インタビューによれば、神山健治監督「ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜(2017年)」には「親世代が子世代に伝るメッセージ」という側面が存在する様です。
その一方で父親や母親の世代を美化し過ぎた結果、息子や娘の世代がその単なる従属物に過ぎなくなってしまった側面も見受けられます。ある意味「俺TUEE系」ならぬ「親TUEE系」という次第。
実は「親TUEE系による俺TUEE系の超克」なる主題自体そのものは1990年代における「TV系サイバーパンク世代の中年危機問題」まで遡ります。
*要するに当時話題になったソフィア・コッポラ監督作品「ヴァージン・スーサイズ(The Virgin Suicides、1999年)」や「ロスト・イン・トランスレーション(Lost in Translation 、2003年)」がどんなに美しい映画であっても、「ひるね姫」のエンディングがどれだけ涙を誘う出来栄えでも「現在なおこの世界を主体的に生きているのは(子世代でなく親世代たる)我々である」なる立場に立脚する限り「(自ら主体的に生きる権利を剥奪された)子世代の叛逆」は避けられない。宮台真司はこのジレンマについて容赦無く「我々の世代はあらゆる革命を主導してきたし、これからも遂行し続けていく(後の世代には、我々に感謝しつつその決定に盲従する自由のみが存在する)」と考える「すっかり保守化しながら、自らそれが自覚出来てない革新派の悲劇」と定式化した。「ひるね姫」に登場するココネの父モモタローに垣間見える「反体制はそれだけで格好良いとする美学への陶酔」と考えねならないという次第。
そもそも現代日本を覆う閉塞感は、日本のベテラン評論家層が以下をまともに指摘出来ていない点と無関係でないのかもしれません。
- ソフィア・コッポラの出発点が「偉大なる父」フランシス・コッポラへの叛逆だった事、およびそのフランシス・コッポラにとっての「偉大なる父」が黒澤明監督だった事。
*とにかくこの次元において「三世代間競争の複雑怪奇さ」を見て取らない限り平成生まれの若者が「第四世代」に位置付けられるという基本的立脚点に到達出来ないのである。
- 「デイ・ドリーム・ビリーバー」が(大麻に由来する)タイマーズの持ち曲だった事。そして「大麻やヘロイン(モルヒネ)がもたらす鎮静効果」が(「キングコング: 髑髏島の巨神(Kong: Skull Island、2017年)」でリヴァイヴァルされた)フランシス・コッポラ監督映画「地獄の黙示録(Apocalypse Now 、1979年)」における「スローモーション化されたヘリのプロペラ音」と決して切っても切れない関係にある事。
*ある意味、モモタローが朝目覚めた瞬間「岡山…クソ、俺はまだ岡山にいる」とモノローグする場面が想像出来ずにして「キングコング: 髑髏島の巨神」も「ひるね姫」も完全に堪能したとはいえないのかもしれない。そしてこうしたエピソードは「キングコング: 髑髏島の巨神」における「第二次世界大戦の未帰還兵」や野田サトル「ゴールデンカムイ(2014年〜)」における「日露戦争の未帰還兵」の物語へとつながっていく。
「サイゴンか、クソ、俺はまだサイゴンにいる」ウィラード中尉はベトナム戦争のさなか河を上りジャングルへと向かう。その先には掌上の舞をもなしうる可憐な舞姫エリスがいた。一時享楽にふけるウィラードだったが本来の任務「カーツ大佐抹殺」を果たすためそこを後にし、エリスは絶望し発狂する。
— ゲルン@読む機械 (@gern) 2010年5月28日 - そして当然「両者の延長線上における交点」は当然(謎の事故死を遂げた)ジム・モリスン率いるThe Doorsという事になる。
とどのつまり現代日本を覆う閉塞感は「俺TUEE系作品と親TUEE系作品の衝突は不可避」なる覚悟の甘さに起因する所も大きいのかもしれない?
ところが実はこの次元におけるジレンマのDeep度合いってトリミングの厳しい新海誠監督映画「君の名は(2016年)」の方が遥かに深かったりするのですね。
それをより深く感じたのは「神山健治監督の娘」より「新海誠監督の娘」だったたかもしれません…
娘の読んでいた本に!笑 pic.twitter.com/5yD7gnmhbF
— 新海誠 (@shinkaimakoto) 2017年5月1日