「グルメ漫画」の起源は、一般に以下とされています。
- 原作・原案牛次郎 / 作画ビック錠の「包丁人味平(1973年〜1977年、全23巻)」「スーパーくいしん坊(1982年〜1987年、単行本全9巻)」、原作きむらはじめ / 作画原田久仁信の「熱いですよ(1985年〜1986年、単行本全2巻)」、寺沢大介の「ミスター味っ子(1986年〜1990年、単行本全19巻)」といった黎明期の作品群。
*「プラレス3四郎(1982年〜1985年)」原作者でもある牛次郎の発想の原点は「職人漫画を描きたい」というもの。原田久仁信は梶原一騎「プロレススーパースター列伝」の作画も手掛け、むしろこちらが代表作。最初から「料理漫画家」としてデビューした寺沢大介はラーメンが好物で学生時代から田町駅のラーメン二郎を好んで食べてきた。「勝負物」やラーメン文化と関係が色濃く感じられる。
- 原作雁屋哲・作画花咲アキラの「美味しんぼ(1983年〜)」を発端とする「薀蓄漫画」の系譜の分岐。
*概ね多くの人間が大林宣彦監督映画「さびしんぼう(1983年)」のインスパイアを受けたタイトルとされる。その「さびしんぼう」は大林監督が考えた造語で、広島弁に「腕白小僧、悪ガキ」を意味する"がんぼう"に該当する女の子の故障がないので子供の頃から使ってきたという。「"がんぼう"が女の子を思うと"さびしんぼう"になる。両性具有のコンセプトで、人を愛することは淋しいことだという感性が育んだ」と当人は語っている。
ある意味、それは総力戦時代(1915年代後半〜1970年代)に進行した「食の工業化の進行」に対する(総力戦時代における「国家間の競争」構図の衣鉢を継承した)産業至上主義時代(1980年代〜1990年代)なりの反動として始まったのかもしれません。
同時期にはフランス料理の世界があえて(差別化の難しい)ドミグラスソース(sauce demi-glace)を捨て、フォン・ド・ヴォーから多種多彩なブラウン・ソースを生み出す道を選んでいます。また(慢性的食糧不足に苦しめられた第二次世界大戦下における「量感とこってり感以外の満足感」の追求に端を発する)ヌーベル・キュイジーヌが「素材の味を最大限に生かす」原点回帰の発想から日本の寿司に国際的評価を付与しています。
フランス料理におけるこうした志向性は明らかに「距離のパトス(Pathos der Distanz)の回復」すなわち「伝統的高級感回復の為の常食との差別化」を目指す内容だったのですが、それなら日本の「グルメ漫画」の目指した方向とは一体どういうものだったのでしょうか? 単純に「和食ナショナリズム」に収斂していく流れではなさそうな辺りが興味深いのです。
*黎明期には「すきやき男爵」や「カレー将軍」といった強烈な悪役が主人公の前に立ちはだかった。ある意味、こうした「ジャンプ・システム」こそが「(採算度外視で国家間の威信が競われた「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」の衣鉢を継ぐ)商業至上主義(1880年代〜1890年代)」の特徴とも。
料理漫画総ざらい
大衆料理をテーマにした“味平”に登場するなかで、もっとも印象的なメニューと言えば「カレー」である。連載の後半に登場する「ブラックカレー」とその考案者である「鼻田香作」が作品全体でも大きな存在感を放っているが、1973(昭和48)年の連載開始当初からカレーはキーアイテムとして登場している。
戦後から高度成長期は日本のカレー文化が大きく発展した時代だった。実はそれ以前の明治後期から大正、昭和初期にかけて、すでにカレーは一般の家庭に浸透していた。だが戦争がそこに暗い影を落とす。日中戦争開戦後の1938(昭和13)年には国家総動員法による経済・食料統制が行われた。1941(昭和16)年に始まった第2次大戦の戦禍が東南アジアへと拡大するとスパイス産業も大きなダメージを受けた。スパイスの生産・流通量も激減し、カレー粉の製造・販売は軍用食向けを除いて途絶えることになる。
18世紀(1700年代)頃にインドからイギリスに導入され、イギリスのクロス・アンド・ブラックウェル社がはじめて開発・商品化した。
- 同社は貴族のパーティーなどの料理を請け負う会社で、植民地インドの料理を作るとき、あらかじめ多種類のスパイスを調合して省力化を図っていた。この混合スパイスを「C&Bカレーパウダー」と名付けて一般向けに販売したところ大評判となり、イギリスの家庭料理のひとつに「カレー」が加えられるほど普及したのである。
- 1810年にはオックスフォード英語辞典に「カレーパウダー」の語が登場している。ちなみにカレー粉は多種多品目を誇る当時のクロス・アンド・ブラックウェル社の主力商品ではなかったので、現在は生産されておらずレシピも資料も残っていない。しかし現在もカレー粉は、世界各地で広く使われている。
このカレー粉を使うイギリス式のカレーライスは明治時代に日本へ伝わり、国民食といわれるほどの人気料理となった。
- 日本では1905年にハチ食品の前身(大和屋)、1923年にエスビー食品の前身(日賀志屋)が製造販売を開始。後者はこれが(「C&B」の製品に対抗できた)初めての国産カレー粉とする。しかし、それまで「C&B」のカレー粉を使っていた洋食店は、味が変わることを恐れ、これら国産のものになかなか切り替えなかった。
*最初にその調合に挑戦したのは漢方薬分野であった。- 国産カレー粉普及のきっかけとなったのは1931年に起きた輸入品偽造事件である。これによりかえって国産品の評価が高まる結果となった。
- 日本ではかつてカレーライスを作るのに、まずフライパンで小麦粉を炒め、カレー粉を練りあわせてカレールウを作り、これにダシ汁と、鍋で煮た肉や野菜などの具を合わせ、カレーを作っていた。このためカレー粉はカレーに必須の材料であったが、1960年代にあらかじめカレー粉に油脂、小麦粉、旨味調味料を加えて固形にした即席カレールウが開発される。即席ルーは、具を単に水で煮てからルーを割って投下すればカレーになる簡単さから大いに普及し、カレー粉単体の販売量は激減した。
今日なおドライカレーやカレーピラフその他カレー風味の料理の調味料として一定の需要があり、今でもロングセラー商品の地位を保っている。
*日本のカレー産業はエスビー食品とハウス食品の二強が寡占しているが、カレー粉市場は「S&B 赤缶」が80%以上のシェアを握る。スパイス販売大手のGABANもカレー粉を販売しているが、同社はハウス食品と提携関係にあり、同社のカレー粉はハウス系の製品である。また大企業以外にも、いずれも戦前戦後にかけて創業された独立系老舗である「インデアン食品のインデアンカレー粉」「ナイル商会のインデラカレー粉」もロングセラー商品として販売が続き、それ以外にもカレー製造関連企業で作る、全日本カレー工業協同組合(カレー組合)加盟の数社が、自社ブランドでカレー粉を発売している。戦後、カレーの復活劇はめざましかった。終戦を迎えた1945(昭和20)年には早くも愛知県の食料品卸が「オリエンタルカレー」を売り出した。1949(昭和24)年にハウス食品が「即席ハウスカレー」を8年ぶりに製造再開。1950(昭和25)年には、エスビー食品から現在でもおなじみの赤い缶に詰めたカレー粉がお目見えし、同年には、ベル食品も固形の「ベルカレールウ」を発売した。粉だけでなく、家庭に使い勝手のいい固形のカレーが普及していく。
そうした家庭用カレーがブームとして爆発したのは1960年代だ。1960(昭和35)年から固形のルウタイプのカレーが各社から次々に発売される。1960(昭和35)年発売のハウス「印度カレー」、グリコ「ワンタッチカレー」がブームに火をつけ、1963(昭和38)年にはハウス「バーモントカレー」、1966(昭和41)年にはエスビー「ゴールデンカレー」、1968(昭和43)年にはハウス「ジャワカレー」と、現代でもなお人気のカレールウが次々と発売された。そして1969(昭和44)年、大塚食品工業が初のレトルトカレーである「ボンカレー」を発売する。
家庭だけではない。外食産業でカレー人気に火がついたのも1960年代から地続きとなる昭和40年代だ。1968(昭和43)年、京王線新宿駅前の名物店「カレーショップC&C」がオープン。1973(昭和47)年には銀座に「カレーの王様」の1号店が開店した。さらには、1903(明治36)年創業の洋食の老舗、日比谷・松本楼が当時の安保闘争のとばっちりで(投げられた火炎瓶によって)1971(昭和46)年、建物が焼失。本格的な再建がなされたのも1973年のことだった(ちなみにそれ以降、同店では再建周年記念メニューとして、毎年9月25日に「10円カレー」を先着順に提供していた)。
『包丁人味平』にカレーが登場するのも1973(昭和43)年、連載第3回の「見習いはつらいヨ」だった。
ここまでは「昭和の香り」すなわち「スポ根ブーム」なども含む総力戦対戦時代(1915年代後半〜1970年代)から産業至上主義(1980年代〜1990年代)にかけての独特の低エントロピー状態、すなわち「ノストラダムスの大予言ブーム(1970年代〜1990年代)」を背景とする「家父長制に対する息子世代の叛逆」「全体主義復活への恐怖」「コングロマリット(軍産複合体)への不安」といった実存不安や陰謀論が渦巻き「熱的死状態」から程遠かった頃独特の空気が色濃く感じられます。
*(総力戦対戦時代の衣鉢を継承した)産業至上主義時代(1980年代〜1990年代)の終焉…「(メディア・ミックス戦略を駆使した)角川商法の生みの親」角川春樹がコカイン密輸事件に連座して逮捕され(1993年8月29日)、選挙で大敗したオウム真理教がサリン散布事件(1994年〜1995年)、日本国内におけるシンパの支持を失った日本赤軍(1971年〜2001年)が壊滅し、北朝鮮の不審船対応が日本人の国防意識を変貌させた時期に該当する。こうしてまとめて起こった「多くの陰謀論の機能停止」「反体制派に対する共感の消失」は日本社会のエントロピーを相応に増大させたとも。
その意味合いにおいて「美味しんぼ」には、当時独特の「高エントロピー環境へのシフト」を生き延びたという凄みが存在する様です。
*とはいえ「美味しんぼ」にも「究極のメニューVS至高のメニュー」とか「海原雄山と山岡士郎の親子対決」といった昭和的要素は充分残っている。違ってしまったのはある種の「解像度」とも。
究極VS至高 - Wikipedia
そしてこうした「薀蓄系グルメ漫画」の系譜の原点は明治時代まで遡るとも。
村井弦斎の小説。また、同小説から派生した同名の演劇作品。小説発表当時は「くいどうらく」とされていたが、のちには「しょくどうらく」とも呼ばれるようになった。『食道楽』の表紙の書名にルビはないが、「秋の巻」「第二百六十 食道楽会」という章には「くひだうらくくわい」とルビがふられている。
- 1903年(明治36年)1月から1年間、報知新聞に連載され、大人気を博したことで単行本として刊行されると、それが空前の大ベストセラーになった。文学史的にも評価が高く、村井弦斎の代表作とされている。翌1904年にかけて続編を含めた8冊が刊行された。
- 食道楽をテーマにした物語であり、ヒロインの お登和(おとわ) が料理をつくり、それについての薀蓄を語る。春・夏・秋・冬の4部に分けられており、登場する料理・食材は和・洋・中華など、実に六百数十種類に及ぶという奇書で読者を驚かせた。
- 例えば、シチュー、牡蠣フライ、ワッフル、肉まん、オムライス、ケチャップライス、プリン、ロールケーキのように現在はごく一般的となったものから、牛の脳味噌料理、腎臓料理、イチゴライスなど、今も日本ではなじみの薄い料理、さらには奉天汁など消滅したと思われる料理も含まれている。また、調理のこつ、栄養、安全から食育にいたるまで、食に関連する話題が広く収められている。
- 当時、この書の影響を受けて『食道楽』という雑誌が創刊されたり、ヒロインの「お登和」という名前をつけた料理屋が開店したりするなど、日本で一大食道楽ブームが巻き起こった。
まさしく「洋食グローバリズム」導入期の産物?
ただそれだけではありません。フランス料理界のヌーベル・キュイジーヌにおける「素材の味を引き出す料理」ブームを受けての寿司を筆頭とする和食の国際化、およびそれに源流を発する「和食ナショナリズム」発足の影響を受けているのです。その象徴ともいえるのが鋤焼回における「これは世界で一番牛肉を不味く食べる方法だろう」という決めつけ。
しかし、この路線もまた「日本人の味覚の多様化」によって「距離のパトスの維持」が不可能となり、崩壊。「グルメ漫画」は「第三の道」を模索する展開に…
*そして例えば原作亜樹直・作画オキモト・シュウの「神の雫(2004年〜)」や岡本健太郎「山賊ダイアリー リアル猟師奮闘記(2011年〜)」の様な多種多様さを最大の特徴とする「第三世代グルメ漫画」が登場してくるのである。
「日本的であるとは何か」改めて問われてる気がしてなりません…