17世紀に入ると急速に「フランス宮廷料理」が成立。
その背景にある種のナショナリズムの様なものが垣間見えます。
当時は絶対王政樹立に向かう時代。「臣民」創造の第一歩は「(公式辞書刊行による)フランス語の標準化」とか「宮廷料理革命」だったという次第。
でも、そういうのってどうやらフランスに限らない様なのです。しかも「ナショナリズムを縦軸に、科学技術発展を横軸に取る」応用パターンまで…
ブロッコリー(Broccoli、学名:Brassica oleracea var. italica)
アメリカ合衆国においてはブロッコリーが健康の象徴として親しまれる一方、子供の頃に無理矢理食べさせられた記憶を思い出させる野菜として語られる。
*国際SNS上の関心空間で検索すると、日本アニメや中華料理のファンが「アジア人は何故アレを実に美味そうに食うのか」「いや待て。彼らが食べてるのは小振りで瑞々しいい別品種だ。我々の知ってるアレとは違う」みたいな議論を交わしてて大変微笑ましい。
- 後者に関しては、ジョージ・H・W・ブッシュが知られており、しばしばブロッコリー嫌いを公言したため農家からブロッコリーを送りつけられる抗議活動を受けている。
- また、ブロッコリーは「嫌いな人は多い」というイメージを逆手に取り引用される例もある。例えば、2010年に国民皆保険制度を進める法律(オバマケア)が成立し、各地で強制的な保険料徴収に関して違憲性を問う裁判が行われたが、「週に何回ブロッコリーを食べるかを国が決めるのか?」(フロリダ地裁)、「保険の強制加入はブロッコリーの購買を強制するのと同じではないか?」(バージニア地裁)というようにブロッコリーを引き合いに出す議論も行われた。
結婚式では新婦によるブーケトスが行われることがあるが、新郎が幸せの象徴などの意味をもつブロッコリーを独身男性たちに向かってトスし、無事にブロッコリーをキャッチできた人が次の花婿となるというブロッコリートスが行われることがある。
*これ海外では「バレンタインデー・チョコ」みたいに「日本起源説」がある模様。
アメリカ合衆国でブロッコリーが「健康の象徴」の地位を勝ち取ったのは「それが産業革命に伴う流通革命(特に冷蔵技術の併用)によって全国で食べられる様になった」事に対するある種の民族的自尊心と表裏一体の関係にあるとされています。
日本にもそういう食品ならありますね。カリフラワー(ブロッコリー)、納豆、生卵…
カリフラワー(Cauliflower、学名:Brassica oleracea var. botrytis)
花蕾が一箇所に集中した形状が白雪を連想させる美しさを醸成するため、ブロッコリーよりも珍重された。
- 日本には明治初期に渡来。花梛菜(はなはぼたん)、英名カウリフラワーと紹介され試作されたが、食用としても観賞用としても普及しなかった。 第二次世界大戦後に進駐軍向けに栽培が行われ、日本での洋食文化の広まりと、改良種の輸入、栽培技術の進歩により昭和30年(1955年)頃から広く普及した。
- 日本の生産量は世界14位で154,000tを生産する。低温に弱く暖かい地方や夏にしか栽培できなかったが、耐寒性の強いキャベツなどとの交配により越冬も可能な品種も誕生し、温暖、冷涼いずれにも向く野菜として、全国的に栽培された。夏に育てられる「サマーカリフラワー」に対し、後者を「ウインターカリフラワー」もしくは「ブロッコリー」と呼んだ。
- 統計によると、日本における1964年の収穫高は約1万t だったが、12年後の1976年には7万5千t に拡大した。しかし、1980年代以降に急増したブロッコリーに押されて作付け面積や出荷量は減少しつつある。これは、日本では外観が重視されるため、特に蕾の白味を強くするために葉をまとめて蕾を隠し、日射を遮る手間が掛かること、ひとつしか育たない頂花蕾を食用にすることから、ブロッコリーのように側枝の収穫をすることができず、面積あたりの収穫量が劣ることなども影響している。
*そういえば日本でもいつの間にかカリフラワーよりブロッコリーの方がメジャーに。しかも小振りで食べやすいタイプが市場を席巻。日本において収穫量が最も多い都道府県は徳島県(2012年収穫量:2,560t、栽培面積:101ha)、最も多い市町村は徳島市である。
「納豆」という語句が確認できる最古の書物は、11世紀半ば頃に藤原明衡によって書かれた『新猿楽記』である。同作中に「腐水葱香疾大根舂塩辛納豆」という記述があり、平安時代には納豆という言葉が既に存在していたことが確認できる。
- この記述の読み下しには諸説あるが(「舂塩辛」「納豆」、「舂塩」「辛納豆」、「大根舂」「塩辛納豆」など)、「辛納豆=唐納豆」など、これは本来の意味の納豆、つまり現在の「塩辛納豆」を指すものであろうという意見が多い。
糸引き納豆は、「煮豆」と「藁」の菌(弥生時代の住居には藁が敷き詰められていた。また炉があるために温度と湿度が菌繁殖に適した温度になる)がたまたま作用し、偶然に糸引き納豆が出来たと考えられているが、起源や時代背景については様々な説があり定かではない。
- 「大豆」は既に縄文時代に伝来しており、稲作も始まっていたが、納豆の起源がその頃まで遡るのかは不明である。
*納豆菌そのものは今からおよそ3万年前に雲南省あたりから(おそらく麦藁などに付着する形で)日本に伝来したと考えられている。
納豆菌 - Wikipedia
- 糸引き納豆が資料として確認できるのは室町時代中期の御伽草子『精進魚類物語』が最古のものと言われる。なまぐさ料理と精進料理が擬人化して合戦する物語だが、「納豆太郎糸重」という納豆を擬人化した人物の描写は藁苞納豆と通ずるものがある。
- 戦国時代において、武将の蛋白源やスタミナ源ともなっていた。
*そのせいか「行軍中の軍隊の馬の背で、馬匹用口糧として運ばれていた煮豆が納豆に変貌してしまった」といった起源譚が少なくない。
水戸納豆で知られる茨城県に残る話しによると、源義家が奥州征伐への途中、水戸付近で休息した折、馬の餌にするワラの上に捨てられた煮大豆がほどよく発酵しているのを発見。義家自ら食べてみたところ、いたく美味であったことから、家来に命じて研究させたのが、今日の糸引き納豆の始まりとか。義家の奥州征伐にまつわる同じような納豆伝説は、岩手県、山形県、栃木県などにも残されています。
納豆は、戦国武将たちにとっても、大切なスタミナ源だったようです。文禄の役(1592年)で朝鮮へ出兵した加藤清正の軍が食糧難に陥り、すでに空になった味噌袋の中に馬糧の煮豆を入れて行軍していたところ、馬の体温で煮豆が蒸れて糸引き納豆が出来上がり、空腹の武将たちの胃袋を大いに満たしたというエピソードも残っています。
- 江戸時代では、京都や江戸において「納豆売り」が毎朝納豆を売り歩いていた。
*かつては「納豆売り」と呼ばれる行商人が納豆を売り歩く振り売りなどが盛んであった。売り声は「なっと〜〜、なっと〜〜(語尾をあげる)」というものであった。
- 戦時中は軍用食として、終戦後は食糧不足の日本人を救う栄養食として食べられた。
とはいえ常食とされるには地域によって長らく偏りがあり、全国的に見られるようになったのは平成(1989年〜)以降とも。
*納豆はプレーンヨーグルトの様に熱処理をしておらず、納豆菌が生きた状態で出荷される。従って10℃を超えた状態で保存すると、納豆菌が活動を再開。発酵がさらに進み、色が濃くなり苦味が強くなりアンモニア臭が増して極めて食べにくい状態に陥る。従ってその普及は冷蔵技術の浸透を待たねばならなかったのである。
- 藁苞納豆は明治東京で派生したもので、経木納豆は大正期以降に行われていた。
- 1960年代以降は、流通面で効率的なことなどから一般的には発泡スチロール容器が使われている。発泡スチロール容器は積み重ねられる形状になっていて、2 - 4つを1セットとして売られている場合も多い。また、納豆を容器に入れたままかき混ぜて糸を引くことができるように、底に凹凸が付けられるなどの工夫もなされている。
- 発泡スチロール容器の普及は納豆の消費拡大に大きく貢献した。ただし、藁に比べると通気性が悪く、また納豆の臭い成分を吸着しにくいために、納豆独特の臭いがこもって強くなる傾向がある。こうした風味の違いや、「自然食品」的なイメージから、一部の高級品や自然志向の商品、土産物では現在でも藁や経木を使う場合がある。
- 茨城県や埼玉県川越市などでは土産物(名産品)として販売している場合もある。こうした地域では納豆の自動販売機も存在する。
今では主にスーパーマーケットやコンビニエンスストアなど、冷蔵施設を備える食料品売り場で広く売買されている。
現代日本では卵は生食できる食品として認知されている。日本以外の国では韓国のユッケおよびヨーロッパのタルタルステーキで生卵と生肉や他の具材をかき混ぜる料理、あるいは食材の一部(フランスのミルクセーキなど)としての他は、生食する食習慣は独特とされる。
ほかに、薬用として卵が生食されることがある。
*黒澤明監督映画「酔いどれ天使(1948年)」にも、結核患者に精力をつけさせる為に闇市で(進駐軍放出品らしき)生卵を買う場面が出てくる。
- 戦国時代から江戸時代にかけて西洋人が来航した西日本では肉食とともに卵を食する文化が伝来し、カステラやボーロなど鶏卵を使用した南蛮菓子も伝来した。
- 一般的に鶏卵を食べるようになったのは江戸時代とされる。愛玩用に広く飼われるようになったニワトリの産んだ卵(無精卵)が全く孵化しないことから、卵は生物では無いという認識になり、卵を食することがタブー視されなくなった(鳥類の肉を食するよりも抵抗が小さくなった)。それにより、採卵用にニワトリを飼う習慣が広まった。
*イザベラ・バード「日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan=「日本における人跡未踏の道」、1880年)」にも「日本人は鶏を採卵用としてしか売ってくれなかった(鶏肉として食べると聞くと絶対に売ってくれなかった)」という記述がある。
イザベラ・バード - Wikipedia
- 江戸後期の天保9年(1838年)には鍋島藩の『御次日記』において、客人に饗応された献立のなかに「御丼 生玉子」が見られる。
*薩摩藩も江戸下屋敷で「薩摩芋をたっぷり食わせた黒豚」とか飼ってたし、九州の大名は一味違う?
- 近代に入った1877年頃、日本初の従軍記者として活躍し、その後も数々の先駆的な業績を残した岸田吟香(1833年 - 1905年)が卵かけご飯を食べた日本で初めての人物とされ、周囲にも卵かけご飯を勧めたとされている。
岸田吟香 - Wikipedia- その後の第二次世界大戦後の食糧難の時期は鶏卵は希少品となったものの、昭和30年(1955年)以降卵が庶民の味となってからは、味や栄養面で注目され、食卓の人気者となったという。
日本の国内産の鶏卵は通常、厚生労働省の定める「衛生管理要領」に基づき殺菌剤で洗浄を行うなど病原体の付着を防ぐ安全のための措置が講じられ、卵選別包装施設でパック詰めされる。日本卵業協会によると、パック後2週間(14日)程度を年間を通して賞味期限としている所が多い。このような流通上の努力によりサルモネラ菌に感染する卵を減らす努力をしている。こういった流通体制を整えていない国での卵の生食や卵かけご飯は避けた方が良い。
どの食品も「昭和30年(1955年)の壁」は共有してる辺りが興味深いです。
こうしたケースに比べるとフランス料理の展開はちょっと複雑。
- 「如何にして一般市民との差別化をはかるか」を伝統的課題としてきたフランス宮廷料理の世界でも、卵や牛乳みたいな腐りやすい生鮮食品の採用は(おそらく流通や品質管理インフラが相応に整った)17世紀以降となる。
*鮮魚なんて、はなから諦めてるから「パイ皮包み焼き」とかが御馳走に。
- それまでそうした食材は(自分で牛や鶏を飼っている農家の)郷土料理として存在してきただけで、以降もしばらくは「都心部で卵や牛乳を惜しみなく使った料理を楽しめるのは貴族のみ」という状態が続いた。
- たまたまフランス革命後の宮廷料理人下放とレストラン大衆化によってこの流れは「フランス臣民意識」と「フランス市民意識」の架け橋となった。日本に洋食屋として伝わったデミグラスソースやホワイトソースは当時の「下町の味」。
*だがフランスの料理人はやがて「誰が作っても同じ味になる」状況に閉塞感を感じる様になり、そこからの脱却を試みる様になっていく。元来のfreedom(ノーチエック段階)の概念には、さらにそれに対する反逆、すなわち「俺の工夫したブラウンソースしか美味いと思わせなくしてやる」みたいな反逆精神を宿す余地が存在したのだった。
- さらにクロックマダム(croque-madame)の様な卵料理がカフェの定番メニューとなるのは20世紀に入ってから。
そういえば、イタリア料理の世界でも、牛乳や卵といった腐りやすい生鮮食品の本格採用は第二次世界大戦後だったといわれています。末端レベルでの近代的流通インフラ導入が遅れていたせいですね。それで有名なカルボナーラにも「敗戦後の進駐軍配給が生んだ食べ物」とする説があったりします。
第二次世界大戦時、1944年のローマ解放より、アメリカ軍が持ち込んだベーコンや卵が流通するようになった後にカルボナーラの名前が現れており、 アメリカ兵が親しむ卵、ベーコン、スパゲッティを使った料理としてイタリア人シェフが考えたとされる説がある。
1950年のイタリアの新聞「La Stampa」にもアメリカ軍将校が求めた料理と記されている。この説は多くのレシピでパンチェッタ(豚のバラ肉)とグアンチャーレ(豚の頬肉、いわゆる豚トロを塩漬けにして2、3週間熟成させたもの)が同一の素材として扱われている理由も説明している。
日本においても、律令体制下では、牛乳加工食品の頂点に位置付けられる「醍醐」が貴族の独占的栄養源と制定されてました。そして理念上、この栄養源の大衆への開放を目指したのが(開発者が1902年にモンゴルで製法を再発見し、工業的量産に成功した)カルピスだったという事になるんですね。
醍醐 - Wikipedia
同じ「自由」でもFreedom(放置要求)でなくLiberty(状況に応じた制限解除)の世界。実際、カルピスの製造はその製法上「副産物」として(1963年以降、一流レストラン・ホテル・菓子店などに業務用として卸される様になった)超高級商品「カルピスバター」を生む様で、これは決して大衆の口には入りません。
マンハイムも「保守主義的思想」の中で述べていますが、そもそも臣民(Subject)意識そのものがLiberty(状況に応じた制限解除)を「中央集権への奉仕の対価として勝ち取る」戦略と「中央集権への反逆の積み重ねを通じて勝ち取る」戦略という相反する二重性を内包してるんですね。
*こうした二重性を内包する「臣民意識」から完全に反逆の芽を摘み取ろうとすると「保守主義」となり、逆にその反逆性を前面容認すると「市民意識」となるが、歴史的展開上当然「市民意識」は、そのLiberty(状況に応じた制限解除)の承認者に対してすら牙を剥き、これを打倒しようとする恐るべき側面を宿している。この考え方をさらに洗練させるとポパーの「反証可能性によって科学と非科学は『区別』される」なる科学哲学に行き着く事になる?
ちなみに最近、映画「未来を花束にして(Suffragette、2015年)」で話題になった「英国女性が参政権を獲得していく歴史」を実際に紐解いていくと「最初に女性の政治的大量動員に成功したのは保守党で、だからこそ自由党と労働党は女性の選挙権拡大を恐れた(というか実際、女性参政権が拡大する都度、保守党に破れてきた)」なんて恐るべき政治的リアリズムが浮上してくる。
*(もちろん上野千鶴子に代表される様な第二世代までのフェミニズム陣営は本気で反証しようとするだろうが)良い意味でも悪い意味でも日本の女性解放運動にこうした政治性は原則として存在せず、むしろその純粋にFreedom(放置)を追求する姿勢こそが、多様性を重視する海外の第三世代フェミニズム運動に影響を与えてきた感すらある。
私は人間がその生きて行く状態を一人一人に異にしているのを知った。その差別は男性女性という風な大掴おおづかみな分け方を以て表示され得るものでなくて、正確を期するなら一一の状態に一一の名を附けて行かねばならず、そうして幾千万の名を附けて行っても、差別は更に新しい差別を生んで表示し尽すことの出来ないものである。なぜなら人間性の実現せられる状態は個個の人に由って異っている。それが個性といわれるものである。健すこやかな個性は静かに停まっていない、断えず流転し、進化し、成長する。私は其処に何が男性の生活の中心要素であり、女性の生活の中心要素であると決定せられているのを見ない。同じ人でも賦性と、年齢と、境遇と、教育とに由って刻刻に生活の状態が変化する。もっと厳正に言えば同じ人でも一日の中にさえ幾度となく生活状態が変化してその中心が移動する。これは実証に困難な問題でなくて、各自にちょっと自己と周囲の人人とを省みれば解ることである。周囲の人人を見ただけでも性格を同じくした人間は一人も見当らない。まして無数の人類が個個にその性格を異にしているのは言うまでもない。
一日の中の自己についてもそうである。食膳に向った時は食べることを自分の生活の中心としている。或小説を読む時は芸術を自分の生活の中心としている。一事を行う度に自分の全人格はその現前の一時に焦点を集めている。この事は誰も自身の上に実験する心理的事実である。
このように、絶対の中心要素というものが固定していないのが人間生活の真相である。それでは人間生活に統一がないように思われるけれども、それは外面の差別であって、内面には人間の根本欲求である「人類の幸福の増加」に由って意識的または無意識的に統一されている。食べることも、読むことも、働くことも、子を産むことも、すべてより好く生きようとする人間性の実現に外ならない。
*欧米有名人の名言の世界においてすら、ここまで端的にFree(放置要求)の理念について語り得た文章というのは存外少ない。
巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓ざっとうへ初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。
*「男女差別は自由の理念を殺す」なる観念論から出発して男女平等の原則にたどり着いたコンドルセやジョン・スチュワート・ミルが泣いて喜びそうな文章。彼らの想定した「市民社会の等質性」とは、まさにこういうものだったのである。
資本主義社会においてこの構造は、例えば「鰻が喰いたいから働く」なるモチベーション刺激材料としての側面と、「(多少味が落ちても)養殖に成功して安価での大量供給に成功すれば儲かる」なる技術革新(イノベーション)志向の側面に転写される事になります。科学的実証主義が全人格化して「本物」と「偽物」の区別が曖昧になった世界においては、両者は必ずしもセットになってジレンマを構成するとは限らないのですね。実に複雑怪奇な世界です。
「現代社会の生き難さ」は案外、こういう展開に起因するのかもしれません。
さて、私達はどちらに向けて漂流してるのでしょうか…