諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

グローバリズム・リージョナリズム・ナショナリズム④ 試験に出る「商業革命」「価格革命」?

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どういう気まぐれか、はてなブログアクセス解析によると、最近私の投稿について「価格革命」や「商業革命」に関するアクセスが伸びている様です。検索してみたら、どうやら文字通り「試験に出る」せいみたい。要するに試験対策?

商業革命」や「価格革命」が起こった17世紀当時の主役はあくまで「大航海時代」を創出したポルトガルやスペインであり、オランダや英国はあくまでそうした時代トレンドに追随しただけに過ぎなかったとも。ただしそれは同時に「主役が没落を余儀なくされていく悲劇の歴史」だったのであり英国やフランスの様な「戦争遂行の為に臣民や国内資産を最後まで全て動員可能な官僚制によって常備軍が維持される主権国家に歴史の主役が奪われていくプロセスでもあったのでした。

商業革命 

 そんな関係でこんな投稿もアクセス数を伸ばしている模様。

3.食後の砂糖。こういう優雅さは 16世紀初頭においては貴族だけのものだった。 / FICTIONS

例えばぼくの目の前にあるこの紅茶、(ママにはコーヒーを!)これもアメリカの砂糖と、アフリカの奴隷の恩恵なんだ
紅茶やコーヒーってなんか 一見 お洒落な感じがするだろう」

「あたしは紅茶はにがいくてきらいだけど、まあ砂糖をいれればなんとか確かに、しゃれているといういけんに反対はないよ」

「食後の砂糖。こういう優雅さは 16世紀初頭においては貴族だけのものだった。砂糖はなにしろ、ヨーロッパではとれない貴重品だったからね
これが百年ほどでが状況がらっとかわっちゃう

4.それまでほとんど上昇しなかった物価は短期間で一気に五倍にはねあがる / FICTIONS

大量の金が流れ込んだヨーロッパは
ひきつけを起こしながら
貧富の差を増大させつつ物価をあげ、
総量としては生産性をあげていった

最初の一撃があまりに革命的だったので
これを価格革命(price revolution)という
それまでほとんど上昇しなかった物価は短期間で一気に五倍にはねあがる
上野広小路のSteakDining鷹のステーキ丼千円が
一気に五千円だ
たまったもんじゃない!

5.「悪貨は良貨を駆逐する」というのは偽金のこともあったけど、主要にはメソアメリカから流れてくる血に染まった金のこと / FICTIONS

この”革命”の主要な下手人が
メソアメリカからの濡れ手に粟の金銀財宝だと言われている「悪貨は良貨を駆逐する」というのは偽金のこともあったけど、主要にはメソアメリカから流れてくる血に染まった金のことだったんだよ
実際この血塗られた金で不幸になった人も多かった白い砂糖(粉)とひきかえにね」

6.黄金が、たましいを酸化させていった / FICTIONS

「価格革命の起こった後では、
砂糖は庶民のぜいたく(fixes)、
庶民のぜいたくからちょっとのぜいたく
ちょっとのぜいたくから生活用品に限りなく近いもの(staple)へと、
まるで虫歯でもひろがるように変貌をとげていった。

黄金が、たましいを酸化させていったのだ。
黄金によってわれわれのたましいは変貌をとげていく
錬金術はにんげんの心にすくうやみをてらす
人間の魂はこの三百年ほどで、急激にかたちをかえはじめた」

*同様の社会的変化は日本も同時代的に経験している。「ポトシ銀山が枯渇して以降、欧州への金銀の大量流入を支えてきたのは日本」という説もあるし「世界商品」砂糖は日本にも流入して和菓子の発展を促したのである。そして「参勤交代実現の為に遂行された全国規模での交通インフラ整備が商業を活発化させ(各藩の自給自足経済を担う御用商人を駆逐した)株仲間(全国規模の富農・富商ネットワーク)を台頭させる」番狂せも起こった。

7.ついに高級だった紅茶は、労働者がまずい飯を胃に流し込むための、甘いお湯となった。 / FICTIONS

これと比例するように、砂糖のねだんはどんどんさがり
ついに高級だった紅茶は、労働者がまずい飯を胃に流し込むための、甘いお湯となった。

貧しい人々は 温かい茶をのむことで
何かこころがあたたまるような錯覚を抱くことができたのだ
本当はグラス一杯の冷たいビールのほうが、はるかに栄養のある飲み物だったのだが。

8.「パンだけの冷たい食事も、紅茶さえあればすこしリッチな「あったかいメシ」になる / FICTIONS

茶とはここでは栄養ではなく何か祈りに通じる慣習(Custom)なのだ
茶を一度憶えた者は
どんなに貧しい状態で飢えていても
ついお茶を買ってしまうのだ

人間としての最低条件にお茶が含まれたのだ
価格革命のあと「パンだけの冷たい食事も、紅茶さえあればすこしリッチな「あったかいメシ」になる。「人はパンのみに生きるにあらず」とはまさにその通り。

これらのことは、イギリスでの紅茶の習慣の例が顕著だが
この時代、コーヒーも、チョコレートもまったく同じみちすじをたどっている。
ホットな砂糖。帝国中の平民にまでわたる甘くてあたたかい何か
これは、もとをたどればアメリカから流れた金銀と、ころされた古代アメリカ人たちの恩恵なのである。

*実際の英国食文化史においては「白パン(食パン)」の発展も加速。日本でも第一次世界大戦特需以降、急速に白飯食文化が日本全土に定着していく。

1.その財宝の量が、分かっているだけで黄金200トンと、銀が2万トン、 / FICTIONS

「黄金と殺戮って?」
「簡単に言うとだね、メソアメリカ中の人をころしにころして 空いた土地にタダ同然のアフリカ人どれいを収容して、こきつかって砂糖を作って砂糖のねだんを下げたんだね」

「フム、では黄金は?」
「メソアメリカをほろぼしたときに手に入れた黄金と、生き残ったアメリカ人をこき使って銀を掘ってその金銀財宝がいっぺんにヨーロッパに流れ込んだのだ。

その財宝の量が、分かっているだけで黄金200トンと、銀が2万トン。しかし一説によればこれの二倍が、スペイン人がメソアメリカを滅ぼした百年のうちで流れ込んだという。」
どっと
「それっていくらぐらいなの」

2.少なく見積もって二兆円ぐらいかな、倍なら四兆円だな / FICTIONS

「少なく見積もって二兆円ぐらいかな、倍なら四兆円だな」
「スゲー」
「うん、年に百億ぐらいか、この金がタダ同然で手に入ったりするのは、だれの家計にもインパクトのあることだね

この金で奴隷を勝ったり、奴隷を買うためのものを作ったりしたんだ。
ころしにころしてきんぴんまきあげてるんだから、石を黄金にかえる錬金術とはまさにこのこと
この大量の金銀が流れ込んだのが、近代世界の呼び水のひとすじになったといってもさしつかえない。
あらゆる不毛はこの大量の黄金から始まった。
奴隷貿易もそうだし、大量消費もそう。

*最大の皮肉は、欧州人道主義の起源がスペインにおける「異教徒のインディオもまた同じ人間とみなす運動」だった事を見逃している点にある。これが巡り巡ってヴェストファーレン条約(1648年)締結を契機に発足した「欧州国際協調体制」にまで影響を与える展開となったのだった。

*そもそも「産業革命導入に伴う大量生産・大量消費文化の浸透」こそが「消費の主体が王侯貴族からブルジョワ階層や庶民に推移する真の革命」を牽引した事実も見逃されている。

こういう投稿が関心を集めてるなら、以下の投稿も伸びて欲しいところだけど、そううまく運んでくれないのがネット検索の世界というもの。

「最後にして最大の欧州宗教戦争の一つ」に数えられる事も多い三十年戦争(1618年〜1648年)を終わらせたヴェストファーレン条約。そしてこれを契機に「国連の起源」とされる事もある欧州国際協調体制が発足。ただし、その枠内に「欧州王侯貴族間の私欲にまみれた内紛」に愛想を尽かし、大西洋に活路を見出したイングランドの姿は存在しなかったのである。

三十年戦争 - Wikipedia

当初は神聖ローマ帝国内で局所的に起きた小国家同士のプロテスタントカトリックの戦争がヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展した。

戦争はカトリックの国であるフランス王国プロテスタント側につくなど、次第に宗教とは関係のない争いに突き進んだ。

スウェーデンが参戦した1630年以降は、フランス王国ブルボン家オーストリア大公国ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いともなった。

この戦争は欧州経済の転機となり、スウェーデンへはオランダから資本が、リエージュ(ベルギーの伝統的工業都市)から鉱山開発技術が流れこみ、またスウェーデンからオランダへ大量の武器が輸出されるようになった。

  •  以降「ヴェストファーレン体制の盟主」フランス絶対王政は「国際協調体制」そのものを敵に回す侵略行動に打って出る。その一方でヴェストファーレン体制の次席スウェーデン王国は大洪水時代(ポーランドスウェーデン戦争)における大北方戦争(1700年〜1721年)における敗戦で「バルト海の覇者」の称号ごと、その座を帝政ロシアに譲り渡す事になる。かくして7世紀から18世紀にかけての欧州歴史は「主権国家間の競争」が主題となったが、英国や帝政ロシアは明らかにその枠組の外側で力を蓄えていき、この方面でフランスは次第にジリ貧状態に陥っていく。

  • 北方戦争においてポーランドスウェーデンとの間で政治的にうまく立ち回り、ヴェーラウ条約(1657年)およびオリヴァ条約(1660年)によって両国の宗主権から解放されたプロシア公領。さらにスペイン継承戦争(1701年〜1714年)のドサクサにまぎれてプロイセン王国へと発展し、帝国内外のあちこちに散らばった世襲領の臣下たちの心を1つにまとめることに成功する。フランス王家とハプスブルグ家が歴史的和解を果たした外交革命(1756年)も、英国より経済的後援を受けたこの国を、さらに帝政ロシアと手を結んで包囲殲滅する為の施策だったが「主権国家間の協調体制」は互いのエゴのぶつかり合いのせいで上手く機能せず、遂に目的を達成出来ずに終わってしまったのだった。

    *歴史のこの部分を「世界史の一部」と考えるべきではないとする立場もある。実際、英国はこうした「欧州史(王侯貴族間の前時代的内紛)」を尻目に海外植民地を確実に増やしてきたし、むしろ以降の「世界史」はこの軸に沿って展開していくのである。当時の英国を席巻した「ネイボッブ(インド成金)」や「砂糖王(カリブ海不在地主)」は19世紀前半にマンチェスター中心に勃興した新興商業階層に政治的敗北を喫するまで権勢をほしいままにし続ける。

    *その観点からすれば「アメリカ独立戦争(1775年〜1783年)」も「フランス革命(1787年〜1799年)」も「ナポレオン戦争(1803年〜1815年)」も「フランス7月革命(1830年)」も「(王侯貴族が外交を担う主権国家の寄せ集めとしての)欧州協調体制」の枠組内で起こった「地方史」に過ぎず、本当の世界史はフランス革命に便乗しての南米やカリブ海における独立ラッシュ(ただしポルトガル王室の同君統治国としてスタートし現地最強国となったブラジルを除く)や二月/三月革命(1848年〜1849年)のハプスブルグ君主国やオスマン帝国領内への波及(ただし「オランダ王室」ナッソー・オラニエ家との対抗上ザクセンコーブルク=ゴータ公家を王統とし、その後の政略結婚を通じて英国に接近したベルギー王国、「ハプスブルグ家の家臣でない辺境の王族」を王統に迎える形で独立を達成したイタリア王国サルデーニャ王統サヴォイア家)やドイツ(プロイセン王統ホーエンツォレルン家)を除く)に始まったという事になる。

    *ここで例外とされた独立国の方が、むしろ「世界史上の正統派」とされた国々、すなわち純粋にナショナリズム民族主義)の高揚と「(ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体(1983年)」いうところの)想像された市民革命」にのみに導かれる形で独立を果たし、以降は現在に至るまでドロドロの内紛状態によって後進国状態に留まり続けている発展途上国よりは安定した発展を遂げてきた。何たる皮肉!! しかしながら欧州の発展を「その栄光の全てを植民地搾取に依存してきた不健全な発展」と決めつけた「反欧米日史観」に立脚し続ける限り、こうした矛盾から逃れる道はないのであった。

そして皮肉にも奴隷交易に支えられた「大西洋三角貿易」の終焉は、経済的にこれに依存してきた西アフリカの奴隷制黒人諸王朝を経営破綻させ、その事によって引き起こされた混乱が「アフリカ分割」の引き金を引く事になる。一方、天下統一によって「戦争奴隷の供給地」たる立場から脱却した日本はボーア戦争1880年〜1902年)によって消耗した大英帝国から「戦略的パートナー」に選ばれる展開を迎える。

ボーア戦争 - Wikipedia

イギリスはこれ以降、オランダの背後にあるドイツ帝国を脅威と受け止める様になった。そして三国協商日英同盟・日仏協商・日露協約による包囲網を急ピッチで完成させていく。

それまでイギリスが栄光ある孤立を維持できたのは、ユグノー資本が民間レベルで列強の国際関係に干渉できたからである。しかしドイツの飛躍的な国力増大を前に、政治を利用した総力戦で伸張を阻む作戦が立った。

こうして「砂糖が世界商品として君臨した時代」は終焉を告げる事になったの。 ある意味「産業革命前夜における農本主義の最後の栄光」とも。

 そもそも全体像をこうした角度から俯瞰してみると「主権国家国民国家へと推移していく過程」も随分と違ったものに見えてくるのです。

主権国家体制と国民国家

  • そもそも主権国家の概念の発端は「(かねてより続いてきた英国王がフランス国王の臣民でもある)イングランドのフランスからの分離独立運動(いわゆる「百年戦争(1337年〜1453年)」)」にまで遡る。この過程で両国は「火器を装備した常備軍」「(当初は常備軍を養う為の徴税を担う官僚団の編成という形をとった)中央集権化」といった概念を獲得。
    *ただし(イスラム諸王朝が割拠しイタリア商人が跳梁する地中海沿岸地域が経済の中心地だった)歴史のこの時点においてはイングランドもフランスも「辺境の後進大国」に過ぎなかった。

  • 中世的普遍史観の伝統を何よりも真っ先に台無しにしたのは「ローマ教皇庁の領主家」だったとされる。なにしろ、いわゆる「チェザーレ・ボルジアの時代」にはローマ教皇国は(フランスの軍事力を借りるという形ながら)イタリア統一まであと一歩というところまで迫ったくらいだった。そしてイタリア戦争(1494年〜1559年)においてはフランス王統とハプスブルグ皇統が「ローマ教会の宗主権」を巡って激しく争い、プロテスタント登場を契機として起こったユグノー戦争(1562年〜1598年)や三十年戦争(1618~1648年)を通じて「宗教的大義名分が欧州諸侯の外交を左右した時代」は終焉に向かう。同時進行でイタリア・ルネサンスに端を発する「人間中心主義」が広まり、欧州王侯貴族がそのエゴをぶつけ合う「主権国家間の競争の時代」が現出する事になる。
    ベネディクト・アンダーソンいうところの「出版資本主義(Print Capitalism)」の大源流には「プラハの出版革命」に立脚した「ドラキュラ伯爵の誕生」なる悲劇が横たわっている。そのモデルとされたワラキア公ヴラド3世(串刺公)は対オスマン帝国強硬派で、彼の暴走を恐れるハンガリー王マーチャーシュ1世の手によって幽閉され「悪のスケープゴート」としてパンフレット(小冊子)流布による徹底的ネガティブ・キャンペーンを張られてしまったのだった。まさにこういうのが「主権国家間の競争の時代」における「出版資本主義」の在り方だったのである。以降もそれは「新教徒と旧教徒の対立」「フランス国王と貴族連合の対立」「(カソリックに傾倒する)英国王と(プロテスタントに傾倒する)議会派の対立」などを加速させるプロパガンダ手段として政治利用されていく。
    ヴラド・ツェペシュ - Wikipedia
  • 主権国家間の競争の時代」において案外見逃せないのは「国家こそ世界経済を動かす主体」と想定した18世紀ナポリ経済哲学の登場で、その前提自体は「国家間の国際的競争が世界史を動かした」総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)まで通用し「縦軸に税負担の度合い、横軸に公共サービスへの国民満足度を採る」イタリア国家経済学の大源流となる。

  • 実際の歴史上における主権国家から国民国家への推移は「(何よりもまず王侯貴族のエゴイズムが優先される為)経済問題が政治問題や外交問題の従属物としてしか扱われない段階」から「政治問題や外交問題が経済問題の従属物としてしか扱われなくなっていく段階」への移行過程として表面化してきた。この流れが「国民軍の編成競争」や「産業革命導入による大量生産・大量消費を回す為のブルジョワ階層や庶民階層の消費者化」を通じて「国民」の存在と結びつけられていく。こうした発想が19世紀に端を発し「(総力戦体制時代の国民総動員意識の衣鉢を継ぐ)商業至上主義時代(1960年代〜1990年代)」にかけて通用した。

最大の皮肉は「(戦国時代、あやうくアフリカ同様「戦争奴隷供給地」に仕立てられかけた)日本の武家階層」や「ポルトガルやスペインを抑え込んで大西洋三角貿易を制し奴隷交易の主役に躍り出た)イギリスのジェントルマン階層」や「(むしろ積極的に再版農奴制にのめり込んだ)ドイツのユンカー階層」の方が(自らの生活がかかっているが故に)それぞれのビジネス・スキームの破綻にも一際敏感で、真っ先に転身を計って確実に生き延びてきたという歴史的現実かもしれません。まさしく「デモで一番危ないのは三列目」の世界…

*皮肉にも「自分達こそが歴史の最先端」なる意識、思考停止状態のまま何となく流行に流されてきただけの国々や地域、すなわち「(王党派が絶対王政への依存を自力では断ち切れなかった)フランス」「(再版農奴制への依存を自力では断ち切れなかった)ロシアや東欧諸国やハプスブルグ君主国」「(奴隷制への依存を自力では断ち切れなかった)アメリカ南部や南アフリカ諸国」においてこそが芽生える傾向が見て取れる。

まぁ実際の歴史上における「イギリス」「フランス」「日本」などの「国民国家化」の過程はかくの如し。アメリカやドイツやイタリアのケースもその特殊な株分け過程として説明出来ない事もありません。

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その一方でこうした「実際の歴史上における国民国家の成立過程」は「ナショナリズム高揚に伴う国民統合」とか「国民が主権を獲得していくプロセス」が国民国家を成立させるという前提に立つ「想像された市民革命」の世界とは(これらの国々の成功をモデルとしているにも関わらず)最初からほとんど価値観を共有していない様にも見えるのです。そして、そうした矛盾した状況から「イギリスや日本の様な立憲君主国は、真の国民国家段階に発展する為に一刻も早く国民の総意を以って王族や皇族を処刑し尽くさねばならない」とか「我々は人間らしさを回復する為に一刻も早く国民国家段階を脱却しなければならない」なんて極論が次々と飛び出してくるという顛末。
*要するにアントニオ・グラムシが指摘した様に「先進国では社会民主主義が採択され続け、後進国では革命が起こり続ける」のだが「自分達こそ世界最先端」と信じる「後進国」においては、そもそもこうした思考様式そのものが「先進国的退廃」のレッテルを張られ全面否定される傾向が強く見られる。こうした「超克論のジレンマ」に気付かない限り先進国と後進国の格差は益々開いていく。

*ちなみに戦前ドイツにおいては「経済問題が政治問題や外交問題の従属物としてしか扱われない段階」から「政治問題や外交問題が経済問題の従属物としてしか扱われなくなっていく段階」への移行を「政治的堕落」としか認識出来ない風潮が支配的だった。そうした空気が生み出したのがカール・シュミットの政治哲学。要するに「それ以外の国民国家の可能性」を追求した結果がヴァイマル共和政の大統領内閣(Präsidialkabinett)であり、ナチスドイツの指導者原理(Führerprinzip)だったという次第。同じ思考過程を辿れば当然結論も同じものとなり得る。このリスクを「想像された市民革命」支持者はあまり分かっていな様にも見て取れる。

*正直、大日本帝国が軍国化していった時代にも似た側面があった。要するに「さらに進んだ世界観」を模索していた筈なのに、気付くと何故か「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」に回帰しちゃうのである。こうした迷走は「科学的マルクス主義の教学史」にも見て取れる。

で、何故かこういう話にまつわる投稿はそろってちっとも検索上位に上がってきません…もしかして現代社会においてニーズが存在してない?