諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】日本はその存在の在り方自体がSF?

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ビッグ・ヒーロー・シックス - Wikipedia

初出は1998年の『サンファイアとビッグ・ヒーロー・シックス(Sunfire & Big Hero 6)』。

物語の設定は、「広島と長崎への原爆投下によって被害を受けた日本は核兵器を廃絶し、その代わりに自国を守る手段として超能力を持つ人間を集め、ビッグ・ヒーロー・シックスを結成した」というもの。

原案者はスティーヴン・シーグルとダンカン・ルーローで、カナダ人ヒーローが活躍するマーベルの別のコミック「アルファフライト」の日本人版として考案された。

当時のアメコミはシリアスで重いものが主流で、二人はもっと気楽で楽しいものとして、当時日本から発信されていたポップカルチャー的なものを取り入れたいと思い、二人が担当していたアルファフライトの中に日本人ヒーローたちを登場させたところ、マーベルからシリーズ化したいという話が出て「ビッグ・ヒーロー・シックス」が生まれ、後にワサビとフレッドは、クリス・クレアモントとデイビッド・ナカムラが加えられた。

欧米世界の日本に対する目の向け方」は1980年代以降大きく変わりました。これを「欧米中心主義の終わりの始まり」と見る向きもある様です。

そもそも、日本のSFのどんなところに興味をもったのか?

1980年代にサイバーパンク作品の人気が高まったとき、人々は「未来は日本のようになる」と本気で考えていた。当時の日本の経済的な発展はすごかったし、すべての家電製品は日本製になるんじゃないかという不安と期待があったんだと思う。そうした米国のSF作品に触れたことで、日本に興味をもつようになったんだ。

日本のSFに触れてぼくが思ったのは、従来のハードSFといかに違うかということだ。そこには現代の社会を風刺した物語があり、犯罪や戦争ものをはじめとした幅広いフィクションがあった。たとえば「ロケットガール」シリーズ(野尻抱介)は宇宙飛行士を目指す少女の物語だけれど、SFでありながらきちんとしたドラマがある。そして、なんといってもとても笑える。それまでのハードSFに「笑える」ものなんてなかった。そういう意味では日本のSFは、西洋のハードSFよりも幅が広い。日本のSFはなんでもあり、という感じがしたね。

米国のSFと日本のSFでは、どんな違いがあるのか?

米国のSFには、政治色が強いものが多い。現在の市場原理やグローバライゼーションに対して、懐疑的な視点を提供するものだ。アレン・スティールが代表的だろう。それと比べると、日本のSFにはそうした政治的主張を行う作品は少ないように思う。

扱うテーマに関していえば、どちらでも依然としてロボティクスは人気だ。ただ、日本では人間のような話すロボットのキャラクターが多いのに対して、米国ではスペースシップや人工知能といったものが多いのが違いといえるだろう。

SFにはいわゆる「ディストピアもの」も含まれるけど、その描き方もそれぞれの社会が反映されている。たとえば米国では「市場原理」というのが大きなテーマだ。人口が爆発的に増加した世界や、ロボットが人間に置き換わった世界というものがよく登場する。これに対して日本の小松左京の『復活の日』といった作品では、巨大地震が起きたあとの世界で、米国の核兵器を処理するために人々が協力するといった物語が語られている。

 いまのSFは、現代の社会をどんなふうに反映しているか?

現在のSFには2つの潮流があると思う。ひとつはディストピアもの、あるいはディザスターものだ。現在の混乱した政治状況のなかで、多くの人が未来を心配している。だからこそ人々はディストピアのなかに、いま何が起きているのかを理解し、どうすればその問題を解決できるかを見出そうとしているのだろう。

もうひとつの潮流は、ダイヴァーシティ。かつては米国のSFの登場人物は白人がほとんどだったけれど、最近は人種やジェンダーを含め、多様な登場人物を見るようになった。これもいまの社会を反映した結果だといえるだろう。ダイヴァーシティは、世界がいま取り組まなければいけない課題だからね。現代の巨大で複雑な問題を解決していくためには、人種もカルチャーもジェンダーも、異なる人々が協力することが求められているんだ。

こうした観点は「欧米世界の中国に対する目の向け方」にも関わってくる様です。 

2015年に出した初の長編『蒲公英王朝記』を、ぼくは「シルクパンク」(Silkpunk)と呼んでいるんだ。英国ヴィクトリア朝の時代のテクノロジーが描かれたSFを「スチームパンク」と呼ぶけれど、それに対してぼくは、古代の東アジアのテクノロジーやエンジニアリングを描いている。この小説には、竹や紙、シルクでつくられた、動物くらいの大きさのマシンが登場する。

でもここで伝えたいのは、テクノロジーそれ自体じゃない。テクノロジーに対する東アジアの伝統的な考え方を探りたいと思っているんだ。中国や日本の歴史的な建築物や農業技術を見てみると、それがいかに自然の力をうまく生かしているかがわかる。そこにある川や山、空気の流れといったものを生かして都市がつくられていることもわかる。これは、自然をコントロールするためにテクノロジーを発展させてきた西洋の考え方とはずいぶん異なるものなんだ。

ただ、いまの中国を見てみるとずいぶんその考え方に沿わない方向に発展が進んでしまっているように思う。北京では産業の発展が進むと同時に、汚染も大きな問題になっている。だからこそいま、テクノロジーに対する伝統的なアジアの考え方をストーリーとして伝えたいんだ。

 これまでの投稿の中で私は「シンガポール開発独裁」「(中国やベトナムの様な)資本主義的発展に成功した共産主義国」について(産業革命導入プロセスのパッケージ化に成功した)フランス第二帝政(1852年〜1870年)の興亡と結びつけて考えてきました。

  • 共産主義瘡蓋(かさぶた)論」からすれば「既に議会制民主主義と資本主義に移行する機は熟している」様に見える。

  • しかし困った事にフランス第二帝政は「普仏戦争で皇帝ナポレオン三世が捕虜となり廃位に追い込まれる」「内紛に明け暮れる烏合の衆に過ぎなかった王党派には後釜を選出する力がなかった」「第二帝政期のうちに新興産業階層が育ち、新たな政治的エリートとして君臨する準備が出来ていた」という三拍子が揃って初めて倒れたのである。中国共産党ベトナム共産党が同じ轍を踏むとは到底思えない。

    *その一方でシンガポールは着実に「条件」を満たしつつあるとも。

一方日本では江戸幕藩体制期より「株仲間」と呼ばれる全国を結ぶ富農・富商のネットワークの発展が見られ、彼らが「我田引鉄」方式で立憲政友会自由民主党に懐柔される形で高度成長期の終焉まで政治的安定性が保たれてきました。良い意味でも悪い意味でも「保守層」の構造が米国とは全く違っているのですね。

そういえば「土建屋の息子新海誠監督作品「君の名は(Your Name.)」の外伝小説でも、この辺りはきっちり書き込まれてました。

  • メインヒロイン宮水三葉の父は宮水家の伝統的支配体制を嫌い「我田引鉄」戦略によって糸守町の町長の座を勝ち取った。

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  • 三葉の同級生である勅使河原克彦(テッシー)はそうした「薄汚い悪事」の片棒を担いできた父が大嫌い。月刊「ムー」の愛読者となった契機の一つも「こんな薄汚い世界なんて滅んでしまえばいいのに」という気持ちからノストラダムスの大予言に傾倒したからだったし放送機器や爆発物が扱える立場を利用してテロの計画まで立てていた(最終的に「糸守町住人救出計画」に流用)。

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下手なアメリカのカウンター・カルチャー的シリアスさよりヘヴィな設定…なのに吃驚するほど無造作な扱い…こういう「地に足がついた部分」こそが日本のポップ・カルチャーの強みとも?