諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【塩大福】【紅葉饅頭】明治は遠くになりにけり?

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江戸時代から高級調味料として静かにシェアを拡大してきた砂糖が庶民も常用可能な甘味料として広がったのは明治時代以降とされています。 皮や餡が塩味の塩大福もまた、江戸時代までは「砂糖に適量の塩を加えて味を整える」のではなく、純粋に塩だけを味付けに使っていたとされています。紅葉饅頭が誕生したのも明治時代後期とされています。

江戸時代の初期、最初に砂糖の製造を始めたのは当時の琉球沖縄県)でした。1623年に琉球儀間真常が中国に使いを出し、砂糖の製造方法を学ばせ黒糖を製造したと言われています。その後、琉球をはじめ奄美大島、喜界島、徳之島おいても、さとうきびは製造増産され、管轄していた薩摩藩に莫大な収益をもたらしました。

当時は鎖国状態であったため、貿易の窓口である長崎の出島に限定して陸揚げされた砂糖のほとんどが、中央市場である大阪の問屋(当初は薬種問屋のちに砂糖問屋)へ運ばれ、そこから江戸や諸国の問屋へ出荷されていきました。

一方、砂糖の代金として金・銀・銅が国外へ流出することについて幕府も危惧するようになり、1715年に幕府は輸入制限を行うと供に、砂糖の国産化の方針を打ち出しサトウキビの作付けを全国に奨励します。江戸時代の中期以降、さとうきび栽培は、西南日本の気候温暖な地域において積極的に取り入れられ「和糖業」として広まっていきました。1798年に讃岐(香川県)の砂糖(和三盆)が始めて大阪の中央市場に登場します。

明治時代に入り鎖国制度は解かれ、不平等条約の下で輸入砂糖が国内に流れ込み、沖縄・奄美を除き、零細な和糖業は相当なダメージを受け壊滅しました。

日清戦争後、台湾経済の中心として製糖業が位置付けられるとともに、機械化された大工場による近代製糖業が確立され、続いて国内にも精製糖の近代工場が建設、我が国の砂糖の生産体制が整備されていくこととなりました。

 その一方で明治時代とは「安価なインド綿花流入によって国内綿花栽培産業が壊滅して養蚕産業へのシフトを余儀なくされた」過酷な時代でもあったのです。

19世紀末の日本で綿工業の再編・近代化が始まり、20世紀に入ると東アジア市場をめぐる列強綿業資本の激しい競争が展開される。
*「近代日本の国際進出」を最初に牽引したのもまた木綿産業(特に綿花栽培産業)だった。魚肥を求めての瀬戸内海沿岸漁民の朝鮮半島進出、そして神戸華僑による満州からの大豆肥料輸入…

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イザベラ・バード朝鮮紀行(Korea and Her Neighbours、1894年~1897年)」に彼女が1895年朝鮮半島を訪れた際に目撃した「日本商人が朝鮮人好みの寸法で揃えた麻布でイギリス人と清国商人を圧倒し(綿花栽培に欠かせない)魚肥を買って帰る」景色が描かれている(朝鮮半島には布を特定サイズに切り分けて補助貨幣として用いる伝統があり、日本人商人はその辺りの事情に通暁して行ったのだった)。ただし日本の綿花栽培産業は(インドのタタ財閥と申し合わせた)日本郵船による日印航路開設(1893年)による安価なインド綿花の大量流入によって壊滅。それによって生じた余剰労働力は全て養蚕と絹織物に振り向けられ、大日本帝國が「絹業界世界一」を達成する原動力となったのだった。代償を伴わなかった近代化など、当時世界中どこを探しても見当たらない状況だったのである。
2017年 日印友好交流年 | 外務省

北インドのタタ財閥ペルシャ系(より正確には 10世紀にイランからインドに移住したゾロアスター教徒の末裔たるパールシー系)のジャムシェトジー・タタ(1839年~1904年)が1868年にボンベイ(ムンバイ)で設立した綿貿易会社を起源とする。1870年代には綿紡績工場を建てインド有数の民族資本家となり、大きな製鉄所、世界的な教育機関、大ホテル、水力発電所などをインドに建設することを夢見たが、そのうち生前に実現したのは1903年に建てられたタージマハル・ホテルのみであった。ただし彼の構想はその後継者達の手によりタタ・スチール、インド理科大学院、タージ・ホテルズ・リゾーツ&パレス、タタ・パワーとして結実する事になる。その成長の原動力はカースト制を無視した実力主義と、汚職が日常的なインドにあっては異色の厳しい企業倫理の徹底であり、だからこそ日本企業など海外の企業がインドに進出する際に率先して提携先に選ばれてきた。ちなみにインドでは「富」とカースト制の相性が極めて悪い。それで国内資産の三割を人口比率的にはわずか数%のジャイナ教徒が握っていたりする。

 「日本経済のグローバル化」を巡る黒歴史