諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】日本リベラル層に最後に残された選択肢とは?

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 日本もそろそろ国際トレンドに従って「急進左派と中道左派の分裂が進行して前者が急進右派、後者が中道右派との合流を果たしていく」流れに差し掛かりつつあるのかもしれません。要するに「現状肯定派(漸進支持派)」と「諸派に分裂して「内ゲバ」を繰り返しつつ現状肯定派(漸進支持派)壊滅作戦では共闘する)現状懐疑派」が対峙し合う状況への確実な推移。

 ①前者の紐帯の中心は「(第三世代フェミニズムに典型的な形で見られる様な形での)多様性の尊重」、後者の紐帯の中心は「宗教右派共闘する道を選んだウルトラ・フェミニズムに典型的に見られる様な形での)他人の自由に対する非寛容」とも。

②そもそもこうした歴史的流れには確実に、科学的マルクス主義が説得力を失って左翼陣営が「民族左派」「環境左派/人権左派」「反戦左派」みたいな極左と極右のキメラが雨後の筍のごとく台頭した20世紀後半の展開が生んだ当然の帰結という側面が存在したりする。

共産主義圏の解体」とは、要するにその全盛期に徹底的に弾圧された「極右思想」の復活でもあったのである。

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「民族左派」ソ連を中心とする冷戦時代の共産主義圏は帝政ロシアやハプスブルグ君主国やオスマン帝国といった多民族帝国の解体の産物。「(分離主義の温床となる)民族主義」は科学的マルクス主義の主導する輝かしい国民統合過程を阻害する「克服すべき旧悪」という認識だった。
*そもそもここでいう「民族主義」の起源は(欧州二月/三月革命(1848年〜1849年)に便乗しての)これらの地域におけるナショナリズムの高まりだった。そこにこの問題を複雑化させた元凶も潜んでいる。

「環境左派/人権左派」共産主義諸国は、独自の国家運営形態を追求する過程でカール・マルクスフォイエルバッハから継承した「人間解放論」を切り捨て、代わりに当時米国資本主義を主導していた「タイラー主義」などを採用。その結果切り捨てられた「公害問題の深刻化」「(先住民の土地簒奪といった)マイノリティーの人権侵害」に拘泥する事など、その全盛期には決して許される事ではなかった。
*実際「環境左派/人権左派」は今日なお「ポルポト派がカンボジアベトナム系市民に対して遂行したホロコースト」や「チベットウイグルにおける中国共産党の横暴」については黙殺を続けている。まぁ所詮は「キメラ」だから仕方ない?

反戦左派」…これはさらに根深い問題で、その病根は欧州における社会民主主義勢力第一次世界大戦遂行に協力し、彼らの現実主義を嫌ったソ連コミンテルンが「社会ファシズム」のレッテルを貼った時代にまで遡る。その結果イタリアでは(共産党から「そのイデオロギー社会民主主義に毒され過ぎている」として追放された)ムッソリーニが逆に共産主義勢力勝利し、ドイツでは「ヴァイマル共和制からナチスへの政権交代」に当たって(スパルカタス団残党や革命的オップロイテといった)急進左派や共産主義勢力が協力し、その後切り捨てられるという番狂わせが起こったのである。
*歴史全体を俯瞰してみると彼らの台頭そのものが「軍靴(全体主義)の足音」に他ならなかったという皮肉。日本における福本イズム同様に「(何が正義か決定する)党争をこそ現実の政治的課題解決より優先すべきである」としたカール・シュミットの「例外状態」政治哲学が、ナチスでなく(大統領内閣制に推移した)ヴァイマール共和制を擁護する為に発表されたという絶望感…

③要するに共産主義圏崩壊には「自由主義/資本主義圏を壊滅させる為にバラ撒いてきた戦略的プロパガンダ」に自ら感染する形で進行したという側面も存在したという次第。

*別に外山恒一の意見を全面肯定する気持ちはないが「1970年代後半から1990年代前半にかけての新左翼と旧左翼の野合ブームが現在のリベラル層の閉塞感を生み出した」とする指摘には相応の鋭さが存在する。

これがある種の「政治的ニヒリズムの横行」である事実は動かない?

  • 欧州においてそれは概ね「(若者に全ての犠牲を皺寄せする形で理想の老後を過ごそうと目論む)老害」と「(彼らが墨守しようとしている制度矛盾に全てを奪われつつあるとして激怒している)憤青」の世代間対立という形をとりつつある様に見える。

  • アメリカにおいては「一見昔を懐かしむメディア・リテラシーの低い連中を(思想の左右に関わらず)派手なアジテーションやフェイク・ニュースなどで大量動員して喜んでいる様に見えるが、その実当人は何も信じてないゲッペルス・タイプの扇動家の台頭」と「彼らに玩具として弄ばれる事を拒絶し政治的不活性を維持する中間層」の分裂が進行中。

日本でいうと左右陣営問わずこういう意見が投稿される様になった辺りに「政治的ニヒリズムの浸透」が感じられたりして。

*冷戦時代終焉期のエンターテイメント業界には「人間は必ず間違いを犯す。一刻も早く全ての判断をコンピューターに委ねるべき」と考える「理神崇拝派」と「やがてコンピューターは人間界の党争において最終的に勝利する先天的ナチス(人類存続の為に先手を打って滅ぼすべし)」と考える「人間中心主義派」の衝突が存在した。

「コンピューターは一刻も早く滅ぼすべき先天的ナチス…確かに国家を構成する諸勢力の統計的把握を可能としたのはIBMのタビュレーティングマシン(Tabulating machine、パンチカードシステム)の登場だった。そして、そのシステムをナチスドイツがアメリカから輸入した事により(ユダヤ系国民のみを抽出して排除しようとした)ホロコースト遂行が可能となった事実は揺らがない。

*しかしまぁ、こうした考え方は文化大革命北朝鮮において「将来に優良遺伝子のみを伝える為、富裕層と親日派は一族郎党ごと滅ぼし尽くさねばならぬ」「民族的健全さを保つ為には、心身障害者やLGBTQ層に対しても決然たる意志をもって同様の措置を施さねばならない」と考える「科学的マルクス主義風優生主義」に不可逆的に編入され「安倍や自民党支持者を支持するネトウヨごと滅ぼし尽くさねばならぬ!!」と連呼する「日本における反ナチス抗争」に継承されて現在に至る。その途上では「既得権益甘受者(人間)とその犠牲者(レプリカント)を厳然と仕分けするフォークト=カンプフ(Voight-Kampf)検査」や「変態の寄せ集めとして陰謀を企むハルコネン男爵家」の様な悪夢的イメージが次々と形成されている。

とはいえ現実はそう簡単に予断を許しません。最近その事実を改めて思い知らされたのが以下の投稿。

相応の強烈な理由がない限り、決して反対意見を排除しないのが「21世紀の自由主義」なのかもしれません。まぁ、それはそれで色々と難しい問題を生み出します。 

ドイツの社会学マックス・ヴェーバーも「職業としての学問(Wissenschaft als Beruf)」「職業としての政治(Politik als Beruf)」辺りで警鐘を鳴らしてるけど、こうした視野偏狭が広がって「党争における勝利が全て」という発想が国民の末端にまで浸透するのがヤバいのです。それこそが「ナチス勝利」の大前提だったりする訳です。