諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「表現の自由」を墨守する為、Twitterに溢れる「沖縄ヘイト」を規制せよ?

以前、こんな投稿をしました。

アメリカにおけるマスコミやインテリ層は「Black Lives Matterデモに便乗して近隣の商店街を略奪するストリート・ギャング達」や「シカゴFacwbook拷問Live事件」をも「彼らは彼らなりに自らの正義を遂行しているだけだ」と擁護し、肝心の黒人層の支持すら失ってしまった。
*現在ではアフリカ系アメリカ人の1/4以上が中産階級以上に属する様になり、そのうち最もリベラルな市民団体は「黒人は平等達成の最終段階として自ら差別是正措置(affirmative action)を返上すべき」とまで主張する様になっている。その一方で今日なお「白人を皆殺しにするまで人類平等の理念は決して達成されない」「男尊女卑は黒人が守り抜くべき固有文化」「こういう当たり前の基本的価値観すら共有出来なくなってしまった黒人はもはや黒人じゃない(Black Establishment説)。もはや白人の同類だから一緒くたに一人残らず「奇妙な果実」にしてやれ!!」といった過激なプロパガンダに執着し続けるBlack PantherやNation of Islamといった過激分子の残党は、一般黒人(特に黒人女性)からさえ相手にされなくなりつつある。

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*かくしてアメリカにおいては「(むやみやたらと民族間憎悪を煽る)過激分子の不条理」を内側から告発したアレックス・ヘイリー「マルコムX自伝(1965年)」が今日なお読み継がれている一方で(過激分子に乗っ取られた)ワシントン大行進(1963年)記念式典が黒人からさえ見捨てられた政治運動へと変貌する展開を迎える。
ワシントン大行進

日本で話題となったしばき隊や男組は、ここでいう「Black PantherやNation of Islamなどの残党」の「ある種のバンカラ文化」の影響を色濃く受けていた。しかしながらアメリカと異なり、日本のマスコミやインテリ層はこれを全面擁護する事はなかったのでる。
*「ある種のバンカラ文化」…「国際正義が殺せと命じたら親兄弟や配偶者でも歓喜み包まれながら殺戮出来ない様な似非平和主義者は、まず真っ先に我々筋金入りの平和主義者に殺戮されると心得よ」とか「残飯を食う韓国人を見下す日本人は、我々筋金入りの民族平等主義者の手によって家族一同揃って豚の餌にされる」といった数多くの名台詞を残してきた。しかもそうした発想は彼らのオリジナルですらなく(外国の運動からの節操なきパクリという形での)彼らなりのグローバリズムの追求だったという次第。

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*「いちご白書(The Strawberry Statement、1968年)」の様な同時代資料にははっきりそう描写されているのだが、実は当時を席巻した(裕福な白人の若者中心の)新左翼運動やヒッピー運動と(貧しい黒人労働者中心の)公民権運動は(同じアメリカの既存社会を告発する動きだったとはいえ)当時の時点においてはほとんどといっていいほど全くリンクしていなかった。その一方で揃って伝統的家父長制度について「撤廃」でなく「世代交代(すなわち親世代を打倒して自らが家父長側として君臨したいという願望の投影)」を志向したという時代的制約を共有しており、これが後世における両者合同の立脚点になったとも。

*要するにアメリカのヒッピー層と黒人運動家層の間にも、日本において1970年代後半以降急速に「新左翼と旧左翼の合同」が進行したのと同種の「欺瞞」が存在。ただしそのローカル性ゆえに海外にまでは通用しなかったという顛末。

ところが問題はさらに複雑な形で発展を遂げてしまった様なのです。 

話題がこういう方面に差し掛かると、どうしても私は日韓掲示板上で見掛けたとある従北派の韓国系論客が口にした以下の言葉を思い出してしまいます。

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  •  「独立を支持する沖縄人なんてたった4%というが、そんな数字96%を粛清したらたちまち100%に達する。多数決なんてそんな曖昧な指標に過ぎないし、その程度の犠牲は大日本帝国や安倍ナチス政権がこれまで実践してきた歴史的残虐性に比べたら蚊にちょっと刺させた程度のものに過ぎない」

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  • 「いずれにせよ日本人同士を殺し合わせ、その数を一人でも多く減らす事は国際平和と人類平等の理念達成に貢献する」

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  • 「日本人から一切の表現の自由を奪う事。それが国際的には表現の自由を守る事につながる」

韓国においては「ミニスカートを履いた女学生を見つけ次第処刑してきた北朝鮮」を大絶賛する従北派極左と「レディ・ガガの韓国ツアーは韓民族精神を汚染せんとする悪魔の陰謀」と弾劾する宗教右派が「(倫理的には韓民族の高潔さに到底及ばない劣等な「先天的ナチス日本民族や「アメリカ民族」に対する嫌悪感に立脚する)反日反米姿勢」を足掛かりに大同連合を形成。日本もその筋の人達はこうした展開を大絶賛してますが、両者のコンセンサスの根底には、こうした過激思想が透けて見える事を決して忘れてはいけないのですね。
*「先天的ナチス民族日本人(「日本は先史時代から既にナチスで、滅ぼし尽くす以外に救済の余地はない」と考える独特な民族主義的思考様式)」「アメリカ民族(アメリカ人全体を「一刻も早く一人残らず滅ぼし尽くすべき劣等な単一民族」とみなすユニークな民族主義的思考様式)」…韓国一般人すら呆れ果てて距離を置いているのに、日本人からの協賛者が絶えない図式が「Black Lives Matterデモに便乗して近隣の商店街を略奪するストリート・ギャング達」や「シカゴFacwbook拷問Live事件」まで擁護するアメリカにおけるマスコミやインテリ層と重なる?

極論といえば極論。しかしとにかく当時は「世界平和を守り抜く為の抵抗者」を自認する人物の脳内にこうした考え方がなんの矛盾もなく共存し得るという事実の発見そのものが衝撃でした。ま、所詮は匿名の世界。その後アカウントを消して逃亡してしまったし、今から思えば実際にはこの種のネット・プロパガンダの最深部ではよく見掛ける「万事につけ上辺は信じてるフリをしているだけのゲッベルス・タイプ」に過ぎなかった可能性も捨て切れない訳ですが。

ヨーゼフ・ゲッベルス - Wikipedia

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 「反沖縄ヘイト派」のみなさん、はからずしも 「独立を支持する沖縄人なんてたった4%というが、そんな数字96%を粛清したらたちまち100%に達する。多数決なんてそんな曖昧な指標に過ぎない」の方向に向かってる様にしか見えません。

とはいえあんまり「彼らから沖縄ヘイト派と弾劾されてる層」を積極的に擁護する気持ちにもなれないんですね。 例えば(すでに収束した)アメリカにおけるオルタナ右翼オルタナ左翼の党争」って実はその実態は「右翼と左翼の直接衝突」ではなく「イスラム過激派のプロパガンダめいた)両陣営の扇動家によるFacebook上の馬鹿の動員合戦」でした。だからこそ「シカゴFacwbook拷問Live事件」などが実際に起こり始めると主要アカウントが「扇動成功」を祝いつつ、累が及ぶのを恐れ投稿を消して逃亡。こうして事態は一旦収束に向かったものの、そのうちまた形を変えて台頭し、将来に渡って波状攻撃を繰り返し続けていくのが目に見えています。本当に警戒すべきは彼らの様な「自分達が着実に政治的成果を積み上げていく事だけをゲーム感覚で純粋に喜んでいるだけの扇動家集団」なのですね。
*こうして過程を重ねるにつれ、
一般人が「極左過激派と極右過激派の扇動を区別する意味」が次第に失われていく。実際「既存社会を転覆したい」なる大義名分を共有する両者が共闘する機会も増えていく。まさしくスコットランド人女流作家ヘレン・バンナーマンの手になる「ちびくろサンボ(The Story of Little Black Sambo、1899年)」における「一緒にぐるぐる回るうち、虎達は次第に混じり合い、最後にはとうとう均質なバターへと変貌してしまったのです」という展開。

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*その一方で在野レベルにおいては「中道左派中道右派の連帯」が具体的政治課題となっていくのが国際トレンド。アメリカにおけるそうした動きの背景には欧州の様な「突破口の見えない世代間党争」に陥るのだけは何とか回避したいという良識が透けて見えたりもする。日本もどんどん、そうした状況に近づいてる?

そもそもこうした動きが非常にナチスめいて見えるのは、実際「彼ら」が志向しているのが(ピーター・ドラッカーによれば)それが「ナチスを政治的に勝利させた方程式」そのものだからに他ならないからなのでした。

*全ての背景にオーストリア出身のヒトラーがハプスブルグ君主国で経験した「マイノリティとしてのドイツ系移民に対して加えられたあらゆる形での弾圧に対する先天的復讐心」が透けて見えるのが興味深い。まさしく「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマそのもの。これでは「マイノリティ無罪論」を声高に連呼するほど、その振る舞いがナチスめいてくるのも仕方がない?

  • 自分の側からは対抗政策を一切提出せず、ただひたすら現在の政治的閉塞感に対する絶望感と与党の倫理的劣悪さを弾劾し続ける。
    ソ連コミンテルンから「社会ファシズム」のレッテルを貼られたヴァイマル共和制。世界恐慌(1929年)への対応にも失敗し続け、反対意見を抑え込む為に次第に強権化していく。状況がそこまで絶望的だったからこそ「ナチス共産党共闘」が成立し得たとも。
    社会ファシズム論 - Wikipedia

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  • そうする事によって反対者の意見全てに執拗に「(一刻も早く滅ぼすべき)倫理的劣悪が寄り集まっただけの烏合の衆」のレッテルを貼り続け、精神的優位を確立していく。
    *当時ナチス共産党は共通敵を抱えていた。ロシア革命(1917年)において全国各地のソヴィエト(労兵農評議会)が果たした役割にインスパイアされ「神聖ローマ帝国時代の領邦割拠状態」の復活を志向したスパルタカス団や革命的オプロイテといった極左無政府主義者集団。ナチス共産党共闘が成立した背景には「他人の自由が大嫌いな」全体主義立場から彼らの台頭を警戒する感情の共有が存在したのである。

  • こうした戦略で選挙戦に勝利した政党は、当然与党となったら政権を維持する為に「戦争を辞さない覚悟での「仮想敵」に対する弾劾の継続」および、その裏側で繰り広げられる「反対意見全てに対する手段を選ばぬ弾圧」に邁進せざるを得なくなる。事ここに至ってはもはや助かる道など残っていなかった。
    *この方面の展開において韓国の文政権が日本より二歩も三歩も進んでいる事実は揺らがない。なにせ日本の革命運動はまだまだ「既得権益墨守に執着するインテリ=ブルジョワ老害層」が「(革命運動に関心を持つどころか現政権を肩を持つ)貧困若者層」に対して宣戦布告する様な内ゲバ段階に留まっているのだから。

日本においてもこの種の展開が確実に現実味を帯びてきた感が見受けられるのですが…実際のところどうなんでしょう?