諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

映画「メッセージ」観てきました⑤ 危険物としての「第二次性徴期の少女が抱える鬱憤」 

富山市立四方小学校

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*これだけ身体的変化について触れながら精神面の変化への言及が一切ないのが日本の性教育の限界とも?
以下の投稿では1990年代末に発表され、一世を風靡したテッド・チャンSF小説「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」が「2010年代フォーマット」に適応したSF映画「メッセージ(Arrival、2016年)」に推移する過程で背景となる「家族像」が如何なる変遷を遂げたのかについて分析を試みました。

ナボコフ「ロリータ(Лолита - Lolita、1955年)」やダスティ・ホフマン主演映画「卒業(The Graduate、1967年)」や ウィリアム・フリードキン監督映画「エクソシスト(THE EXORCIST、1973年)」やスティーブン・キング原作映画「キャリー(Carrie、1976年)」といった作品において執拗に描かれてきた「娘の成長に翻弄される父親」や「仁義なき娘と母親の対決」といった構図。こうした展開と密接な関わりを有してきた日本における「魔法少女」というジャンル。ここからはまた別系統の「人間の生涯時間に織り込まれた時間軸」が浮かび上がってきたりするのです。
*この辺りについてはフランスのウルトラ・フェミニストが「男達が精液をインクにそうしてきた様に、女達は経血をインクに文学を綴らねばならぬ」と提言し、それに対して「そこまで身体的イメージに執着する事ないんじゃない? 男だってそこまでチ◯ンコ脳じゃないし、女だってそこまで子宮脳じゃないよ?」と冷静な指摘がなされる一幕もあった。ならば男女を隔てる本当の境界線とは? LGBTQ系新区分との関係は?

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テッド・チャン「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」

「パパは、あたしがいつまでもこどもでいてほしいと思ってる。この胸がふくらんできてから、あたしに対してどうふるまったらいいのかわからなくなっちゃってるのよ」

「そりゃまあ、そういう体の発達はおとうさんにとってはショックだもの。立ちなおるための時間をあげなさい」

「もう何年もたつのよ、ママ。立ちなおるのにどれくらい時間がかかるっていうの?」

「わたしの父がわたしのそういうことに慣れてきたころの話をしてあげるわね」

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親側」が「ロリータ・コンプレックスペドフィリア=撲滅すべき犯罪」なる等式に執着して「無垢な少女を無条件に守り抜く絶対的庇護者」として君臨し続け様とする限り、このジレンマに脱出口はありません。特に「男性=夫=父親」は、むしろさっさと白旗を上げてしまう(自分も途方に暮れてる事を認めると同時に、自分も途方に暮れながら娘の幸福のみを祈っている存在である事を認めさせ、互いに寄り添う)のが戦略的優位につながる局面も?
*なんかもう、宮崎駿の漫画版「風の谷のナウシカ(1982年〜1994年)」でクシャナナウシカに向かって「上から目線の現場の現実から乖離した人道的世迷言など聞くに値せん。だが戦場で互いの背中を守り合う対等な戦友からの本気の忠告なら聞かぬでもない」と告げる場面そのもの? でも「パパは元気で留守がいい」なる発言と矛盾してない?

*まぁ何せ「敵=親側にとっての絶対他者=第二次性徴期に差し掛かった少女」は、「魔法少女まどか☆マギカ・シリーズ(2011年〜)」において自滅的最後を遂げる美樹さやかや、庵野秀明監督映画「シン・ゴジラ(2016年)」における鎌田君(Kamata-kun)や、「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅(Fantastic Beasts and Where to Find Them、2016年)」におけるオブスキュラス(Obscurus)を自分と同一視せずにはいられない様な「自らの内包する怪物的暴力性を発見し、当人ですら途方に暮れている存在」だったりもするのである。良い意味でも悪い意味でも縋(すが)りつけるものには容易に縋(すが)りつく。

*国際SNS上の関心空間においては、さらに女性アカウント同士の間で「こどものじかん」派(下手な日本人より和製コンテンツに造詣が深い比較的高年齢の穏便派)と「NARUTO/Avatar」派(当時ジャスティン・ビーバー(Justin Bieber)の狂信者集団たるBelieberと襲撃合戦を繰り返していた比較的低年齢層の武闘派)の衝突なんてシーンまで見受けられた。こういう状況の分析には「良いおっぱい・悪いおっぱい」で有名なメラニー・クラインの「ローティーン的統合失調性とハイティーン的抑鬱性の対峙」といった「女性自身による女性自身の為の女性自身の状況分析理論」辺りを持ち出してこざるを得ない。

───自慰をする小学生の一般漫画ってまずないと思います。

私屋:それまでは単に先生をからかってやろうとしての「エッチしよう」だったのが、性の目覚めとともに意味が変わっていく、それは九重りんの成長を描くのに必要なプロセスでした。その部分を端折ってしまったら、そのあとの展開が唐突になります。

そして、もうひとつ自慰のエピソードを書く理由として「寂しい子はそういう行為にはまってしまうことがある」という現実もありました。

───一貫して、肯定をしていますよね。

私屋:性について「いけないこと」とは描いてない……描いたらだめでしょう。

白井先生や美々ちゃんが、女性らしい服装や興味を母親に抑圧されるエピソードがありますが、私自身、デートに出掛けようとすると必ず嫌味を言われるのがイヤでした。

 

●自分に性的魅力があることを理解する子どもたち

───最初の頃、読者の間で「やばい」って大騒ぎになるのを見て面白いなあと。

私屋:小学生の女の子が、自分に性的魅力、価値があるというのを自覚しているのが、大人にとっては認めたくない事なんだと思います。

でも、自分の子供時代を振り返れば、通学路に変態おじさんが現れたりして「自分たちをエロい目で見てる大人がおる!」ことはある程度わかっていましたよ。

もし当時ブルセラみたいのがあったら、うちらのぱんつ高く売れるよねー(笑)、みたいな会話を公園で遊びながら無邪気にしていたと思いますよ。

───美々ちゃんのブラをブルセラに売って、って話もマンガにありましたね。

私屋:今はネットもあるし、そういうものがあるって知るチャンスは多いでしょう。

───子供がピュアであってほしい願望は、作中の大人にもありますか。…
私屋:青木先生は「子供はピュアでしょ?」って思っている人で、そうじゃないけれどもなにか?ってりんちゃんが迫ってくる。そうじゃないことを認めた上で、でも人間だからそうだよなぁと認めてあげることが、保健体育の教科書にセックスを書かなかった大人がしなかったことなんだと思います。

 

●みんな、麻痺してないか!?

───青木先生は究極の童貞ではないかと。

私屋:りんちゃんは「こんな小学生いないよ」と言われますが、一番ファンタジーなキャラは青木先生じゃないかと私は思ってるんですよ。あんな良い人がなんで童貞?って感じじゃないですか。友達も多そうだし、合コンにも行ってますし。

───でもフラグクラッシャーですから……。

私屋:にぶすぎて気が付かないと、言いわけしてますが、まあお話のために彼は童貞のままでいて30を越えて、結局最後まで童貞なんです。

───りんちゃんが子供のままだったのにすごいびっくりしたんです。

私屋:だって成長してたらセックス出来ちゃうじゃないですか!

それまでの話でもりんちゃんが成長した想像図は何度も出てきてるので、その通りになってもつまらないし。青木先生には妖精になってもらいました。

───生理は来たけど、入らない、と。

私屋:最終回の後も、「もう、わたし16歳なのに〜!」と迫るりんちゃんに青木先生が「九重大好きだけど、だめだ……子供にしか見えん!」と真っ赤になって逃げる、ロリ女子高生と30男のラブコメが続いていくんだと想像すると、そっちのほうがいいなって。デートの度に職務質問されたり。もちろん、成長してて欲しかったっていう感想もありますね。ゲームだったらマルチエンドに出来たんですが。

───面白いのが、読者の圧倒的多数が「よかったね!」って。

私屋:そうなんですよ……おかしいんですよ、みんな麻痺してるんですよ! 

最初はみんな青木に「ロリコン!」「小学生に赤面しててキモい」って言ってたのに、だんだん読者の反応が「これでりんちゃんと付き合わないとかありえない」「青木は責任をとるべき」みたいな話になって行くんですよ。気持ち悪いって言ってたのに!(笑)

───読者が作品とともに成長してきたのもあるんですかね?

私屋:そうですね。最終回の感想で意外だったのが、レイジが救われて「良かった」って言ってくれてる声が多かったことです。青木のライバルだからかレイジはずっと嫌われていて、アニメのプロデューサーにも「レイジは死ぬべき」と言われてました(笑)

───そんなにだめですか?!

私屋:だめだったんですよ。…

それが最後にレイジが救われてよかったってみなさんおっしゃってくださっているんで、安心しました。この話で最も救いが必要な人間はレイジだと思っていたので。

───あの依存感覚がレイジならではですね。

私屋:私としては、「この人」が悪いんじゃなくて、そうなる「原因」があるんだよーと。過去の呪いが解けないで苦しい、レイジ自身もわかっているのにどうにも出来ない、そういうキャラですよーって描いていたので、レイジ嫌いにはそれが伝わっていないのかと心配でした。最終的に通じてよかった。

 

●こどもを産んで育てる苦悩

───『こどものじかん』っていうタイトルが、レイジとか白井先生の、こどもだった大人の時間だと思ったんですが。

私屋:最初はそこまで考えていませんでした。でも「いいタイトルだ」と褒めてもらったりエピソードを積み重ねることで、とても考えてつけたみたいにはまってので良かったですね。

子供時代から大人になって、最後白井先生が子供産んで…最後あそこまで描きたいなと思ったのは、そういう家庭で育った女性は、よく「母親のように自分も娘に圧力をかけるような子育てをするんじゃないかと」いう悩みに陥るからなんです。

───よく感じられる話なんですか?

私屋:はい。最近は「毒親」なんて言葉ができたり、親が支配的だと子供が大変ってことを口にしていいんだって雰囲気になってきて、昔より認知度が上がったと思います。

ただ、取材で知ったことですが、とある毒親本のドラマ化の話があった時、テレビ局側から「母親が悪く描かれるのはテレビ的にだめ」と却下されたそうです。

やっぱり表立ってそういう話をするのは敬遠されるんでしょうかね。

*「少女の内面において、体(物欲・性欲)に置き去りにされる心」なるテーマは案外深い。何故なら彼女らにはまだまだ「(自分達を散々利用し尽くし、役立たずになったら捨てる気マンマンの)悪党」と「(全ての状況を踏まえた上で一人でも多く彼女達を助けようとする)善人」の区別がつかないのだから。そして彼女ら自身にも「全員は助からない」覚悟なら出来ている。

*当事者的自覚としては「ローティーンというのは体の成長に心が追いついていない段階だから、肉欲や物欲に負けやすい。この辺りが「どうして女子中学生や女子高校生は制服のスカートの丈を短くしたがるか」とか、上掲の様な「ロリータ」問題や「援交問題」と深く関わってくる。しかし少女は成長するにつれ、そういった諸感情を自らの意識のコントロール下に置く術を学んでいく」といった感じらしい。この問題とあまりに真っ正面から向き合い過ぎても岡崎京子の様に自壊してしまうので「どんなに頑張っても全員は助けられない」と絶望するネガティブ思考を「一人でも多く救う事に専念する機械的ポジティブ志向に切り替える必要があるという。

*でもLana Del Rey「Video Games」まで男女関係を達観しちゃうと、それはそれで行き過ぎ。なんとも微妙な匙加減が要求される世界とも?

*この系譜は1930年代まで遡る。日本でいうと…え、谷崎潤一郎「金色の死(1914年)」に江戸川乱歩「パノラマ島奇譚(1926年〜1927年)」?

この問題について正面から向き合い「(ルッキンググラス(覗き窓)の向こう側を過ぎる)絶対他者」として「(人類には想像もつかない)異星人の生涯」と「父親や母親の側の視線に映る)娘の生涯」を等価なものとして描き切ったテッド・チャンの原作小説「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」。映画「メッセージ(Arrival、2016年)」は、こういう部分をバッサリ切り捨てたのが残念といえば残念?