諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ナショナリズムの歴史⑧ 「日本の洋食」ドリアの起源となったかもしれない「老人のポロリ」

欧米料理史に全く居場所が見付けられない奇妙なまでの「孤高の料理」、それは…

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 ドリア(Doria)-Wikipedia

米を使った日本発祥の洋食の一種。ピラフなど米飯の上にベシャメルソース(ホワイトソース)をかけてオーブンで焼いた料理で、横浜ホテルニューグランドの初代総料理長、サリー・ワイルが創作した。
「日本におけるフランス料理の祖」サリー・ワイル(Saly Weil 1897年〜1976年)- Wikipedia

スイス出身の料理人。 横浜、ホテルニューグランドの初代総料理長として来日し、約20年間にわたり日本に本場ヨーロッパのレシピや技術を伝え、日本の西洋料理の発展に寄与した。スイスへ帰国してからは日本からの留学生の受け入れに尽力し、日本から留学した留学生達からはスイス・パパと慕われた。ワイルがいなければ、日本の西洋料理界の発展は数十年遅れただろうとも評される。

ただし帰国してからの本国スイスでのワイルは、万国料理展示会の審査員を務めるなど一定の評価を得はするものの、帰国した時点ですでに50歳を過ぎており、料理人としての成功を得ることは叶わなかった。これには奇しくもヨーロッパのフランス料理はヌーベル・キュイジーヌの台頭による転換期に差し掛かっており、エスコフィエ式の料理が時代遅れになりつつあったことも影響している。

帰国してからはバーゼルにある食材会社に営業として勤務し、スタウブという名の女性と籍は入れず同棲生活を送っていたが、日本で得た収入は家族への仕送りやホテルの買収、またイスラエル建国に際しての献金として消費され、アパートで過ごす二人の生活は慎ましいものであった。 晩年は日本の西洋料理界の発展に寄与した功績が評価され、1973年に勲五等瑞宝章の授賞式への招待や、1975年にホテルニューグランド創立50周年を記念しての社史編纂への協力を依頼されるなど、来日を打診されることがあったが、病気の治療や体力の衰えから、再びの来日は叶うことなく、1976年、癌でベルンのセイントアナ病院で亡くなり、亡骸はベルン郊外のユダヤ人共同墓地に埋葬された。 ここには、ワイルに最も可愛がられた弟子の一人である馬場久が一度訪ねている。 

もともとフランス料理に「ドリア」という料理があったが、それは19世紀に名声を博したパリのレストラン“カフェ・アングレ”が、常連客であったジェノバの貴族「ドーリア家」のために作った「キュウリ・トマト・卵を使った別料理」。古典フランス料理で「ドーリア風」というと付け合せにキュウリを添えるのはその名残と考えられ、1912年にT.グランゴワールとL.ソールニエが書いた"Le repertoire de la cuisine"(日本では『フランス料理総覧』として知られる有名な料理書)でも「ドリア風とは、バターで炒めたキュウリを添える事」とされている。

また19世紀から20世紀初頭にかけてフランス料理界の帝王として一世を風靡した料理人オーギュスト・エスコフィエ(1845~1937)の著作でも"Le Guide Culinaire"という有名な料理書でも、ドリア風というと、キュウリを添える様になっている。ちなみに、フランス版ウィキペディアでは料理の"Doria"が「キュウリのスープ」と規定されている。もしかしたら料理でジェノバというと「ジェノベーゼソース(バジルをベースに作った緑色ソース)」が有名なので、緑色をしたキュウリが、ドーリア風≒ジェノバ風というイメージで残ったのしれない。

早坂勝「メニューに視る食文化」によれば昭和九年(1934年)11月14日の東京ニューグランド(横浜ニューグランドの支店)のア・ラ・カルトメニューには既に魚料理のところに"Shrimp Doria (芝海老と御飯の混合)"があったという。

昭和5年(1930年)前後、体調を崩した欧州銀行家の為に即興で考え出したもので、この時は「バターライス(ピラフ)に海老のクリーム煮を乗せオーブンで焼き上げたもの」だった。上にチーズを載せたり、モルネーソースを掛ける着想はワイル以降の後継者のものという。

言われてみれば確かにおかしい事ばかり。

どうしてこんな展開に?

洋食レストランでは定番の人気メニュー「ドリア」。

ライスが入ったグラタンのような料理です。これってどこの国の料理かご存知ですか?

グラタンっぽいのでフランス料理かな? と思いながら、某イタリアンチェーン店の定番商品にもなってるから、イタリア料理かも…?

ところがこのドリア、実は日本で生まれた料理なのです。

といっても、日本人が考えた料理ではなく、戦前に『横浜ホテルニューグランド』で総料理長を務めていた、サリー・ワイル氏が、日本に来てから考案した料理です。

ワイル氏は、1927年にニューグランドが開業する際にパリから招かれたスイス人コックで、フランス料理のコックでしたが、西欧料理全般に長けていて、イタリア料理やスイス料理なども得意としていました。そんなわけで、日本で生まれたとはいえ、日本の洋食というより「サリー・ワイル氏の料理」というべきかも知れません。

《ドリア誕生のエピーソード》

ワイル氏はニューグランドで、「コック長はメニュー外のいかなる料理にもご用命に応じます」とメニューに書き、お客様の要望に合わせて様々な料理を作って提供していました。

そんなある日「体調が良くないので、何かのど越しの良いものを」というお客様の要望を受けて創作した料理が、この「ドリア」だったのです。その時作ったのは、バターライス(ピラフ)に海老のクリーム煮を乗せ、ソース・モルネとチーズをかけてオーブンで焼いたもの。

好評だったこの料理は、"Shrimp Doria"(海老と御飯の混合)としてア・ラ・カルトのレギュラーメニューになり、ニューグランドの名物料理の一つになりました。それが弟子達によって他のホテルや街場のレストランでも提供されて広まり、今では全国の洋食の定番料理になっています。

ちなみに、ワイル氏のオリジナル・ドリアは、ニューグランドの名物料理として今でも提供されています。

ワイル氏考案のドリア。名前の由来は?

もともと「ドリア」はフランス料理に存在していました。イタリアの港町・ジェノバの名門貴族「ドーリア家」のためにパリのレストランが作った、キュウリ・トマト・チキンを使った料理のことを指していたのです。古典フランス料理で「ドーリア風」というとキュウリを添えるのはその名残だと考えられますが、ワイル氏が考案した「ドリア」とは全くの別物です。

料理そのものは違えど、名前自体は「ドーリア家」にちなんでいて、特に15世紀ごろに活躍したジェノバの海軍提督・アンドレア・ドーリア(Doria)という人物のことを指しているのでしょう。中世時代のジェノバは貿易で栄えていて、18世紀末頃まで「ジェノバ共和国」として独立していました。その中で、ドーリア家は、ジェノバ共和国が建国される以前から名家として知られる超名門貴族だったのです。その一族の中でもアンドレア・ドーリア提督は「ドーリア家」といえばまずその名前が連想されるほど有名な人物です。(ちなみに、ジェノバには今でもドーリア家の宮殿が残っているそうです)また、ジェノバは18世紀の末にはナポレオンによって占領された時期もあり、ほんの10年わずかだったとは言え、フランスとも関わりを持っていたことになります。

ワイル氏が考案した「ドリア」の名前の由来がアンドレア・ドーリア提督ということはあまり知られてはいません。しかし、かつてニューグランドでワイル氏の補佐をしていたコックの荒田勇作氏が1964年に出版した『荒田西洋料理』という料理書には、ドリアのことを「海将風」と記載されています。由来については分かりましたが、ワイル氏はなぜライスにグラタンを乗せた料理に"Doria"と名付けたのでしょう?

本当の起源は「海将風ライスグラタン」?

ところでここに"Le Guide Culinaire"や、"Le repertoire de la cuisine"にも掲載されている「Homard Tourville(オマール海老のトゥールヴィル風)」という、フランスの古典料理が存在する。まず、タンバル皿(日本的に言うとグラタン皿)を用意してそこにリゾットを敷き、手鍋でマッシュルームをバターでソテーし、薄切りにしたオマール海老、牡蠣、ムール貝、トリュフを合わせ、クリームソースで合えてリゾットの上に乗せ、そして全体にソース・モルネをかけ、チーズをふってオーブンで焼く。ここでいう、「トゥールヴィル」とは、17世紀に活躍した有名なフランス海軍提督トゥールヴィル伯爵(アンヌ・イラリオン・ド・コタンタン、(Anne Hilarion de Costentin, comte de Tourville, 1642年~1701年)の事で「海将」はこれに由来するとも。

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一般的な調理法としては、バターを塗った耐熱容器にバターライスまたはピラフを盛り、ベシャメルソース(ホワイトソース)で覆い、その上から削ったパルメザンチーズをふりかけ、表面に焦げ色がつくまでオーブンで焼く。

エビやイカをいれたものはシーフードドリア、鶏肉をいれたものはチキンドリアと呼ばれるなど、具材によって様々な呼ばれ方をされるが、ライスグラタンと呼ばれることもある。
*グラタン料理は(焦げ目をつける野手も含め)宮廷料理というより(中世にはイタリアとの交通に不可欠だった山岳地帯の直轄領)ドーフィネ地方の郷土料理発祥と考えられている。ちなみにこの地方の住民はフランス全土がナチス・ドイツ占領下に入っても終始レジスタンス活動を続けた。
グラタン - Wikipedia

アンドレア・ドーリア (Andrea Doria またはD'Oria,1466年〜1560年)

イタリア・ルネサンス期のコンドッティエーレ(イタリア傭兵隊長)。

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ジェノヴァ共和国の名家ドリア家の出身で,1522年にフランス海軍へ入り活躍するものの,1528年以降は神聖ローマ帝国(スペイン)に雇われ海軍提督になる。

1535年のチュニスでの海戦ではオスマン帝国海軍に勝利したものの,1535年のプレヴェザの海戦においては敗北。以後も海軍提督として活躍したが、オスマン帝国から主導権を取り戻すことは出来なかった。

一方、当時としては非常に長命で、80代以降もバルバリア海賊駆逐のため現役として活躍し続けている。

甥のジャナンドレア・ドーリアが後継者となり、レパントの海戦(1571年10月7日)において神聖同盟艦隊右翼を指揮している。しかしジェノヴァ艦隊の多くはドーリア家の船であったため過度に慎重になり、対手であるウルチュ・アリの艦隊に中央の裏を突かれる危機を招き大伯父程の技量が無く、機動も遅く戦意に欠ける事を露呈してしまった。 
レパントの海戦 - Wikipedia

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e0/Battle_of_Lepanto_1571.jpg/1024px-Battle_of_Lepanto_1571.jpg

 ちなみにネット上で”Andrea Doria”と検索すると、彼の名前を冠した2種類の「船」の画像が入り混じってとんでもないカオス状態に。

  • 「客船」アンドレア・ドーリア号…1951年進水の大西洋横断船。1956年に客船ストックホルムとの衝突により沈没。

    f:id:ochimusha01:20170415061603j:plainhttp://i2.wp.com/artmatome.com/wp-content/uploads/2015/12/824802570.jpg?w=572

  • 「戦艦」アンドレア・ドーリア号…ムッソリーニ執政下におけるイタリア海軍の保有艦。それ自体は忘れ去られ「女体化」された画像ばかりがネットの海を漂う。

    https://68.media.tumblr.com/7d125269e13dd85bda9f9338797159c0/tumblr_ofkox09jWD1sifqsjo1_500.pnghttps://68.media.tumblr.com/7e4b3315244fde4e3bd53ff77f59c8e6/tumblr_og6v42pxqH1sifqsjo1_500.png

*ちなみに源氏名「A.Doria」なる著名なポルノ女優がいるらしく、迂闊に「Doria」で検索すると画面が彼女の画像で覆い尽くされる。あとルチオ・フルチ監督のスプラッタ映画地獄の門(Paura nella città dei morti viventi / City of the Living Dead、1980年)」のヒロイン名がDaniela Doriaで、この画像も一定確率で混ざってくる。

https://68.media.tumblr.com/dc12c70e22280512a9a3dca941b91c83/tumblr_o6cevaImsj1r73lylo1_500.gif

ある意味「ジェノヴァの悲劇的興亡史」と深く結びついた人物なのですね。

  • そもそも都市国家としてのまとまりに欠けていた為、ヴェネツィアイングランド集団主義に対してただひたすら敗北し続ける。
    *それは「アメリカ大陸の発見者」クリストファー・コロンブスの様な「個人的英雄」を無数に輩出した事と表裏一体の関係にあった。

  • カール大帝が国内の階級闘争(銀行家と手工業者の衝突)に介入して「ジェノヴァ虐殺(Sacco di Genova、1522年)」を敢行。以降ジェノバ人銀行家は完全に「スペインの御用商人」として憎まれながら依存される存在へと変貌。
    「スペインの御用商人」レコンキスタ達成過程で「スペインにおいてはスペイン人以外は活躍してはならない」なる公定ナショナリズムの支配下に入ったスペインは、それゆえに同時に「ユダヤ教徒追放令(1942年)」によって国内ユダヤ人をオスマン帝国フランドル地方に追いやらざるを得なくなる。「モリスコ追放(Expulsión de los moriscos、1609年)」同様にスペイン帝国を破産させ三流国以下に転落させていった愚策の一つだが、すぐにその問題が表面化せずに済んだのは、曲りなりとも彼らに「(ドイツ語圏における)宮廷ユダヤ人」の役割を押し付ける事に成功し「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的体制」の当面の存続に成功したからだった。
    ジェノヴァのレ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度 - Wikipedia

    http://visitaly.jp/wp-content/uploads/2014/03/us-27bp1_01.jpg

  • なまじ活躍したがゆえにアンドレア・ドーリアやアンブロジオ・スピノラ(Ambrosio Spinola, 1569年〜1630年)といった「スペインのジェノヴァ系名将」は「スペインにおいてはスペイン人以外は活躍してはならない」なる公定ナショナリズムを刺激してしまい、後世にはその存在すら抹殺されるに至る。
    アンブロジオ・スピノラ - Wikipedia
    ブレダの開城 - Wikipedia

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8e/Velazquez-The_Surrender_of_Breda.jpg/350px-Velazquez-The_Surrender_of_Breda.jpg

    *「スペインの公定ナショナリズム…英国やフランスと異なり「王権に対する大貴族連合の勝利」に立脚した為、彼らの嫉妬心を刺激した全ての成功者が粛清の対象となった。スペイン陸軍を象徴するテルシオ(Tercio、1534年〜1704年)戦術を考案したコルド将軍(Gonzalo Fernández de Córdoba, 1453年〜1515年)ですら失脚を免れ得なかったくらいだから、スペイン軍がどんどん弱体化してやがて欧州最弱と成り果ててしまったのには、ある種の必然性があったといえる。
    ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ - Wikipedia

  • 大航海時代の到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移すると、フェレンツェやヴェネツィアはドイツ語圏やポーランド=リトワニア連合の様に「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的体制」に回帰する事で生き残りを図った。しかしながら国外領土の大半を失ったジェノヴァの耕作可能面積はあくまで限られており、価格革命によるダメージもあって没落を余儀なくされる。
    *水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」は「ジェノヴァの過去史は日本の未来史である」としたが、こういう展開のどこをどう考えればそういう結論に到達するか未だに分からない。

トゥールヴィル伯アンヌ・イラリオン・ド・コタンタン(Anne Hilarion de Costentin, comte de Tourville, 1642年〜1701年)

ブルボン朝フランスの軍人。ルイ14世時代の提督であり、1693年にフランス元帥に授与された。

  • 17歳でマルタ騎士団フリゲートに乗り組み海戦に初参加、25歳でフランス海軍に入り、1673年のオランダ侵略戦争戦列艦サン=パレイユの乗員として戦った。アーゴスタでは「シレーネ」の指揮を執り、後に「セプトール」の艦長となった。

  • 1676年の戦役ではアブラハム・デュケーヌ提督の下で戦い、1690年から始まった大同盟戦争ではフランス海軍の総司令官となった。ソレイユ=ロワイヤルに1692年まで将旗を掲げ、ビーチー・ヘッドの海戦ではトリントン伯アーサー・ハーバートが率いるイングランド・オランダ連合艦隊の15隻を沈める大勝利を挙げている。

  • しかし、1692年のバルフルール岬とラ・オーグの海戦では44隻でトリントンの後任のエドワード・ラッセルが指揮する敵の82隻と戦い、勇敢に戦ったが火船攻撃で大損害を受けてフランス艦隊は大敗・壊滅状態になり、ジャコバイトのイングランド上陸計画は頓挫。

  • 1693年6月27日のラゴスの海戦ではポルトガルラゴス湾付近でジョージ・ルーク提督が率いる59隻のイングランド船団を打ち破った。

1697年のレイスウェイク条約締結後に退役し、1701年5月23日にパリで死亡した。

ところで、アンドレア・ドーリア提督といったら国際的に(同ポーズの海神ネプチューン像にあやかった)生殖力の誇示」を企図したポロリ画像」で有名です。
*かつて「ヘスティアの紐」が大騒ぎになった時に、欧米人が対抗馬として回覧してた。

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老いてなお「イスラム圏に対する洋上の盾」として働き続けた事へのイタリア・ルネサンス式賛美。もしかしたら、サリー・ワイル料理長が「海将風グラタン」に「ドリア」という名前を与えたのは、この「ムキムキ老人の壮健さ」にあやかろうとしての事だったのかもしれません。
*国際SNS上の関心空間でも「ドリア(Doria)は日本食」がコンセンサス。

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*そして期待に違わず存在した「ソーセージ・ドリア」の世界…ミート・ドリア(ボローニャ風ドリア?)のバリエーションの一つらしい。
ソーセージドリア - Google 検索

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*そして日本の「駄菓子ノリ=食文化のOver Drive感」はさらに一歩踏み出して「茄子のボローニャ風ドリア」なる創作料理に到達する。インスピレーションの源泉は「茄子のしぎ焼き」というより「麻婆茄子」?

*そして、さらなる魔改造「カレードリア」。要するにカレー味ライスグラタン?

こうなるとむしろ「地上で初めて「(フランス人なら大喜びの)海将風ライスグラタン」でなく「(ジェノバ人なら大喜びの)ドリア」を供された客」の詳細がどうしても気になってきます。信じられないほど複雑に入り組んだナショナリズム的感情。そしておそらく原則として(同じスイスだった文学史家ブルクハルト同様)「イタリア国内の各地域間における感情的対立への配慮」に無遠慮だった筈のサリー・ワイル料理長ですらそれなりに気を使った相手…そう、彼こそが「全ての始まり」だった筈なのです。

さて、私達は一体どちらに向けて漂流しているんでしょうか…