守的なアメリカまで広まるのに10年近くを要したという。以降は次第に同タイプの水着がまとめてビキニ・スタイル(bikini Style)と呼ばれる様になっていく。

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  • この水着のパンツに近い形の女性用の下着、男性用の水着なども類似のスタイルのものは「ビキニパンツ」と呼ばれることがあり、特に男性用の下着の場合はビキニブリーフとも呼ばれる。なお、2000年代後半より映画「ボラット」のヒットにより男性用ビキニであるマンキニ(Mankini = Man + Vikini)が世界的に流行した。

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ちなみに人類最初の水爆実験は1952年11月1日、エニウェトク環礁(アイビー作戦 )となる。

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魚肉ソーセージ(Fish Sausage) - Wikipedia

生産量が大幅に増えたのは水爆実験の影響だった。昭和29年(1954年)3月1日、ビキニ環礁で行われた 15 Mt の水爆実験(キャッスル作戦)により、日本の第五福竜丸をはじめ多数のマグロ漁船が放射性降下物(いわゆる「死の灰」)を浴びて被曝。処理のため多量の放射能汚染マグロが水揚げされたことから消費者が忌避する事態となり、マグロの価格が大暴落してしまったのである。

苦境に陥った水産各社は、余剰マグロを原料とした魚肉ソーセージの生産に尽力。安価な魚肉ソーセージは、学校給食に納入されるなど「西の横綱がインスタントラーメンなら、東の横綱は魚肉ソーセージ」と呼ばれる程の大衆食となった。
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本多猪四郎監督作品「ゴジラ(1954年)」

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Raffæl : Eiji Tsuburaya’s original Godzilla concept

東宝プロデューサー田中友幸は、1953年(昭和28年)に『さらばラバウル』(本多猪四郎監督)を製作した折、前年に東宝に復帰したばかりの円谷英二と出会い、円谷が手掛けた特撮の成功もあって「特撮物はいける」と実感していたという。

  • 田中は続いて8月に、谷口千吉を監督に、インドネシアとの合作映画「栄光の影に」を企画。ところが、翌年1954年(昭和29年)4月にいよいよ谷口監督、主演の池部良山口淑子らをそろえたロケ隊の出発という段になって、外交上の諸事情からビザが下りず、泣く泣くこの企画を断念することとなった。「腹の虫が治まらなかった」という田中は急遽代替企画を立てざるを得なくなったが、こうした事情から、発想がどうしてもインドネシア周辺の海洋を舞台にしたものに向かったという。

  • ちょうどその頃、ビキニ環礁での核実験と、第五福竜丸の被爆事件(同年3月)が社会問題となっていた。これに着想を得た田中は、「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が、水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という特撮映画の企画を立てた。この時点での企画仮題は、『海底二万哩(マイル)から来た大怪獣』であった。
    *水爆実験で蘇った怪獣がニューヨークの街を破壊していくレイ・ハリーハウゼン特撮の怪獣映画『原子怪獣現わる(1953年)』の影響がここにも見て取れる。

  • 田中がこの企画を東宝本社の企画会議に提出したところ、製作担当の森岩雄の目にとまることとなった。森は戦前から東宝に関わり、円谷を招いた本人であるが、1952年(昭和27年)に公職追放解除を受け、本社に復帰してハリウッド視察を行い、特撮映画の重要性を再認して、戦後解体されていた「特殊技術課」を東宝内に再編成し、円谷を再度招いてこの部門の強化を進めていた。こうして、東宝上層部が「到底撮影は無理」として満場一致で反対するなか、森岩雄ただ1人がこの企画に賛成意見を述べ、強硬に支持し、ついにはGOサインにこぎつけることとなった。

  • この前代未聞の企画に臨み、本企画は「G作品」(Gはジャイアントのイニシャルから)と銘打たれ、極秘裏に進行されることとなった。大まかなストーリーや怪獣の設定が決まると、田中は次に、文芸部の松下忠と2人で、田中自身ファンであった怪奇幻想作家の香山滋の自宅を飛び込みで訪ね、原作執筆を依頼したところ快諾を得た。5月中旬のことだった。こうして香山の筆によって、田中曰く「シナリオ風の原作」が1週間ほどして完成し、これを基に「G作品検討用台本」が印刷された。この時点で、正式に円谷英二が企画に参加することとなった。

  • 円谷は1952年(昭和27年)の春に「海から現れた化け物のようなクジラが東京を襲う、また、1953年(昭和28年)には「インド洋で大蛸が日本の捕鯨船を襲う」という特撮映画のプロットを企画部に提出していた。この円谷の企画の着想は、1945年(昭和20年)の東京大空襲の最中、防空壕に避難していた時に思いついたものであり、家族に対しても、これで戦争の恐ろしさを書いてみたいと語っていた。このいきさつもあり、円谷は怪獣の設定を「大蛸」にすることを主張した。一方、田中は「(当時の)風潮によりマッチする」としてこれを「太古の恐竜」とすることを主張、結果として田中案が採用され、主役の怪物のキャラクターは「太古の恐竜」となった。

  • 田中はただちに監督に、前年に2本の特撮作品「太平洋の鷲」と「さらばラバウル」で円谷と組んだ本多猪四郎を抜擢、また、同じく前年に円谷と日本初の立体映画『飛び出した日曜日』を撮った村田武雄をいれ、本多と村田の2人で脚本製作に入ってもらった。田中友幸は、題名が『海底二万哩から来た大怪獣』では長いので、もっと良い題名はないものかと考えあぐねていたところ、佐藤一郎プロデューサーから、当時東宝演劇部にいた"「クジラ」が好物で「ゴリラ」のような容貌"をした網倉志朗(後の東宝演芸部部長)という人物のあだ名が「グジラ」だと聞きつけ、語呂の良いこのあだ名を参考にし、「ゴリラ」と「クジラ」を合わせて「ゴジラ」とした。しかし、この名称もまだ完全決定というわけでなく、「"ゴジラ"では印象が弱いから"ゴジラー"にしては」といった意見もあったという(向山宏談)。

  • 村田と本多による「G作品準備稿」が仕上がると、「ピクトリアル・スケッチ」(場面ごとに画にしたイメージ・ボード)が制作された。渡辺美術監督が飯塚定雄ほか、4、5人の学生を指導して描き上げた、全228シーン、306カットに上るこの絵コンテは企画室に張り出され、森製作部長を前に、村田、本多、円谷、田中がシーンごとの説明を行い、検討が重ねられた。浅井正勝によると、ゴジラの吐く「白熱光」や「光る背びれ」は、こうした検討段階で「かっこつけ」で生まれたアイディアだったという。この検討会議が終わると、森岩雄は「成功疑いない」と宣言したという。

  • 次に「ゴジラ」のデザインが検討され、『サンケイ新聞』夕刊で『山男ダンさん』を連載中だった漫画家の阿部和助にデザイン画が依頼されたが、この起用は「関係者による子供たち相手のアンケートの結果による」と当時報じられている。阿部のデザインはキノコ雲のイメージが強すぎたため、参考程度にとどめ、実際のデザインは渡辺明が行った。渡辺、利光貞三による粘土原型が完成したのは6月末のことだった。

  • 当初、円谷英二ゴジラの撮影方法について欧米に倣い、人形アニメの技法を検討したが、11月3日の封切り上映日から逆算して工程上無理と判断し、演技者が中に入る形でのぬいぐるみ方式を採った。メインの演技者を務めた中島春雄は円谷に、「人形アニメでやれば7年かかるが、お前が演ってくれれば3月でできる」と口説かれたという。それまでの映画の怪獣というと人形アニメでの表現しかなく、カメラマンの有川貞昌も中島も「ぬいぐるみでやるぞ」と円谷に言われても全くイメージが湧かなかったという。『ゴジラ』は本格的な「ぬいぐるみ怪獣」としても日本初の取り組みだった。

  • 制作に当たっては、超大作の扱いで公称7000万円(当時)という大型予算が組まれ、本編面では黒澤組から志村喬を準主演に、成瀬組からカメラの玉井正夫と美術の中古智、照明の石井長四郎を迎え入れる等ベテランを起用。予算面での規模が大きかった為、当時製作部長だった北猛夫を特別に「美術監督」に据えている。 特撮を担当した円谷英二は、本作の為に飯塚定雄、井上泰幸、開米栄三、入江義夫等、各方面から若いスタッフを集めている。この面々は以後、日本特撮界に欠かせない重鎮となっている。
    黒澤明監督映画「七人の侍(1954年)」同様、東映の連作主義に対抗意識を燃やした東宝の大作主義抜きにこの展開は語れないとも。

  • 10月25日、作品が完成。撮影所内では完成を祝い、興行成功を祈って、本尊にゴジラの撮影用の「2号」ぬいぐるみをまつって神式の「ゴジラ祭」(修祓〈しゅばつ〉式)が開かれた。宮司役に平田昭彦、巫女役には河内桃子が扮して、田中、本多、円谷らスタッフ陣、香山滋が祈祷を捧げている。

  • この式典の後、東宝の上層部、スタッフを集めて撮影所内で行われた完成試写では、その本編・特撮のでき栄えのあまりのよさに場内総立ちとなり、巻き起こった万歳斉唱と大拍手はいつまでも鳴り止まなかったという。そんな中、原作者の香山滋は、ラストシーンでゴジラが「オキシジェン・デストロイヤー」によって溶けて死ぬシーンを哀れに思い、1人座ったまま感極まって泣いていたという。マスコミ向けの関係者試写は続いて浅草宝塚劇場でも行われたが、この際も香山は目を潤ませていたほどで、円谷によると、香山は作品のできに感激し、公開後にはスタッフ一同を招いて熱海で一泊の宴席を開いてくれたという。

  • こうして完成した本作は、封切りと同時に、当時としても例を見ない観客動員数を記録して空前の大ヒット。東宝の同年度の初日動員観客数の記録を塗り替えた。渋谷東宝に並ぶ観客の列は道玄坂まで伸び、待ち時間は2時間に達した。封切り初日は都内だけで14万 - 15万人の動員があったという。あまりの大入りに、田中友幸自ら渋谷東宝日劇でチケットもぎを手伝うこととなった。1番館での封切り動員だけで観客動員数は961万人に上り、国民のほぼ10人に1人はこの映画を見たことになる。『ゴジラ』の成功は、当時がたついていた東宝の屋台骨を一気に立て直したとも言われている。

  • 東宝では封切り劇場内で多数の児童にアンケートが採られ、ゴジラに同情する意見が多く寄せられた。また、観客からも「なぜゴジラを殺したんだ?」「ゴジラがかわいそうだ」という抗議の声があったという。宝田明も「ゴジラにシンパシーを感じた」「何故人間が罪のない動物を殺さなければならないのか、無性に涙が出るのを禁じえなかった」、脚本担当の村田も「ゴジラがかわいそうですよ」と語っており、スタッフ内にも同情の意見は多かった。

  • 一方、公開時の日本のジャーナリズムの評価は概ね低く「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評する向きも多かった。各新聞の論評でも、特撮面では絶賛されているものの、「人間ドラマの部分が余計」として、本多の意図したものを汲んだ批評はみられなかったが、田中によればこのなか、三島由紀夫のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」「文明批判の力を持った映画だ」として当時、ドラマ部分を含めて本作を絶賛してくれたという。

  • 著名人としてはのちに小津安二郎手塚治虫淀川長治水木しげるらが本作を絶賛している。この作品は海外でも大評判となり、すでに特撮技術者として並ぶ者のなかった円谷英二の名が、広く海外にまで知れ渡ることとなった。田中や本多は「まず欧州で認められ、アメリカで大ヒットしたことで、日本国内の評価が定まったようだ」としている。

  • 映画評論家の樋口尚文は、本作の監督である本多猪四郎への取材において「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製キングコングを作りたかった」という旨の言質を取っている。それを見ても水爆実験で蘇った怪獣がニューヨークの街を破壊していくレイ・ハリーハウゼン特撮の怪獣映画「原子怪獣現わる(1953年)」の影響を受けた感は否めない。観客動員数は961万人を記録。

この成功を受けて直ちに続編が準備され、翌年の1955年に公開された第2作「ゴジラの逆襲」においては「怪獣同士の対決」が初めて描かれた。この後しばらく東宝ゴジラ以外の怪獣・特撮映画を作っておりゴジラシリーズの新作の企画は無かった。
*このタイミングで3D映画に掛けていた「ユニバーサル・モンスターズ」は脱落を余儀なくされてしまう。ある意味、水爆に殺された様なもの?

大アマゾンの半魚人(Creature from the Black Lagoon、1954年)

ユニバーサル映画製作の手になるアメリカ合衆国のSFホラー映画。モノクロ作品。

http://vignette1.wikia.nocookie.net/creature-from-the-black-lagoon/images/6/6c/Encountering_Creature_Black_Lagoon.jpg/revision/latest?cb=20150116043010

  • アマゾンの奥地探検中にカール・マイア博士により、デボン紀の地層から水かきのついた手の化石が発見された。報告を受けたブラジルの海洋生物研究所から、所長のウィリアムズ博士と魚類学者のリード博士、所長助手のケイ・ローレンスが調査に向かうが、マイアのキャンプの留守をあずかる現地人二人の無残な死体が発見される。
    *一方「ゴジラ(1954年)」は「ジュラ紀白亜紀の間に登場した水棲爬虫類から陸上哺乳類に進化途中の巨大生物」と推定される存在。実は有機物中に含まれる炭素14(14C、放射性同位体)の存在比率を基準とする放射性炭素年代測定(radiocarbon dating)の世界において、1952年から水爆実験が始まった1950年代はBP(Before PresentもしくはBefore Physics)基準の原点という扱い。これに関連するニュースが巷を賑わせたのが両作品共通のインスピレーション元の一つだったとしても不思議はない?
    BP (年代測定) - Wikipedia

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  • 一行は現地人が「魔物が住む」と言う、化石が発見された黒い入江を潜水調査するが、ウィリアムズとリードが不在の間、泳いでいたケイは人間の体ながらも全身に鱗を持つ怪物に襲われる。ケイは危うく難を逃れるが、リードは入江に毒物を流し、仮死状態に陥っていた怪物を船に生け捕りにすることに成功する。

    http://cdn-static.denofgeek.com/sites/denofgeek/files/styles/insert_main_wide_image/public/2016/01/creature-4.jpg?itok=tfMk_n4Q

  • しかし、息を吹き返した怪物・半魚人は復讐心に燃え、船の関係者多くを、殺し始める。やむなくウィリアムズら一行は船を引き帰させようとするが、入江は半魚人の作った防壁で既に封鎖されていた。防壁を排除しようと、潜水作業を行ったウィリアムズは半魚人に殺されるが、結局、半魚人はマイアの放った銃弾に痛手を受けて、入江深く消えていった。

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本作品に登場するモンスター・ギルマン(Gill-man=鰓のある人間)は、怪物映画の老舗であるユニヴァーサル映画がドラキュラ、狼男、フランケンシュタインの怪物に続くオリジナル・モンスターとして考案したモンスターである。

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  • ユニバーサル・モンスターズは、その多くが19世紀におけるロマン主義的英雄(内なる衝動に突き動かされるままに善悪の彼岸を超越してしまう悲劇的存在)の影を引き摺り、ここにヒューマニズム(Humanism=人間中心主義)の観点から同情の余地が生じる展開。

  • ただしドラキュラ伯爵は「他人の生き血を啜って自分だけが長生きする」ランティエ(rentier=不労所得者)的貴族主義の象徴でもあるので、同情の余地はないとされる事もある。
    *そもそも元ネタとされたワラキア公ヴラド3世(Vlad III , 1431年〜1476年)からして「(ルネサンス期における出版文化浸透を背景とする)メディアによるネガティブ・キャンペーンの最初の犠牲者」という側面を有しているからややこしい。ちなみに祖国ルーマニアでは「ハンガリー帝国とオスマン帝国という二つの大国の駆け引きに翻弄された小国君主の悲劇」といったニュアンスで理解されている。

  • その逆にフランケンシュタイン博士の産み出した「怪物」については、どんなに凶暴な性格であっても「自らの意思でそうなった存在ではない」とする立場から擁護される事が多い。
    *この補正はキングコングや狼男にも掛かるが、どちらも1930年代独特の残酷趣味の産物であり、それなりに「悪魔度」を増している。

  • グレイゾーン上にあるのが(薬剤の副作用によって人格変容する)スティーヴンソン「ジキル博士とハイド氏(The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde、執筆1985年、刊行1986年)」の影響を受けたH.G.ウェルズ原作「透明人間(Invisible Man、1897年、映画化1933年)」。このケースにおいては当人がどれだけ変容以前よりそうなりたい願望を秘めていたマッド・サイエンティストだったかどうかが問われる形となる。
    http://fuckeverythingandsociety.tumblr.com/post/156182035298

    https://68.media.tumblr.com/c2471314613d30ec656c1c0c5448a674/tumblr_od6akktJOJ1t9tak1o1_1280.jpg

  • そして「アマゾンの半魚人」については概ね「ギリギリアウト?」と判定される事が多い。これは毎年のハロウィンの定番ネタで「そもそも人間ではない」「ヒューマニズム(Humanism、人間中心主義)に立脚する慈悲心から最終作では人間への改造が試みられたが失敗した」といった指摘を他のユニバーサル・モンスターズからネチネチと受けて、最後には「差別は許されない!!」と逆ギレしたりする。
    Creature from the Black Lagoon Directed by Jack... - Classic horror blog

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    *そういえばマーベル・ヒーローのウルヴァリンは元来「イタチのミュータント」という設定だったのに、1975年以降ちゃっかり「最も人間臭いヒーロー」というポジションを獲得するに至る。するとヒューマニズム(Humanism、人間中心主義)なるもの「獣臭い」のは大歓迎だが「鱗臭い」のはNGと考えるべきなのだろうか?

    *すると「リトル・マーメイド(The Little Mermaid、1989年)」のアリエル姫や「(海外でも人気拡大中の)蛇のお嫁さん」の立場は? 海外にはフリードリヒ・フーケの「ウンディーネ(Undine、1811年)」なんて、さらに極悪。その(パラケルスス錬金術書に立脚するとされる)世界観において、精霊は元来完全自己充足した両性具有状態にあるが、誰かに惚れると半性が分離し、嫉妬心から恋敵を死ぬまで付け回すのである。日本語だと「(面倒臭い)蛇性の婬」の一言で済むが、思うより外国語への翻訳が難しい。
    Princesa Ariel — 💚💛💙💜https://68.media.tumblr.com/5b21eb841105bdc2ab9b32de9c2afd83/tumblr_oh8gb2nSb81vxzcbqo1_1280.jpg

    *もしかしたら上古より法華経の章句「獣虫でも草木でも成仏する」世界観に生きてきた日本的汎神論固有の思考様式の産物? 欧米では分類を諦めて「Queer」のジャンルに放り込まれるタイプの性癖とも。

アナグリフ方式による3D映画として公開されたが、日本では普通版が上映された。当時制作された3D映画群の中では最も興行的に成功した作品で「半魚人の逆襲(Revenge of the Creature、1955年)」「The Creature Walks Among Us(1956年)」の2つの続編が制作されている。

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  • 「古代生物と現代文明の接触によって起きる悲劇(それも概ね人間側の「お節介」が誘発する古代生物の凶暴化という形を伴う)」「人間の女性に恋をした半魚人の悲恋」の2点で、過去に制作された「キングコング」との類似性が指摘されている。
    *「ゴジラ(1954年)」も「古代生物と現代文明の接触によって起きる悲劇(それも概ね人間側の「お節介」が誘発する古代生物の凶暴化という形を伴う)」や「怪物退治を通じてのヒロインを巡る三角関係の解消(恋敵の片方が死ぬ)」といった基本構造は継承する。

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  • 水中シーンを除いて、作品の撮影はフロリダ州のワクラスプリングス州立公園内の湧水地で行われた。半魚人のスーツアクターは主にベン・チャップマンが務め、水中シーンでの操演は後に「007 サンダーボール作戦(Thunderball、原作1961年、映画化1965年)」で水中シーンの監督を手がけるリコウ・ブラウニングが務めた。
    *全く違うジャンルに見えて「ゴジラ」と「サンダーボール作戦」は「(娯楽作品で扱うには荷の重すぎる「冷戦を背景とする原水爆開発競争」という枠組みを超えた)国際協調体制の成立」、「原水爆開発競争のリスクの告発」、「片目眼帯の男(芹沢博士とスペクター幹部のエミリオ・ラルゴ)」といった共通点を有する。もちろんサンダーボール作戦」にゴジラに直接該当する超自然的怪物は登場しない。しかしその代わりに世界中の国際謀略に関わって漁夫の利を得る秘密結社スペクター(Spectre)なる組織を創造。彼らの紋章は蛸で、それは「思わぬ場所まで浸透して全てを滅茶苦茶にする恐怖」を象徴するのだが、この事が企画段階でゴジラが蛸の怪物になっていたかもしれない事、芹沢博士の「もしオキシジェント・デストロイヤーの存在が世界に知れたら、その悪用は決っして避けられないだろう」なる神経症的恐怖などと重なってくるのである。

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    *芹沢博士の指にもスペクターの指輪が 嵌ってたらあの最後はより説得力を増す。そういえばイメージ中ではクリストファー・ノーラン版「バットマン(2005年〜2012年)」でラーズ・アル・グールを演じたリーアム・ニーソンダニエル・クレイグ版「007シリーズ(2006年〜2015年)」でMr,ホワイトを演じたイェスパー・クリステンセンが入り混じって「フェレイラが「修道士の誓いを立てる前に生まれた娘を頼む」とロドリゴにポツリと言い残す展開もあるのか?」なんて妄想まで芽生えて大変な事態に。そういえば最近イタリア系、アイルランド系に加えてマッツ・ミケルセンら北欧系の役者の躍進が目覚ましい。

  • メイクアップとしてクレジットされているのはユニヴァーサル映画のメイクアップチーフであるバド・ウエストモアのみだが、実際にはジャック・キーヴァンが大半の作業を担当していた。映画監督のジョー・ダンテは、本作に登場するギルマンの造形美、人間らしさを備えた性格を高く評価している。

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  • 物語は後に制作されるモンスター映画の原型の一つとなり「モンスター・パニック(Humanoids from the Deep/Monster、1980年)」「怪人スワンプ・シング/影のヒーロー(Swamp Thing、映画化1982年)」などの亜流作品を生み出す。
    *そしてこの「怪人スワンプ・シング/影のヒーロー」シリーズのその後の低迷を救うピンチヒッターとして英国人原作者アラン・ムーアが米国上陸を果たす事になるのである。

ビリー・ワイルダー監督の「七年目の浮気(The Seven Year Itch、1955年)」でマリリン・モンローのスカートが地下鉄の風でめくれ上がる有名なシーンがあるが、これはトム・イーウェル演ずる主人公とモンローが本作を観た後の映画館前で起こるという設定である。

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 「ゴジラGodzilla、1954年)」議会で古生物学者の山根恭平博士(志村喬)がゴジラ放射能の関連性を証明し、議員がそれを公表するか否かで大揉めに揉めた場面の後、電車の中で新聞を広げて読んでいる男二人と女一人の会話

女「いやね。原始マグロに放射能雨に続いて、その上ゴジラだなんて。東京湾にでも上がり込んできたらどうなっちゃうの?」
*アメリカの水爆実験で想定外の大被害が出てしまったのは、爆発規模が予定の三倍以上に達したから。その事の是非はともかく、決っして忘れてはならない事。それは「放射能」の方はソ連の核実験がもたらしたものだったという事。要するに「米ソの原水爆開発競争の影響が狭間の日本にも及んだ」と庶民も理解していたと解釈するのが正しく、実際当時公開された「ゴジラ(1954年)」も「生きものの記録(1955年)」もあくまで「そうした不毛な競争こそが人類を破滅に追い込む」というスタンスを貫いている。しかし何時の間にかアメリカだけが一方的に悪者に仕立て上げられていったという次第。
原子マグロと放射能雨

男1「まず真っ先に君が狙われる口だね」
*大戸島ゴジラにまつわる伝承が語られる場面に続いて「キングコング(King Kong、1933年)」を意識し「若い娘を生贄に捧げる慣習」が語られる。

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「やなこった。せっかく長崎の原爆から命拾いしたっていうのに」

男2「そろそろ疎開先でも探すとするかな」

「あたしにも探しといてよ」

男1「ああ、また疎開かぁ、全く嫌だなぁ」

ゴジラの襲撃コースが東京大空襲の襲撃コースと重なるのは有名な話。

それではこの作品の脚本も手掛けた庵野秀明監督は、具体的には一体何を「シン・ゴジラ(Shin Godzilla、2016年)」の作中から追い出したのでしょうか?

  • キングコング(King Kong)」要素の徹底排除。
  • 「考え方の異なる二人の博士」を「ミステリアスな一人の博士」に集約させ、映画冒頭から行方不明にして作中未登場キャラとする。
  • 「個人的悲劇」へのクローズアップの廃止 

まずはこの三大判断によって「ゴジラの行動予測不可能性と、それに対する対処の繰り返し」つまり「(基本的には市民(シチズン)達のリアクションの連鎖でのみ構成される)ハードボイルド文学の基本構造」に則ったシャープな現代劇という土台が出来上がった様に見受けられるのです。

The Bumbling Town Joker, Cleaned up a sketch from yesterday. Everyone’s...

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キングコング(King Kong)」要素の徹底排除おそらく真っ先に心掛けた事。ちなみに真逆に舵を切って「時代劇」として完成度を高めたのがピーター・ジャクソン監督のリメイク映画「キングコング(King Kong、2005年)」といえる。

  • 世界恐慌(1929年)到来によって資金繰りが行き詰まったドキュメント映画監督カール・デナム(ジャック・ブラック…起死回生を賭して「髑髏島の奇習」ドキュメンタリー映画撮影に挑戦するも、やがて関心がキング・コング捕獲に向かい、これを見世物興行を目的でニューヨークに連れ帰って大惨事を引き起こす。
    *ラストは彼の「(飛行機が仕留めたんじゃない)It was Beauty Killed the Beastキング・コングは美女が殺したんだ/獣は美に魅入られちまったのさ)」の台詞で幕となる。多分、色んな意味で当人の人生は終わった。

    コングは、生涯の最後に、の「美しさ」を堪能したかったのです。

    あらゆる芸術の基本は「美」を楽しむことにあります。映画とて、それが基本にあることにまちがいはない。しかし「芸術」に「美」に過剰に魅せられたものは、自らの身の破滅を、死を招きよせることもある。

    「映画」に魅入られたデナム監督は、身の破滅スレスレのところから大成功を手にしかけたが、一瞬のうちにそれを失った。「美(自分を理解してくれた女性と朝日)」に魅入られたコングは、死を招きよせるとわかっていながら、摩天楼に登らずにはいられなかった。そのコングの気持ちが、デナムには痛いほどわかったのです。

    コングは「たかが獣」では決してない。獣は「美」に魅入られたりはしません…そしてそれは、カール・デナム監督だけでなく、コングもまた、ピーター・ジャクソン監督自身の投影であることを意味しています。

    物語的には、デナム監督が、コングの末路を映画監督の目でつぶさに観察しながら、その中に自分自身を見出した、というところでしょうか。

    したがって、このセリフは、デナム監督にしか言わせることができない一言なのです。

  • ニューヨークのヴォードヴィル劇場で喜劇に出演していたが、雇い主が逃亡し失職した舞台女優のアン・ダロウ(ナオミ・ワッツ食うに困ってリンゴを万引きしようとしたところをカールにスカウトされ、「ナレーター=髑髏島の奇習」ドキュメント映画に華を添える存在」として出演するのを承諾するも、髑髏島で色々あって自分が先住民によって生贄に捧げられる立場に追い込まれてしまう。そこでコングと出会い、囚われ見世物にされた彼に次第に同情心を抱く様になる。

    *当時はただ不況だったばかりではない。映画の普及とともにヴォードヴィル劇場が次々と閉鎖されて芸人が居場所を失い、その映画のトーキー化に従ってサイレント映画しか撮れない監督や英語がまともに喋れない男優や女優が廃業に追い込まれていく。そんな凄まじい淘汰の時期でもあったのである。そしてアンはいつしか気高く滅びていこうとするコングに「ヴォードヴィル芸人としては終焉を迎えつつある自分」を重ねていたとも。

    トーキー映画登場までの米国娯楽史

    南北戦争前には演劇も音楽も、それが古典だろうと大衆的内容だろうと構わず同じ劇場で多様な階層の観衆が一緒くたになって楽しんできた。

    • ところが金鍍金時代(1865年~1900年)以降は新興中産階層(何世代も前にアメリカへと移住してきた英国系移民を中心とする西欧系アメリカ人)が労働者階層や移民層とは違った余暇の過ごし方を模索する様になる。その結果、演劇は「芸術」として「上品な」マナーで静かに鑑賞するものとなり、かつては聴衆が踊ったり食事をしたりお喋りを楽しみながら聞き流してきた音楽も同様に静寂な雰囲気の中で集中して聴くものとなり、それに相応しい壮大なコンサートホールやオペラハウスや劇場などが各都市に次々と建てられていく。

    • 同時に観客の度肝を抜く大掛かりな舞台装置や演出を伴う演目も増えた。例えば1871年に始まったサーカス「地上最大のショー( The Greatest Show on Earth:現在の「リングリング・ブラザーズ」)」も(興行主のP.T.バーナムが1847年にニューヨークで見世物小屋を開いていた時は出し物に客の参加を求める小ぢんまりとしたものだったが)この時以降、音と光と動きの絢爛豪華さと奇抜さを売り物とするショーへと変貌する。

    • 1880年代から1890年代にかけて登場し、1910年代までかろうじて大衆の間で人気を誇ったヴォードボル(vaudeville:動物のショー、小話、手品、パントマイム、アクロバット、歌、踊りなどを交えたヴァラエティ・ショー)は、中産階層の道徳基準に耐える一方で派手な効果も伴い、高尚なオペラやコンサートに行くだけの経済的余裕まではない中産階級下層や富裕な労働者階層向けに安くて健全な娯楽を提供した。労働者階層は余裕があればヴォードヴィルを見に行く事もしたが、特にユダヤ人などの間では自らの劇場で自分達流にアレンジした演劇や音楽を楽しんでいた。またニューヨークのコニーアイランド遊園地は若者、特に移民や労働者階層の男女にとって憩いの場所となった。

    映画はせっかくこうして整備された「階層ごとの娯楽」の境界線を破壊するポテンシャルを備えていたからこそ警戒されたのである。

    *この時代のアニメーション発達史にもまた壮絶な側面が存在する。

    *ちなみに1930年代には何故か「囚われの美女や美男子が拷問されたり、処刑されそうになる」のがデフォだった。それがパルプ・マガジンのヒロイック・ファンタジーだったら、美女が危機一髪のタイミングで主人公の助けが間に合う。江戸川乱歩の通俗小説だったらそのまま惨殺されてヒロイン交代。C.L.ムーアのノースウェスト・スミス・シリーズなら美女がイケメンの主人公に襲い掛かり、命を奪われる直前に助手のヤロール(これもイケメン)が乱入してくる。

    http://bookshelf.co.jp/images/9784150100025.jpghttps://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/31BmLFfulPL._BO1,204,203,200_.jpghttp://www.suruga-ya.jp/database/pics/game/2k13755.jpg

  • カールの計略により無理矢理髑髏島での撮影にまで付き合わされる事になった脚本家のジャック・ドリスコル(エイドリアン・ブロディ割と常識人で、アンとは航行中に恋仲となり、彼女が生贄に捧げられたと知ると率先して救助に向かおうとする。
    *あからさまなまでの「一般観客向けの傀儡主人公」と見受けられる。

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この基本フォーマットは「大アマゾンの半魚人(Creature from the Black Lagoon、1954年)」も一緒。

Rants, Raves, and General Shit Talking

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  • 最終的には半魚人に殺されてしまう野心家の隊長
  • ヒロイン
  • ヒロインを助けるイケメン魚類学者(一般人向け傀儡ヒーロー)

そして「ゴジラ(1954年)」では、おそらく以下の三角関係に該当する。

City Stompers — Gojira (1954)

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  • 原水爆より恐ろしい殺戮兵器「オキシジェン・デストロイヤー」を偶然発明してしまい苦悩する若き天才科学者芹沢大助博士平田昭彦)。
    *最後はゴジラとともに滅んでいく。以降も「大怪獣バラン」でバランを特殊火薬で倒した藤村博士役、「ウルトラマン」ではウルトラマンでも倒せなかったゼットンを無重力爆弾で倒した岩本博士役を演じ、怪獣を一撃で倒す必殺兵器を開発するクールな科学者のイメージが定着。

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  • 古生物学者としてゴジラ殺処分に反対し、むしろその脅威の生命力を研究対象にすべきだと主張する山根恭平博士(志村喬)の娘の山根恵美子(河内桃子)。
    *そう、黒澤監督映画「生きる(1952年)」において「残り僅かとなった与命をを賭して汚水溜まりの埋め立てと公園建設を完遂し、楽しそうにブランコを漕いで歌いながら死んでいく市民課の課長」を、「生きものの記録(1955年)」において「家庭裁判所の調停員として原水爆への神経症的恐怖から悲惨な末路を遂げる家父長(三船敏郎)の目撃者となる歯科医」を演じる間にこんな役を演じていたのだった。

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  • 芹沢大助の許嫁である恵美子と恋仲になりながら、ゴジラ騒動のせいで打ち明ける機会を逸し続ける南海サルベージKK所長の尾形秀人(宝田明) 。
    東宝ニューフェイス第6期生(1953年度)。日活に移籍した岡田眞澄と同期の二枚目役者。「ゴジラ(1954年)」が初主演だった。ちなみに「ゴジラ」の撮影初日、撮影現場で「主役の宝田です」と挨拶したところ、照明スタッフに「主役はゴジラだ!」とガツンとゲンコツをもらったという。やはり彼もまた「傀儡の主人公」だったらしい。

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この部分の影響をすっぱり切り捨てたのは大正解。下手に残しても「ゴジラと人間の戦い」という本筋を邪魔しまくっただけだろう。ついでに「若い娘を捧げて怒りを鎮める慣習の示唆」という要素も排除。この改変により「キングコング(1933年)」からの継承部分は(「ゴジラ」の名前が大戸島の伝説の海神「呉爾羅」に由来するとした箇所を除き)ほぼ消失した。

②「考え方の異なる二人の博士」を「ミステリアスな一人の博士」に集約させ、映画冒頭から行方不明にして作中未登場キャラとする…「ゴジラ(1954年)」では若き天才科学者芹沢大助博士平田昭彦)の決死の尽力によってゴジラの1匹が確実に倒されるも、山根恭平博士(志村喬)が「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかへ現れてくるかもしれない…」と呟いて終わる。しかし「シン・ゴジラ(2016年)」では(とりあえず当面は原子力との共存を考え続けねばならない人類の現状を反映して)おそらく地上に1匹しか存在しないそれが、東京のど真ん中で一時的に機能停止する(何時活動を再開してもおかしくない)という結末を迎える。

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*「ゴジラヘドラ(1971年)」では「公害から生まれた怪獣へドラ」の襲撃を恐れるあまり、日本政府があっけなく工業文明と自動車文明を全面放棄してしまうのと真逆の到達地点。

  • そもそも「シン・ゴジラ(2016年)」においては、「ゴジラ(1954年)」で(ゴジラ殺処分に反対し、むしろその脅威の生命力を研究対象とすべきだと主張する)山根博士と(ゴジラを斃す技術を開発しながらその使用を渋る)芹沢博士の役割が一人の人物に集約している。その結果「生物学者でありながら同時にエネルギー関係の研究も行っていた変わり者」牧悟郎博士(岡本喜八)は、自分の研究成果を暗号の形で残し「私は好きにした、君らも好きにしろ」と言い残して冒頭からいきなり消息を断つミステリアスな存在へと昇華する事になった。

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  •  この設定変更には「(「ゴジラ(1954年)」が制作される直接の原因となった)米ソの原水爆開発競争の時代」と「(冷戦時代独特の緊張感が完全に忘却されてしまった)現代」の間に「妻を被曝で亡くした牧悟郎博士が何を考え、何を実践しようとしていたか誰にも分からない」というクッションを配置する事で映画の中に「現状に限りなく近いリアルな認識空間」を持ち込む意図もあった様に思われる。
    *なにしろ1950年代においてすら「原水爆に対する神経症的恐怖」を全面に押し出し過ぎた黒澤明監督映画「生きものの記録(1955年)」は、記録的な興行失敗という結果に終わっているのである。わざわざ前轍を踏む事はない。案外「ゴジラ映画はどうして以降、急速に子供映画化していったのか?」もこの文脈で読み解けるかもしれない。要するに大衆に「口に苦い良薬」を自ら好んで選ばせる方法は今だに発明されていないという事。
    『黒澤明監督「生きものの記録」は最も優れた原水爆映画だ!!~おすすめ黒澤映画、ベスト3もあるよ~』

  • そういえば日本では「牧悟郎博士=岡本喜八監督」というファクターから 大宅壮一原作映画「日本のいちばん長い日(1967年)」と「シン・ゴジラ(2016年)」の内容比較する論調が数多く見受けられる。しかし実は岡本喜八監督を「世界の岡本喜八」たらしめた作品は、あくまで同じ橋本忍脚本映画「大菩薩峠(The Sword of Doom、1966年)」。むしろこの作品で机竜之助が備えていた既存の価値観の範疇に収まらず不気味だが、それなのに、いやむしろそれ故に目が離せない感じ」こそが「新世界エヴァンゲリオン(TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」におけるあさりよしとおデザインの使徒を経て「シン・ゴジラ(2016年)」における「ゴジラなるもの」「牧悟郎博士なるもの」に到達したとも考えられるのである。

  • いずれにせよ、こうして「超然的な働きをする博士」が表舞台から姿を消したせいで「一人一人は常人並の能力しか持ち合わせてない登場人物が力を結集してゴジラという事態に力を結集して当たっていく集団劇」が可能となった。かくして余計な愛憎ドラマが排除される一方で物語全体が「ゴジラの行動予測不可能性と、それに対する対処の繰り返し」によって構成される全体構造が浮かび上がってくる。まさしくこれまでの投稿で繰り返し述べてきた、現代劇の基本たる「(基本的にはリアクションの連鎖でのみ構成される)ハードボイルド文学の基本構造」そのもの。

    *「ハードボイルド文学の基本構造」…そういえばリドリー・スコット監督映画「ブラック・レイン(Black Rain、1989年)」のキャッチ・コピーもまた「ゴジラ来襲!!」だった。物語は若きヤクザ佐藤浩史(松田優作)を日本まで誤送してきたニューヨーク市警殺人課刑事ニック・コンクリン(マイケル・ダグラス)が空港でこれを奪われ、雪辱を晴らそうとして「御目付役」の大阪府警刑事部捜査共助課の松本正博警部補(高倉健)を振り回すパートと、「アメリカ流」に馴染んだ佐藤が昔気質の親分菅井国雄(若山富三郎)を振り回すパートの二重構造になっており、結末付近では原爆(というよりそれが引き起こした「仁義なき戦い」の元話に当たる広島抗争(1950年頃〜1972年))に関する話も出てくる。先に挙げたキャッチ・コピーは「日本にとってはアメリカこそ何度も何度も執拗に来襲するゴジラではないか?」という本作品の基本テーマが込められていたという次第。「ハードボイルド文学の基本構造」と「ゴジラ的存在」の相性の良さは、この時期にはもう証明されていたとも。
    世界はこれに恋してる : 【追悼・高倉健】映画「ブラック・レイン」外国人の感想/「この映画の評価の低さには驚く」

③「個人的悲劇」へのクローズアップの廃止…実はこれには登場人物を(少なくとも建前上は忠誠心を行動原理の基盤とする)臣民(サブジェクト)から(各人が自らの価値判断を行動原理の基盤とする)市民に置換する裏の意図もあったのかもしれない。

  • 「死を覚悟するTV中継班」…常に最前線に出張り、現場に最後のギリギリまで残って「いよいよ最後です。みなさん、さようなら」 と放送しながら死んでいく。

    City Stompers — Gojira (1954)

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    *実は国際SNS上の関心空間にも少なくないファンがいるが「ゴジラVSへドラ(1971年)」も一緒くたに回覧されているところを見ると、必ずしもシリアスな受け止め方をされているとは限らない。 

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  •  「死を覚悟する母子」本多猪四郎監督は「当時ああいう(劇中、逃げ場を失い「(戦争で死んだ)お父ちゃまのところへ行くのよ」と子供に語りかけている母親のような)母子は本当にいた。時代の代表である」と述べている。むしろそうした1950年代を代表する景色だったからこそ「シン・ゴジラ」の世界に持ち込む訳にはいかなかったとも。

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  • 「怪獣が襲来してきた過去の削除」コロンブスの卵の様な話だが、ゴジラを「人間に認識可能な世界の外側からの来襲者」に引き戻し、庵野秀明監督が追求してきた「既存の価値観の範疇に収まらず不気味だが、それなのに、いやむしろそれ故に目が離せない感じ」と重ね合せるには、この設定がどうしても必要不可欠だったのである。

    かくして「シン・ゴジラ(Shin Godzilla、2016年)」は以下の一言で要約可能なほど明瞭な内容を備えたシャープな現代劇にリニューアルされたのだった。

それにしてもどうして、ある意味「ゴジラ映画の本命」ともいうべきこうした正攻法の路線は一旦完全に見失われなければならなかったのでしょうか? それを知る為には、当時の日本映画史をある程度俯瞰視してみなければなりません。

春日太一「仁義なき日本沈没―東宝vs.東映の戦後サバイバル―」

東映は時代劇から任俠映画に向かう過程で、それまでの華麗な様式美の殺陣から、刀身の短いドスの特性を活かした生々しい肉弾戦の殺陣に変貌、それも任俠映画の人気の一因になっていた。一方、黒澤時代劇で殺陣の表現に革命を起こした東宝だったが、その荒々しい牙はいつの間にか薄れてしまっていた。

  • 「時代劇」…1960年代前半には、黒澤明監督映画「用心棒(1961年)」や「椿三十郎(1962年)」といった「(人が人を生々しく斬る)リアル時代劇」が引き起こしたパラダイム・シフトによって、それまで東映映画が大量生産してきた「(スター俳優が様式美に従って華麗な殺陣を展開する)昔気質の時代劇」がたちまち時代遅れの遺物と化してしまった。

  • 「任侠映画」…対策として東映は時代劇スター俳優達をそのまま「義理人情に厚く正しい任侠道を歩むヒーロー」にシフトさせ、1960年代一杯は「チョンマゲを取った時代劇」と言われる虚構性の強い仁侠映画の量産によってなんとか食いつなぐ。そして観客層の変化によってこの路線も通用しなくなると仁義なき戦い(1973年〜1976年)」に代表される「実録ヤクザ物」へと、さらにシフトしていく展開をたどる。
    *「実録ヤクザ物」への転換は、フランシス・コッポラ監督映画「ゴッドファーザー (The Godfather 、1972年)」が日本でも大ヒットした影響も色濃く受けている。その「ゴッドファーザー」における「冒頭の結婚式がラストの悲劇的結末に結びつく展開」は黒澤明監督映画「悪い奴ほどよく眠る(1960年)」の影響を色濃く受けている(というか結婚披露宴で「妹を幸せにしなかったら殺すぞ」と脅迫した兄がその宣言を実践して父の後を継ぐバージョンそのもの)。こういう思わぬ形での「東宝映画から東映映画へのDNA継承の系譜」もあるのが映画史の面白いところである。

代表的なのは1966年、岡本喜八監督の「大菩薩峠」でのエピソードだろう。ラスト、仲代達矢扮する主人公・机龍之介は狂気にかられ、周囲にいる新選組を凄まじい勢いで斬りまくる。仲代の鬼気迫る演技と岡本監督のスピーディなカット割りが合わさり、ド迫力のアクションシーンに仕上がっていた。だが、オールラッシュ(スタッフ向けの試写)を見た東宝映画の藤本真澄社長はラストシーンの改変を求めてきたという。

「仲代が新選組の一人を刺すだろう? 抜く時にグッとエグる、あれイヤだねえ! ザンコクだよ! 刺したらサッと抜きゃあいいじゃないか?」

これは、岡本なりにリアリティを求めて、こだわった描写だった。なぜそのような描き方をしたのかを説明するする岡本だったが、藤本は聞かない。

「それは屁理屈だ。切れ」

藤本は当時、馬場にこう語っていたという。

「苦しくなったからといって裸にしたり、残酷にしたり、ヤクザを出したり……そうまでして映画を当てようとは思わない。俺の目の黒いうちは、東宝の撮影所でエロや暴力は撮らせない」

だが、東映が1960年代の後半に一気に興行成績を上昇させていったのに対し、東宝は会社創立最高成績を1967年に挙げるものの、翌年から急降下していくことになる。

岡田が読み取り、藤本が見誤っていたのは、映画館を訪れる客層の変化だった。これまでは映画館には幅広い層が来ていたが、1960年代後半から1970年代初頭にかけてにかけては二十歳前後の若者が主体になっていった。当時の若者の多くは、学生運動が盛んになる中で、従来にはない激しさと新しさを映画に求めた。その結果、イタリア発のマカロニウエスタン、アメリカ発のニューシネマ、日本でもピンク映画と、従来の価値観に「NO」を叩き付けるような反抗的な「不健全さ」が受けるようになる。

東映はこうした時流に乗り、任俠映画とポルノ映画で隆盛を迎えるが「清く正しく美しく」の東宝は、時代に乗り遅れることになる。老齢を迎える森繁の「社長」シリーズや、三十歳を迎えるのに相変わらず爽やかな健全さで売る加山雄三の「若大将」が、こうした時代に受け入れられるはずもなかった。時代に対応できない東宝は「スター・タレントの養老院」と揶揄されるようになる。

「今の時代、そんなの作っていても当たりませんよ」

多くの批評家たちが藤本真澄に批判の声を浴びせた。「社長」シリーズのキャスティングの若返りなどがスタッフから持ちかけられるが、それでも藤本は「それでは『社長』ものにならん」としりぞけてしまう。

これまでのパターンを変えようとしない藤本の路線は飽きられ、1968年になると観客動員は一気に落ち込んでいく。特に二週目の客足が悪く、客層の浅さが露呈してしまった。それでも、新たな客層を獲得するのは藤本体制下では困難な状況にあった。

  • 「その後の東宝」…1971年にはヤクザ映画への進出を図った。すなわち傍系会社の東京映画に東映の倍以上の予算をかけ、仲代達矢主演(脇には他社では主演級の安藤昇丹波哲郎江波杏子らを揃えた)の「出所祝い」制作させたのである。しかし同時期に東映が上映した高倉健の「昭和残侠伝 吼えろ唐獅子」の前に惨敗。その後はヤクザ路線からすっかり足を洗い、同年からは東宝が得意とする特撮映画「ゴジラシリーズ」を1975年まで制作した他、「日本沈没(1973年)」や「ノストラダムスの大予言(原作1973年、映画化1974年)」といった大規模パニック映画へと傾注していく。
    *この流れは「スペクタクル史劇」に見切りをつけたハリウッド映画界が(当初はスペクタクル史劇のスター俳優をそのままシフトさせた)大規模パニック映画が日本でも大ヒットした影響を強く受けている。

*こうした東宝制作側の頑な保守的姿勢に対して反旗を翻したのが、当時の若者風俗を大胆に取り入れた「ゴジラ対へドラ(1971年)」だったが、この試みも1作で潰されてしまう。

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こうして春日太一「仁義なき日本沈没」は、東映の「仁義なき戦い(1973年〜1976年)」成功を契機としての復興も、東宝の「日本沈没(1973年)」成功を契機としての復興も「失われた十年をやっと脱っした)ハリウッド映画の復興」に大きく依存した展開だった事実を容赦なく暴露するのです。そしてハリウッド大作や角川商法に翻弄される時代が幕を開ける事に。

  • ちなみに「大規模パニック映画」路線はその後次第に飽きられていくが、(黒澤明監督映画を共通語の一つとする)南イタリア勢が切り開いた路線はその後、スティーヴン・スピルバーグ監督映画の「ジョーズJaws、1975年)」や「未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind、1977年)」、ジョージ・ルーカス監督映画の「スターウォーズStar Wars、1977年)」などの大ヒットに結びつく。キーワードはおそらく「スペクタクルの個人サイズまでのダウンサイジング」。かくして、それまでB級映画の世界でしか存在を許されてこなかったSFや怪獣や怪奇の世界がハリウッド大作映画路線の視野に入ってくる一方で「巨大怪獣物」そのものが時代遅れとなっていく。
    *「スペクタクルの個人サイズまでのダウンサイジング…ある意味「ユニバーサル・モンスターズ系列の逆襲」という側面も。そういえば「襲撃側が人間に個人単位で脅威を与えるサイズ」という条件は同時大流行したスプラッタ・ホラーやゾンビ映画も満たしている。クラッシック・ホラーからモダン・ホラーへの流れの一環でもある。また、この時代における「怪奇/オカルト/超能力/UFOブーム」にもその一環を見て取る事が出来る。要するに観客はある意味「身近な恐怖」を求める様になったのである。

    今作はピーター・ベンチリーの同名小説を基に製作されましたが、スピルバーグ監督は原作に初めて目を通した時あまり良い印象を持っていませんでした。人間のキャラクターに感情移入出来なかったスピルバーグは、人間よりもある意味でサメに肩入れするような映画に仕上げたそうです。

  • 実はこうしたパラダイム・シフトの恩恵を受け、「大作路線」でGoが出た最初期の傑作の一つが(イタリアン・ホラー映画界の巨匠マリオ・バーヴァ監督映画「ヴァンパイアの惑星(1965年)」やフランス漫画界の重鎮メビウスの影響が持ち込まれ、B級映画として制作するには妙に格調高くなり過ぎてしまった)リドリー・スコット監督・ダン・オノバン脚本映画「エイリアン(Alien、1979年)」だったりする。
    *そうえいばエイリアンもまた「スペクタクルの個人サイズまでのダウンサイジング」対応作品。

    *そして、こうした流れは(1970年代に入ればますますB級映画に過激なエロとバイオレンスが要求されると予期して監督から引退した)ロジャー・コーマン監督にとっては、さらなる領域撤退を意味したのである。こうした時代の荒波に揉まれた一人が「ニューヨーク1997(Escape from New York、1981年)」や「遊星からの物体X(The Thing、1982年)」などでその名を知られたジョン・カーペンター監督。彼もまた「スペクタクルの個人サイズまでのダウンサイジング」対応作品を多数手掛ける事に。
    エイリアン (映画) - Wikipedia

    そしてリドリー・スコット監督は「ブレードランナーBlade Runner、1982年)」を放つ事によってさらに「風穴」を広げる事に成功する。

  • ちなみに1980年代前半における日本映画に対する評価は実に興味深い。 深作欣二監督映画の「魔界転生(1981年)」における柳生十兵衛千葉真一)、「里見八犬伝(1983年)」の玉梓(夏木マリ)「探偵物語(1983年)」の松田優作といった役者の演技ばかりが高評価なのである。これはおそらく(第一次怪獣ブーム(1967年〜1968年)を契機として日本特撮映画が急速に子供映画化して国際的競争力を喪失していった様に)当時のハリウッド映画業界が急速に子供映画や青春映画にシフトしていった事への失望感と無関係ではない。
    *逆に「作品」としての評価は殆ど聞かない。日本映画はそんな時代に踏み込んでしまったのだった。

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    その一方で日本においては「角川商法」全盛の時代が1993年にコカイン所持容疑で角川春樹が逮捕されるまで続く。この年においてすら日本人に角川春樹監督作品「恐竜物語REX」が「ジェラシック・パーク(Jurassic Park、原作1990年)」と同グレードの作品と信じさせるのに成功していたというのだから、もはや魔術の領域とも。
    *その一方で「日本人なんてその程度のものだ」とタカをくくって選挙に出馬したオウム真理教は、惨敗の屈辱を晴らすべくサリン散布事件(1994年〜1995年)を引き起こす。
    *ちなみに同時期のフランスの娯楽番組配給は「イタリアのメディア王」ベルルスコーニの支配下にあった。こういう例は以外と世界で珍しくない。

  •  日本人が再び作品を鑑賞しながら色々本格的に考察を深める様になったのは1995年以降とも。その重要な契機の一つとなったのが庵野秀明監督作品「新世界エヴァンゲリオン(TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」における「既存の価値観の範疇に収まらず不気味だが、それなのに、いやむしろそれ故に目が離せない感じ」だったのは、まず間違いない。ただしこの流れが「シン・ゴジラ(2016年)」における「ゴジラなるもの」や「牧悟郎博士なるもの」に持ち込まれる為には、東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)罹災して巨大災害が再び「身近な恐怖」として把握され直す必要があったのだった。
    *かくまで「ゴジラを未知の脅威に戻す」決定に時間を要した辺りにこそ「ゴジラ問題」の本質があったとも。これ割と「演歌は日本人の心」問題と同質かもしれない。ある種の歴史修正主義

 と、ここまでがWikipediaの以下の記述に該当する部分。言ってる事は基本的に同じ。「下ごしらえ」としてはまぁこんなものでしょう。

シン・ゴジラ - Wikipedia

登場人物の背景や感情が絡む人間模様、ゴジラに対抗し得る超常の存在や科学兵器といった部分は大幅省略されたことに加え、暴力や死の直接描写が排されているため、全年齢で観劇可能な作品となっている。

また、従来の日本国内で制作されたシリーズ作品は世界観をリセットしても1954年の第1作でゴジラが日本に上陸した設定は踏襲され、作品内で日本国民にゴジラの存在が認知されていたが、本作は日本政府が初めての怪獣出現に直面するという、現実社会に近い世界観となっている。

それでは、いよいよ「脚本家」庵野秀明は「ゴジラ第一作(Godzilla、1954年)」から如何なる「生き血」を抽出してこの基本構造に振り掛けたのかについて取り組んでみたいと思います。

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  • ゴジラ的存在」についての基本スタンス…「下ごしらえ」段階でまとめてた内容を繰り返す。要するに「人間に認識可能な世界の外側からの来襲者」に引き戻し、庵野秀明監督が追求してきた「既存の価値観の範疇に収まらず不気味だが、それなのに、いやむしろそれ故に目が離せない感じ」と融和させた上で「その行動予測不可能性と、それに対する対処の繰り返し」つまり「(基本的には市民(シチズン)達のリアクションの連鎖でのみ構成される)ハードボイルド文学の基本構造」に則ったシャープな現代劇を成立させるという立場を確立した。
    *まさしく橋本忍いうところの原作付脚本術、すなわち「急所が分かると、殺し損ねると暴れ出して手がつけられなくならない様に一撃で殺す」作戦そのものという感じがする。まずこれをやらないと「生き血」も抽出出来ないのである。

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  • 伊福部昭の手になる「あのテーマ曲」の復活東宝映画本社の保守化によって「ゴジラ・シリーズ」そのものが変質してしまい、内容とのミスマッチを生じていたが「本道回帰」によって再び合致する内容に。
    *その一方で昭和20年代(1944年〜1955年)を彩り、作中でも流れるハワイアンら南国音楽は切り捨てられた。
    日本のハワイアン

    *まさしく「演歌は日本人の心」は歴史修正主義石原裕次郎映画でも「狂った果実(1956年)」は南国音楽で、ジャズやロカビリーが登場するのは「嵐を呼ぶ男(1957年)」以降なのである。

  • ゴジラが初めて上陸してきた時、および初めて白熱光を吐いた時の絶望感…「ゴジラの行動の予測不可能を思い知らされ続ける」プロセスそのもの。「シン・ゴジラ」では「ゴジラ第一作」のそれを何倍にもパワーアップした「予想外の」演出が次々と投入される。人間側がのリアクションもそれに合わせて非常に豊富なバリエーションを含む展開に。
    *ここが面白さの本質である以上「既出の要素」をそのまま投入する訳にはいかない箇所となる。

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    *ちなみに「ゴジラ第一作」と「シン・ゴジラ」では(後のゴジラ映画と違って)ゴジラが地上にあるかぎり位置のロストはない。「ゴジラ第一作」ではさらにオキシジェン・デストロイヤー使用時にガイガーカウンターを使用して海底位置の特定にまで成功している。ちなみに「007 サンダーボール作戦(Thunderball、1961年、映像化1965年)」では、ガイガーカウンターを使っての(刻々と場所を変える)スペクターの盗んだ原爆の所在地追跡が前半の山場となるが、ゴジラ映画にそういうリアルなサスペンス要素が加味される事はあまりない。やはりどこかに「突然現れ、突然消える神出鬼没の神様的存在」というイメージを引き摺っているせいかもしれない。

  • 警戒本部指令第129号「爾後、各隊は攻撃態勢を解き、極力消火に努めると共に、負傷者の救出に全力を傾倒せよ」…連続性を感じさせるフレーバーその1。事実上、自衛隊の保有する現行兵器ではゴジラは倒せないという敗北宣言。否応なく絶望感を煽る効果的な展開で「シン・ゴジラ」作中においてもほぼ同じ役割を果たした。
    *「ゴジラ第一作」における自衛隊(発足元年)は、山根博士(志村喬)が「迂闊に光を当てては凶暴化の恐れがある」という警告を振り切って攻撃。ここに被害を悪戯に大きくした過失感を残したが「シン・ゴジラ」の自衛官は可能なかぎり全力を尽くし、潔く破れる。そしてこの方が遥かに強い絶望感を観客に与えたのだった。
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  • 「国会議事堂の崩壊」…連続性を感じさせるフレーバーその2。ゴジラの攻撃が日本政府の中枢まで到達した象徴的場面。「ゴジラ第一作(1954年)」公開当時、政界では造船疑獄、犬養健法務大臣の指揮権発動などがあって吉田茂内閣や政治への不信感が国民の間に高まっており、そのせいかゴジラが国会議事堂を破壊するシーンで観客が立ち上がって拍手をしたという(助監督として参加した梶田興治談)。「シン・ゴジラ(2016年)」においてはゴジラの攻撃能力は飛躍的に高まり、一気に内閣総理大臣以下閣僚の大半を死なせたばかりか、一瞬にして都心部の高層ビル街を壊滅させてしまう。ただしその後、政治家ならいくらでも替えが効く事が明らかになる。
    *「ゴジラ第一作(1954年)」のゴジラは飛行機を落とせなかったが、「シン・ゴジラ(2016年)」のゴジラは超上空を飛行する戦略爆撃機まで脊髄反射的攻撃によって堕としてしまう。この一個の主体としての意識がまるで感じられず、それ故に直接憎む気が起こらない感じ、新海誠監督映画「君の名は(2016年)」におけるティアマト彗星に近いとも。

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  • 「クライマックスに向けての展開」…連続性を感じさせるフレーバーその3?ただしゴジラ第一作(1954年)」においては山根恭平博士(志村喬)の娘の山根恵美子(河内桃子)が二度目のゴジラ来襲の大被害を目の当たりにして芹沢大助博士(平田昭彦)が開発した「原水爆より恐ろしい殺戮兵器」オキシジェン・デストロイヤーの秘密を漏らす。「シン・ゴジラ(2016年)」においては、ゴジラに元素を変換する能力もあったことが判明し、血液凝固剤が無力化される懸念が生じて「矢口プラン」が行き詰まった時、それまで謎だった牧悟郎博士の暗号化資料の解読の糸口が見つかり、解読・解析結果からゴジラ元素変換機能を阻害する極限環境微生物の分子式が得られ、これを抑制剤として、血液凝固剤と併せて投与することで日本産業界と自衛隊在日米軍が総力を結集した「ヤシオリ作戦」実施の目処が立つ。こうしてそれまで失敗の連続に過ぎなかった「リアクションの連鎖」が全て「必要不可避だった試行錯誤」に転換され、有機的に結び付けられて最終決戦になだれ込む。
    *芹沢博士が開発したオキシジェン・デストロイヤーはそれ自体が必殺兵器だが、牧悟郎博士の提供する抑制剤は作戦遂行を可能とするキー要素の一つに過ぎないのが重要。

    http://blog-imgs-96.fc2.com/s/e/k/sekiga914/sg28080705.jpghttp://blogs.c.yimg.jp/res/blog-2e-94/hafnersteig_7/folder/1200947/04/70709904/img_10_m?1471045624

仕上げ」そのものは割とあっけないものです。この方法論においては、とにかく「急所を見つけて一撃で殺す(殺せなければ自分が殺される)」という部分が肝要。「殺し方」が明かになった時点において、ほぼ「蘇らせ方」も確定しており、後は割とデコレーションの問題に過ぎなくなってしまうのです。

*逆を言うと既存のゴジラ映画の多くは…(以下自粛)

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本当にこういう手順で発想したかはともかく、こう考えれば「ゴジラ第一作(1954年)」から「シン・ゴジラ(2016年)」への移行がスムーズに説明出来そうという話…