諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【三里塚闘争】【不審船】「不当に過去を蒸し返すのは歴史修正主義者固有の欺瞞」?

ここ最近、例によって例の如く「民進党のブーメラン案件」が相次いでいます。

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そもそもの発端は「1970年代後半における新左翼と旧左翼の和解」なんて番狂わせにまで遡るのかもしれません。この時の「互いの旧悪を暴き合わない事」なる手打ち条件が、以降は次第に日本の全国民に強要されていったのです。

この様に「日本の革新勢力」は一切の過去を清算しないまま、今日までのらりくらりとやってきました。「どこをほじくっても地雷」という現状は、そうした歴史の遺産といえるのかもしれません。

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 それにつけても社民党… 

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社会党の千葉県議や衆院議員として成田空港反対闘争の先頭に立ち、その後は賛成に転じて同県成田市長を務めた小川国彦氏が5月20日に死去した。84歳だった。昨年死去した元社民党幹事長の伊藤茂氏もかつて成田闘争を指揮しながら、細川内閣で運輸相に就任すると一転して「立派な空港を造る」と宣言した。多くの犠牲者を出した成田闘争を煽り、いつの間にかいなくなった社会党、そして後身の社民党は、その変遷の歴史にけじめを付けないままだ。
(地方部編集委員 渡辺浩=元千葉総局成田通信部)

国会議員が一坪共有地で抵抗

社会党は昭和38年に新空港の候補地に千葉県富里村(現・富里市)が浮上した当初から内陸部への空港建設に反対した。41年に成田市三里塚への建設が閣議決定されると、佐々木更三委員長が現地入りし、「社会党は空港建設阻止のために闘い抜く」と演説。党大会でも反対決議を行った。

現地闘争本部を設け、集会に国会議員や総評傘下の労組員を大量動員したほか、用地買収を複雑にするため一坪共有運動を呼びかけ、国会議員や地方議員も一坪地主となった。

46年の第2次代執行では国会議員55人が登記した一坪共有地が強制収用された。登記簿には当時の成田知巳(ともみ)委員長のほか、勝間田清一(かつまた・せいいち)元委員長、後の村山内閣で入閣した大出俊元郵政相、山口鶴男総務庁長官や阿部昭吾元社民連書記長、女性初の国会議員加藤シヅエ氏らの名前が並ぶ。

社会党系の活動家たちは糞尿弾などで代執行を妨害した。国会議員が公共事業に抵抗して、用地を強制収用されるのは異例の事態だ。国民運動局長として現地で闘争を指揮したのが伊藤氏だ。

このとき、現場近くで応援の神奈川県警機動隊員3人が若手農民や過激派のグループに襲われ死亡する東峰十字路事件が起きた。

東峰十字路事件 - Wikipedia

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新東京国際空港建設予定地内の空港反対派が所有する土地に対して千葉県が行った第二次行政代執行初日である1971年(昭和46年)9月16日に、現地に応援派遣されて周辺警備に当たっていた神奈川県警察特別機動隊がゲリラ集団による襲撃を受け、警察官3名が殉職した傷害致死事件である。2017年現在も事件現場には慰霊碑が残されている。

  • 警察側では、警備本部が第二次代執行に際しては「三重丸作戦」として団結小屋の外周を三重に包囲し、支援の反対派のみならず一般市民をも代執行現場に近づけない方針を立てた。

  • これは、同年2月~3月に行われた第一次代執行時、数千人単位の一般市民(野次馬)が現場に押しかけて支援学生らのアジテーションを受けて投石を行う等の機動隊への妨害を行い、警備に著しい支障が出た教訓によるものである。

  • そのため警備する地域は広範囲に及び、総勢約5500名もの警備部隊が動員されることとなった。

警備部隊の主な配置計画は以下の通りである。

  • 約3000名を拠点周辺に割くこととし、"最強"とされる警視庁機動隊約2500名を強固に固められた団結小屋がある駒井野一帯から西側の大清水三叉路にかけて、千葉・埼玉県警察機動隊は一坪用地と天浪方面にそれぞれ配置する

  • 残りの約2500名を8個大隊に分けて空港周辺地域に投入することとし、本警備実施のために千葉県へ応援派遣される神奈川県警察特別機動隊(神奈川連隊)第2大隊については、団結小屋の包囲部隊の東側(三重丸の一番外側の円に当たる)の東峰天神峰方面に配置し、後方警備や道路封鎖を実施させる。

一方の反対派は、第一次行政代執行および7月に行われた農民放送塔仮処分阻止闘争の経験から、実力闘争に参加する全員が団結小屋や地下壕に立て篭もる第一次行政代執行までの戦術を転換し「ゲリラ部隊」を結成して外周警備の警察による阻止線を突破し、機動隊の規制によって足止めされた野次馬と篭城部隊を合流させて機動隊と対峙するという計画を立てた。

  • 9月16日からの新東京国際空港建設に伴う第二次行政代執行警備のため、千葉県警察代執行警備本部は千葉県警察機動隊の他、警視庁機動隊、関東管区機動隊など、総勢5300人の警備部隊を動員。

  • 当日早朝6時45分に代執行が宣言される。一坪共有地では日本社会党議員など一坪地主が座り込みを続けており「砦」と呼ばれた3カ所の団結小屋には反対派住民(三里塚芝山連合空港反対同盟)と支援グループが立て篭もっていたが、警備部隊は行政代執行法に基づいてこれらを排除すべく、行動を開始した。

  • 一方、前日15日には中核派など新左翼の活動家約2000人が現地入りしており、翌日の代執行当日には5000人を越すとみられていた。中核派は代執行に先立つ9月10日に東京で開かれた総決起集会席上で、代表が「権力の手先である機動隊を殲滅、北総地帯を解放区とする」と宣言していた。また過激派グループの間では、「警察は権力の手先であり、すきあらば殺せ」が合言葉になっていた。
    新左翼運動家の間ではその後、銀行強盗による軍資金調達の必要性から「銀行員」、テロ遂行の為に建築現場からのダイナマイトを窃盗する必要性から「建築業界の人間」も「権力の手先だから殺しても罪を問われるどころか国際正義から賞賛される」グループに加えられていく事になる。さらなる背景には「戦争遂行の為には手段など選んではいられない」という強い決意があったという。

  • 代執行が開始された直後から、「ゲリラ部隊」が計画に従って団結小屋周辺の後方警備を担当する部隊を次々と襲撃した。

神奈川連隊第2大隊は、大隊長が神奈川警察署次長の堀田(警視)であることから堀田大隊と呼称された。

  • 堀田大隊261人は当日、午前4時前に集結地点であった川崎臨港警察署から幌付きトラック等14台の車両に分乗して出発し、代執行が宣言される直前の午前6時30分頃、駒井野団結小屋の東側、小見川県道の東峰十字路に到着した。

  • 東峰十字路付近の草むらの中に火炎瓶等の反対派の武器・爆発物などが隠されているとの情報に基づき、検索のため、東峰十字路を中心に第1中隊が二手に分かれて南北に、第2中隊が西側に展開した。

  • 一方、地元青年行動隊を始めとする空港反対派と学生集団からなるゲリラ部隊は、午前3時頃に東峰十字路南方の芝山町横堀地区に集合、途中火炎瓶・竹竿などを補給しながら、東峰地区に向かっていた。十字路南方の県有林で休憩していたところ、東峰十字路に機動隊が入り始めているとの情報がゲリラ部隊にもたらされた。ゲリラ部隊はこれを挟撃すべく、集団を青年行動隊を含む先発隊と支援グループ中心の後発隊の2つに分けることとした。先発隊は東峰十字路を一旦迂回して北方へ回りこみ、後発隊は少し遅れて東方から十字路に向けて西進するかたちで現地へ向かった。

  • 両者は間もなく十字路付近で接触。3時間程かけて現地に到着して展開を終えたばかりの堀田大隊からすれば、側面の孟宗竹等が茂る藪の中から総勢700名以上のゲリラ集団が部隊を分断するように突如現れたかたちとなった。堀田大隊は検索のために各小隊を分散させた状態のままで襲撃を受けることとなる。

福島誠一警部補が率いる第1中隊第1小隊30人は東峰十字路の北側に展開していたが、十字路北東のガサ藪を順次抜けてきた200人以上のゲリラ部隊の先発隊集団に中隊本隊との間を分断され、孤立してしまう。

  • 圧倒的に不利な状況下に陥った第1中隊第1小隊からの救援要請の警察無線を傍受した大隊本部は、警備本部に対して警察無線で救援部隊を要請すると同時に、付近を検索中の第2・第3中隊を包囲された第1中隊第1小隊の救援に向かわせようとした。しかし、直後に両中隊も大隊本部もゲリラ部隊の後発隊集団と南下してきた先発隊集団に襲撃されて指揮系統は混乱に陥り、大隊は総崩れとなる。

  • さらに車両故障のため20分遅れて到着した第3中隊も別の300名の集団に襲撃され、パトカー・指揮車・輸送車が炎上した。この襲撃により、大隊長の堀田が腕を骨折したほか、大隊全体で80名以上が負傷した。この中には全身火傷や右眼失明などの重傷者も含まれる。若い隊員の中には、あごの骨を砕かれ、全ての歯を失い、全身を100針も縫った者もいた。

  • 他の部隊からの救援が来ないまま、完全に孤立した第1中隊第1小隊(福島小隊)は、包囲するゲリラ部隊から火炎瓶・角材・丸太・投石などで激しい攻撃を受け、小隊は総崩れとなり、本隊と反対の十字路北方への退却を余儀なくされた。

  • この衝突の中で、逃げ遅れた小隊長・福島誠一(神奈川警察署外勤第一課係長、警部補、当時47歳)、第1分隊長・柏村信治(巡査部長、神奈川警察署外勤第一課主任、当時35歳)、隊員・森井信行(巡査、神奈川警察署外勤第一課、当時23歳)の3名が死亡し、隊員20名以上が重傷を負った。

以下は、当時の報道など。

  • 火炎瓶を投げつけられた隊員たちは火だるまになり、のた打ち回っている所を竹槍や釘を打ち込んだ角材などで滅多打ちにされた。またその場から撤退しようとした隊員らも、土地勘がない上に付近にあるのは反対派の農家ばかりで助けを求められる民家もなく、ゲリラに取り囲まれると次々と脇の林や茂みに引きずり込まれてやはり滅多打ちにされ、土下座を強いられたり裸にされて手錠で木の幹に繋がれるなどした。

  • 福島警部補も火炎瓶を受けて火だるまになり、炎を消そうと苦悶しながら転げまわっていたところをゲリラ集団が襲いかかった。無抵抗の福島警部補は他の隊員から奪った手錠をかけられた上、ゲバ棒や鉄パイプで滅多打ちにされて殺害された。柏村巡査部長と森井巡査も倒れたまま滅多打ちにされ殺害された[10]。これらの暴行を行った者達の積年の恨みを晴らさんとするかのような容赦ない仕打ちは周囲にいた仲間の反対派からも制止が入るほどの激しさであり、事件を目撃した反対派シンパであるとする地元住民も後日マスコミのインタビューでやりすぎだったと語った。被害にあった警官があとで証言できないように、ゲリラ部隊は意識的にアゴや顔を集中攻撃し、さらには倒れた隊員に濃硫酸をかけ、火炎瓶で放火したとの警察側の主張もある。

  • その後、血まみれで倒れうめく機動隊員らを残し、ゲリラ集団は入り組んだ地形を利用して逃げ去った。

  • 午前7時15分頃に、大隊本部からの救援要請の無線を傍受した警備本部は、警視庁第二機動隊を第1中隊第1小隊の救援に向かわせたが、警視庁第二機動隊が東峰十字路北側の現場に到達した時には、ゲリラ部隊は逃げ去った後であった。また、堀田大隊のうち36名が一時的にゲリラ部隊によって連れ去られたが、警視庁第二機動隊によって救出された。

  • 16日午後から成田警察署特別捜査本部が行った現場検証では、現場付近で叩き割られた隊員たちのヘルメットや、引きちぎられた血染めの上着やズボン、血まみれの竹槍などが多数発見され、砂利道の石ころや道の両脇にあるススキには血の跡がべっとりと付着していた。
  • また、交差点周辺には一升瓶の破裂跡が数百カ所も残されていた。これは、通常火炎瓶はコーラ瓶やビール瓶等で作るところ、この時の襲撃では一升瓶を使用したことによるもので、それが発火すると十数mもの高さに火柱が噴き上がるほどの威力があったという。また、火炎瓶は農薬を用いて触発式に改良されていた。

事件当時、神奈川県警察では常設の警備部第一・第二機動隊の他、関東管区機動隊が設置されており、関東管区機動隊も成田の行政代執行警備に派遣されていた。関東管区機動隊員は、平素は地域部集団警ら隊として、各警察署で活動に従事するが、定期的に集合して部隊訓練を行っており、第一・第二機動隊と同様に、錬度の高い部隊である。

  • しかし、襲撃を受けた堀田大隊はそれらの部隊とは異なり、代執行最前線への反対派支援勢力と武器供給の遮断等後方支援を目的として臨時編成された特別機動隊であった。

  • 隊員らは刑事・防犯・交番・パトカー勤務等を普段している若手警察官であり機動隊の訓練を積んでいないばかりでなく、隊長にも機動隊勤務の経験が無く、武術の有段者もいるとはいえ部隊の練度は低かった。さらには隊員の装備も警棒と作業着といった程度であり、非常に貧弱な状態で現地に投入されていた。大隊は150人前後のゲリラに対応できるように編成されており、「必要なら撤収しても良い」との指示も受けていたが、500人を超える大集団に襲われることは全くの想定外であった。

  • 結果として、機動隊の精鋭が行政代執行の最前線で警備実施をしている間に、後方支援に当たっていた現地に慣れない臨時編成部隊が反対派の大集団に襲撃される構図となり、衆寡敵せず堀田大隊は潰走することとなった。

  • また、代執行時には、警視庁航空隊のヘリコプター2機が上空から反対派の襲撃を警戒していたが、東峰十字路付近を警戒中だったヘリコプターの無線機が飛行中に故障したため、反対派の襲撃隊の動静を警備本部が把握できなかったことも被害を大きくした要因であった。

事件後行われた司法解剖の結果、死亡した3名の機動隊員のうち小隊長の福島誠一は、頭蓋骨亀裂骨折、頭頂部から後頭部にかけ脳内出血、12対の肋骨のうち胸部1本、背中16本が折れ、折れた骨は肺に突き刺さっていた。このほか顔、頭、左右胸部などに28ヵ所の打撲傷があった。同小隊隊員の柏村信治は、顔から左肩にかけて2度(水ぶくれができる)から3度(皮膚がただれたり、黒く焦げる)の火傷、頭蓋骨亀裂骨折、胸肋骨2本折損、頭頂部5ヵ所に打撲傷、左右腕、背中に多数の打撲傷があった。また、同じく同小隊隊員の森井信行は、頭蓋底骨折、頭部に多数の打撲傷。顔、アゴ、および胸から肩にかけて3度の火傷、左肩および左右の足に打撲傷があった。3名とも死因は脳挫傷と、脳内出血であった。

  • 支援学生らが撤収し、捜査陣が現場に入れたのは事件の一週間後であった。地元住民らは基本的に用地を売却せずにその地にとどまる「空港反対派」であるため、捜査陣は機動隊に守られなければ現場に入ることもできず、捜査協力は望むべくもなかった。

  • したがって、機動隊員の死亡に空港反対派または支援者の中の何者かが関わっていることは明白であったが、その特定は難航した。当初警察側では、過去の言行から中核派によるものとの見立てで捜査を進めたが、当日の中核派の活動家らは駒井野と天浪の団結小屋に立て篭るか大清水にいたことが明らかとなり、現行犯逮捕者がおらず有力な物的証拠も得られないまま、警察による捜査は行き詰った。捜査本部は「コンピューター捜査」と称してあらゆる証言や物証を複合的に検証して犯人を特定しようとした。

  • 捜査当局は、空港運動での逮捕歴がある空港反対同盟青年行動隊員らを中心に、同年12月8日から15次に亘って地元住民や常駐学生らのべ153人を逮捕連行し、55名を起訴した。(凶器準備集合12名、凶器準備集合・公務執行妨害11名、凶準・公妨・傷害・傷害致死32名)

  • それまでに行われた第一次代執行や農民放送塔の撤去の際には警察側にもまだ同情的な雰囲気が残っており、反対同盟員を逮捕しても反対運動への配慮から起訴を見送り数日で釈放するなどしていたが、事件後の警察の取り調べは厳しいものとなった。

  • 反対同盟では家族会を結成し、逮捕者に対する支援を実施した。

なお、刑事裁判中に空港反対同盟「熱田派」と「北原派」に分裂し被告の大多数が「熱田派」に属すこととなったが、3名が「北原派」となった。これに伴い、被告団および弁護団も「熱田派系」と「北原派系」に分裂した。

  • 1986年(昭和61年)10月4日、千葉地方裁判所での判決(石田恒良裁判長)では、事件当日のアリバイを主張していた3名に無罪、他の52名が3年から5年の執行猶予が付いた懲役刑(10ヶ月から3年)となり、実刑判決は無かった。つまり、公務執行妨害と凶器準備集合などについては有罪であるが、傷害致死罪に関しては、共同共謀正犯以上は認定しなかったと解される。

  • これは、本事件の遺留品や目撃証言が殆どなく、捜査段階での被告の自白には「信用性に疑問がある」こと等が最大の理由とされる。被告らはそもそも警察官への襲撃に全く関わっていなかったか、襲撃に関与していたとしても、数百人の多人数による騒乱状態の中で発生したため、誰が誰に対してどのような行為をしたかを具体的に示す証拠を千葉県警察千葉地方検察庁は提示できず、自供調書と大きな齟齬があったとされる。

  • この一審判決に対して、千葉地方検察庁側も控訴しなかったため、控訴をしなかった「熱田派」の被告らには上記判決が確定判決となった。

  • 一方、「北原派」に属する3名の被告(うち2名は後に小川派として北原派を離脱)は無罪を求めて控訴した。二審東京高等裁判所は、一審判決を支持し(1990年(平成2年)12月17日判決)た。3名のうち1名だけがさらに上告したが、1995年(平成7年)2月28日に最高裁判所においても一審判決が支持されたことにより、執行猶予付きの有罪判決が確定した。

三里塚闘争開始以来マスコミは全般的に反対派に同情的な論調であり、反対派への情報提供などの便宜を図ったり代執行の際には反対派が立てこもる砦に中継車を横付けして機動隊が手を出せないようにするなどの実質的な支援もしていた。また直接の反対運動や支援に関わらないが反対派農民に共感を持つ者も市井には少なくなく、空港建設に携わる労働者の中には工事車両を使って投石用の石を秘密裏に提供する者がいたほどであった。

  • しかし、初めての闘争での死者を出した今回の事件ではマスコミは一転して反対派への批判を行い、「三警官殺し」の犯人探しをするようになった。

  • また事件は大学紛争が収束し全共闘運動が急速に支持・勢力を失いつつある時期と重なり、さらに翌年にはあさま山荘事件の発生と山岳ベース事件の発覚によって新左翼全般に対する嫌悪が全国に伝播し、過激派と同列にみなされるようになった反対派から世論は急速に離れていく。

  • 反対派では、身内を殺害された警察の強硬な捜査や法廷闘争による疲弊に加えて、事件後に青年行動隊メンバーが精神的苦痛により自殺したことにショックを受けたことや被告の保釈金や裁判費用捻出のために出稼ぎに出なければならなくなったことなどで、反対同盟員である地元住民の実力闘争離れが進んだ。

  • この後、三里塚闘争に係る実力闘争の実行は反対同盟員に代わって新左翼活動家が行い、青年行動隊ほか反対同盟は指示役や調整役を担うこととなる。指示役となった反対同盟は時にセクト同士を競わせるようにして実力闘争をけしかけ、新左翼活動家の側も実力闘争の主体としての自負を持つようになり、各セクトは援農をだしに使うなどして反対派農家を自派へ囲い込むようになった。このことは地元住民と新左翼活動家の間の歪な力関係や反対派内部の党派争いを生む遠因ともなる。

  • 条件派に移行した農家は「脱落」の烙印が押され、学生らに自己反省を書かされたり、言葉だけでなく暴力も振るわれたりもした。

堀田大隊が襲撃を受けたことは代執行最前線にいる機動隊にも即座に無線で伝わった。

  • 警察官死亡の一報が入ると現場の隊員たちはいきり立ち、警視庁機動隊と千葉・埼玉県警機動隊は功を競うようにして、それぞれの受け持ちである駒井野と天浪にある反対派の砦に殺到。その日の内に砦は制圧されたが、駒井野では砦を解体する際に学生約10人を載せたまま高さ15メートルの鉄塔が倒れ、火炎瓶の燃料に引火して激しく燃え上がった(学生らは火だるまとなり、1人が危篤状態となったが命はとりとめた)。この時周囲にいた機動隊からは歓声が上がったという。

  • その後警察側では警備計画の不備により甚大な被害をこの事件で出した反省から、①外周警戒部隊をあまり遠方に配置しないこと。②機動隊を前日までに成田に集結させて、準備万端の形で投入すること、③特別機動隊は絶対に使わないこと、の3点を以後の警備計画での原則とするようになる。

  • 事件後、機動隊は地元農民に「人殺し」などと罵声を浴びせるなど反対派への敵意をむき出しにするようになり、機動隊が巡回するようになった反対派の集落は戒厳下の如き様相となった。

事件後の反対派支援の新左翼学生らは、「警察権力が加えてきた弾圧に対する労働者、農民側からの階級的復讐である。責任は佐藤首相と警察機動隊にある」「アメリカはベトナム人民を殺し続けているが、佐藤(首相)はこれに協力している。だから、われわれ人民にも佐藤を殺す権利がある」などと主張した。

  • また、この事件での警察官殺害のニュースは、大衆運動を離れ少数精鋭・過激化していく連合赤軍をはじめとした各地の極左暴力集団に強いインパクトを与えることとなる。連合赤軍の元活動家である植垣康博は「先を越された」という気持ちだったと当時を回想している。

  • 同じ年には朝霞自衛官殺害事件・沖縄ゼネスト警察官殺害事件・渋谷暴動事件といった警察官や自衛官を標的とした事件が相次いでいる。

  • 1990年代頃から被告の多くが合流した「(旧)熱田派」が政府との対話を行い、事件の引き金となった空港建設時の強硬姿勢について政府からの謝罪を引き出し、1994年10月11日に開催された第12回成田空港問題円卓会議で、警察官僚時代に事件の捜査の指揮を執っていた亀井静香運輸大臣と青年行動隊に所属していた元被告が握手を交わすに至った。その後、多数の地権者が移転に応じたことでB滑走路の建設を含む空港の二期工事が進展した。

  • 青年行動隊としてゲリラ部隊に加わっていた元反対同盟員は、青年行動隊と現地に常駐していた学生の間では致命傷になるようなことはやらないと意思統一していたとした上で、大学闘争で機動隊に破れ、恨みを抱きつつ全国の大学から急遽集まった学生による犯行であったことを仄めかしている。

  • その後、日刊ゲンダイニュース編集部長やBS日本放送の取締役を歴任した二木啓孝はこの事件の発生時、学生運動のリーダーとして反対運動の過激派と行動を共にしていた。

事件から36年後となる2007年、殉職した3警官の慰霊碑に元被告らが献花した。

闘争指揮の伊藤茂氏が運輸相に

A滑走路(主滑走路)、B滑走路(平行滑走路)、C滑走路(横風用滑走路)の3本で計画された成田空港は過激派による管制塔占拠事件による開港延期の後、53年にA滑走路だけで開港。完成を阻んできたのは、用地内農家を支援する過激派と社会党が始めた一坪共有地だった。

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代執行の攻防から22年後の平成5年、細川内閣で運輸相に就任した伊藤氏は成田空港を視察した後の記者会見で「B、C滑走路を完成して立派な国際空港になるよう願っている」と空港建設推進を表明。それは社会党の政策かとの問いに「そうだ」と答えた。

かつて指揮した成田闘争については「亡くなられた皆さんのご冥福をお祈り申し上げるとともに、遺族の皆さんのご心労に思いを深くしている」「反対だけではない、次の政治を担える社会党にならなければ駄目だ」と語ったが、明確な反省はなかった。

伊藤氏は空港視察に先立って殉職警察官の顕彰碑に献花した。反対派農民の一人は「社会党が反対運動に火を付けたから警察官が死ぬ事件が起きた。どういう気持ちで献花したのだろうか」と不信感をあらわにした。

参議院会議録情報 第128回国会 運輸委員会 第1号

○松浦孝治君 ただいまもお話がございましたが、日本の空の表玄関であります成田空港問題についてお話をお聞かせいただきたいと思います。

御承知のように、成田空港は五十三年の開港以来今日まで、日本の表玄関として重要な使命を果たしてまいりました。もしこの成田空港の開港がなければ、現在のような国際国家日本に発展できなかったと私は考えるものでございます。昨年の十二月にようやく第二旅客ターミナルビルが完成し、供用を開始しておるわけでございますが、最近の成田空港における輸送の現状及び増便要求やまた新規乗り入れの希望などがあり、それに十分対応できておるのかどうか、まずお伺いをいたしたいと思います。

○政府委員(土坂泰敏君) 五十三年に開港いたしまして、平成四年度で申し上げますと旅客が約二千百万人でございます。貨物が約百三十万トン。発着回数は十二万回でございます、しかしながら、滑走路一本で運営をいたしておりますので、これが既に限界をやや超えたという状況でございまして、これ以上の増加には耐えられない状況でございます。現在、三十八カ国から成田に乗り入れをしておりまして、増便の要請が各国からございますが、今申し上げたようなことで対応が不可能でございます。また、それ以外に四十五カ国から乗り入れの希望が新規にございますが、これも同じ理由で対応ができないというのが現状でございます。

○松浦孝治君 ただいま、成田の輸送状況あるいは各国からの乗り入れ希望状況等についてお話がございましたが、今お聞きをいたしますと、もう成田空港の適正能力はオーバーしておる、そのように私は理解をいたしたわけでございます。そうした需要に応ずるためには早期に二期施設を完成しなければ方法がないんじゃないか、こう思うわけでございます。そして、昭和六十一年に二期工事に着工をいたしておると思いますが、今その二期工事の進捗状況はどのようになっておるのか、お聞かせをいただきたいと思います。

○政府委員(土坂泰敏君) 六十一年に二期工事に着工いたしまして、昨年の十二月に第二旅客ターミナルビルの完成を見たところでございますが、B滑走路とC滑走路につきましては、用地の手当てができないということもありまして、現在未完成の状況でございます。

○松浦孝治君 今、旅客ターミナルは十二月に完成した、しかし用地等の問題等があって、B、C滑走路はまだ工事に着工できておらない、こういうお話でございましたが、それでは未買収地の現状や一坪地主の状態等について御説明をいただきたいと思います。

○政府委員(土坂泰敏君) 成田空港全体で千六十五ヘクタールの計画でございますが、このうち未買収地は二十一ヘクタールでございます。そのうち、いわゆる一坪運動の共有地になっておりますのは一・四ヘクタールでございまして、二十九件、約千二百人の方の共有になっております。正確に言いますと、千二百六十九人の方の共有でございます。

○松浦孝治君 そこで、私は伊藤大臣にお伺いをいたしたいと思いますが、大臣は九月七日、成田空港視察後の記者会見におきまして、未完成のB、C滑走路を早期に完成させ、立派な国際空港に仕上げたい、こういうようなことを明言されておりまして、みずから二期工事の推進役を担っていく旨の報道が新聞でなされておるのを私は見たわけでございます。非常に大事な成田空港でございます。本委員会におきましても大臣の力強い決意を聞かせていただきたいと思います。

国務大臣伊藤茂君) 御質問の冒頭にお励ましを賜りましてありがとうございました。

御質問にお答え申し上げますが、成田空港二期工事、そしてB、C滑走路、完成した空港にするというためにぜひ力を尽くしてまいりたいというふうに思っております。

視察に参りまして、それから第一回の円卓会議にも出席をいたしてまいりました。お話を伺いながら、また現場のさまざまな状況を説明をいただきながら、この二十数年の長いさまざまな経過につきまして、私も当初かかわった者の一人として思い新たなものがございました。長い期間の中に、さまざまな不幸なまた激しい対立の時代がございまして、完全にまだ解決を見ておりません。こういう状態をどう越えていくのかという努力をして、そしてこの問題の打開をしなければならない。航空日本の我が国の表玄関として、また航空事情からしてもまさにそのときであると思っております。

幸いにいたしまして、隅谷さんを初めとする調査団の方々、公開シンポジウム、約一年余り御努力をいただきまして、今円卓会議という段階に至りました。このような皆さんの御協力をいただきながら、何とかして早い機会にこの問題の打開の糸口をつかむように、これは心からそれをやりたいというふうに念じておりますので、いろいろ御協力をお願い申し上げたいと存じます。

○松浦孝治君 今大臣より成田空港の完全空港化に向けて努力をするという、そういう決意が述べられたわけでございますが、伊藤大臣も、ただいまも若干それらしき御答弁というかお話がございましたが、九月七日に成田空港を視察された折に、昭和四十六年の第二次代執行のときに殉職をされた三人の警官の碑に献花をされておられます。新聞に写真が載っておりましたので、私、見させていただきました。

今大臣が当初かかわったというような、そういうお話もございましたが、大臣は当時と申しますか、第二次代執行時に現地で代執行阻止闘争に加わっておられたのかどうか、また今回どのようなお気持ちで殉職された三名の警察官に献花をされたのか、お聞かせをいただきたいと思います。

国務大臣伊藤茂君) 御指摘ございました九月七日の日に大臣として視察に参りまして、そして殉職された三人の警官の皆さんの碑に献花をさせていただきました。献花をしながら、私といたしましては何か感慨新たなあるいはまた気持ちの引き締まる思いがいたしました。

私は当時、社会党のたしか国民運動局長として大衆運動の一端を担っておりましたが、あの事件が起きまして、特に神奈川県警の皆さん、若い年齢でああいうちょっと残酷だと言いたいほど悲惨な状態でございました。その御家族の皆さんなどを含めまして、当時私は談話を出しまして、どのような意見の違いがあろうと、このようなことは、人の命を亡くするようなことは絶対あってはならぬと思う、心からお悔やみ申し上げますという私の談話を出した覚えがございます。

また、伺いますと、殉職された三人の警官の皆さん、そしてまた長い経過の中で反対同盟の関係などでもお亡くなりになった方とか、いろいろいらっしゃるようでありまして、そういう霊を弔う合同の集いをおやりになったということも伺いまして、非常に感慨深いものがございました。このような不幸な時代を振り返りながら、そうでない新しい時代に向けてぜひ努力をしなければということで、思いを新たにしたところでございます。

いずれにいたしましても、当時はいろんな社会条件その他からいたしましても、何か全国でいろんな形で激しい衝突が起きるという不幸な時代であったと思いますが、今まさに状況は変わったと思います。総選挙後の総理の所信表明演説の中でも、対立と抗争の時代が終わり、今協力と建設の新しい時代がという言葉がございましたが、そういう気持ちを真剣に皆様にお願いをしながら、完成した空港、そうして地域の皆さんが農業、農村、そういう面も含めまして、空港と共生共存する新時代というものをぜひつくっていきたいということで力いっぱいの努力をしてまいりたい、そういう気持ちでございます。

○松浦孝治君 先ほど円卓会議のことについて大臣が触れられたわけでございますが、新聞報道等を見ますと、円卓会議が二回にわたって開催されたようでございます。しかし、その円卓会議には反対同盟の熱田派だけの参加であったと聞いておるわけでございます。この円卓会議は今後どのようなスケジュールとなるのか、あるいはまたいつごろまでに今掲げておる空港と地域住民との共存共生の道を見出して二期工事の完成を図ろうとしておられるのか、その見通しについてお聞かせをいただきたいと思います。

○政府委員(土坂泰敏君) 円卓会議、二回やらせていただきまして、一回目は国と反対同盟の方から意見の陳述を行いました。二回目は地元の市町村の方々、県それから地域代表の方々、こういった方々の御意見の陳述がございました。

三回目以降をどういうふうに進めていくかというそのスケジュールというか、そういうことは現時点ではまだ決まっておりません。円卓会議の運営会議という幹事会のようなものがございますが、十一月にここで今後の進め方について御議論をいただくことになっております。したがいまして、現時点でスケジュールあるいは見通し、それを申し上げることはできませんが、十一月には今後の段取りが決まるのではないだろうかというふうに思います。それを受けて国として議論を尽くして合意を目指してまいりたい、こう思っておるところでございます。

○松浦孝治君 それでは、円卓会議が二度にわたって行われたけれども、十一月に運営幹事会ですか、それをやって今後の取り運びを決めたい、そういうことでございますが、そうなるとなかなか、シンポジウムは十五回も一年半にわたって実は開かれたわけでございまして、その間いろいろなお話し合いがなされたと思いますが、それはそれとして、今つくり上げたこの話し合いの状態を努力をしていただいて、できる限り早く二期工事が着工できるように御努力をいただきたいと思います。

その一方で、反対同盟の中に小川派、北原派があるわけでございます。大臣は空港の記者会見で、円卓会議に参加していないこの北原派、小川派に対しまして別の場をつくって話し合いたい、こういうように表明されたようでありますが、いつごろ、どのような形で話し合いの場を持とうとなさっておるのか、お聞かせいただきたいと思います。

国務大臣伊藤茂君) 御指摘のとおりに三つの反対派と申しましょうか、という方々がいらっしゃいます。

そのうちの一つは円卓会議に着いていただきまして、現在さまざまの前向きの話をしていただきたいというふうに私ども考えております。

あとの二つにつきましては、私どもも、ぜひテーブルに着いて、そして二十数年の過去を誠意を持って話し合いながら打開の道をつかみたいと思っているわけでございます。表現といたしましては、円卓会議に追加してあなたもいらっしゃいという形が、御参加いただく方がいいのか、あるいは別にミニ円卓と申しましょうか、形の御相談が始まるのか、いろんなケースがあると思います。そしてまた、それが実現するためにはさまざまの表裏の努力もしなければならないというのが現実だと思います。今、いつどのような形でと申す段階ではございませんが、私としては何とか早い機会にその打開を図りたいという気持ちでございます。先ほどの先生のお話にもございましたが、この二十七年間の経過と、それから私自身もかかわってきた自分の命までの経過と、いろいろ重ねて振り返りながら今やはり新時代をつくらなければならないという気持ちでございます。

昨日も私のところに、成田市を初め関連の十幾つかの市町村の議会の議長さんがそろってお見えになりまして、さまざまの御要望がございましたし、それから共存共生という意味でのいい時代での空港も含めて町をつくりたいという御意見がございまして、いろんな意味で私はやはりそういう条件といいますか、環境はだんだん進んできているというふうに思います。

この間、円卓会議の第一回の前の日でしたか、報道が出ておりましたが、成田空港で子供たちとジャンボの綱引きがあって、三百人の子供たちがえいっと力を合わせて綱を引っ張ったらジャンボが動いたという話がございましたが、ああ、こういう時代になったのかという思いもいたしました。いろんなそういうことを含めまして努力をさせていただきたいと思っております。

○松浦孝治君 記者会見で小川派、北原派に対しても大臣としては過去のいろいろな経験のもとに呼びかけていく、こういうようなことを言われておるわけでございますが、また今もお話ございましたが、確たる方策というものを大臣には持っておられぬと、私はそう感じました。と申しますのは、小川派にしても余り関知しない、あるいは北原派に対してはかなり厳しい状態で批判をされておる。これは私は報道でしか知り得てないのでございますが、そういうことがあるわけでございます。

そういう点で私は、今大臣はいろいろと過去二十七年間の問題というような形でお話がございましたが、この成田空港建設反対運動に対する社会党の方針というものを私は若干開陳したいと思います。

昭和四十一年七月に御承知のように新東京国際空港の建設の位置が成田市三里塚に決定をされました。社会党はその年の第二十八回の党大会において空港建設の反対決議を行い、反対闘争方針を決定されておるのであります。

それは、一つ、国会における闘いはもちろんのこと、現地での実力阻止を含め断固粉砕するまで闘う。一つ、現地における実力阻止闘争を強めるため、委員長を初め、執行部、国会議員はもちろん、全党を挙げて建設予定地内の共有地運動、すなわち一坪地主運動に参加する。一つ、現地における闘争を強め、中央本部三里塚空港設置対策委員会を強化し、現地の指導に当たる。以上のような反対闘争方針を社会党は党大会において決定されておるのであります。

なぜ私がこのような質問をするかと申しますと、先ほど来お話がございましたように、成田空港建設の二期工事がかなりおくれておる。その要因の一端を私は社会党、そして伊藤大臣もおつくりになられたと考えるものでございます。私に言わせれば、社会党は空港反対運動の火つけ役であり、強力な指南役であった、こう理解をいたしております。現に、五十五人もの社会党国会議員が加わって、まだ残っておる全国に散らばる千二百人もの一坪地主をつくり上げておるのであります。しかし、学生などが加わり運動がだんだんと激化してくるにつれて、いつの間にか社会党は反対運動から手を引いてしまわれたのであります。

当時の国民運動局長、また社会党の政審会長も歴任された伊藤さんが今担当大臣に御就任されておるのでありますから、今いろいろな反省的なお話もございましたが、この際、なぜ社会党は反対運動から手を引いたのか、またいつ建設反対の方針を変更したのか等について国民に対して御説明をし、その見通しが誤っておるならば陳謝をされるべきだと私は考えております。それは申すまでもなく、純粋な気持ちで反対運動に参加された人々、特に農民の方々に対する大臣としての責務でもある、こう私は思っております。御見解をお聞かせいただきたいと思います。

国務大臣伊藤茂君) 率直な御質問でございますので、私も気持ちを率直に述べさせていただきたいというふうに思います。

私もこの大臣に就任をいたしまして、私の担当分野の大きな仕事でございますから、ただいま若干御紹介もございましたが、この間の社会党のとった態度、そしてこの二十数年間にわたって自分は何をしてきたのか、どういうことだったのかということを含めましていろいろと振り返り、資料も読み直し、また考えてみました。

考えてみますと、社会党がこの問題についてとった態度は三段階あったと思います。御紹介ございました当初の段階ですが、いずれにいたしましても現実は、地元の農民からいたしますと、空港計画が天から降ってきたみたいな印象をお持ちになったという状況であったわけでありまして、私どもは、やはり安定した農業を営みたいという気持ちで抗議と反対運動が起こったという経過だったと思います。

あのときに、当時の運輸委員会の先輩の皆さんとも私ども大衆運動にかかわる者も必死に勉強をいろいろやった覚えがございますけれども、空港にそもそも反対という気持ちではありません。あそこに空港をつくるのが適切なのか、空路その他の問題も勉強して、そして羽田をもっと広げる方がいいのか、別のところがあるのか、いいのがあるのか、航空政策あるいは空港、特に首都圏におけるところの日本の玄関としての空港のあり方などについて、いろんなことを勉強した覚えがございます。頭からそれを否定するというふうな気持ちではございませんでした。政党としてはある意味では当然のことだと思います。

もう一面では、火つけ役という気持ちはございませんで、やはり政党ですから、現地で抗議、反対に立ち上がるさまざまな地元の皆さん、農民の皆さんを支援するというのが基本であろうということでございまして、言葉その他いろんなこと、文章の中にあったと思いますが、そういう二つが基本にあったというふうに私は振り返っております。

同時に、空港が現実に進んでいくという状況の中で、これを白紙に戻すことはできないというのも現実でございまして、また一面では非常に少数のといいますか、幅の狭い過激な運動の方が表面化するという状況がいろいろございました。私どもは当然そういう性格の運動と共同でやるという立場ではございませんので、その面での区切りと申しましょうか、立場はきちんとすると。また、その前後に私ども、多くの議員の皆さんが一坪地主になっておられたわけでございますけれども、それも解消いたしまして、所有者の皆さんに全部お返しするという措置をとったわけでございます。

そうして、最近と申しましょうか、この数年来でございますけれども、地元の社会党の皆さんあるいは私どもも含めまして、やはりいろんな意味で新しい段階になった。一番大事なことは、地元の皆さんとのやはり共生共存という関係でこれをどう仕上げるのかということではないだろうかということで、そのほか騒音問題や落下物やいろんな問題もございますけれども、大まかにはそういう方向で今考えているというわけでございます。

過去の誤りその他という御発言がございました。私は、政治家としてもまた担当大臣としても人間としても素直にこの経過をある意味では真剣に振り返ってみるわけでございまして、やはり一つの不幸な時代だったなという思いを深くいたします。前大臣も、それから先輩の前々大臣も向こうにいらっしゃいまして、そしてこの二十数年間の経過の中で政府のやり方も非常に御迷惑をかけましたということを率直にお認めになりまして、反対同盟の方が、まあ一派ですけれども、その一言を早く聞きたかったと言って何か感動して二人で握手をしたというような姿も、話を聞きまし て、またテレビでも見まして、ああ非常にいいことになったというふうに思っております。

過去をどう振り返るのかという場合に、片っ方がすべてよくて片っ方が全部悪くてという関係ではない、何か一つの時代の反映としてあったというふうに私は思っております。その経過の中で、もっとどうすべきだったのか、どうあるべきだったのかということを、常に過去を素直に振り返りながら、今やるべき新しい展開について力を尽くして努力をするというのが政治家としても人間としてもあるべき態度ではないだろうかというふうに思っているわけでございます。

そういう意味でのことを考えますと、過去にそういうかかわりを持ち、過去を振り返りながらどうするのかというだけに、私はやはり特段の大きな責任というものを持ちながらやらなければならないという気持ちでおります。

○松浦孝治君 今、いろいろな時代の流れと申しますか、時代の背景があったと、そういうお話で、率直に反省しなければいけないという言葉はございましたが、聞いておりますと、何かこの二十七年間の運動は当然であったかのような印象を今私は受けるわけでございます。今大臣も申されましたように、政府の空港建設について、過去のいろいろな中でそれに対して過ちがあったという、それをシンポジウム等の段階で率直に前大臣は認めたわけでございます。

そういう中で、今回のこの円卓会議を順調に進めていくためにも、また先ほどもまだ見通しが十分でないと私は言いましたが、小川派、北原派に対してその方々の心を解きほぐすためにも、担当大臣としてまた社会党に籍を置かれていろいろ成田空港の問題にかかわってきた伊藤大臣として、率直に過去のいろいろなことについて反省をして、そしてこの建設のために私は努力をしていただきたい。もう答弁は求めませんけれども、強く要請をしておきたいと思います。

小川氏に取材を申し込むと…

多くの社会党関係者は開港当初、「成田空港は使わない」と話し、大阪空港などから海外に出掛けた人もいたが、なし崩し的に成田を使うようになった。

国会議員の一坪共有地も解消していったが、小川氏は昭和62年まで持ち分を持ち続けた。うち1カ所は過激派、革労協の拠点「木の根団結砦」の敷地だ。同派の別の拠点「大清水団結小屋」はもともと社会党の現地闘争本部だった。

数々のテロや内ゲバ事件を繰り返してきた革労協社会党の青年組織、日本社会主義青年同盟社青同)の分派「解放派」を名乗ってきた。社会党が育てたテロ集団と言っても過言ではない。管制塔占拠事件を起こした第四インター(現・JRCL)もかつて社青同にいた。

社会党と総評が組織した反戦青年委員会にも革労協中核派などの過激派が浸透した。今でも旧総評系労組に過激派活動家がいることは周知の事実だ。

社会党成田闘争を指導した責任をどう考えているのか-。筆者は平成5年、小川氏に取材を申し込んだが、秘書を通じて「昔のことを蒸し返して社会党の責任を追及するのは当を得ていない」と拒んだ。

小川氏は7年に離党して成田市長に当選し、空港との共生を掲げて2期8年務めた。13年から千葉県知事を2期8年務め、やはり空港完成を促進した堂本暁子氏も元社会党参院議員だ。

成田空港開港20周年の平成10年、成田市を通じて小川氏に再び取材を申し込んだ。小川氏は「成田空港の20周年を祝うとともに、平行滑走路の建設に向け、市としてもできる限りの協力をさせていただく」などと文書で答えたが、過去の反対闘争について聞くと「回答はお断りします」とのコメントが返ってきた。

ちなみに社民党は過去にこんな事もやらかしています。

「日本初の人工衛星」おおすみ

1970年2月11日に東京大学宇宙航空研究所(後の宇宙科学研究所)が鹿児島宇宙空間観測所からL-4Sロケット5号機により打ち上げた日本最初の人工衛星である。名称は打ち上げ基地があった大隅半島に由来する。

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  • 1966年から観測用ロケットL-3H型に補助ブースターと姿勢制御装置、第4段球形ロケットを追加したL-4Sロケットで打ち上げ実験を開始し、1969年に打ち上げられたL-4T型(L-4Sとほぼ同型であるが、第4段の能力を減じているため、衛星打ち上げ手法の確認は出来ても、軌道投入能力はない)1機の打ち上げを含んで、5回の試行錯誤の後ついに成功した。

  • その結果、日本はソビエト連邦(当時)、アメリカ合衆国、フランスについで世界で4番目の人工衛星打上げ国となった。また、その2ヵ月後に中華人民共和国東方紅1号の打ち上げに成功している。なお中国を含め、多くの国は弾道ミサイル開発の副産物として人工衛星打ち上げ技術を習得したが、日本は大学の付属研究所が純粋な民生技術として研究を行い、非軍事目的での人工衛星開発に成功し、なおかつ日本国内では直接的な軍事技術への転用も行われなかったという点で、国際的に特異性を持っている。

  • おおすみ」はL-4Sロケットの最終段そのものであり、また衛星の目的も衛星打上げロケットの技術開発であるから、それを語るうえでL-4Sロケットは文字通り切っても切り離せない関係にあるため、まずロケット側の背景から述べる。L-4Sロケットは誘導制御装置が付いていない、世界初の無誘導衛星打ち上げロケットであった。これは決して開発能力が無かったわけではなく、誘導装置はミサイル開発に繋がる軍事技術への転用が可能であるという指摘が野党の日本社会党等から上がり、開発の着手時期が大幅に遅れたためである。
    日本共産党の発表によれば、当時は「無尽蔵としか思えない規模で軍資金や人材を投じた」ソ連や中国の工作員の「対日離反工作」が跋扈した時代に該当する。

    *宇宙開発競争における当時の社民党の振る舞いは明らかに日本のそれへの日本の参入を何とか阻止せんとする内容であり、元来は「(特に「世界で4番目の人工衛星打上げ」を競っていた中国共産党の)対日離反工作」との関係を問われても仕方のない立場にあったが、もちろん日本の左翼陣営はそうした側面からの統括も行なっていない。あえて蒸し返せば「(不当に過去を蒸し返す)歴史修正主義者」の誹りを受ける事になるのだろう。

  • もちろん、単に真っ直ぐロケットを打ち上げても地球周回軌道には乗らないため、何らかの方法で機体を制御し、地表に対して水平に向きを変えなくては、衛星を軌道に投入できない。この代替策として「無誘導重力ターン方式」で軌道に投げ込む方法を取ることとなった。これは以下のように手の込んだ打ち上げ方式である。①第1段と第2段は尾翼による空力的効果で、第2段と第3段はスピンモーターにより機体をスピンさせて安定を保つ。②第3段燃焼終了・分離後、第3段が第4段に衝突しないように、第3段はレトロモーターで飛翔経路を後落させる。③第4段はデスピンモータでスピンを停止、姿勢制御装置で第4段を水平姿勢に制御する。④水平姿勢に制御した後、リスピンモーターでスピンを再び掛けて、放物線の頂点で第4段の燃焼を開始する。
    *一般にその発想の起源は日本の伝統的遊びたる「独楽回し」に由来するとされる事が多い。当時の社民党の「対日離反工作」はこうした「(西洋文化を拒絶して日本の伝統文化に回帰する)攘夷運動」と結びつけて語られる事もある。要するに「(西洋起源のバーニャ制御技術の採用をあくまで拒絶し抜いた)社民党こそが真の伝統に根ざす日本人愛国者」だったという立場。

  • 「無誘導重力ターン方式」での「手の込んだ」一例を上げると、デスピンモーターがある。一旦点火をすると燃焼を中断できない固体ロケットによって、ロケット本体のスピンを停めるため、デスピンモーターはスピン方向と反スピン方向の両方にノズルを持っている。デスピンモーターは、燃焼直後には反スピン方向のノズルのみに燃焼経路を開きスピン停止の為の噴射を行うが、スピン停止を検知するとスピン方向のノズルにも燃焼経路を開き、相対推力を零にする。この技術は、後の宇宙研衛星打ち上げロケットに採用されるロール制御モーター「SMRC」に結実する。

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  • おおすみ」は、L-4Sロケットの最上段(4段目)である直径48cmの球形固体モーター(ロケットエンジン)に円錐台状の計器部を付けたもので、全長約1m、質量は4段目(燃焼後質量)の14.9kgと計器部8.9kgを合わせた23.8kgの小さいものである。計器部には軸方向の加速度計、温度計、テレメータ送信機(295.6MHz)、ビーコン送信機(136MHz帯)、パイロット信号送信機(296.7MHz)などを搭載、電力は容量5AHの酸化銀-亜鉛一次電池で設計寿命は電池容量から約30時間であった。

  • 目標とされた軌道は、遠地点2,900km、近地点530kmであったが、第1段が風で流された事と第4段の推力が過剰であったため、実際に投入された軌道は、遠地点5,151km、近地点337kmの楕円軌道であった。ロケットモーターの断熱が十分でなく、機体が予想より高温となったため電池の消耗が激しく、14~15時間ほどで電力供給が途絶えた。そのため、衛星からの電波の発信は終了し、おおすみの運用は終了した。

打上げ後33年間軌道上にあったが、地球の大気による抵抗で高度が低下し、JAXA統合を10月に控えた2003年8月2日午前5時45分、北緯30.3度、東経25.0度(エジプト・リビアの国境付近)上空にて大気圏に再突入し燃え尽きた。

どうやら「不当に過去を蒸し返すのは、国際正義が許さない歴史修正主義」という事らしいです。そのプロパガンダ通りに本当に「人工衛星における独自技術確立は社民党が主導した」と信じてるなら、もっと胸を張って世界中に言い広めたらいいのに…

さらには「既に日本の左翼やリベラル層の反逆精神は迷走の結果遂には主体性を失い、それを反日外国人に預けてしまった」なんて展開も浮かび上がってきます。
*韓国の左翼勢力が日本の新左翼運動に共鳴したのは「(当時は軍事政権と財閥の勢いに歯が立たなかった韓国左派が憧れた)勝利への道筋」を体現していたからだった。今やその立場が逆転し、日本のリベラル層は「輝かしい勝利を重ねる」朝鮮半島左派の栄光への服従を迫られているという話もある。

韓国で文在寅(ムン・ジェイン)新政権が誕生したことを受け、沖縄の米軍基地反対運動が新たな展開をみせている。

5月13日、那覇市内の県立博物館・美術館で「沖縄にキャンドル・パワー沖韓連帯集会」と題する集会が開かれた。集まったのは、韓国からの約40人を含む約200人。韓国で政権交代をもたらした勢いを沖縄に持ち込もうと、米軍基地に反対する沖縄と韓国の活動家らが結集した。

日本側出席者は米軍普天間飛行場宜野湾市)の名護市辺野古への移設に反対する主張を展開し、韓国側は米軍の最新鋭迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD)」の配備阻止を訴えた。

沖縄の地元紙、八重山日報によると、韓国の活動家、チョン・ジョンミはあいさつで「韓国では民衆の力で不正腐敗にまみれた(朴槿恵(パク・クネ))政権を倒した」と胸を張った。その上で「南北の対立を対話で解決させ、核のない平和な東アジアを皆さんと一緒に作りたい」と呼びかけた。

沖縄のヘリ基地反対協議会代表の安次富(あしとみ)浩は「韓国の民衆の戦いに学び、受け継ぐ必要がある」と強調した。安次富が「今大事なのは自己決定権。日本政府に将来のあり方を委ねる必要はない」と断言すると、会場からは「独立だ」との声が上がった。

沖縄で浸透を図るのは韓国の団体だけではない。親北朝鮮勢力も活発に動いている。1月8日、県立博物館・美術館で「チュチェ(主体)思想新春セミナー」が開かれた。朝鮮労働党委員長、金正恩の誕生日を祝賀するため沖縄・朝鮮友好の会などが主催した。23年以降、毎年のように開かれているもので会合の模様は朝鮮総連の機関紙「朝鮮新報」が報じた。

同紙(電子版)によると主催者を代表してあいさつした金日成金正日主義研究全国連絡会代表世話人沖縄大学名誉教授、佐久川政一は「主体思想は沖縄の戦いの指針である」と語った。

佐久川は沖縄における反基地運動の中心的な人物で、「一坪反戦地主会」の一員でもある。佐久川は「主体思想」の運動に関わっていることについて「金日成の自主路線が気に入ったので研究会に入った。沖縄の基地問題を考える場合、非常に参考になる」と説明している。

沖縄では県知事、翁長雄志が辺野古移設に反対し、政府との対立が続いている。「反米軍基地」を目指す北朝鮮や韓国の左派グループにとって、沖縄は日本に対する「分断工作」の場として絶好の場所なのだ。
*日韓掲示板において「沖縄独立に賛成な沖縄人はたった4%しかいないというが、そんな数字なんて所詮は96%さえ粛清したらたちまち100%になっちゃうんだよ。多数決なんてとどのつまり、そんな曖昧な立脚点に過ぎないのさ。世界が最優先として求めてるのは先天的ナチス民族たる日本人の撲滅だという現実を日本人は一刻も早く受け入れるべき」と豪語する「自称反日韓国人」と遭遇した事がある。追い詰めたら「どういう形にせよ、先天的ナチス民族たる日本人同士を殺し合わせてその数を減らすのは国際平和実現に貢献する」と言い放ってアカウントを消して逃げた。あれ、その言い回し「(韓国系アメリカ人までも敵に回した)朝鮮左派のアメリカにおける展開」で既視感がある様な…

*そもそもナポレオンは(反フランス抗争で有名な)コルシカ貴族出身だったし、ナチスの主要幹部はオーストリア人だったヒトラーを筆頭とする「国内外で冷や飯を食わされてきたディアスポラ系ドイツ人」だった。そして両者とも本国のフランス人やドイツ人を不毛な戦争によって大量死に追いやる事で本来の目的を達成したなんて話もある。「自国に対する政治的経済的絶望感が頂点を極めると(国民に対して復讐を誓う立場の)外国人勢力が唯一の希望に見え出す」といった現象、案外普遍的なものなのかもしれない。

*そういえば大日本帝国軍国主義化していくプロセス、すなわち「国内における政治的経済的失望」が「大陸に対する無謀な規模での侵略的進出」を唯一の希望として採択していった過程において最も重要な役割を果たしたのは満州事変(1931年)を起こした関東軍ではなかったか?

*英国においても「アイルランド独立運動」に肩入れし過ぎた自由党は勝手に壊滅し「保守党の黄金期」を準備する結果に終わっている。ちなみに当時の英国においては自由党だけでなく労働党も(保守党の票を伸ばす)女性参政権運動を弾圧。

*米国黒人公民権運動(1950年代〜1960年代)当時活躍したブラックパンサー党(Black Panther Party, BPP)や、ネーション・オブ・イスラム(Nation of Islam, NOI)もまた同時に「白人が皆殺しにされるまで人類平等の理念は実現しない」「男尊女卑は黒人が死守すべき固有文化」と主張するレイシスト的側面を備え、その精神を(デモに便乗して近隣商店街を略奪して回るストリート・ギャングまがいの支持者と今日なお完全には決別出来ずにいる)BLM(Black Lives Matter)運動急進派に伝えている。ウルトラ・フェミニズム運動や韓国左派が国内における権威主義宗教右派と共闘する道を選んだ様に、こうした「反差別運動そのものが伝統的差別維持の温床となる」現象もまた意外と世にありふれていたりする。
アフリカ系アメリカ人公民権運動 - Wikipedia
ブラックパンサー党 - Wikipedia
ネーション・オブ・イスラム - Wikipedia

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*日本においてはかつて「しばき隊」や「男組」を名乗ってきた政治集団がこうした文化を日本リベラリズムに導入しようとして「失敗」に終わっている。そもそも米国本土においてすら、こうした動きは社会的立場向上の結果「我々が自発的にアファーマティブ・アクションを返上しない限り差別の歴史は終わらない」という結論に至った黒人リベラル層にBlack Establishmentのレッテルを貼り「彼らの様なレイシストの裏切り者をこそ地上から一刻も早く撲滅すべき」と攻撃し続ける事によって中産階層以上の黒人をも完全に敵に回してしまっている。今更そんな代物の「輸入」を試みても根付く筈がないとも。

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*実は「海外脱出した新左翼運動家が、国際謀略の世界で日本人代表として八面六臂の活躍を繰り広げる」船戸与一の「赤いハードボイルド小説(1984年〜1995年)」には、こうした「リベラリズムの現実」を直視し、それを乗り越えていこうとする姿勢が見受けられた。

こうした「1980年代を席巻したヒューマニズムに基づく物語」が1990年代に入ると次第に現実味を喪失し、エンターテイメントとして通用しなくなっていく。その背景には「オウム真理教(1994年〜1995年)事件」「日本赤軍(1971年〜2001年)壊滅」「九州南西海域工作船事件(2001年)」といった事件が連なっていく歴史が存在したとも。

そういえば「社会党のマドンナ」土井たか子党首は初めて海上保安庁が不審船に威嚇攻撃した時「逃げてる船に追いかけ、あろうことか、威嚇攻撃までするとはなんたることですか!」と激しく弾劾して北朝鮮を擁護している。また当時の社会党は「北朝鮮による拉致疑惑は全部日本ファシストの陰謀」という立場をとっていた。ちなみに今日なお日本には「(麻薬を密輸し、日本人を拉致する)不審船の人権を侵害する日本ファシスト政権を一刻も早く打倒せよ」と主張し続けてる人々が生き延びている様である。
「不審船」攻撃・撃沈は違法な戦闘行動です

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*この時不審船が放ったロケット団が命中してれば、逆に日本の巡視船側が撃沈されていた。それも「日本ファシスト政権に生存権を脅かされた側の正当防衛行為」に過ぎないのだという。
銃撃された海上保安庁巡視船「あまみ」の操舵室

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*ところが彼らは、北朝鮮による核ミサイル開発が国際社会を脅かす様になると「北朝鮮は昔からずっと米国や日本のファシスト政権の忠実な手先だった」などと主張し始め、反対意見を「歴史修正主義」と称して弾劾する様になっていく。

 安倍晋三政権がまた金を出して金正恩に頼んだのか?(安倍晋三金正恩は似たもの同士・・実によく似ている。自分に媚びへつらう者には優遇、異を唱えれば処刑。)

いつもいつもタイミングが良い。森友学園加計学園共謀罪大詰め・・・なのに、北朝鮮ミサイル一発発射で電波ジャック出来る。

官房機密費から実験費用が出ているのではと思いたくなるほどタイミングがいい(笑い)。それにしても騒ぎすぎ。

安倍問題が問い詰められると、必ず北からのミサイル発射 →問題がそれる。実は、安倍か菅が北朝鮮に送金してミサイル発射お願いしてるんじゃないか? もしパイプあったとしたら 拉致問題解決に使えばいいのに。 

 *こうした攻撃の矛先はもちろん「日帝」だけでなく「米帝」にも容赦無く向けられる。

*実はアメリカにおいても「ヒラリー=ネオコンの手先」説は流布していて、それがトランプ候補勝利の遠因の一つになっていたりもする。

この一貫性のなさこそが、ある意味一貫性というべきかもしれません。「どんなアクションもブーメランとなって返ってくる」根本的原因って、実はこれなんじゃ?