諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

グローバリズム・リージョナリズム・ナショナリズム⑤ 日本人と肉食の関係史

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食の世界における「距離のパトス(Pathos der Distanz)問題」、あるいは「格式問題」。その重要な鍵の一つは「肉食」の扱いだったりします。

  • 王侯貴族は(軍事訓練を兼ねた)狩猟や(その成果物たる)狩猟肉の配分権を独占したがるものである。古代中国においても「貴族(王侯階層や士大夫階層)」の原義の一つは「肉の常食者」、「礼」の原義の一つは「臣民に対する適切な肉の配分」であった。

    Zorac歴史サイト - 狩猟
    貴族の必須科目:狩猟 : ルネサンスのセレブたち

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    *一方「菜食主義者」の生活を強要される前近代の領民は国際的に、老いるのが早かったという。畜産が盛んだとハムやソーセージやチーズといった加工品の流通、(ブリテン島における)週に一度のローストビーフ供給、家禽料理などによって補われるケースも出てくるが、その場合でも最高級は(王侯貴族が常食し、祝祭の場で臣民に下賜する)ジビエ(狩猟肉)というイメージは保たれた。

    *ここで興味深いのが「(地産地消形態でないと鮮度確保が難しかった)田舎の食材」牛乳と玉子に対する近世以前の「格式」の低さで、実際「市場で買ったら腐ってた」ネタが大量に残っている。この問題を最終的に解決したのは産業革命導入期における冷蔵技術の飛躍的発展であった。

    *ここでいう「生鮮品ナショナリズム」と中央秩序浸透の関係については、名優スティーブ・マックイーンの遺作「トム・ホーン(Tom Horn、1980年)」が実に巧みに描いていた。西部開拓時代の終焉期に実在した賞金稼ぎの物語。鉄道網が発達し開拓地でも「新鮮なロブスター」が食べられる様になると「無法者」と一緒に「(それを狩る)賞金稼ぎ」も社会に居場所をなくしていくのである。戦後日本においても生卵が「闇市で取引される高級品」から「庶民の常食」に変貌していく過程は「裏社会の流通網からの駆逐」と軸足を一つにしていた。

  • その一方でインド文化圏においては(下層階層に高潔さをアピールする為)まずはバラモン階層(聖職者)、次いでクシャトリア階層(為政者としての王侯貴族)が「肉断ち」をステイタス・シンボルとした。

    *こうした意味での菜食主義は仏教ヒンドゥーにも継承されていく。またジャイナ教徒はジャイナ教徒で独特の「アヒンサー(非殺)文化」を発展させてきた。
    インドベジタリアンワールド(印度野菜主義)
    テイスト・オブ・インディア13 インドのベジタリアンについて

    *さらには徳川幕藩体制化における江戸の様に(スノビズムから精進料理を受容した)新興産業階層ばかりか(鮮魚流通網が確保され、醤油というこれにピッタリ合う調味料が大量生産された事により)庶民まで肉食を捨てたケースも見受けられる。そして、いずれにせよこうした志向性は「肉断ち」と無縁な「粗野な田舎者」への軽蔑に向かったのだった。

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  • 大日本帝国が遂行した「富国強兵政策の一環としての肉食奨励
    *欧州啓蒙君主達が飢饉回避と人口増加を企図して遂行した「馬鈴薯食推奨」の流れに連なる。

    福澤諭吉 肉食之説(1870年)

    古來我日本國は農業をつとめ、人の常食五穀を用ひ肉類を喰ふこと稀にして、人身の榮養一方に偏り自から病弱の者多ければ、今より大に牧牛羊の法を開き、其肉を用ひ其乳汁を飮み滋養の缺を補ふべき筈なれども、數千百年の久しき、一國の風俗を成し、肉食を穢たるものゝ如く云ひなし、妄に之を嫌ふ者多し。畢竟人の天性を知らず人身の窮理を辨へざる無學文盲の空論なり。

    抑も其肉食を嫌ふは豚牛の大なるを殺すに忍びざる乎。牛と鯨と何れか大なる。鯨を捕て其肉を喰へば人これを怪まず。抑も生物を殺すときの有樣を見て無殘なりと思ふ故乎。生た鰻の背を割き泥龜の首を切落すも亦痛々しからずや。或は牛肉牛乳を穢きものといはん乎。牛羊の食物は五穀草木を喰ひ水を飮むのみ。其肉の清潔なること論を俟ず。

    よく事物の始末を詮索すれば世の食物に穢き物こそ多からん。日本橋の蒲鉾は溺死人を喰ひし鱶の肉にて製したるなり。黒鯛の潮汁旨しと雖ども、大船の艫に附て人の糞を喰ひし魚なり。春の青菜香しと雖ども、一昨日かけし小便は深く其葉に浸込たらん。

    或は牛肉牛乳に臭氣あるといはん乎。松魚の鹽辛くさからざるにあらず、くさやの干物最も甚し。先祖傳來の糠味噌樽へ螂蛆(うじ)と一處にかきまぜたる茄子大根の新漬は如何。皆是人の耳目鼻口に慣るゝと慣れざるとに由て然るのみ。

    慣れたる物を善といひ、慣れざる物を惡しといふ。自分勝手の手前味噌だに嘗る其口へ、肉の「ソップ」が通らぬとは、あまり不通の論ならずや。或は又肉食の利害損失を問はず、只管我國の風にてこれを用ひずとの説なきにあらざれども、今我國民肉食を缺て不養生を爲し、其生力を落す者少なからず。即ち一國の損亡なり。 
    *おそらく国際的に見ても「食のグローバリズム」を擁護した最も過激な檄文の一つであろう。しかもそれは「菜食主義」や「和食至上主義」を切り捨てる内容だった。

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    *そして「肉」と「馬鈴薯」が合体すると「肉じゃが」「カレー」「シチュー」に。限りなくグローバリズムに接近したナショナリズムの産物。

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日本料理の歴史が複雑怪奇な展開を辿ったのも当然。なにしろ「ナショナリズム(中央文化至上主義)とリージョナリズム(地域文化至上主義)の対峙」を背景に「近代以前に国民統合と身分制維持の役割を担ってきた食習慣」から「近代以降、国民国家間の競争を支えてきた食習慣」への乗り換えが遂行されてきたのですから。

 日本の獣肉食の歴史 - Wikipedia

日本では古来、食用の家畜を育てる習慣が少なく、主に狩猟で得たシカやイノシシの肉を食していた。

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仏教伝来以降は、獣肉全般が敬遠されるようになっていったが、日本人の間で全く食べられなくなったという時期は見られない。

獣肉食に関する嫌悪感も時代とともに変わっていったが、おおむね、狩猟で得た獣肉は良いが家畜を殺した獣肉は駄目、そして足が多いほど駄目(哺乳類>鳥>魚)と考えられることが多かった(タコ・イカは例外)。

獣肉消費量が魚肉を上回るのは第二次世界大戦後の高度成長期より後のことなる。

採集時代

縄文時代貝塚や遺跡からは動物の骨も数多く発掘されている。
*ここでも「エルフ問題」が登場。

*「ドングリやクルミやキノコが主食だった」とする菜食中心派と「狙える限りあらゆる獲物を狩った」とする肉食中心派が対峙する展開に。しかし実は狩猟採集民なるもの(飢饉を恐れるあまり)特定の食材に依存するのを極度に恐れるものであり、その意味においてはどちらも正解であり、どちらも間違っている。

  • その9割は鹿(ニホンジカ)、猪(ニホンイノシシ)の肉で、その他にクマ、キツネ、サル、ウサギ、タヌキ、ムササビ、カモシカ、クジラなど60種以上の哺乳動物が食べられていたものと見られる。また里浜貝塚、大木囲貝塚の糞石から、シカ、イノシシ、オットセイ、アザラシなども食されていたことが明らかとなっている。
    里浜貝塚 文化遺産オンライン
    大木囲貝塚・歴史資料館|観光情報|七ヶ浜町
  • 調理法は焼く、あぶる、煮るなどであり、焼けた動物の骨も見つかっている。また、動物の臓器を食べることで有機酸塩やミネラル、ビタミンなどを摂取していた。

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続く弥生時代にも、狩猟による猪、鹿が多く食べられ、その他ウサギ、サル、クマなども食べられている。

縄文人の食生活 西本 豊弘 氏

農耕時代

動物の臓器が食べられることは少なくなり、塩分は海水から取られるようになった。

日本の製塩の歴史 | 「伯方の塩」のあゆみ | 伯方の塩® | 伯方塩業株式会社

  • 縄文時代の遺跡では狩猟獣であるシカ・イノシシがほぼ一対一の比率で出土するのに対し、弥生時代の遺跡では「イノシシ」が増加する。これは西本豊弘により形質的特徴から大陸から導入された家畜としてのブタが混入していたことが指摘され「弥生ブタ」と称されている。

  • 弥生時代の社会は家畜の利用を欠いた「欠畜農耕」と考えられていたが、1980年代終盤から「ブタ」やニワトリの出土事例が相次いでおり、家畜の利用が行われていたと考えられている。

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文献資料では『魏志倭人伝』(3世紀)において日本には牛馬がいなかったことが明記されている。ただし「近親者の死後10日ほどは肉を食べない」ともかかれており、肉食自体は行われていた。
日本人の肉食 魏志倭人伝における喪中肉禁忌

  • 日本書紀』の雄略2年10月 (旧暦)の条には「置宍人部 降問群臣 群臣黙然 理且難対 今貢未晩 我為初 膳臣長野 能作宍膾」と宍人部(食肉に携わる職の家系)の起源伝承が述べられており、生肉が宍膾(ししなます)にして食べられた旨が書かれている。生肉を食べるのは神事であり、生肉の保存技術が無いために生贄はその場で屠殺して食べられた。

  • 古墳時代には薬猟の名で、鹿や猪の狩が年に数回行われ、その肉が薬用として食べられていた。鹿肉と猪肉は共に宍肉(ししにく)と呼ばれた。

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  • また古墳時代には大陸から牛と馬が渡来する。馬は主に乗馬として用いられたが、牛馬は肉や内臓が食用あるいは薬用にも使われた。

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  • 豚あるいは猪の飼育も行われており、『日本書紀安寧天皇11年(西暦不明)の条には猪使連という職が登場する。

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  • 欽明天皇16年(555年)7月 (旧暦)には「使于吉備五郡 置白猪屯倉」と吉備に白猪屯倉を置くよう命じられており、569年には功あった白猪田部に白猪史の姓が贈られている。

数多くの渡来人集落が築かれた近江が後に近江牛の産地となったのは決して偶然ではない。この地方における肉食の伝統は「(牛を生贄に捧げる)スサノオ崇拝」や「(牽牛と織姫の邂逅譚たる)七夕伝承」と深く結びついているとも。
*江戸時代の彦根藩では第3代藩主井伊直澄のころ、反本丸(へいほんがん)と称して全国で唯一牛肉の味噌漬けが作られており、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで幕府や他藩から要求が絶えなかったという。これは近江牛が名産となるはしりとなった。近江牛は開港期には東海道を徒歩で、のち汽船を使用し東京・横浜まで出荷されるようになる。

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朝廷による「肉食の独占」

奈良時代になると、貴族食と庶民食が分離するようになった。また仏教の影響で、動物の殺生や肉食がたびたび禁じられるようになった。

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  • 日本書紀』によると675年、天武天皇仏教の立場から檻阱(落とし穴)や機槍(飛び出す槍)を使った狩猟を禁じた。また農耕期間でもある4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食することが禁止された。ただし一般的な獣肉であった鹿と猪は禁じられていない。

  • その後も罠や狩猟方法に関する禁令がたびたび出された。正月の宮中行事である御薬を供ずる儀でも、獣肉の代わりに鶏肉が供されるようになった。

  • この頃から貴族の間で牛乳や乳製品の摂取が盛んになり、動物性タンパクが補われるようになった。

  • ただし引き続き豚の飼育も行われており、穂積親王が708年に詠んだ歌には「降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに」とある(猪養は地名でもある)。
    吉隠の猪養の岡の…(桜井市吉隠) - ならリビング.com
  • また718年(養老2年)に亡くなった道首名は筑後守時代に国人に鶏や豚の飼育を奨励しており『続日本紀』には「下及鶏肫。皆有章程。曲盡事宜」(〈道首名の規則は〉鶏や豚の飼育にも及んでおり、ことごとく詳細で適切であった)と記されている。

  • 続日本紀』732年(天平4年)7月6日には聖武天皇が「和買畿内百姓私畜猪四十頭。放於山野令遂性命(畿内の百姓から家畜の猪40頭を買って山に逃がした)」との記載もある。

  • 奈良時代の肉食禁止令には、家畜を主に食していた渡来系の官吏や貴族を牽制するためとする説もあり、家畜はだめだが狩猟した肉はよいとする考えもこれに基づくものである可能性もある。

  • その一方で庶民には仏教が浸透しておらず、禁令にもかかわらず肉食は続けられた。奈良時代には前時代から食されていた動物に加えてムササビも食されたが、臭気が強いためにこの他の時代ではあまり例がない。また、酢を使って鹿の内臓を膾にすることも始められた。

平安時代にも貴族の間での食肉の禁忌は続いた。

  • 914年(延喜14年)に出された漢学者三善清行の『意見十二箇条』には、悪僧が腥膻(肉と肝)を食うのを評して「形は沙門に似て、心は屠児の如し」とかかれており、食肉の禁忌があったこと、および一部ではそれを僧でさえ破っていたこと、獣肉を処理する屠児という職業がありそれが差別される存在であったことなどを示している。

  • 935年(承平5年)に編纂された辞書『和名類聚抄』人倫部第六  漁猟類第二十一では、屠児の和名を「えとり」とし、意味は「鷹雞用の餌を取る者」転じて「牛馬を屠って肉を売る者」という意味だと解説しており、獣肉を売る商売があったことが分かる。また『和名類聚抄』には猪、ウサギ、豚などが食されたことも記載されており、これらはハレの日の食膳に出された。

  • 平安時代には陰陽道が盛んになったこともあり、獣肉食の禁忌は強まり、代わって鳥や魚肉が食されるようになった。これが魚肉の値上がりの原因になり、延喜式に記載された米と鰹節との交換比率は、200年前の大宝令の時と比べて2 - 3倍に上がっている。

  • 延喜式には獣肉の記載がほとんどないが、一方で鹿醢(しししおびしお)、兎醢など獣肉の醤油漬けや、宍醤(ししびしお)という獣肉の塩漬けを発酵させた調味料に関する記載もある。乳製品もさらに多く摂られるようになっている。

  • 平安末期になると孔子に食肉を供えるはずの行事釈奠でも代わりに餅や乾燥棗などが用いられるようになったり、正月の歯固の膳でも鹿の代わりに鴫、猪の代わりにキジが出されるようになった。また、穢れを信じるあまりに馬肉は有毒とまで考えられ、『小右記』の1016年(長和5年)の条には犯罪を犯した男に馬肉を食べさせた旨が記されている。

  • 平安時代古語拾遺には古代のこととして「大地主神、田を営るの日、牛の宍を田人に食はせ」とあり、御歳神に対する神事として農民に牛肉を食わせたことが書かれている。ただし古語拾遺内の創作であるとする可能性も指摘されている。

  • 平安時代の『類聚雑要抄』には、餐宴の料理として「鳥焼物」が記載されている。

とはいえ当時の医学書『医心方』にしし肉(獣肉)と魚肉の食い合わせが良くないと記されていたり、『今昔物語』には庶民がしし肉を買いに行く場面が出てきたりと、完全に食肉の習慣が無くなったわけではなかった。

武士の時代

鎌倉時代になると、武士が台頭し、再び獣肉に対する禁忌が薄まった。

  • 武士は狩で得たウサギ、猪、鹿、クマ、狸などの鳥獣を食べた。

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  • 鎌倉時代の当初は公卿は禁忌を続けており『百錬抄』の1236年(嘉禎2年)の条には武士が寺院で鹿肉を食べて公卿を怒らせる場面が出てくる。しかし時代が下ると公卿も密かに獣肉を食べるようになり、『明月記』の1227年(安貞元年)の条には公卿が兎やイノシシを食べたとの噂話が載せられている。その一方で乳製品は以後明治までほぼ食べられなくなった。

  • 12世紀後半の『粉河寺縁起絵巻』には、肉をほおばり、干肉を作る猟師の家族が描かれている。

  • 中世の『包丁聞書』には、「鶉のやき鳥には、両羽を切り広げ、其上に檜葉を置盛也、是を葉改敷といふ也」と記述されている。

  • 禅宗の影響で、動物性の材料を一切用いない精進料理も発達した。精進料理は単なる植物食ではなく「猪羹」など獣食に見立てた料理もあった。一方で神社の物忌み期間中の獣食は厳しくなり、平安時代には禁止されていなかった鹿や猪肉までもが禁令に含まれ、その期間も数十日程度にまで長くなっている。

  • 南北朝時代の『異制庭訓往来』には、珍味として熊掌、狸沢渡、猿木取などの獣掌や、豕焼皮(脂肪付きのイノシシの皮)を焼いたものなどが掲載されており『尺素往来』には武士がイノシシ、シカ、カモシカ、クマ、ウサギ、タヌキ、カワウソなどを食べていたことが記されている。

  • 医学も進歩して『拾芥抄』には2月のウサギ、9月の猪肉を食べないように記載されている。

  • 僧侶もひそかに肉食をするようになり、特にウサギは鳥と同様の扱いになって、『嘉元記』の1361年(南朝:正平16年、北朝:康安元年)の饗宴記録にもウサギ肉について記載されている。

一方、屠児(穢多、屠殺業者)に対する差別も広がった。

  • 獣肉食や鷹狩の衰退から、屠児の仕事は不要な牛馬を処理して皮を取るものへと変わっていき、獣肉は経済的な理由から主に屠児自身が食べるようになった。

  • 13世紀に編纂された『天狗草紙』『塵袋』『名語記』など、えたに関する記載が増えている。『名語記』には「河原の辺に住して牛馬を食する人」、『塵袋』には「非人、かたひ、えたなと、人ましろひもせぬ、おなじさまのものなれは、まきらかして非人の名をえたにつけたる也」と解説されており、牛馬を食したり殺生業を営む人は一般人と交わることが憚られた。

  • このころにはまだ有識者の間では「えたの本義は餌取」との認識があったが、15世紀中ごろになると、辞書『下学集』には「穢多。屠児也。河原者」と解説されており、また、『壒囊鈔』には「常には穢多と書く、けかれをほき故と云」と解説されていて、むしろ「穢れているから穢多なのだ」という認識に変わっている。

  • 屠殺業者に対する差別意識が高まったことから、屠殺業者自身が仏教的な罪悪意識を持ったり、逆に差別に対抗する動きも出ている。とりわけ鎌倉仏教にはそれを課題とした宗派が多い。主に12世紀に活躍した浄土宗の開祖法然は『一百四十五箇条問答』の中で、魚や鳥や鹿を食する事に関して「食さないほうがいいが、この世ではやむをえないこと」と答えていたり、あるいは「干肉が忌み深いというのは誤り」と語っている。これは浄土宗信徒に獣肉食をする人が多かったことを意味している。また、法然の弟子で浄土真宗の宗祖親鸞は『大般涅槃経』を参考にして浄肉(食べてもよい肉)・不浄肉の区別を試みている。また時宗の開祖一遍は畋猟漁捕を業とする者を信者に多く持っていた。また南北朝期の神道書『神道集』でも「肉食は比の如く罪無し」と解説されている。

たぬき汁が登場する「かちかち山」が成立したのは室町時代後期といわれるが、その時代の料理書「大草家料理書」にはタヌキを蒸し焼きにした後に鍋で煮る「むじな汁」のレシピが記されている。当時の評価では同じく肉食対象だったアナグマと比較して、タヌキ料理は不味かったという。

ムジナ汁 - 上越市ホームページ

戦国時代・安土桃山時代における南蛮貿易の影響

戦国時代になると、南蛮貿易などを通じた食品の輸入が本格化した。この時代には新大陸(南北アメリカ大陸)の食材ももたらされている。

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  • ジャン・クラッセ (Jean Crasset) の『日本西教史』には「日本人は、西洋人が馬肉を忌むのと同じく、牛、豚、羊の肉を忌む。牛乳も飲まない。猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と書かれている。

  • 宣教師ルイス・フロイスの『日欧文化比較』には「ヨーロッパ人は牝鶏や鶉・パイ・プラモンジュなどを好む。日本人は野犬や鶴・大猿・猫・生の海藻などをよろこぶ」 「ヨーロッパ人は犬は食べないで、牛を食べる。日本人は牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」と書かれている。

  • 宣教師フランシスコ・ザビエルは日本の僧の食習慣を真似て肉食をしなかったが、その後の宣教師は信者にも牛肉を勧め、1557年(弘治3年)の復活祭では買った牝牛を殺して飯に炊き込んで信者に振舞っている。

  • 『細川家御家譜』には、キリシタン大名高山右近小田原征伐の際、蒲生氏郷細川忠興に牛肉料理を振る舞ったことが書かれている。

  • 曲直瀬道三の養子曲直瀬玄朔は医学書『日用食性』の中で、獣肉を羹(具がメインのスープ)、煮物、膾、干し肉として食すればさまざまな病気を治すと解説している。ただし当時の医学書には中国文献の引き写しも多く、日本では手に入らない食材なども書かれており、実際に行われていたかどうかは明らかではない。

  • 戦国時代末期の日本語を収録した『日葡辞書』には「Cacho ブタ」と記されており、地方によっては豚(家猪)が飼われていたものと見られる。

  • また戦国末期からは阿波などで商業捕鯨が始まっている。阿波の三好氏の拠点勝瑞城の館跡地では、牛馬に豚や鶏、鯨、犬や猫などの骨が数多く出土しており、食用だけでなく鷹の餌や、愛玩用として家畜が飼われ、肉が市場に流通していたと考えられている。徳島県藍住町教育委員会は、当時の食事を研究し、三好義興が京都で将軍を歓待した時の本膳料理を再現。その時の材料には、ウズラやシャモ、クジラ、サケが使用された。

ただし京などで獣肉が一般的に食されていたとは言えず、例えば秀吉が後陽成天皇聚楽第に招いた際の献立にも入れられていない。特に牛馬の肉を食べることは当然の禁忌であり、1587年(天正15年)、秀吉は宣教師ガスパール・コエリョに対して「牛馬を売り買い殺し、食う事、これまた曲事たるべきの事」と詰問し、それに対してコエリョは「ポルトガル人は牛は食べるが馬は食べない」と弁明をしている。

江戸時代における肉食

江戸時代には建前としては獣肉食の禁忌が守られた。特に上流階級はこの禁忌を守った。例えば狸汁は戦国時代には狸を使っていたが、江戸時代にはコンニャク、ごぼう、大根を煮たものに変わっている。

  • 1613年(慶長18年)、平戸島に商館を開設したイギリスのジョン・セーリスは陸路で大阪 (osaca) から駿河 (Surunga) に向かう行程で書かれたとみられる日本人の食習慣に関する記述の中で、豚が多く飼育されていることに言及している。

  • 1643年(寛永20年)の刊行とされる『料理物語』には、鹿、狸、猪、兎、川獺、熊、犬を具とした汁料理や貝焼き、鶏卵料理等が紹介されている。

  • 1669年(寛文9年)に刊行された料理書『料理食道記』にも獣肉料理が登場する。

  • 1686年(貞享3年)に刊行された山城国の地理書『雍州府志』には、京都市中に獣肉店があったことが記されている。

  • 江戸後期の国学者喜多村信節は、著書『嬉遊笑覧』の中で、元禄前の延宝・天和の頃には江戸四ツ谷に獣市が立ったことを述べている。1718年(享保3年)には獣肉料理の専門店「豊田屋」が江戸の両国で開業している。

獣肉食の禁忌のピークは、生類憐れみの令などが施された17世紀後半の元禄時代である。この法令自体は徳川綱吉の治世に限られ、影響も一時のもので終った。ただし特に犬を保護したことについての影響は後世まで残り、中国や朝鮮半島で犬肉が一般的な食材になっている一方で、日本では現代に至るまで犬肉は一般的な食材と看做されなくなった。
*当時の江戸庶民は冬の風物詩として「野犬狩り」を楽しんでおり、その副産物として狗肉を得ていた。ここから(将軍のお膝元の)江戸においてくらい「(軍事訓練を兼ねた)狩猟を武家の独占物にしておこうとした」とする発想も浮かび上がってくる。

  • 18世紀の書『和漢三才図会』第37「畜類」の冒頭豕(ぶた)の条では育てやすい豚が長崎や江戸で飼育されていることが述べられているが、大坂在住の著者は「本朝肉食を好ま」ないため近年は稀だとする。牛の条の注には、日用としては駄目だが禁止する必要はないとも書かれている。

  • 1733年(享保18年)に伊達家の橘川房常が書いた『料理集』には牛肉を粕漬けあるいは本汁として使うことができるが、食後150日は穢れる旨が書かれている。

  • 彦根藩は「赤斑牛の肉だけは食べても穢れない」との理屈を付けて、毎年の寒中に赤斑牛の味噌漬けを将軍と御三家に献上している。

その一方で「焼き鳥」は静かな浸透を続けてきた。

  • 江戸時代初期には大名の正式な本膳料理にも使われるようになる。一例として、小諸城主がこれを食している。

  • 1643年の料理本『料理物語』に鳥料理があり、その中に焼き鳥の文字が見える。山鳥(やまどり)・鸞(ばん)・鴫(しぎ)などであり、鶏(にわとり)は「煎り鳥」に調理されたが、鳥類の多くは串焼きとされていた。

  • 1674年の『江戸料理集』には「焼鳥には鴫類、うずら、ひばり、小鳥類、雉子、山鳥、ひよ鳥、つぐみ、雀、鷺類、鳩、けり、鷭(ばん)」と、「各種の焼き鳥」について言及されている。

  • 1682年頃の『合類日用料理抄』では焼き鳥の「調理方法」が記載されており「鳥を串に刺し、薄霜ほどに塩をふりかけ焼き申し候。よく焼き申し時分、醤油の中へ酒を少加え、右の焼鳥をつけ、又一変つけて其の醤油の乾かぬ内に座敷へ出し申し候」と記述されている。

  • 神社の参道では江戸時代から続く雀の焼き鳥屋が名物であった。若月紫蘭の「東京年中行事 - 雑司ヶ谷鬼子母神会式」1911年には次のように記述されている。「尚、序にこのお祭の名物と言うのは、平生からも名物である小鳥の雀焼...境内に至るまでの長い道の両側で盛んに客を呼んでいる」。祭の名物であり、盛んに売られているものとして焼き鳥が挙げられている。

18世紀には、なぜ獣肉食が駄目なのか、獣肉食の歴史はどのようなものだったかについての研究も行われた。

  • 儒者熊沢蕃山は没後の1709年(宝永6年)に刊行された著書『集義外書』の中で、牛肉を食べてはいけないのは神を穢すからではなく、農耕に支障が出るから、鹿が駄目なのはこれを許せば牛に及ぶからなのだ、との見解を示している。

  • 藤井懶斎は儒者の立場から、没後の1715年(正徳5年)に刊行された『和漢太平広記』の中で、孔子に食肉を供えるはずの行事釈奠で肉を供えないのでは儒礼とは言えないとの見解を示している。

  • 香川修庵は1731年(享保16年)、著書『一本堂薬選』の中で、日本書紀続日本紀の中に肉食が行われていた記録があることに言及した。

  • 本居宣長も1798年(寛政10年)に完成した『古事記伝』の中で、古代の日本人が肉食をしていたことに言及している。

江戸中期になると蘭方医学も獣肉食に影響した。

  • 19世紀の小山田与清の著『松屋筆記』には猪肉を山鯨、鹿肉を紅葉と、そのほか熊、狼、狸、イタチ、キネズミ(リス)、サルなどの肉が売られたことが記されている。

  • 1829年(文政12年)完成の地理書『御府内備考』には麹町平河町や神田松下町に「けだ物店」があった旨が書かれている。

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  • 19世紀の寺門静軒の著『江戸繁昌記』にも、大名行列が麹町平河町にあったももんじ屋(獣肉店)の前を通るのを嫌がったことが記されている。ここでは猪、鹿、狐、兎、カワウソ、オオカミ、クマ、カモシカなどが供されていた。

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  • また内臓も被差別部落民に分配され食べつくされている。

  • 1827年(文政10年)に出版された佐藤信淵の『経済要録』に「豕(豚)は近来、世上に頗る多し。薩州侯の邸中に養ふその白毛豕は、殊に上品なり」と書かれているように、一部では豚の飼育も行われていた。佐藤はこの著作で畜産の振興と食用家畜の普及を提言しているが、牛馬に関しては全く食用の可能性に言及していない。

    豚骨 | かごしまの食

  • 福翁自伝によれば、福澤諭吉適塾で学んだ江戸末期の1857年(安政4年)、大阪に2軒しかない牛鍋屋は、定客がゴロツキと適塾の書生ばかりの「最下等の店」だったという。

  • 1863年(文久3年)に池田長発らが遣欧使節団としてフランスに派遣された際も、一行は肉食はもちろん、パンも牛乳も日ごとに喉を通らなくなっていったとの記録がある。

  • 1908年(明治41年)に刊行された石井研堂明治事物起原』によると、1860年代に横浜の居酒屋「伊勢熊」が外国商館から臓物を安く仕入れて串に刺し、味噌や醤油で煮込んで売り出し、繁盛したという。

江戸時代には日朝間の外交使節として朝鮮通信使が派遣されるが、江戸幕府は外交的配慮から通信使に対して道中はイノシシ肉でもてなすものの、江戸城の正餐では儀式的な料理で魚貝・鳥類を除き獣肉が使われない本膳料理が出された。ただし、本膳料理は見ることを主眼とした料理で実際に食される部分は少なく、実際に食する膳として別に引替膳が出された。

  • 一方、朝鮮半島南端の釜山には日朝間の外交・交易を限定的に行う対馬藩管理の倭館が設置されていた。倭館では朝鮮側から饗応料理として朝鮮式膳部が振る舞われ、膳部には牛肉などの食肉が用いられている。

また、幕末期にはペリーやハリスにも本膳料理を出していた。ただし江戸最末期の1866年にはパークスとの会食で西洋料理を供している。 

文明開化と肉食

明治時代になると、牛肉を食べることが文明開化の象徴と考えられ、牛肉を使ったすき焼きが流行した。

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  • 当時の牛鍋屋は仮名垣魯文の「安愚楽鍋(1871年)の舞台ともなっている。

    牛丼 - Wikipedia

    牛丼の源流に該当する料理は牛鍋は1862年(文久2年)横浜入船町の居酒屋「伊勢熊」が店の半分を仕切り、日本初の牛鍋屋を開業したとされる。

    • 幕末から明治時代初期の牛肉は硬く獣臭さが目立ち、それらを緩和するため関東の牛鍋は紅葉鍋(鹿鍋。花札の10月(花が紅葉)の札が鹿であることから出たとされる)に類似した内容で、具材は牛肉(薄切り肉の使用が定着しておらず、角切り肉を使う場合もあった)・ネギのみで味噌仕立ての味付けで煮る・炒め煮にする調理法が主流で、ネギを五分(一寸の半分で約16〜17mm)の長さに切ったことから明治初期には具材のネギが「五分」と呼ばれたこともあった。

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    • 明治時代の文明開化により牛肉を食べる習慣が広まり、東京・芝に外国人向け食肉加工場が完成したりして肉質が良くなるにつれて、関東地方の味付けは味噌から醤油と砂糖などを調合したタレ(割下)が主流になっていった。
      *こうして「味噌味」から「砂糖味」へ。

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    • 1877年(明治10年)には、東京で牛鍋屋は550軒を超え大流行となっていた。

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    • 1887年(明治20年)頃になると、具材において牛肉や野菜の他に白滝や豆腐が使われ始め、ネギはザクザクと切ることから「ザク」と呼ばれ、この「ザク」という言葉は具材全体の総称にもなっており、これらを沢山の割下で煮た牛鍋が関東風すき焼きの原型となった。

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    この牛鍋を丼飯にかけた料理が牛丼の原型であり、当時の名称は牛飯・牛めしで1890年代には発売されており、この時期の東京にはあったが京阪には無かった。

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    • 1899年に松田栄吉が創業した吉野家の牛丼も同類の内容であり、当時は「牛鍋ぶっかけ」と呼ばれ、主な客であった日本橋の魚河岸の人々に親しまれた。

    • 浅草や上野の広小路一帯にも牛丼の屋台が沢山出ており、そこでは「牛飯・牛めし」の名称以外にも「かめちゃぶ」の俗称が使われた。かめちゃぶの表現は古川ロッパの随筆集「ロッパの悲食記」の中でも登場している。大正から昭和初期に牛スジの煮込みを使った屋台料理として浅草で人気を呼び、本格的な完成を見たとされる。

    吉野家で具材は明治から大正時代は牛鍋と同様の時期が続いたが、客側の「特に牛肉とご飯を一緒に楽しみたい」という要望が高まり、それを追求・進化していった結果、現在に通じる「牛肉とご飯を一緒に楽しむ」ことに特化した内容へ変化していったとされる。

明治新政府は発足当初から肉食奨励のキャンペーンを大々的に展開した。

  • 明治2年(1869年)に築地に半官半民の食品会社「牛馬会社」を設立し畜肉の販売を開始した。

  • 明治3年(1870年)には福沢諭吉が執筆したパンフレット『肉食之説』を刊行、配布している。

  • 斎藤月岑日記にも「近頃のはやりもの」として牛肉、豚肉などが挙げられている。

  • 食肉業者が増えたことにより、1871年(明治4年)には「屠場は人家懸隔の地に設くべし」との大蔵省達が出されている。同年には天長節翌日の外国人を招いた晩餐会で、西洋料理を出している。

  • 明治天皇が初めて牛肉を食したのは1872年(明治5年)であった。同年、廃仏毀釈により僧侶を破戒させるため「肉食妻帯勝手なるべし」とされた。

明治初頭にはもっぱら和食の食材として用いられ、関東では味噌味などの牛鍋として、関西では炒めて鋤焼と称して食べられた。生に酢味噌を付けて食べることも行われた。

  • 牛肉の質は兵庫県産が最上とされ、ついで会津、栗原、津軽、出雲、信州、甲州などが優秀とされた。ただし獣肉食を穢れとする考えは強く、これを迷信として打破するために近藤芳樹『屠畜考』、加藤祐一『文明開化』といった著作や、敦賀県からは牛肉を穢れとする考えを「却って開化の妨碍をなす」とする通達が出されている。

    国立国会図書館デジタルコレクション - 牛乳考・屠畜考

  • 1906年(明治39年)には炭疽病を防ぐために屠場法が制定された。

明治初年には抵抗も強かった。血抜きの技術が不完全で煮炊きすると臭かったため、庶民が単純に敬遠するということもあったらしい。

  • 『武士の娘』を書いた杉本鉞子は牛肉を庭で煮炊きをしたところ、祖母は仏壇に紙で目張りをして食事にも姿を見せなかったという。一方、理由のある反対としては1869年(明治2年)、豊後岡藩の清原来助が公議所に農耕牛保護のため牛肉の売買禁止を訴えている。

  • 天皇が食してしばらく後の1872年(明治5年)2月18日、御岳行者10名が皇居に乱入し、そのうちの4名が射殺、1名が重傷、5名が逮捕される事件が発生し、後に「外国人が来て以来、日本人が肉食し穢れて神の居場所が無くなった為、外国人を追い払うためにやったのだ」との動機が供述されている。

  • 1873年(明治6年)の『東京日日新聞』には「豚肉は健康に良くないので食べないよう」との投書が掲載された。1877年(明治10年)の『朝野新聞』には「洋食洋医を宮中より斥けよ」との記事が掲載された。

  • 1880年(明治13年)の『郵便報知新聞』は、牛肉食で耕牛が減少したため、食糧生産が大幅に減少した、と報じている。

日本における肉食の定着には、近代軍も大きく貢献している。

  • 1884年(明治17年)、海軍省医務局長の高木兼寛は、当時大きな問題であった脚気の原因が「窒素と炭素の比例不良」(タンパク質の不足)にあると考え、脚気対策として海軍の兵食を西洋式に改めることを上申。しかし、兵員の多くがパンと肉を嫌って食べなかったため、海軍では1885年(明治18年)から麦飯も支給されることとなった。

    軍隊の食事 - chakuwiki

  • 陸軍においても日常で食される兵食や野戦糧食に肉食・洋食が多く取り入れられ、日清戦争当時の「戦時陸軍給与規則」では1日の基準の肉・魚は150gであった。日露戦争当時は白米飯(精白米6合)から麦飯に切り替わった。

  • 1910年(明治43年)制定の陸軍公式レシピ集『軍隊料理法』(「明治43年陸普3134号」)には、肉をメインとする洋食レシピとしてカツレツ(ビーフ・ポーク)、ビーフステーキ、メンチビーフ、フーカデン・ドライド、ハッシビーフ、ロール・キャベツ、カレー・ライス、スチウ、ミートオムレツ、燻製豚肉、牛肉のサンドウイッチ、肉スープ、コンド・ビーフなどが掲載されている。

  • 大正末にはパン食も組織的に取り入れられ(「大正9年陸普第2529号」)、その副食に最適なものとしてカレー・シチウ(シチュー)・貝と野菜汁(クラムチャウダー)が挙げられ、またシロップ・ジャム・バター・クリームも嘗物として導入されている。

政府は役人に対し、外交上あるいは外国人との交際上の理由から洋食を奨励した。

近代日本における西洋文化の受容

  • 海軍は上野精養軒で食事をすることを奨励し、月末に精養軒への支払いが少ない士官に対して注意されることもあったという。

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  • 遅くとも1877年(明治10年)までには宮中の正式料理は西洋料理となった。この頃には東京の牛肉屋は558軒にまでなっている。

  • 1886年(明治19年)の東京横浜毎日新聞には、高木兼寛が洋食を嫌う日本女性相手に毎月3回の洋食会を開くことを決めた旨が掲載されている。

山間部では牛肉食は広まらなかったが、元々獣肉食に対する嫌悪感は少なく、1873年(明治6年)に刊行された飛騨地方の地誌『斐太後風土記』にはシカ、イノシシ、カモシカ、クマなどが食べられていた旨書かれている。ただしその総量は鳥類を合わせても魚類の6分の1程度であった。

  • 明治中期になると、家庭でも西洋料理が作られるようになった。1895年(明治28年)の『時事新報』には「この牛の煮たのは変なにおいがするね」「ネギが臭くてたまりませんから、香水をふりっけましたっけ」との新婚家庭の笑い話が掲載されている。

  • 1903年(明治36年)の『婦女雑誌』には米津風月堂主人による「牛肉の蒲鉾」などの料理が掲載されている。

  • 1904年(明治37年)の『家庭雑誌』にはアメリカで料理を学んだこともある大石誠之助が「和洋折衷料理」として濃い目の味噌汁にカレー粉と牛肉を入れた「カレーの味噌汁」などを紹介している。

  • ジャーナリストの村井弦斎1903年(明治36年)から報知新聞に料理小説『食道樂』を連載し、そこで西洋料理の紹介もして、後に書籍となって大ベストセラーになった。

    食道楽 (村井弦斎) - Wikipedia

  • 1904年(明治37年)から始まった日露戦争のため、戦場食糧として牛肉の大和煮缶詰や乾燥牛肉が考案され、軍隊で牛肉の味を覚えた庶民が増えた。日本内地では戦争のため牛肉が不足し、豚肉が脚光を浴びることになり、1883年(明治16年)には年間消費量1人4グラムであったところ、1926年(大正15年)には500グラム以上にまでなった。

  • 明治時代の貧民街ルポルタージュである『最暗黒の東京』では屋台についての記述があり、新橋から万世橋まで多数の店が出ていたと記述されている。「居酒屋の前には焼鳥、焼鯣(やきするめ)、炙(やき)唐もろこしと匂をもって道を塞ぎ、焼鳥等の屋台店はもっぱらにこの彼ら夜業の車夫によって立つもの。この類の露店午後十時の通行において新橋より万世橋までの総計かつて八十六個を算えき焼鳥―煮込みと同じく滋養品として力役者の嗜み喰う物。シャモ屋の庖厨より買出したる鳥の臓物を按排して蒲焼にしたる物なり。一串三厘より五厘、香ばしき匂い忘れがたしとて先生たちは蟻のごとくに麕って賞翫す」。

  • 1921年(大正10年)には富岡商会が冷蔵庫を設置して年間を通しての鎌倉ハムの製造を始めている。

  • 1923年(大正12年)の関東大震災後にはコンビーフの輸入が急増し、輸入品としては格安だったために急速に普及した。

    コンビーフの先細り(tapered can)で形が台形の缶(英語:trapezoid-shaped can)缶は1875年、アメリカの食品会社・リビー(Libby's)が、薄切りを作る為に中身を一つの塊として取り出しやすい缶として発明し、採用したとされている。

    開缶は、缶付属の「巻き取り鍵(まきとりかぎ)」などと呼ばれる缶切りの一種で缶側面の一部を帯状に巻き取って行う。当時は、欧米で缶詰が普及するきっかけとなったと言われている第一次世界大戦の前で、一般人が安全に開缶できる缶切りは普及していない。

    尚、同様の分野の商品とされるランチョンミート缶の類が世に登場するのはコンビーフ缶の数十年後で、枕缶は使われていない。例えば、アメリカのホーメルフーズ社(Hormel Foods Corporation)がスパム(SPAM)を生産開始したのは1937年である。

  • 大正期には豚カツが登場し、大正期の三大洋食がカレー・とんかつ・コロッケ(またはオムレツ)とまで言われるようになった。ただしこれはあくまで揚げ物ではなくカツレツであり、今の形に近いとんかつは昭和に入った1931年(昭和6年)の上野の「ぽんた」あるいは1932年(昭和7年)の上野の「楽天」が最初期のものとする説もある。とんかつは主に豚の質がよく牛の質の悪い関東で広まった。

    西洋のコートレットが日本に伝わった際、まず牛肉が用いられカツレツとなった。

    これが豚肉に代わり、骨付きから骨なしに代わったことが大きな転換といえる。さらに、コートレットでは小麦粉をまぶすだけであったのが1872年にはすでにパン粉を用いるようになった事が確認できる。

    さらに西洋での油を使った調理法は揚げるというよりは油で炒めていたのに対し、日本ではてんぷらに代表されるように、大量の油を用いて揚げるのが一般的であった。

    この調理法の違いも影響して、薄い肉の炒め焼きから、厚い肉を大量の油で揚げる方法に変化していったといえる。

日本人の動物性タンパク源は依然として魚肉が中心であったが、獣肉食に対する禁忌の感情は、この時期までにほぼ無くなった。

中国料理、朝鮮料理の普及と肉料理

中国人が獣肉を食べていることは江戸時代から知られており「遣唐使少しは牛も喰ひならい」「 日本の牛は畳のうへで死に」といった川柳も作られていた。

  • 長崎の卓袱料理は江戸や上方でも流行したが、これらの紹介の書には、中国人は鹿豕を食べることに言及しつつ、取捨選択が可能であることを断る記述が見られる。

    卓袱料理 - Wikipedia

  • 明治になって開国すると、長崎に加えて横浜や神戸に中華街(南京町)が形成されたが、「支那うどん」「支那(南京)そば」と呼ばれたちゃんぽんやラーメンを除けば日本人の間に中国料理は広まらず、1906年(明治39年)時点で東京にあった中国料理店はわずか2軒。いずれも貿易商や高級役人が利用する高級料理店であった。もっとも1906年(明治39年)には東京の成女学校が毎週中国料理店から料理人を招いて中国語での料理講習会を行っている。

  • 明治期に刊行された西洋料理書が約130冊であるのに対し、中国料理書はわずか7冊であったが、明治末年には肉料理も紹介されるようになった。
    明治期における中国料理の受容 - 梅花女子大学機関リポジトリ
  • 大正時代になって日本の大陸進出が進むと、中国からも民間人がやってきて一般向けの中華料理店が開かれることになった。中国料理は豚肉の普及と共に家庭料理にも取り入れられた。1920年大正9年)頃からは新聞でも中国料理の紹介記事が増えた。1925年(大正14年)から始まったラジオ料理でも青椒肉絲などが時々紹介された。

朝鮮料理の普及はこれよりもやや遅い。

  • 李人稙が1905年(明治38年)に上野に韓山楼という店を開いているが、客のほとんどは朝鮮人であり、李が朝鮮に帰国するまでの短期間のものであった。

    李人稙(号:菊初)の略歴

  • 韓国併合後には日本に来る朝鮮人が増加し、1938年(昭和13年)の東京市には朝鮮料理店が37軒できていた。そこで出されたのは戦後の焼肉中心の品揃えではなく、韓定食などの伝統朝鮮料理であった。

こうして方面からも次第に肉料理の開拓が進んでいく。

内臓食と近代

肉だけでなく内臓も食されてきたが、内臓の量は精肉の6分の1程度で発生量は多くは無かった。ただし、保存性が低く、また、食品化するに際して下処理が必要でそれに伴う廃棄率も高いため、屠畜の段階から精肉とは流通経路が異なる。

  • 明治期の神戸の牛屠畜従事者の回顧によれば、屠畜場に残された内臓肉は彼らの重要な副収入源であったとしており、また、1906年(明治39年)の神戸新聞には屠畜場周辺地域において、粗末な大鍋で切り刻んだ臓物を煮込んだものが一皿1銭で出されており、その新聞記者にとっては店の前を通っただけで異臭がするものであったが、夕方からは千客万来であったと報告されている。

  • やがて内臓肉も専門業者を通して流通するようになり、都市部では屠畜場周辺以外にも低価格の肉料理として広がりはじめるが、内臓食は決して一般的ではなかった。

  • 1920年代には一時的にだが「精力が増進する料理」という意味の「ホルモン料理」の店ができ、卵、納豆、山芋などと並んで動物の内臓を出す店ができた。1930年代になると、一般向けにも広まった。
    *近代における「食生活の工業化」プロセスの一環とも。

  • 大阪難波の店「北極星」を営む北橋茂男は1936年(昭和11年)頃に牛の内臓をフランス風の洋食「ホルモン料理」として提供し、1937年(昭和12年)には「北ホルモン」の名で商標登録を出願している。

  • 『料理の友』には1936年(昭和11年)から年1度のペースで内臓料理が「ホルモン料理」として特集された。1940年(昭和15年)2月号では牛や鶏の内臓のバター焼きなどの調理法が掲載されている。同年には日本赤十字社主催で「ホルモン・ビタミン展覧会」として講演や料理実演も行われている。

  • また1920年代から東京で豚の内臓を串に刺してタレで焼いた「やきとり」が売られ出し、1940年頃には労働大衆の食として人気を博した。
    やきとり学

    元禄10年(1697)、江戸の医師・人見必大の手で出版された『本朝食鑑』によれば、「大抵参州(=愛知)・遠州(=静岡)以東から奥州(=東北)・夷(えぞ=北海道)にかけては、馬が多く牛は少ない。それで、耕耘運転には皆馬を用いる。尾州(=愛知)・濃州(=岐阜)以西より海辺の国にかけては、牛が多く馬は少ない。それで、耕耘運転には皆牛を用いる。就中(なかんづく)、播州(=兵庫)・備州(=岡山)は最も牛を産出するところで、盛んに蕃息(はんしょく)する」とある。

    この記述によれば、300年以上も昔から東日本では馬、西日本では牛が中心に飼われていたことになる。明治となり、欧米文化の影響を受けて肉食が盛んになると、こうした差異が肉の好みに大きく影響を与え、地域差が生じたと考えられる。

    天下を二分した関ヶ原のあった岐阜県を境として、以東は豚肉消費圏となり、以西は牛肉消費圏となる。また、鶏肉がよく消費される地域は九州(沖縄を除く)と山口県ということがわかる。

    農耕用に飼われていた家畜に、西日本では牛が多いことから、農耕作業に使えなくなった老牛を食料にすることが容易だったと考えられる。馬を飼っていた東日本では馬肉を食べる文化が主流にならず、明治時代に英国から輸入された豚の飼育が急速に東日本に拡がったため、豚肉消費圏となったのではないか。

    九州で鶏肉の消費が多いのは、古くから外国との交流があり、水炊き、筑前煮などの食文化もあったことが影響している。沖縄が鶏肉ではなく豚肉消費圏なのは、豚肉中心である中国の食文化の影響を大きく受けたためで、もともと鶏肉中心だった鹿児島もその影響をかぶったようである。

    こうした食肉の嗜好の差異は、内臓肉を使う「やきとり」に大きく影響を与えた。内臓を供給できる屠殺場や解体場の存在が必要で、しかも鮮度が要求された。牛肉消費圏の大阪では、内臓を焼いたものを「モツ焼き」と呼び、のち、「ホルモン焼き」と呼び名を代えて「焼肉」となった。東京では、豚の内臓を使った串が「焼鳥」となり、「焼きとん」と呼ばれた時代もあったが、「やきとり」へと名称が統一されている。

そして太平洋戦争が始まる頃から、内地では徐々に食料の欠乏が始まった。そのため、特に下層階級が経済的理由で内臓料理を食べることが多くなった。
焼肉のルーツは日本にあった!?

  • 第2次大戦中および占領期の北海道の赤平炭鉱では、鉱夫がウマの内臓を煮て食べたという証言がある。

  • 大和民族の話ではないが)1942年(昭和17年)に発表された金史良の小説『親方コプセ』の中で、朝鮮人土工が密造酒を飲みながら臓物を食べる様子が描写されている。また、普通なら捨てるか肥料にするはずの臓物を、朝鮮女工が貰い受けて煮て食べるということもあった。

  • 1941年(昭和16年)10月には農林省告示第783号「牛及豚ノ内臓等ノ最高販売価格」が出されているが、佐々木道雄はこの内容は当時すでに牛や豚の内臓が食用として流通・販売されていたことを反映しているとしている。

一方で占領期の都会では、降伏直後から1949年(昭和24年)ごろまであった闇市などで犬や猫などを含む様々な獣肉が売られることもあった。

  • 例えば焼いた動物の臓物が「焼き鳥」として売られていた。

  • 1946年(昭和21年)の『朝日新聞』には東京で野犬、畜犬を区別なく捕まえてその肉を闇市で売りさばき、3万円余を荒稼ぎした男が逮捕される記事が掲載されている。

  • 在日韓国人の金文善は著書『放浪伝』の中で、大阪の闇市で臓物を出汁と具にした「びっくりうどん」が売られて日本人に食べられているのを目撃したが、そのあまりの不潔ぶりに在日韓国人として臓物を食べなれている金でさえ食べられなかったと語っている。

太平洋戦争後も、日本人の動物性タンパク源は魚肉が中心であった。

  • 食肉も1946年(昭和21年)からの物価統制令の対象となったが、1949年(昭和24年)には供給が需要に追いついていち早く対象から外されている。

  • 戦後食糧事情が悪化した1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)ごろ、主代用食として、アメリカ陸軍のレーションであった缶詰のランチョンミートが配給された。これ以外にも、米軍からの放出物資、あるいはその名を借りた盗品売買により、ランチョンミートは高価ではあったが食糧として一時的に普及した。

    ポークランチョンミートの歴史

  • 1946年(昭和21年)末から学校給食が再開され、1950年(昭和25年)からはガリオア資金の援助により一部で完全給食(栄養価が考えられたおかず付きの給食)が実施され、1952年からは有償給食となって、肉食も提供されるようになった。

    学校給食の歴史

  • 1951年(昭和26年)に魚肉ソーセージ、1957年(昭和32年)頃にブロイラーが登場して、安価な食材を使っての食事の洋食化が進んだ。

    魚肉ソーセージ(Fish Sausage)の生産量が大幅に増えたのは水爆実験の影響だった。昭和29年(1954年)3月1日、ビキニ環礁で行われた 15 Mt の水爆実験(キャッスル作戦)により、日本の第五福竜丸をはじめ多数のマグロ漁船が放射性降下物(いわゆる「死の灰」)を浴びて被曝。処理のため多量の放射能汚染マグロが水揚げされたことから消費者が忌避する事態となり、マグロの価格が大暴落してしまったのである。

    苦境に陥った水産各社は、余剰マグロを原料とした魚肉ソーセージの生産に尽力。安価な魚肉ソーセージは、学校給食に納入されるなど「西の横綱がインスタントラーメンなら、東の横綱は魚肉ソーセージ」と呼ばれる程の大衆食となった。

  • 1960年(昭和35年)には牛の佃煮の缶詰として売られていたもののほとんどが馬肉や鯨肉であることが判明した「にせ牛缶事件」が発生して大きな社会問題となっている。

    不当表示事件とJARO設立 | JARO設立40周年記念サイト

  • 1960~70年代の高度成長期からは食肉の需要が急増し、1975年(昭和50年)にはソーセージの材料として魚肉を逆転し、1988年(昭和63年)には実質供給タンパク質量で魚肉を逆転した。

  • 内臓食も、昭和30年代以降は家庭料理として定着しはじめ、食肉生産の増大に伴って畜産副生物の流通も1975年頃には牛で1955年(昭和30年)の2倍、豚で10倍に近い水準に達した。 

    こてっちゃん - Wikipedia

    エスフーズ株式会社、および伊藤ハム株式会社が発売している焼肉用食品の商標である。名前の由来は、牛の小腸を原料としていることから、朝鮮語で牛の大腸を指す語テッチャンに、「こ」を付けたものである。

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    • 1982年7月に当時のスタミナ食品株式会社から発売され、牛の白もつ(牛小腸)に味噌・唐辛子・中華味など各種の味付けを施したものであり、家庭においてフライパンで炒めて食べられるようになっている。

    • テレビCMでは「甲子園の味」という企業ブランド名を使用し、ぼんちおさむ小堺一機、山田まりやなどを出演させていたが、特に財津一郎が出演したCMは人気を博し、商品の知名度を一気に引き上げた。

    • 2001年に入り日本国内でBSE問題が発生してからは、検査での問題の部分であることから原材料の調達が難しくなり、2003年にアメリカ産牛肉の禁輸措置が取られてからは販売休止となっていた。

    • だが2007年4月より代替品のオーストラリア産牛肉で発売が再開されることになり、販売再開をより知ってもらおうと、同年4月2日から4月30日まで安田大サーカスを起用したCMを関西地区限定で放映するなど宣伝活動も再開し、9月からは東海地方以西での西日本全域に販売エリアを拡大。2008年3月には全国販売が再開され、9月には派生商品の「こてっちゃん牛もつ鍋」も5年ぶりに復活した。

    なお現在は原材料としてアメリカ産とオーストラリア産の牛もつを使用している。

  • 1992年(平成4年)の空前のもつ鍋ブームをきっかけに、家庭用食材としての需要が定着。

 しかし2001年(平成13年)のBSE問題により、もつの消費には急激にブレーキがかかった状態になっている。

こうして改めて全体像を俯瞰してみると「グローバリズムに振り回されてきた日本の即文化のナショナリズム/リージョナリズム」とでも呼ぶべき構造が浮かび上がってくるのです。文字通り「全部入り」の世界。それでは、ここでいう「食の世界におけるグローバリズム」とは一体何だったのでしょうか?

  • バラモン教的=仏教的=ヒンドゥー的潔斎感」の影響を色濃く受けた菜食主義平安時代から江戸時代にかけて公家、武家、新興産業階層に次々と広まっていった。
    *人脈的にはおそらく(京文化を頂点に頂く)詩歌や芸事の師弟関係や連(贔屓の応援団)の全国的ネットワークに由来。という事は「お茶の間文化」の大源流でもあるという事になる?

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  • 儒教の肉食文化仏教的価値観の浸透によって「祭祀に肉を捧げる儒礼の伝統」が否歪められるのを嘆いた儒学者が広めた。ここでいう「肉」は古代中国においては主に「牛肉」を指したが、アジアの以降の歴史においては「(貴重な労働力たる)牛馬の代わりに豚や犬を食べる伝統的共同体の慣習」と深く結びついていく。日本へは江戸時代に入ってから琉球王朝薩摩藩経由で伝わったとも。

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  • 「富国強兵」を目指した「食の洋食化」運動…肉や馬鈴薯の積極的摂取の奨励。当初は全国各地の食文化に拒絶されたが軍隊における食生活、関東大震災(1923年9月1日)罹災地支援、GHQ占領下における食糧援助や給食などを契機として次第に広まっていく。日本においては高度成長期の1960年代にほぼ完成。

明らかにどれも独自の原理原則を備えた外挿的イデオロギーで「味の好みなどの変遷によって刻々と変化を遂げていく(都市部の)ナショナリズムと(田舎の)リージョナリズムの対峙関係」みたいな生々しくて切実な展開については基本的無関心を貫く立場。その意味においてまさしく「(これまでの投稿で述べてきた様な)グローバリズム」の条件を満たしているとも。

こうした歴史的展開に動員されてきた人々は概ね揃って、ある種のスノビズムに突き動かされていた様に見受けられます。そしてそれ故に、彼らが「時代を超越して国際的に通用する普遍的価値観」と熱狂的に信じたイデオロギーが本当に時代を超越して国際的に通用する普遍的価値観」だったかどうかが改めて問われてくる訳です。
ユダヤ教キリスト教イスラム教といった「啓典の民」は、その歴史的経緯からある種の普遍史観をイデオロギー的に共有している。こちらも同種の検証が必要といえよう。

  • 最も興味深いのが3番目目の「食の洋食化運動」で、そこに明らかに「仏教イデオロギー」や「儒教イデオロギー」といった伝統的既存の宗教的イデオロギーからの脱却を志向する(列強諸国に競争で破れる恐怖を背景とした)カウンター・イデオロギー性が見てとるのである。ならば、さらにこうした志向性への反動から生じた側面も備えた「和食ナショナリズム」とは一体いかなる存在?

  • もしかしたら、フランス人が王政から共和制に移行する過程で王党派と新興ブルジョワ階層が共有するに至った「シック(chic)」の概念同様に説明など存在しない(存在し得ない)のかもしれない。
    *なにしろ定義が一切存在しない。最終的には「不立文字の神秘主義」の世界への突入を余儀なくされてしまう挑戦とも。マンハイムに言わせれば、まさしくそれこそが「保守主義的思想=ナショナリズム」という事になる。

 あくまで最終ゴールは見えています。「宗教的グローバリズム」などの最終的後釜として登場した「科学的グローバリズム」がそれ。あえて「みんな食べたいものを食べればいいだけだよね」と断言する事によって「ゴルディアスの結び目」を一瞬にして断ち切る自由主義的立場。要するに個々の人間の個性についての戦略的無関心の徹底。

しかしながら、これまで距離のパトス(Pathos der Distanz)問題にこだわり抜いてきた立場ゆえに「それが本当にファイナルアンサーであって大丈夫なのか?」と、つい思う気持ちも、ちらほらと…