諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【家父長制】【家母長制】【長い1960年代】21世紀まで残った選択肢は「計算癖が全人格化した世界」だけ?

最近ではそもそも「日本の家父長制とは何か」そのものが問われている様です。

「日本の家父長的家制度について 農村における「家」の諸関係を中心に」
日本の家父長制とは何か①~家父長制に関する一般論の照合とフェミニストの登場
日本の家父長制とは何か②~家父長制に関するフェミニストの捉え方の検討

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 男と資本の奇妙な野合 家事労働から階級闘争へ 「お一人様」が吼える

1960年代の日本で起きた「第2次主婦論争」で「家事労働」が大きくクローズアップされたにもかかわらず撤退を余儀なくされた。その頃の日本のフェミニストの多くはマルクス主義に理解がなく、マルクス主義陣営ではフェミニズムに関心がなかった。いわばフェミニズムマルクス主義はすれ違い状態になったことがその原因であると著者は考えた。

そこで著者らのマルクス主義フェミニストグループはマルクスの古典に挑戦し、マルクスを乗越えてゆこうとしたラジカル・フェミニストの手によって成立した。社会主義婦人解放論の人々はリブを「プチブル急進主義」と批判し、フェミニズムを「ブルジョワ女性解放思想」と解釈した。世間ではマルクス主義フェミニズム社会主義婦人解放論の区別があいまいであるが、著者はこれを「差別化」して「マルクス主義フェミニズムとは第一義的にはフェミニストであり、ラジカルフェミニズムを経由してその視点をマルクス主義に持ち込んだ思想である」という。ソ連・東欧は滅んだが、マルクス主義の理論的切り口は今なお非常に有力であるということだ。

マルクス主義フェミニズムに対する批判を整理した著者による1995年の論文「労働概念のジェンダー化」によると、近代主義の立場から不払い家事労働の男性による搾取を否定したり、家父長制の概念そのものを社会学理論として妥当では無いとする批判や、マルクス主義フェミニズムを理解して上でそれを一元的経済理論で統合する論や、家父長制の展開を労働のジェンダー分割を含んだ資本の本源的蓄積に統合する論や、第3の行為者「国家」の役割を強調する論があった。フェミニズムマルクス経済学から解析する試みは、経済学の分野でも財の生産や交換に止まらず、本来の人間の生命と生活の再生産へ取り戻す「フェミニスト経済学」が誕生した。

「不払い労働」の概念が従来のフェミニズムを大きく塗り替える理論的支柱となった。女性の「不払い労働時間」は大きく男性のそれを超えるものであり、1995年国連北京女性会議の行動綱領に「不払い労働のサテライト勘定」を各国に要請した。1997年経済企画庁は「家事労働の値段」を貨幣価値に換算して年間276万円と発表した。その評価は不当に低いものであったが、「見えない労働」を「見える労働」に変えた意義は大きい。それでも不払い労働の中になお主要な部分を「再生産労働」が占める。経済用語である「再生産労働」とは、出産・育児・教育・高齢者親族介護を含むケア労働のことである。一部社会化されつつある(市町村による出産支援金、子供手当て、高校教育費無料化、介護保険など)が、実質労働の殆どは女性(主婦)の手によって担われているのが現状である。「不払い労働」とはその価値に対して資本が支払わない労働をいう。男性の場合は「サービス残業」がそれである。イリイチはこれを「シャドウワーク」と呼んだ。マルクス主義フェミニズムは不払い労働の根底にあった性差別に基づく産育、看護、介護、教育などの家庭内ケアという広い意味での再生産労働の位置づけを問うた。近代家族とは別名、「依存(福祉)の私事化」であり、「無償の福祉機関」という制度である。人の再生産が「本能にゆだねられた」自然過程でないことは、昨今の急激な「少子高齢化」による政府の慌てぶりで歴然となった。これは資本側の悲鳴である。労働市場は無限の競争状態(資本の買い手市場)にあるのではなく、人口が将来半減することが正確に予測されるのでGDPもそれに比例して半減するだろうという見込みに慌てているのである。政府の「産めや増やせや」の掛け声には、人々は苦労が増えるだけで将来子供達が食えるかどうか不安なので決してこの宣伝には乗らないのである。

資本制とは市場から成り立つものであるが、さらに上位にあるイデオロギー装置をも含むものであり、市場に還元されるものではない。市場に係る資本、土地、労働、国家を言い換えると、国民経済は家計、企業、国家の3者からなり、それは市場減理に支配されるものではない。市場原理で覆いつくそうとするのが市場原理主義者(新自由主義者)であるが、マルクスは国家を重要視したが家族の視点が十分ではない。

国家の役割は規制・調整・介入であり、市場の限界をケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』において国家の調整機能で乗越えようとした。日本の新自由主義は労働界に及び1985年「男女雇用機会均等法」、「労働者派遣事業法」が成立し、男女参画社会というきれいごとの時代となった。ところが1990年代のバブル崩壊と不良資産処理による「失われた90年代」を経て、21世紀初頭の小泉内閣規制緩和と財政縮小(小さな政府)で最高潮に達し、リーマンショックで世界経済大不況を招いて市場原理主義は崩壊した。

マルクス主義フェミニズムは性支配と階級支配が補完しあっている関係を明らかにしてきたが、理論的には資本制が先か、家父長制が先かを巡って統一理論と二元論の2つの潮流がある。理論的には統一理論に向かい易いものだが、現在のロンドンの社会主義フェミニズムサークルの多くはそういった理論的興味よりも、実証的で経験的な女性労働研究に向かい比較分析を重視した。経済学者の岩井克人は「資本は差異性から利潤を得る」という見地から見ると、人種、性、階級だけをいくら個別に追い詰めて考えても埒があかない。

そもそも「科学的マルクス主義」そのものに「縁日でドサクサに紛れて蛸(マルクス自身の主張=人間解放哲学)の入ってないタコ焼きを売ってるテキ屋」めいた側面があるからやっかいです。ある意味第二世代までのフェミニズム運動にもそういう側面があるから相性は抜群だ?

しかもこれまで割と「観察結果から歴史観を生み出す」のではなく「規定の歴史観に観察結果を合わせる」式の展開が中心でした。かくして第二世代フェミニズムと第三世代フェミニズムの間には大きな断絶が生じる事に。

そもそも「日本の家父長制度の歴史」ってどうなってるんでしょう?

①江戸時代、日本を訪れた外国人(主にオランダ人だが、ドイツ人比率が存外高い)の目に映った当時の日本は「家父長制と家母長制の入り混じる不思議な国」というものだった。欧州においても「女子による領主権継承の禁止」を定めた「フランク王国を作ったフランク人サリー支族の部族法典サリカ法典(Lex Salica)の弊害はある程度まで認識されており、それで意識に上ったと考えられている。

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*「女子による領主権継承の禁止」…大開拓時代(11世紀〜13世紀)の欧州においては「田分け者問題(家産の分割継承が引き起こす家の衰退)」にそれほど神経質になる必要がなかった。家産が継承出来なかった次男以下や遍歴騎士にとって「(そこで成功するにせよ敗亡するにせよ)目指すべき新天地」なら幾らでもあったからである。しかし以降は(国家間紛争を除いて)領土拡大の臨界点を認識する様になり「貴族の次男以下は軍人(赤)か聖職者(黒)になる事を、政略結婚に使われなかった女子は修道院入りを強要される時代」が到来。

*ちなみにポルトガルではこの問題が14世紀における黒死病大流行を起点とする「アフリカ十字軍 - 大航海時代(15世紀〜16世紀)」に表面化する事になる。

*主にオランダ人だが、ドイツ人比率が存外高い…前近代ドイツは全土が「領主が領土と領民を全人格的に掌握する農本主義的伝統」で覆われていた様な印象があるが割とそうでもない。

 ②実際の江戸時代日本は幕末に近づくほど「家長を傀儡化して家臣団が実権を握る」「富農や富商が養子縁組制度を利用して経済的に行き詰まった武家との通婚を頻繁に行う」「領民が領主の全財産を借金のカタに押収してその武家としての営みを完全監視下に置く」「富農や富商が武家株を購入し、分家を武家として官僚界の仲間入りさせる」「大名の下屋敷や下級武士の長屋が工場制手工業の現場に変貌する」といった臨機応変の対応が増えて行く。前近代日本は、自ら身分制を前提とする権威主義的体制を打破する発想にまでは至らなかったものの、その形骸化にある程度までは成功していた様なのだった。
勝海舟は「黒船来航がなければ江戸幕藩体制はあと百年や二百年は続いていた」と述懐しているが、それはどうだろうか。その一方でこうした歴史的展開抜きに文明開化後日本の国際的躍進は説明出来ない側面というのは確かに存在する。

③むしろ「(家父長制度を礼賛する様な)時代がかった徳操教育」が公的に大々的に履行されたのは大日本帝国の時代だった様なのである。その影響がいかなるものだったか、また後世にどんな影響を与えたかについては様々な説がある。

与謝野晶子が興味深い事を指摘している。「明治維新到来まで身分制に拘束されてきた日本人に、家父長制だの家母長制だの男尊女卑だのといった思想に至る契機はなかった」というのである。例えば武家に家父長制的体制が広まっていたとしても、それは日本全土を覆い尽くす江戸幕藩体制を支える身分制度の一環として意識されており(国王や教会の権威に基づいて領主が領土と領民を全人格的に代表する中世欧州の農本主義的伝統の様に)完全に社会に埋め込まれていた。だから「全ては(制度上国民全てがそれから解放された)大日本帝国時代までしか遡れない」という話になってくる。

国号としての「大日本帝国」 - Wikipedia

万延元年遣米使節の正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順は1860年、日米修好通商条約を批准した安政五年条約批准条約交換証書上で、日本側を「大日本帝国 大君の全権」と記した。

  • 明治天皇は1868年1月3日(慶応3年12月9日)、王政復古を宣言。1871年明治4年)に鋳造された国璽には「大日本國璽」と刻まれ、1874年(明治7年)の改鋳に際しても印文は変更されず、今日に至るまで使用されている。

  • 1873年明治6年)6月30日に在日本オランダ公使からの来翰文邦訳ではすでに「大日本帝国天皇陛下ニ祝辞ヲ陳述ス」と記述されている。

  • 1889年(明治22年)2月11日には大日本帝国憲法(帝国憲法)が発布され、1890年(明治23年)11月29日、この憲法が施行されるにあたり大日本帝國という国名を称した。

  • 初め伊藤博文明治天皇に提出した憲法案では日本帝國であった。ところが憲法案を審議する枢密院会議の席上、寺島宗則副議長が、皇室典範案に大日本とあるので文体を統一するために憲法も大日本に改めることを提案。これに対して憲法起草者の井上毅書記官長は、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にするきらいがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対。結局、枢密院議長であった伊藤博文の裁定により大日本帝國に決められた。

  • 大日本という表記は「オオヤマト」としては古来用いられており、明治時代に国名として初めて使用されたという訳ではない。 帝國も訓読され「スメラミクニ(皇御国)」として古来日本の通称として用いられてきたものであり、古代に始まる天皇国家たる事実に基づくもので、政治や思想、主義、規模等に基づく「Empire(帝国)」とは一線を画している。

  • ちなみに帝国憲法の半公式の英訳(伊東巳代治訳)では「Empire of Japan」と訳され、「大」の意味合いはなかった。

  • 当時は国名へのこだわりがなく、帝国憲法と同時に制定された皇室典範では日本帝國、大日本國と表記し、外交文書では日本、日本國とも称したし、国内向けの公文書でも同様であった。

その後、世界情勢の悪化などにより国名への面子に対するこだわりが表面化した1935年(昭和10年)7月、外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一することを決定。

その後1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法により日本は憲法上日本國の名称を用いることとなり、日本国憲法下の日本では国民主権に変更されつつ象徴天皇制として皇室は維持された。
*日本の民法上「家父長制」が実在したのもまた事実。だがその実態は?

「1910年代に入ってなお大日本帝国臣民の市民化は不十分だった」とする証言も。

ただこの件については「明治44年(1911年)に世界各国との不平等条約改正が完了すると、これ以上の「近代化」に向けての努力は無意味とする声が出てきた」とか「明治45年(1912年)明治天皇崩御(1912年)前後より(国民の動揺を抑え込む為に)思想統制が強化された」という話とも合わせて検討しなければいけません。
*それから「システムとしての家父長 / 家母長制」と「実在が許されてきた家父長 / 家母長の在り方」は切り離して考えなければいけない。与謝野晶子が絶えず守旧派論客と闘い続けなければいけなかったという事は(誰もそれを言い立てる事を思いつかない程)常識として浸透していなかった事を意味する。

GHQ占領期(1945年〜1952年)には封建制残滓として関連描写の一切が禁止され、ただひたすら「ヒューマニズム」と「民主主義」と「男女平等」を称揚する事を義務付けられた。
*それもあってか、例えばGHQ占領期の黒澤明作品には家父長的要素が見られない(その後も一般的な者ものとして描かれる事はない)。戦前の因習を裁く横溝正史金田一耕助シリーズ(1946年〜1963年で一旦中絶)」が執筆されるのがこの時期。当時の映画版では片岡千恵蔵演じる金田一耕助は「民主主義の使者」と呼ばれていた。

⑤現在に至る変化が始まるのは1960年代後半以降となる。それは部分部分に反動を含みつつも、全体としては「家父長的なるもの」の衰退期だったと見て取れる。

*ちょうど黒澤明監督が「伝説の人々(Legends)と庶民の一瞬の邂逅」という構図にこだわって大ヒット作を連発していた時期の終焉から始まる。東京オリンピック(1964年)開催にともなう時代的空気の変化(例えば歓楽街の健全化や洋食の普及に伴う戦前の雰囲気の一掃)が背景にあったとも。

春日太一「仁義なき日本沈没―東宝vs.東映の戦後サバイバル―」

東宝映画の藤本真澄社長は当時こう語っていたという。

「苦しくなったからといって裸にしたり、残酷にしたり、ヤクザを出したり……そうまでして映画を当てようとは思わない。俺の目の黒いうちは、東宝の撮影所でエロや暴力は撮らせない」

だが、東映が1960年代の後半に一気に興行成績を上昇させていったのに対し、東宝は会社創立最高成績を1967年に挙げるものの、翌年から急降下していくことになる。

藤本が見誤っていたのは、映画館を訪れる客層の変化だった。これまでは映画館には幅広い層が来ていたが、1960年代後半から1970年代初頭にかけてにかけては二十歳前後の若者が主体になっていった。当時の若者の多くは、学生運動が盛んになる中で、従来にはない激しさと新しさを映画に求めた。その結果、イタリア発のマカロニウエスタン、アメリカ発のニューシネマ、日本でもピンク映画と、従来の価値観に「NO」を叩き付けるような反抗的な「不健全さ」が受けるようになる。

東映はこうした時流に乗り、任俠映画とポルノ映画で隆盛を迎えるが「清く正しく美しく」の東宝は、時代に乗り遅れることになる。老齢を迎える森繁の「社長」シリーズや、三十歳を迎えるのに相変わらず爽やかな健全さで売る加山雄三の「若大将」が、こうした時代に受け入れられるはずもなかった。時代に対応できない東宝は「スター・タレントの養老院」と揶揄されるようになる。
*これが黒澤明監督映画「赤ひげ(1965年)」ラストで赤ひげ先生(三船敏郎)からバトンを渡された保本登(加山雄三)の末路?

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「今の時代、そんなの作っていても当たりませんよ」

多くの批評家たちが藤本真澄に批判の声を浴びせた。「社長」シリーズのキャスティングの若返りなどがスタッフから持ちかけられるが、それでも藤本は「それでは『社長』ものにならん」としりぞけてしまう。

これまでのパターンを変えようとしない藤本の路線は飽きられ、1968年になると観客動員は一気に落ち込んでいく。特に二週目の客足が悪く、客層の浅さが露呈してしまった。それでも、新たな客層を獲得するのは藤本体制下では困難な状況にあった。
*こういう態度をこそ「家父長的」というのではあるまいか? 当時流行していた源氏鶏太の「サラシーマン小説(1948年〜1970年)」もその映画化作品も、こうして次第に現実から乖離していったのではあるまいか?

スポ根 - Wikipedia

太平洋戦争後、連合軍総司令部 (GHQ) の指示により武道教育や時代劇映画は禁止されていたが、1951年のサンフランシスコ講和条約の締結以降に相次いで解禁されると、漫画の世界でも武道を描いた作品が登場した。

  • 福井英一の柔道漫画「イガグリくん(1952年〜1954年)」が『冒険王』に連載された。講談や時代劇などで描かれてきた伝統的な日本人的心情に則ったもので、柔道だけでなく異種格闘技戦の要素も含んだ作風は熱血スポーツ漫画のルーツとも呼ばれ、後の作品群に影響を与えることになった。

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  • 『イガグリくん』のキャラクター設定や必殺技を擁した対決シーンは、1958年から『おもしろブック』で連載された貝塚ひろしの野球漫画『くりくり投手』へと引き継がれ、これ以降のスポーツ漫画における定石となった。『くりくり投手』では『イガグリくん』の手法をさらに極端化し、必殺技を身に付けるための過激な特訓の描写も登場。

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  • 福本和也原作・ちばてつや作画の野球漫画『ちかいの魔球(1961年〜1962年)』が『週刊少年マガジン』に連載された。この作品は実在のプロ野球の世界と必殺技の要素を併せた内容となり、後に同誌でやはり福本作・一峰大二作画で連載された『黒い秘密兵器』や、梶原一騎の『巨人の星』へと踏襲される。
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  • 熱血スポーツ漫画からスポ根漫画への流れとは別に、井上一雄の野球漫画『バット君』や寺田ヒロオの野球漫画『スポーツマン金太郎』などの爽やかな作風のスポーツ漫画も存在した。こうした作品に代わって熱血ものが発展した経緯について漫画評論家の竹内オサムは1950年代に始まったテレビ放送の影響を挙げている。竹内によれば、テレビで扱われたプロ野球や大相撲やプロレスの実況放送を通じて大衆の間で「するスポーツ」ではなく「観るスポーツ」が支持を得たことの影響により漫画の世界もエンターテインメント性を強めたという。
    *この流れなら『週刊少年マガジン』に連載された梶原一騎原作・吉田竜夫画のプロレス漫画「チャンピオン太(1962年〜1963年)」について触れるのは避けられない。梶原にとってはデビュー作。スポーツ万能の少年・大東太(だいとう ふとし)が力道山に弟子入りしチャンピオンを目指す。フジテレビ系列で1962年11月から翌年5月まで実写ドラマも放映され、日本プロレスの全面協力で力道山が本人役、若き日のアントニオ猪木が第1話ほかの敵役レスラー、その他、当時の所属レスラーが多数登場する。ドラマ版は修行の山篭りから引き揚げる所で打ち切りとなっている。
    チャンピオン太 - Wikipedia
    チャンピオン太

    http://writer.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_f0f/writer/E38381E383A3E383B3E38394E382AAE383B3E5A4AAEFBC90EFBC93-6fa8a.jpg?c=a0

  • また、この時代には漫画では新しい表現形式の劇画が生み出されており、劇画の写実的かつ動的な手法が後のスポ根作品において取り扱われたことで作品に現実味を与えることに貢献した。
    *青年向けの貸本漫画からスタートした白土三平の「甲賀武芸帳(1957年-1958年)」「忍者武芸帳 影丸伝(1959年〜1962年)」「サスケ(1961年〜1966年、アニメ化1968年〜1969年)」「カムイ伝(1964年〜1971年)」「ワタリ(1965年〜1966年)」「カムイ外伝 第一部(1965年〜1967年、アニメ化1969年)」などが若者中心にカルト的人気を誇った。白土の忍者漫画は、実現が可能であるかどうかはともかく、登場する忍術に科学的・合理的な説明と図解が付くのが特徴であり、荒唐無稽な技や術が多かったそれまでの漫画とは一線を画する。また白土自身は意識したり作品で主張したことは無いとするがマルクス主義唯物史観の影響が見られるとされ、この観点から当時の学生や知識人に読まれたことなどが後に漫画評論を生む一因となったとされる。手塚治虫によると、白土が登場してから子供漫画には重厚なドラマ、リアリティ、イデオロギーが要求されるようになったそうである。
    白土三平 - Wikipedia
    1139夜『カムイ伝』白土三平|松岡正剛の千夜千冊
    白土師匠よ、ふぬけたか! : 白土三平総合研究所

一般的に「スポ根」の発祥となった作品や元祖と呼ばれる作品は『週刊少年マガジン』で1965年から1971年にかけて連載された『巨人の星』(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)とされる。

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  • 1930年代に人気を獲得した吉川英治の小説『宮本武蔵』のような、一つの道を究めライバルとの対決に打ち勝っていく人物を主人公とする構想をもつ編集部と、アレクサンドル・デュマ・ペールの小説『モンテ・クリスト伯』のような悲劇的な運命を背負った人物を主人公とする構想を持つ梶原とが結びついたことにより誕生した。
    吉川英治版「宮本武蔵(1935年〜1939年)」には(同様に江戸時代における勧善懲悪観からの脱却を企図した)中里介山大菩薩峠(1913年~1941年)」における「机竜之助という(後に眠狂四郎のモデルとされる)ニヒルな剣士像」のさらなるアンチテーゼとして「苦悩する修行者としての英雄像」の再建を図った側面も存在する。

    宮本武蔵」は当初朝日新聞社内では歓迎されなかったらしい。それ以前の「立川文庫」等の講談筆記本や、大衆向け時代小説では、主人公は邪気のない武闘派の英勇豪傑、ただし艱難辛苦のプロセスをたどって、ついには父親の仇を討つ懲悪的義人だった。そのパターンが確立して典型化していたので、「また武蔵か」という感がだれしもあったのである。

    これに対して、吉川版「武蔵」は、つまり我々の云う「吉川武蔵」は、そうした旧態依然の講談本風武蔵像を完全に一新してしまう、いわば斬新なものだったようである。

    どこが斬新だったかといえば、一般に評論で述べられているのは、武蔵をだれにも共通の等身大の個人として、人生に苦悩し剣の道を探究する「求道的人物」として描いたことだという。しかし、それでは踏込みが足りない。

    吉川武蔵のどこが斬新だったか。まず第一は、敵討〔かたきうち〕、父の仇討ちという江戸時代以来の武蔵物文芸のテーマを抹消したことだ。このテーマはパターン化された勧善懲悪として、近代に入って貶められてきたが、大衆文化の領域ではまだまだ人気があった。それを吉川版「武蔵」は一掃した。

    しかし、そうなると、主人公のアグレッシヴな闘争性向には理由がなくなってしまう。懲悪敵討というテーマは、主人公の殺人的暴力に社会的「理由」を与え、報復行為として承認できるものだった。そして主人公の殺害行為に同一化することによって、読者もしくは観客は自身の暴力欲動を発散することができた。この報復的懲悪的殺害というパターンは、周知のごとく、現代の大衆文芸でも延命している。

    懲悪敵討というテーマを欠く殺害行為は、いわゆる「理由なき殺人」に等しい。誤解の沸立つことを承知の上で云えば、吉川武蔵は、そうした「理由なき殺人」、理由もなく他人を殺害したいというスリリングな欲動を、時代小説に持ち込んだ。それが斬新なところ、近代小説たるゆえんである。

    ただし、いわゆる「純文学」ならそれもありうるが、「理由なき殺人」そのままでは、大衆小説にならない。そこで、大衆が主人公に同一化できるモチーフが必要である。

    それが、旧態依然の武蔵物語が必ず具備していたモチーフ、つまり「主人公が艱難辛苦して目的を達成する」というプロセスである。この艱難辛苦して目的を達成するというプロセス・モチーフがあれば、読者大衆は主人公に同一化できる。そして、この「努力」のプロセスが、「求道」と呼ばれ、「理由なき殺人」さえも合理化する。手段が目的を正当化するというより、手段が目的と化すのである。

    吉川武蔵において特徴的なのは、「艱難辛苦して目的を達成する」というモチーフが、精神修養のプロセスへ変換されたことである。いわば、懲悪敵討の等価代理物が、精神修養である。懲悪敵討の報復的暴力を受け入れない者でも、精神的求道なら受け入れるという奇妙な合理化が可能になった。それは、プロセスが内面化したからである。かくして主人公=読者の「理由なき殺人」は「理由」(reason)ではなく、大義(cause)を獲得する。ただし、それは社会的理由ではなく、個人的大義である。この内面化した構造の意味で、吉川武蔵はモダンなのである。
    *こうした「モダンな剣豪」像は、中里介山大菩薩峠(1913年~1941年)」や、柴田錬三郎眠狂四郎(1956年〜1975年)」のニヒリズムとも重なってくる。

    *その一方で梶原一騎原作の「巨人の星(1966年〜1971年、アニメ化1967年〜1979年)」「タイガーマスク(1968年〜1971年、アニメ化1969年〜1971年)」「あしたのジョー(1968年〜1973年、アニメ化1970年〜1971年、1980年〜1981年)」といったスポ根物は、フランスにおける新ロマン主義文学者ロマン・ロランの「ベートーヴェンの生涯(Vie de Beethoven、1903年)」や「ジャン・クリストフ(Jean-Christophe、1903年〜1912年)」の影響を色濃く受けている。特に「巨人の星」における星飛雄馬とその父親たる星一徹の関係は、ベートーベン親子のそれの、そのままの引き写し。ただし以降の作品ではむしろ「主人公は孤児(父親は不在)」とされる様になっていく。

    60代のブログ奮闘記 : 梶原一騎

    http://livedoor.blogimg.jp/morimorishizen/imgs/a/5/a53272bb.jpg

  • これらの要素に1960年代に社会問題となっていた苛烈な受験競争を後押しする教育ママの存在を反映し、人間教育には父親の存在は欠かせないものとし、「教育ママに対するアンチテーゼ」として父権的なキャラクターを登場させ、主人公・星飛雄馬と父・星一徹の戦いと葛藤を物語の軸としたのである。

  • 一般社会に普遍化できる生き方の見本として、栄光を目指して試練を根性で耐え抜く姿を野球の世界を借りて描いたもの」とも言われ、作画を担当した川崎の発案による過剰な表現手法や、原作を担当した梶原による大仰な台詞まわしは当時から批判の声もあったが、作品自体は徐々に人気を高め『週刊少年マガジン』の部数を100万部に押し上げた。

    http://i.gzn.jp/img/2008/01/15/new_yakyuban/0179051_04.jpghttp://www.gizmodo.jp/images/2012/02/20120202ya01.jpg

  • 梶原は、その後も柔道を題材とした「柔道一直線(作画:永島慎二・斎藤ゆずる)」、プロレスを題材とした「タイガーマスク(作画:辻なおき)」、ボクシングを題材とした「あしたのジョー(作画:ちばてつや)」の原作を務めたが人生論的な要素が強い「巨人の星」とは異なる趣向を取り入れた。梶原の自伝によれば「柔道一直線」では技と技の応酬といったエンターテインメント性に焦点を当てる一方で立ち技優先の傾向があった当時の日本柔道界へのアンチテーゼを、「タイガーマスク」では往年の「黄金バット」のプロレス版を標榜し善と悪の二面性のあるヒーローを、「あしたのジョー」では「巨人の星」の主人公・星飛雄馬のような模範的な人物へのアンチテーゼとして野性的な不良少年・矢吹丈を主人公としアウトローぶりを意図したという。

    https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/ra130/users/8/0/0/5/wdpyd794-img600x600-1464012453j387ra24780.jpg

    梶原一騎 - Wikipedia

    空手バカ一代(1971年〜1977年)」を発表し、大山倍達率いる極真空手を世に紹介。「地上最強のカラテ」など、極真空手のプロモート映画も多数制作している。

    自身の漫画から産まれたキャラクター「タイガーマスク」が現実に新日本プロレスでデビューしたことが契機となって1980年代から、かねてから縁のあったプロレス界にも深入りするようになる。

    1983年5月25日、講談社刊『月刊少年マガジン』副編集長・飯島利和への傷害事件で逮捕。同時に過去に暴力団員とともに起こした「アントニオ猪木監禁事件」や、赤坂のクラブホステスに対する暴行未遂事件(1982年3月18日)、『プロレスを10倍楽しく見る方法』のゴーストライターのゴジン・カーンから10万円を脅し取った事件も明るみに出ている。弟の高森日佐志によると、このとき警察が狙っていた本件は覚醒剤常習容疑だったという。警察は、梶原が萩原健一(当時、大麻不法所持で逮捕留置中だった)に大麻を渡したのではないかと疑っていたのだった。その他にもさまざまなスキャンダルがマスメディアを賑わせ、連載中の作品は打ち切り、単行本は絶版処分となり、名声は地に落ちた。

  • また「スポ根」の手法は少女漫画にも伝播したが、このことは従来、品行方正で内向的な傾向の強かった少女漫画の作品世界に競争の原理を導入したと評される。バレーボールを題材とした浦野千賀子アタックNo.1(1964年〜1974年、アニメ化1969年〜1971年)」や原作神保史郎、作画望月あきらサインはV(1968年〜1973年)」では少年誌さながらの必殺技の応酬や根性的な特訓が描かれると共に、恋や友情や家庭の問題、思春期の悩みといった少女漫画の主要テーマが盛り込まれた。一方、漫画評論家の米澤嘉博は「スポーツものとは、ある意味で肉体のドラマ」とした上で「スタイル画ではない、動きや肉体を感じさせる『絵』を持たなければ、表現できないジャンル。肉体性を脱け落とした形では表現できなかっただろう」と評している。
    *「アタックNo.1」も「サインはV」も1964年の東京オリンピックにおける"東洋の魔女"女子バレーボール・チームへの熱狂を起点とし、これを全国規模の日本バレーボールブームにつなげていった。ちなみにサインはVはもともと「『(集英社週刊マーガレット連載の)アタックNo.1』への対抗馬が欲しい」という講談社少女フレンド編集部の要請から企画された作品で『アタックNo.1』がまだ少女マンガ的な路線を残していたのに対し、特訓もあれば魔球もありと『アタックNo.1』との違いを打ち出している(出典:宝島社『いきなり最終回』『いきなり新連載』)
    アタックNo.1 - Wikipedia
    サインはV - Wikipedia

    https://dot.asahi.com/S2000/upload/2013092000008_1.jpg

  • これらの作品は「スポ根」の代表的作品と評価されており、人気作品は1969年前後に次々とアニメ化やテレビドラマ化された。

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しかし1973年のオイルショックを契機に日本は高度成長期から安定成長期へと移行し、人々の関心は経済的安定や社会的上昇から個々の内面的な充足や多様な価値観を求める志向へと変化した。すると漫画の世界もそれと並行して日常生活の機微を反映したものへと移行した。

  • 水島新司ドカベン(1972年〜1981年)」では、ライバル同士の対決を描きつつも社会階層の対立軸や根性的要素は薄れ、「秘打」と呼ばれる必殺技の要素を残しつつも「魔球」の描写は排除し、現実的な試合展開と個性的な登場人物による人間ドラマが描かれた。

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  • 同時期に連載されたちばあきおの野球漫画「キャプテン(1972年〜)」や「プレイボール(1973年〜1978年)」では根性や努力といった要素を残しつつも魔球などの空想的な要素を排除し、等身大の登場人物たちが部活動に打ち込む姿に焦点を当てた。

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  • 少女誌においても、にかけて連載された山本鈴美香のテニス漫画「エースをねらえ!(1973年〜1980年)」や、山岸凉子のバレエ漫画「アラベスク(1971年〜1975年)」では、作品序盤は旧来的な主人公とライバルとの対比構図や精神主義といった要素を残していたが、作品が進行するに従ってそれらの枠組みから脱却し登場人物たちが自立し成長する物語へと転化した。

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  • スポ根における特徴の一つだった魔球や必殺技の要素は原作遠崎史朗、作画中島徳博の野球漫画「アストロ球団(1972年〜1976年)」においていっそう過激化し、作品終盤では超人選手によって次々に生み出された「必殺技」により多数の死傷者を生み出す、デスマッチの場と化した。評論家の竹熊健太郎は「『巨人の星』が貧困の克服(高度経済成長)を背景にした1960年代の神話とすれば、この作品は社会が安定し『貧困』という動機づけを喪失した1970年代の神話である」としている。

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  • また「ドカベン」の作者である水島は野球漫画「野球狂の詩(1972年〜1976年)」の中で魔球を存在ではなく情報として扱い、魔球という言葉により相手に精神的重圧を与える、試合における「駆け引き」の道具として描くことによって「魔球」を否定した。

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これらの作品によってスポ根の特徴だった荒唐無稽な要素は退潮し、スポーツ漫画は現実的な作風へと転換していく。

マルクス主義ヒューマニズム」なるものが流行したのもこの時期と重なります。スポ根の流行と合わせ「ロマン主義の流行期」と要約される事も多い様です。
*それが「スターリン主義」と名乗っていようが「反スターリン主義」と名乗っていようが「(マルクス主義的)ヒューマニズム」という共有部を抱えていた事実は動かない。この過程で「(温情主義といった)家父長的理想主義VS社会主義的リアリズム」といった戦前からある思考様式と、若者たちの「打倒の対象としての家父長制」なるイメージが激しく交錯。

大嶽秀夫『新左翼の遺産』読書ノート

歴史的に言えば新左翼(New Left, nouvelle gauche, neue Linke)とは、社会民主主義(アメリカの場合には民主党リベラリズム)とスターリン主義の双方を批判しつつ、かつ自らを『真の』左翼と自認し、社会主義ないしはリベラリズムの刷新を求めて、『長い60年代(long sixties、1958年〜1974年)』に登場した①思想、②政治運動、そしてその両者と密接な関連をもつ③文化運動・文化現象の総称である。

1950年代後半からの先進諸国における社会運動が、豊かな社会の実現によってその革新的な立場を弱めていき、資本主義の枠内で労働組合員の限られた利益を追求する圧力団体として既得権益を保守する存在となり、社会民主主義政党も福祉国家ケインズ主義路線へと軌を一にして転じた。この転換に幻滅した人びとの間で、これまでの左派社会運動内に共有されていたブルジョア的な文化から離れて、ライフスタイルと芸術の両側面でカウンター・カルチャーへと向かう動きが形成される。この過程でジャック・ケルアックの『路上』や、ボブ・ディランにも多大な影響を与えたアレン・ギンズバーグの『吠える』などのビート・ジェネレーションが、参照点として幾度目かのブームとなった。

ジャック・ケルアック - Wikipedia

*一応は日本の「太陽族(1955年〜1957年)」の方が先行している形となる。

しかし東大安田講堂陥落(1969年1月、大学側より依頼を受けた警視庁機動隊が学生運動家のバリケード封鎖を粉砕。同年の東大受験は中止)が陥落すると学生運動家達からバイブルの様に崇められていた「白土三平の忍者漫画」が一気に人気を喪失し「近未来における人類破滅を暗示するジュブナイルSF小説」も紙面から消え、その空隙を埋める形で以下の様な20世紀一杯続くロングセラー作品が目白押しとなります。

  • 「アニメ版サザエさん…突然打ち切りになった「白土三平忍者アワー」の後番組としてスタート。

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  • 藤子不二雄ドラえもん(原作1969年〜1996年)」…それまで掲載されてきた「人類の滅亡を暗喩するジュブナイルSF小説」に代わって児童誌の顔に。

    http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150810003340_comm.jpg

  • 山田洋次監督作品「映画版男はつらいよシリーズ全48作(1969年〜1995年)」…「今の人間の感覚には合わない」と弾劾され絶滅寸前だった伝統的任侠物のパロディとして製作されたTV版(1968年)が思わぬ反響を呼んで映画化が始まった。*ちなみにTV版の最終回で渥美清演じる寅次郎は死んでしまったが、それを惜しむ声が殺到したのが発端となっている。

    https://www.tora-san.jp/resources/img/files/pc_scene04.jpg

こうした展開に飽き足らない若者層は益々映画館に足を向ける事に。しかしその数は必ずしも映画業界側を納得させる規模ではなかったとも。

*ところで「ロマン主義の流行」はマンハイムいうところの保守主義化プロセスの一環でもある。

大嶽秀夫『新左翼の遺産』読書ノート 

本書のタイトルにある「遺産」とは、ポストモダンにつながるものを新左翼が準備したという点におかれており、副題が示すように新左翼ポストモダンとの関係が本書の重要なテーマとなっている。そして、新左翼からポストモダンへと受け継がれた「遺産」が――もちろん一定の留保を伴いながらではあるが――高い評価を与えられているように見える。そこで、この問題について多少考えてみたい。

本書における「ポストモダン」という語の意味は、「ポストモダン哲学そのものではなく、この哲学思想に表現されたある時代精神、時代の感覚、気分、ないしは特定の問題群に対する関心といった、曖昧ではあるが、より広く70年代以降の思想の核心にあるものを指す概念」とされ、キーワードとしては、「あらゆる権威への反抗、とくに近代合理性への権威に裏打ちされたテクノクラート支配への反抗」、「近代が排除した周辺への関心」、「身体、とくにセクシュアリティの問題の提起」、(場合によっては資本主義の消費文化に堕する傾向すらもつ)「快楽の崇拝」などが挙げられている。

ポストモダニズム一般は必ずしも政治的「左翼」と結びつけられるものではない――あるいはむしろ、「右か左か」という問題設定自体を拒否するのがポストモダンの特徴だとも考えられる――が、ポストモダニズムのうちの「左翼的なヴァージョン」に限定して考えるなら、著者の主張は比較的分かりやすい。序章で述べられているように、抵抗の対象たる「権力」概念の拡張と「社会権力」への注目、マイノリティに対する「普通の人々」による差別の問題や「アイデンティティの政治」への注目、またフェミニズムや環境問題などへの取り組みといった点がその特徴であり、これらの特徴は新左翼からの連続性・継承性を物語るということになる。もっとも、新左翼ポストモダニズムもともにきわめて広い概念であるため、それらの間に連続性があるという指摘も、より具体的に議論を詰めていかない限り、茫漠とした印象論となり、ある意味では常識論となってしまう。余談だが、私自身は1970年代〜1980年代のポストモダニズム流行に接したときに軽い反撥のようなものを覚え、安易に流行に乗りたくないと考えた記憶がある(そのせいもあって、あまりきちんと吸収することがなかった)。それは、一つには、あらゆる流行に逆らいたがる天邪鬼な性格のせいだが、もう一つには、その問題提起の中にかつての全共闘運動の中で聞いた話と似たものが多々あり、どことなく既視感を拭えなかったという事情もあった。

ここで述べられている問題意識は、こう言い換えるべきかもしれません。

  • 計算癖(独Rechenhaftigkeit、英Calculating Spiritの)が全人格化した世界」は、その代償として常に「採用したアルゴリズムが間違ってる可能性」と「視野外に重要なパラメーターが隠れてる可能性」に怯え続けなければならなくなる。

  • 実ははこれは、人類が幾度となく突き当たり、その都度問題を神秘主義の次元に移して先送りしてきた課題だったのかもしれない。
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    大乗仏教を基礎付けた龍樹(2世紀)いうところの第一義諦 (paramārtha satya) と世俗諦 (saṃvṛti-satya) の世界の峻別。密教(仏教神秘主義)の源流となる。
    龍樹 - Wikipedia
    再考仏教伝来6 龍樹の思想
    アリストテレス哲学や新プラトン主義の世界を要領よくまとめた「ガザーリー(1058年〜1111年)の流出論」いうところの「イデア(ideas)の世界(無謬たる神の摂理の世界)」と「(イデア現実界への流出形態たる)形相(eidos)と(イデア現実界に存在する依代にして、内在的で分離不可能な)質量(hyle=現実界における実態)の諸関係」の世界。後者はさらに可能態(dynamis / dunamis)の一形態に過ぎない現実態(energeia)、質量があるべき姿(telos=合目的状態)に到達した「エンテレケイア(entelecheia=完成された現実態)の二段階構成となっている。スーフィズムイスラム神秘主義)を基礎付けた。
    ガザーリーの生涯
    *宋代(960年〜1279年)、禅宗儒学を兼修していた朱熹(1130年〜1200年)もまたこの問題に突き当たり朱子学(道学、性理学、儒教神秘主義)に到達。ただし大法学者でもあったガザーリー同様、実務官僚でもあった朱熹もまた過度の神秘主義への耽溺を戒めている。

    リスボン大震災(1755年)とエドモンド・バークのピクチャレスク美学のドイツ伝来を契機に カント(1724年〜1804年)が編み出した「(人間に認識可能な領域内に広がる)物(独Ding、英Thing)の世界」と「(その外側に広がる)物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)の世界」を峻別する態度。

    *この考え方は一旦「理神崇拝(神は世界創造を手掛けただけで、以降は一切介入してないとする考え方)」や「人間の幸福は絶対精神(absoluter Geist)との完全合一を経て自らの果たすべき役割を獲得する事によってのみ得られる」とするヘーゲル哲学に集約。しかし1959年にマルクス(1818年〜1883年)が「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie)」において「我々が自由意志や個性と信じているものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」、ジョン・スチュアート・ミル(1806年〜1873年)が「自由論(On Liberty)」において「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。権力がこれを妨げるのを許されるのは他人に実害を与える場合のみ」、ダーウィン(1809年〜1882年)」が「種の起源(On the Origin of Species)」において系統進化の概念を提唱した事によって新しい時代が始まってしまう。

    *一方、米国においては同じカント哲学から出発しながら「神は必ずや当座の問題解決に必要な要素は我々の認識可能範囲に置いておいてくださる」なる信念に立脚したプラグマティズムPragmatism実用主義)が発達し、欧州から「科学万能主義(Scientism)」と揶揄される次元にまで至る。

  • 戦後アメリカと日本では科学万能主義(Scientism)と(與那覇潤が「中国化する日本」において「ネオ封建制」と呼んだ)「家庭における父親不在 / 専業主婦の教育ママ化」が広まった。それが次世代に「採用したアルゴリズムが間違ってるリスク」と「重要なパラメーターを見逃してるリスク」に対してあえて目を塞ごうとする逃避としか映らなかった事が世界規模で若者達の間に実存不安を高め「長い1960年代(1958年〜1974年)」を現出させる事になる。

    *「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」において「インテリの危機」に警鐘を鳴らしたリチャード・ホフスタッター。しかしながらその彼でさえ、ヒッピー運動と黒人公民権運動に直面すると「進歩主義時代(Progressive Era、1890年代〜1920年代)」を規定し、ハーバート・スペンサーの「社会ダーウィニズム(Social Darwinism)」をナチス優生学と同一視して全面否定してきた自らの過去を悔いて歴史観の見直しを迫られる展開となった(ただし程なく没っして未完に終わる)。

    *日本の場合、これに「GHQ占領期(1945年〜1955年)における教育改革の余波としての政治的エリート養成システムの崩壊」という問題が加わる。その一方で「一般庶民に向けた高等教育の解放」は1970年代におけるサブカル・ブームの牽引力となっていく。

  • 当時のこうした運動が抱えていた最大の問題点、それは、もしかしたら「家父長制打倒を目標に掲げつつ、自らもすっかりそれに囚われていた事に気付かなかった事」なのかもしれない。
    池田勇人が「霞ヶ関儒教的家父長主義」と呼ぶもの、意外にも儒教起源ではない。中華王朝においては建前上「秦の中国統一(紀元前221年)を主導した道家や法家のイデオロギーは弾圧の末全滅した」事になっているが、実際には「管子の牧民論」という体裁でモンゴル帝国(1206年〜1634年)が持ち込んだ中央アジアのティルク / タジーク制と程よく混じり合いながら朝鮮王朝や江戸幕藩体制の民政論にまで影響を与え、 大日本帝国内務省にまでその足跡を残している。その過程で儒教的理念の影響を多分に受けたし、また西洋的福祉国家理念と合致しない「前近代的側面」も多いのだが、とりあえずそれ自体は本質的問題ではない。
    第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」

    *むしろ傾注すべきは毛沢東の没後、スターリン主義農本主義的伝統から決別して以降、中国共産党がいかなるイデオロギーに立脚して高度成長を達成し2004年以降「和諧社会」を標榜するに至ったかという点にある。與那覇潤「中国化する日本」ではこのプロセスを「中国化」と呼んでいるが、実際に観測されたそれは「経済がほかの一切を圧倒する」「金持ちにはなれる人間からなればいい」と標榜しつつ一党独裁は守り抜こうとした鄧小平のビジョンに他ならず、この人物はフランス留学経験者だし、日本の経済成長に見習おうとした逸話も数多く残しているので本当のところは良く分からない(実は内心ではシンガポールをモデルに選んでいたって不思議ではない)。とはいえ近代化モデルは無限に存在する訳ではない。「集団指導体制」を正当化するなら、その大源流は概ね(国王や皇帝の独裁体制と平然と妥協するサン=シモン主義と決別した)オーギュスト・コント1798年〜1857年)の科学者独裁構想に行き着く。こちらはこちらで(フランスの様に)インテリ=ブルジョワ独裁体制に堕して庶民の恨みを買うリスクがあるが、中華王朝伝統の牧民思想とも相性が良く、かつこれを採用すれば「計算癖(独Rechenhaftigkeit、英Calculating Spiritの)の全人格化」が履行可能。中国共産党中枢に辿り着くには(国家経営に役立つ)博士号取得が不可欠という話もあるし、まぁこの辺りが一応の落とし所ではないかと考える。レーニンも米国のテイラー主義(Taylorism)に積極的に学んでいるし、それ自体は「科学的マルクス主義」と何ら矛盾しない。

    *とはいえ「(「北京コンセンサス」という表現に端的に表れている様に)世界が手本にしたくなるほど上手くいってる」とか「日本も次第に不可避的に「中国化」していく」とまでは思わない。中国共産党の「集団指導体制」は(インテリ=ブルジョワ体制を志向する)太子党や、(首長独裁を志向する)習近平の取り巻き達と日夜の様に政争を繰り広げているといわれている。「ええとこどり」しようにも、そもそも相手の正体が一向につかめないのでは話にもならない。

    *むしろ重要なのは、以降フェミニズム台頭もあり1990年代に向けて「家父長制との戦い」という論点が急速に形骸化していくという事。

    新井詳「中性風呂へようこそ(2007年)」より

    どうして父親は娘から嫌われるのか?

    ①昭和型マチズモ
    *1978年当時の子供達の憧れはTVや漫画の不良で、みんな真似してた。子供にとって大人とは「何をしても痛がらない存在」で、虐め方も「言葉・力・人数の統合芸術的虐め」。「今の方が精神を傷付ける言葉を使うので昔より過酷」というが、当時は至る所で喧嘩が行われて鋳たので目立たなかっただけ。「子供は喧嘩するもの」と思われていた。

    • 男も女も「(不潔さ、ペチャパイといった)性別的弱点」をモロ出しにするのが「人間味溢れる演出」として流行。
    • 中性的な人やオカマを酷く嫌う。オカマは大抵不細工に描かれ、迫られて「ギャー」というギャグが頻発。
    • 美形でお洒落な男は大抵気障で鼻持ちならない役。

    ②バブル世代特有の(トレンディドラマ的)「男の幸せ」「女の幸せ」のくっきりしたキャラ分け。
    *「そんなに男が女より強くて偉くて選ぶ権利がある世界の女ってすっごくつまらない」「なら男になった方がマシ」とか言い出す

    • 恋愛決め付け論「女の人生は男で決まる。御前も何時かいい男をみつけて可愛がってもらうんだぞ」
    • 美男に否定的「ヒョロクテ弱そうな男だ。女みたい」
    • 処女崇拝「(飯島愛を指して)こんな風になったらオシマイだぞ! 傷モノになるなよ!」
    • 母づてに聞かされる「新婚早々、浮気されて苦労したのよ。お父さんもなかなかやるでしょ?」
    • ホモやオカマを極端に嫌う(これ男? 気持ち悪っ!!)
    • 役割決定論「ボタンつける練習するか? 将来彼氏につける練習に…」

    要するにどちらも1960年代までは確実に全国規模で根を張っていた(家父長権威主義を含む)戦前既存秩序の残滓。1990年代以降には通用しない。

    *もちろん自然現象としてそうなっていった訳ではなく「第二世代フェミニスト」の日夜の苦闘の産物という側面も多分にあった。ただし、その結果生まれた「第三世代フェミニスト」は多様性を尊び「第二世代フェミニスト」の「戦時統制化」に入る事を拒絶。新左翼運動に「男尊女卑的伝統の温存」なる悲願も込められている事を逸早く嗅ぎつけて離脱した女性層もこれに合流して現在に至る。ここで重要なのは「家父長的なるもの」への拒絶感から「家母長的なるもの」へのシフトを志向した「第二世代フェミニスト」に対し、「第三世代フェミニスト」は「どっちも権威主義体制には違いない」と拒絶したというあたり。

当時はまた「総力戦体制論」における終末期にも当たっています。それもあって当時はホイジンガ「中世の秋(1919年)」ならぬ「近代の秋」なる状況を呈したとも。

国際的には以下を結びつけて一つの時代区分と考える仮説も存在する(総力戦体制論)。

  • 欧州先進諸国が第一次世界大戦(1914年〜1918年)期の総力戦で被った痛手の大きさは、当時激減した自由商品貿易が総生産額に占める割合が1970年代までそれ以前の水準に復帰する事はなかった」という統計的事実…日本の戦国時代でいうと「小氷河期到来に伴う全国規模での略奪合戦の激化」。

  • この時期における「万国の労働者が国境を越えて連帯しようとする世界革命志向と各国も成立した労働者主導主導型政権が政府の力で市場を制御下に置こうとする国家主義志向の衝突」…日本の戦国時代でいうと一向衆などの惣村土一揆の全国ネットワークと各地国人一揆の対立と共働。

  • 世界恐慌発生に伴って1930年代に進んだブロック経済化」…日本の戦国時代でいうとスケールメリットを追求する小田原北条家の様な新世代戦国武将の台頭と楽市楽座による御用商人選定過程。

  • 「冷戦発生に伴う世界の二分化」…日本の戦国時代でいうと織田信長包囲網の構築と挫折。

そしてこの仮説では現在を「既にその軛から脱しているが、次に目指すべき体制が見つかってない過渡期」と考える。

すると結局、何が残ったのか?  

大嶽秀夫『新左翼の遺産』読書ノート 

それはともかく、本書はブントの思想的・理論的遺産として、①反権威主義、②享楽性、③日本資本主義の復活と近代化の認識、④労働者至上主義の否定の四点を挙げ、これらが「ポストモダンを準備した」と位置づけている。これらのうち、①②は「思想的遺産」、③④は「理論的遺産」と分けられているが、その相互連関が分かりにくい。③は「日本資本主義・帝国主義の復活とアメリカ帝国主義からの自立の認識」と言い換えられているが、この論点はあまりポストモダニズムとはかかわりがなく、むしろ宇野経済学の影響とみた方が適当ではないだろうか。 

宇野経済学 - Wikipedia

マルクス経済学の一派で、宇野弘蔵(1897年〜1977年)が1930年代の講座派と労農派の対立の止揚を試みることにより、その基礎を打ち立てた。宇野派、宇野学派とも呼ばれる。

三段階論

経済学の研究を原理論・段階論・現状分析という三つの段階に分けた。

  • 原理論は論理的に構成された純粋な形での資本主義経済の法則を解明する。
  • 段階論は資本主義経済の歴史的な発展段階を把握する。
  • 現状分析は原理論や段階論の研究成果を前提に現実の資本主義経済を分析する。

この三段階論により、マルクスの『資本論』は原理論、レーニンの『帝国主義論』は段階論に属する著作として位置づけられ、資本主義経済が19世紀の自由主義段階から20世紀の帝国主義段階に移行しても『資本論』は原理論としての有効性を失わないとした。

社会科学としてのマルクス経済学

マルクス経済学を社会科学として確立することを目指し、社会主義イデオロギーを理論から排除した。原理論は資本主義経済の法則を解明するだけで、社会主義への移行の必然性を論証するものではないと考えたのである。

この見解はマルクス経済学と社会主義イデオロギーを不可分と見なす主流派の見解と対立するものだったため、強い反発を受けた。宇野は主流派の経済学者たちを「マルクス主義経済学者」と呼んで自身と区別した。

段階論に属する『経済政策論』でも、資本主義経済の歴史的な発展に対応する典型的な経済政策を記述することを課題とし、望ましい経済政策を提示する一般的な経済政策論とは一線を画した。

「方法の模写」説

古典派経済学はヨーロッパにおいて資本主義経済とともに発展し、イギリスにおいて資本主義経済が自律的に運動するようになった19世紀に完成した。この過程を宇野は、経済学の対象自身が純粋な形へと歴史的に発展したため、対象を模写する方法を対象自身から受け取ることができた、と捉えた。方法の模写説と呼ばれる。この考え方により、原理論の対象である純粋資本主義はマックス・ウェーバーの理念型とは本質的に異なるものとして位置づけられることになった。

価値論の刷新

マルクスは『資本論』冒頭において、商品から使用価値を捨象した場合に残るのは価値実体としての労働のみであるとする、いわゆる「蒸留法」により労働価値論の論証を行った。

これに対し宇野は、労働価値論は労働力が商品として売買される資本主義社会において初めて全面的に確立されるのであるから、マルクスのように単なる交換関係から直接労働価値論を説くのは誤りであると考えた。

そのため、宇野『経済原論』は、『資本論』と異なり、まず価値論を前提とせずに商品、貨幣、資本を説き、その後「生産論」で初めて労働価値論の論証を行う、という編成を取った。そして労働価値論の論拠を、労働力商品を販売する無産労働者が賃金によって生活資料を買い戻さざるを得ないことに求めた。

宇野学派の形成

マルクス経済学から社会主義イデオロギーを排除しようとする姿勢や、『資本論』の様々な難点を指摘して理論の再構築を目指す姿勢は、多くのマルクス主義者やマルクス経済学者から反発を受けた。価値論をめぐる久留間鮫造の批判(『価値形態論と交換過程論』)や経済学方法論をめぐる梅本克己の批判(『社会科学と弁証法』)が代表的なものである。その一方で勤務先の東京大学を中心に継承者も生まれ、宇野学派と呼ばれるグループが形成された。宇野と継承者の共同作業による研究として『資本論研究』(筑摩書房)などがある。

宇野の「方法の模写」説では、原理論の対象は資本主義経済の純粋化傾向に即して設定される。しかしその考え方によっては原理論の対象を国民経済として外国貿易を捨象することはできない。この点を批判した宇野学派の一部(鈴木鴻一郎、岩田弘など)は世界資本主義論を唱え、原理論は世界資本主義の発展を内的に模写するべきだと主張した。 

宇野の理論でグローバル資本主義を説明できる、という佐藤氏の直感は正しい。その論理構造は、ウォーラーステインの「近代世界システム」とよく似ている(というか宇野のほうが先)。

要するに、資本主義は差異によって利潤を生み出すシステムだという考え方である。その限界が、宇野によれば恐慌なのだが、弟子の鈴木鴻一郎(*)や岩田弘などの「世界資本主義」派は、差異化のメカニズムを世界市場に拡大し、植民地との間にグローバルな差異をつくり出すことによって資本主義を延命したのが帝国主義だとする。

こういう議論は岩井克人氏や柄谷行人氏の話でもおなじみだが、これはもちろん彼らが宇野をパクっているのである。

ただ佐藤氏も指摘するように、宇野の限界は、こうした差異化のシステムの基礎に国家権力があるという側面を軽視したことだ。マルクスも最終的には、資本論→世界市場論→国家論という巨大な「三部作」構成を考えていたが、この場合の国家は、あくまでも「上部構造」として経済的な土台から説明されるものだった。これは「市民社会の矛盾を国家が止揚する」というヘーゲル法哲学の思想で、今なお社会科学の主流である。

現代の問題は逆に、貨幣とか財産権などの制度の背後に政治があるということだ。こうした制度が自明に見えているときには、グローバル資本主義は安定した秩序として維持できるが、通貨危機が起こってIMFが介入したり、「知的財産権」を侵害するデジタル情報がグローバルに公然と流通したりするようになると、その自明性は失われ、背後にある政治性(ワシントン・コンセンサスやハリウッドの文化帝国主義)が露出してくるのである。
*ワシントン・コンセンサス(Washington Consensus)…国際経済研究所の研究員で国際経済学者のジョン・ウィリアムソンが、1989年に発表した論文の中で定式化した経済用語。伊藤忠商事会長で経済財政諮問会議委員の丹羽宇一郎「文藝春秋」2007年3月号に「財界だって格差社会はノー」という論文を寄せたが、この中でこれを「1989年のベルリンの壁崩壊後、社会主義の敗北が明らかになって以降、IMF世界銀行および米国財務省の間で広く合意された米国流の新古典派対外経済戦略で、「小さな政府」「規制緩和」「市場原理」「民営化」を世界中に広く輸出し、米国主導の資本主義を押し広げようとする動きである」と説明し批判を加えた。また経済学者ジョセフ・E・スティグリッツなども「ワシントン・コンセンサスの実現によって格差社会が世界中に広がっている」という立場に立つ。マレーシアが勧告を拒否して国内経済の混乱を抑えた他、ラテンアメリカ欧州連合諸国は規制緩和市場原理主義とは異なる政策を追求している。

 見田石介先生の”宇野経済学”批判

宇野理論はマックス・ヴェーバー的“理想型”概念を分析手法とします。特定の産業、特定の国家(イギリス資本主義)を取り上げ、これを典型(純粋資本主義)とし、これを基準にして他の産業、他の国家の特殊性を明らかにするのが“段階論”の方法です。

“純粋資本主義”はイギリス自由主義経済をモデルとしながら自由主義段階に現れる資本主義の傾向をその極点のまで推し進めた“理想像”、各段階資本主義の特徴を分析するための理論的措定です。国際関係無しでの均衡再生産を遂げる永久不滅の“資本主義”が“純粋資本主義”として措定されます。

“純粋”に対する“不純”とは“前資本主義的生産関係”を言います。宇野氏は“前資本主義的生産関係”を駆逐して成立した資本主義が逆転、再び前資本主義的生産関係を増大、温存させる所に帝国主義段階が成立すると主張します。

非資本主義的なものを本質として“純粋資本主義”運動法則を“歪曲”する“帝国主義”は資本主義と言えるのでしょうか? 宇野氏は純粋資本主義の運動法則を疎外するものとして“国家”を捉えます。だから“国家”は資本主義の上部構造ではなく、資本主義と対抗するものと捉えられます。

では“資本主義”の外的与件としての“国家”の運動法則とは何か?その事に宇野氏は応えていませんから、国家政策は偶然的なもの、更には宇野氏の“帝国主義段階”も純粋資本主義から転化するものではなく偶発的なものとなります。よって宇野氏によれば歴史は偶然であり、歴史の運動法則を明らかにする“理論”を語っている訳でもないと見田先生は厳しく詰め寄ります。歴史の非理論化、反法則化そして理論の非歴史化、法則の非歴史化が“ブルジョア経済学”の本質である。
*ここが池田信夫blogの指摘と重なってくる部分?

そもそも宇野氏は一般的なもの、共通なものの“抽出”という分析手法を否定します。
見田先生は“科学”は“個別的なものの一般化”だと明言されています。
では宇野氏の“理想型”はどのようにして形成されるのだろうか?

ヴェーバーが発明した、なにか崇高な感じのする社会分析ツール“理想型”とは?

Wikipediaでは“方法的には分析的に社会現象の要素を一定程度まで分解し、その主要な部分を使って性格が明確に観察できる段階まで構築した概念が理念型であり、理念型はそれ自体で理論的に完結した原子的存在で時系列も含んでいると考えられる”と説明されています。

見田先生は“理想型”は分析者の主観によって規定されてしまうと切り捨てています。
*「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(1904年〜1905年)」において英国(特にカルヴァン派清教徒)の振る舞いを理想視し、フランスのジャンセニスムやドイツのルター神学を返す刀で叩いた(その一方で国内のカルヴァン派ユグノーについては触れない)なんて姿勢もその典型例?

例えばヴェーバーは資本主義を“計算の合理性” “簿記の合理性” “経営の合理性”などの基準に従ってみましたが、それが搾取制度であるかどうか、帝国主義国であるか植民地であるかどうか問う必要がないと“主観的に”予め決定する事にほかならないと批判しています。
*ここが池田信夫blogの指摘と重なってくる部分?

全体像を俯瞰すると「(労働者至上主義を否定する享楽的な)世界資本主義」というキーワードが浮上してきます。そもそも與那覇潤「中国化する日本」もまた、その基本スタンスは「この(総力戦体制時代終焉後の)世界資本体制時代に中国共産党は成功した」という前提に立脚する内容でした。

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さらに「この時代にアメリカの中心が東海岸から西海岸に推移した」とする説もある様です。そういえばJ・D・サリンジャーライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye、1951年)」やジョン・アップダイク 「A&P(1963年)」といった文学は「東海岸の閉鎖性」を前提に成立。「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」のリチャード・ホフスタッターも「ニューヨーク派知識人」。

船戸与一「神話の果て(1985年)」

アメリカ合衆国の政治を左右するのは民主党でも共和党でもない。大統領がどっちの党から選ばれるかなどほとんど重要ではない。問題はどっちの地域から選ばれるなのだ。

第35代大統領J.F.ケネディ(任期1961年~1963年)が暗殺されてからワン・ポイント・リリーフのG.フォード(任期1974年~1977年)を除いてL.ジョンソン(任期11963年~1969年)、R.ニクソン(任期1969年~1974年)、J.カーター(任期1 1977年~1981年)、R.レーガン(任期1981年~1989年)と全て南部諸州から選出されている。

アメリカ合衆国を建国以来支配してきたのはシカゴからボストン、ニューヨークに到る東部エスタブリッシュメントだったが、今やそれは南部諸州にとって替わられた。政治、経済、文化を含めた壮大な権力移動(Power shift)が完了したのだ。南カリフォルニアからテキサスを経てノースカロライナに到る南部諸州を支えているのは農事産業、軍事産業、電子技術産業、石油・天然ガス産業、不動産・建設産業、観光・レジャー産業で、これらは六本の柱(Six pillars)と呼ばれている。
*その後アメリカ大統領はテキサス州出身のG・H・W・ブッシュ(1989年〜1993年)、アーカンソー州出身のビル・クリントン(1993年〜2001年)、同じくテキサス州出身のG・W・ブッシュ(2001年〜2009年)と南部諸種出身者がが続いてきたが、最近ハワイ出身で東部イリノイ州上院魏委を経たバラク・オバマ大統領(2009年〜)が就任し、このパターンが崩れた。実際ブッシュ大統領の賛成派と反対派の論争には確かに「東部エスタブリッシュメント VS 南部諸種」の代理戦争みたいな側面も見受けられる。 

そもそもここでいう「ブントの思想的・理論的遺産としての享楽性」って何でしょう? 当時日本の若者を席巻し、なおかつ(タランティーノ監督などの評価を受けて現代に通じる国際性を帯びた)エロとバイオレンスの世界に他ならないんじゃないでしょうか。

これに「女囚三部作」でデビューしたパム・グリアが大活躍した黒人搾取映画(Blaxploitation Movie)やブルース・リーを伝説化したカンフー映画辺りを加えると「近代の晩秋」の狂乱状態が浮かび上がってきます。
*そしてこうした作品を喜んで吸収したのは(東海岸文化やハリウッド大作に対抗する武器が喉から手が出るほど欲しかった)西海岸の独立系映画人達だったのかもしれない。「スプラッター映画」の源流となる「ゴア映画(Gore Movies=血みどろ映画)」の由来もこの界隈。 

当時の日本は同時に「怪奇/オカルト/超能力/UFO/サイキック・ブーム(1960年代末〜1980年代)」という長期トレンド下 にありました。かなり全体像として世紀末めいています。

そしてこうした時代の「出口」と目されているのが…

--73年が軸という視点は独特ですね。

東映東宝でみれば戦後映画史が概観で語れるのではないかと思いました。もともと2社の揺れ動きというのが頭の中にあって、年表を整理してみたら、1973年でびったり端境期として浮かび上がってきました。本の構成を考えれば、この年に公開された「仁義なき戦い」と「日本沈没」をクライマックスにもってこられるのではないかと。

そこで、東宝の松岡会長に取材に行ったところ、さらに重要な証言がいただけた。最初は何となく2つのヒット作があったくらいのイメージだったのが、松岡さんの口から、「『日本沈没』で東宝はやり方を変えた」と。そこで、松岡功という人間を後半の主人公にもっていこう。彼が何故変えたか、変えたことでどうなったか。そういう流れにしました。

 要するにこういう事。

  • 「アメリカにおける大規模パニック映画の流行」を先例に掲げて企画が通った東宝大作映画「日本沈没(1973年)」。

  • そしてフランシス・コッポラ監督映画「ゴッド・ファーザー(The Godfarther、1972年)」を先例に掲げて企画が通った東映大作映画「仁義なき戦いオリジナル8部作(1973年〜1976年)」。

かくして日本の娯楽分野に対する「世界資本体制」の浸透が静かに始まる事に。そういえば当時子供達が夢中になって読み耽っていたジャガーバックス(1972年頃〜83年頃)や、ドラゴンブックス(1974年〜1975年)といった「子供向け怪奇図鑑」には水木しげるの妖怪画、小松崎茂石原豪人ら日本の絵師の手になる精密画に加え、西洋怪奇映画のスチル画が満載されていたのです。

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ここで重要なのが以下。

  • 彼ら「南イタリア勢」やら「カリフォルニア大学勢」やらは(さらにはロジャー・コーマン組も混ざっている)いわゆるニューシネマ(New Hollywood)を終わらせていった訳だが、そのニューシネマ運動の大源流には、かの「太陽族映画(1955年〜1957年)」も存在した。

  • またこのグループは多くが、黒澤明監督映画の様な1960年代までの「古き良き日本映画」のファンとして知られる。

  • また黒人や南イタリア人は(日本では知名度が低い)岡本喜八監督映画「大菩薩峠(1966年)」が大好き。

あれ「日本文化の逆流入」?。油断は禁物です。「 世界資本主義と対峙する」という事は必ずしも「日本対アメリカ」みたいな図式に固執する展開ばかりを意味する訳ではありません。「日本人の日本に対する認識」が全てではない事を悟り、「外国人の日本に対する認識」を調べ上手く利用していく様な戦い方が必要になってくるという事です(良い意味でも、悪い意味でも與那覇潤「中国化する日本」には「中国化=海外から外貨を持ち帰ってくる体制」というニュアンスが含まれていますしね。ただし気をつけないとジャパンバッシング(Japan bashing=日本叩き)の再来です。

*どのメディアも報じないけど「国際SNS上の関心空間における日本のバレンタイン文化拒絶事件」って、結構精神的ダメージが大きかった。もしかしたら日本のメディアだけでなく、海外のメディアも気付いてない?

まぁ日本は「鎖国」と称しながら砂糖を大量輸入して独自の和菓子文化を発展させたり、有田焼や伊万里焼や柿右衛門を(こっそり)輸出したりしてき国。当時を振り返って「その頃の戦い方」とか思い出すのも手の一つかもしれません。
『「伊万里」からアジアが見えるー海の陶磁路と日本』

そして同時に1970年代はこんな時代でもあったのです。

  • 「時代遅れとなった父権主義」に対するパロディとして始まった古谷三敏「ダメおやじ(1970年〜1982年)」が、やがて父権主義そのものの衰退によってそれを揶揄するギャグが成立しなくなって、むしろ「お父さん頑張れ」漫画へと変貌していった時代。

    『ダメおやじ』の存在理由-古谷三敏

    父親、あるいは、父権は地におちた・・・という意見がある。確かに、会社その他の職場で、現実の父親は、道具化していっている。「仕事の鬼」といえば聞こえはいいが、その実、人間の個としての権利や自由を、所属集団のために削られていっている。また、その努力の割には経済的に報われていない。そうした萎縮させられた父親の状況が、ダメおやじに集約されている。そういえないでもない。

  •  さだまさしが行きつけのスナックのママに「最近の男は駄目になった。だから若い娘も駄目になった。男はん、しっかりしとくれやっしゃ。お師匠はん、そういう歌を作っとくれやっしゃ」と言われて「関白宣言(1979年)」を発表した時代。つまりこの曲が発表された時点で既に「亭主関白」は、ある種のファンタジーとしてしか日本に存在しなくなっていた。

この調子だと、おそらくこれまで述べてきた意味での「家父長制 / 家母長制の歴史」の掉尾を飾るのが、角川春樹のいわゆる「角川商法」の逸話となりそうです。

角川映画というムーブメントは何だったのか | ウディすすむの不思議エンタテインメント探訪

角川書店の御曹司だった角川春樹がメディアミックス戦略に注目したのは、米国のベストセラー小説「ある愛の詩」の翻訳出版を(周囲の反対を押し切って)手掛けて成功したのがきっかけです。「ある愛の詩」は、原作小説の発売と映画の公開がほぼ同時に行われ、小説、映画、音楽の三位一体の大宣伝によって世界的ブームを巻き起こした、本格的なメディアミックス戦略を取り入れた、世界的にも最初の作品だったのです。

角川映画は、巨匠市川崑監督が横溝正史のミステリーをオールスターキャストで映画化した「犬神家の一族」(1976)で始まります。この作品の大ヒットで、当時すでに忘れられつつあった横溝正史のブームが起こり、再びベストセラー作家として復活しました。

本格ミステリーの古典をオールスターキャストで一流監督によって映画化する、という「犬神家の一族」の方法論は、シドニー・ルメット監督「オリエント急行殺人事件」が成功したことに、ヒントを得たものでしょう。角川春樹は、世界の映画の動向に目を向け、それをいち早く日本に取り入れようとしていました。

角川映画」というブランド名が誕生したのは「人間の証明」(1977)からです。

人間の証明」は角川映画が全く新しいムーブメントであると証明しました。従来の常識を破るメディアミックス戦略を駆使した宣伝は、大ブームを起こし「読んでから観るか?観てから読むか?」というキャッチコピーは流行語となりました。さらに、エアポート・シリーズなどでハリウッドの中堅スターだったジョージ・ケネディの招聘とニューヨークでの本格的ロケ撮影、そしてジョー山中の主題歌、それら全てが新しかったのです。ただし、作品の評価そのものは、今ひとつでした。

徹底した宣伝攻勢で社会的ブームを巻き起こし作品をヒットさせる方法論は「宣伝ばかりで、作品の中身が伴っていない」と、旧来の日本映画界やマスコミからの反発を招き「角川商法」と揶揄されました。

しかし、角川映画によって、子供たちが学校で、再び映画をトレンドとして話題にするようになりました。当時すでに斜陽だった映画がエンタテインメントのトップに返り咲いたのです。

  • ニューシネマ(New Hollywood)運動の重要な主題の一つは「家父長制の克服」だったし、南イタリア勢は家族について語るのが好きだし、オリバー・ストーン監督やジョージ・ルーカス監督は父親についてトラウマを抱えていた。角川春樹も家族の事で相応の問題を抱えていたらしく、日本での映画公開に合わせて翻訳したエリック・シーガルある愛の詩(Love Story、1970年、同年映画化)」は父親と息子の葛藤、「いちご白書(The Strawberry Statement、1969年、1970年)」は家父長的な学長と大学生の紛争を扱ったノンフィクションだった。

  • 横溝正史金田一耕助シリーズ」に目をつけたのはもちろん江戸川乱歩夢野久作同様、1970年代に「怪奇/オカルト/超能力/UFO/サイキック・ブーム」の追い風を受けてリヴァイヴァル・ブームがあったからだが、他に「旧家の内紛」を扱う作品が多かったからという理由もあった様で、実際そうした作品中心に映画化プロジェクトを進めている。

  • また新左翼的反体制精神を引きずっていたせいで、森村誠一原作映画「野性の証明(1978年)」や半村良原作映画「戦国自衛隊(1979年)」は自衛隊の協力をほとんど受けられなかった事で知られている。

コカイン密輸事件による逮捕(1993年8月29日)の直前ですら、自ら監督した「REX 恐竜物語(同年7月3日公開)」をスピルバーグ監督映画「ジュラシック・パーク(Jurassic Park、同年7月17日公開)」と完全に同格に見せるのに成功していたほどの宣伝上手で、確実に一つの時代を築き上げた人物でした。ただ1980年代に入ると流石に「家父長制や体制への反抗」といった主題は選ばなくなっていきます。
【不朽の名作】恐竜ブームの最中に登場した「REX 恐竜物語」とは何だったのか

ところで、インターネット普及が始まったばかりの1990年代には「誰もがネットに接続して情報源を共有する様になった結果、絶望的なまでに均質な全体主義社会が出来上がる恐怖」を主題とする作品が沢山生み出されました。実際に普及するにつれ「別にそんな事はない」という認識が広がって次第に下火になっていくのですが…

庵野秀明監督アニメ「新世紀エヴァンゲリオン(TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」もそういう作品の一つで、海外ネット上では主人公の父親である碇ゲンドウが「最後のロマン主義的英雄(The Last Romantic Hero)」なんて称号を賜ってました。「白馬の王子様」ではなく巌窟王とか彷徨えるオランダ人とかそっちの方。そしてアメリカ人が口にする時は間違いなくハーマン・メルヴィル「白鯨(Moby-Dick; or, The Whale、1851年)」のエイハブ船長のイメージ。いずれにせよ実の父で厳格あっても「家父長的」なんて認識されない段階に入ったという事です。

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アメリカにおいてはゼロ年代に入っても執拗な抵抗が続き「孤立無援のサバイバル物」が小説界において静かなブームとなり、2010年代に入ってから相次いで映画化される展開に。でも一番ヒットしたのがアンディ・ウィアー「火星の人(The Martian、2011年、映画化2015年)」ではどれだけ「父権の回復」に役立ったか知れません。

一方日本のエンターテイメント業界では「親不在」のまま子供達がデスゲームに突入する展開に。まぁ、すかさずアメリカのヤングアダルト小説に模倣され、こちらも大ヒットとなりましたが、発想の大源流がスティーブン・キングの「死のロングウォーク(The Long Walk、1979年)」じゃ仕方がない?
*このジャンルで興味深いのは「僕らを殺し合わせる社会の方が間違ってる」「革命だ!!」みたいな展開に差し掛かると吃驚するほど急激に人気が凋落する事。背後に「扇動する大人」の気配みたいなのを感じて一斉に逃げ散っちゃうのである。

こうして(「家父長制「復活」の夢」とか「家父長制の家母長制による「打倒」の夢」を含む)20世紀残滓が次第にフィルタリングされ「計算癖(独Rechenhaftigkeit、英Calculating Spiritの)が全人格化した世界」だけが唯一の選択肢として残ったのが、良い意味でも悪い意味でも現代社会なのではないでしょうか。逆をいえば人類全体が「採用したアルゴリズムが間違ってるリスク」と「重要なパラメーターを見逃してるリスク」を背負ってる状態。そしてリスク分散の為、あえて多様性を許容。こういう世界をで暮らしていくには、もしかしたら以下の様な(多様性容認を補助してくれる)哲学のどれかの習得が必須となってくるのかもしれません。

とりあえずこれまでの投稿で触れてきた考え方の一覧。とりあえずはムスリムの多くに「ガザーリーの流出論」がプレインストールされてる様に、日本人も多くは「龍樹の二諦説」がプレインストールされてる筈なので、その事に自覚的になればOKなだけの気もしてます。