諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】やはり日本人経営者には分析能力が欠如している?

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(高度な分析を経た上での)選択と集中」なら分かります。経営者のセンスが問われるのは、まさしく「何にリソースを集中する」なのですから。だが、ここでまさか「欲しがりません勝つまではイデオロギーが飛び出してくるとは!!

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*そういえばウォルト・ディズニー制作が制作し1943年にアカデミー賞短編部門を受賞した「総統の顔(Der Furher's Face、1943年)」も同様のテイストの作品。

これだから日本人は「兵士は兵士以上、指揮官は指揮官以前」なんて言われてしまうのでしょう。もはや、ある種の共依存関係? 案外、現在のマスコミの手段を選ばぬ安倍政権叩きも「鬼畜米兵、撃ちてし止まん!!」という戦い方しか知らないが故の必然的選択に過ぎないとも。

出展は古事記の神武東征の中に出てくる歌謡、「みつみつし 久米の子が 頭椎 石椎もち 撃ちてし止まむ 」に起源をもつが、これが大々的にPRされたのが、1943(昭和18)年第38回陸軍記念日である。

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陸軍省は、この日に備え、2月23日に、5万部のポスターを全国に配り、当日一斉に掲げるよう支持した。この日のために、2月23日東京・有楽町の日劇ビル壁面には、約100畳の大きさの「撃ちてし止まむ」の大写真ポスターを掲げ、この日、多くの市民の見守る中陸軍軍楽隊が「愛国行進曲」などを演奏。唱和する場面もあったという。

大画面の写真を撮影したのは、金丸重峯。二人の兵士が敵陣に突入する瞬間をとらえていて、悲壮感漂う迫力満点の出来栄え(この時の画像が冒頭に貼付のもの)。又、陸軍兵士が銃剣をかざして星条旗を踏みにじり敵陣に突入する絵のポスターは、画家宮本三郎が描いた。そして、「撃ちてし止まむ」は資生堂歯磨やマツダランプなど民間の広告にも盛んに使われるようになる。しかし、内閣情報局の指示で戦意高揚のスローガンの方を大きくし、自社の名や商品名を小さくしなくてはならなかった。この「献納広告」にしか、許可が下りなかったのだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。

1938(昭和13)年には国家総動員法が成立し国民は一致団結して、難局に立ち向かうことを求められていたが、更にこれ以降、国内では臨戦態勢が一段と強化されることになった。それはとりもなおさず自由な商業活動と消費の抑制、縮小を意味しており、広告もまた本来の機能と活動の場を失って冬の時代を迎えたのである。

「献納広告」と言うのは広告主が新聞などのスペースを買い上げ自社の商品広告ではなく時局にあったメッセージを掲載するという臨戦体制下ならではの広告形態である。かつての華やかな嗜好品・贅沢品などの広告が姿を消し、広告の大半を日用品などが占めるようになった。

ある意味、これこそがまさに(国家間の競争が全てだった「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」の衣鉢を継いで「国民総動員体制」樹立を目指した)産業至上主義(1960年代〜1990年代)」が必然的に辿り着く終末的景色だったとも。

司馬遼太郎は「大日本帝国を暴走に追い込んだのは軍人と官僚。しかしながら太平洋戦争敗戦によって「軍部」は解体され「自衛隊=純粋に国家や国民が必要とする危機管理サービスの供給のみを心掛けるプロフエッショナル集団」に生まれ変わり、その残滓はむしろ(内務省的体制を濃厚に残したままの)日本政府の官僚制に継承される事になった」を持論としていた。しかし実際に大日本帝国を暴走に追い込んだのは軍人と官僚とメディアであり、最後のそれこそがまさに歴史の現時点における「最後の牙城」になってしまったとも。

*そういえば朝日新聞の経営陣は太平洋戦争敗戦直後、真っ先に「新聞社の第一の使命とは社員を食べさせていく事にあり、その崇高な理念ゆえに戦時下において遂行されたあらゆる国民向けプロパガンダについて一切の責任を負う必要がない」なる声明を発表。さすがにそれでは社内の執筆陣の収まりがつかずある種の革命騒ぎが勃発したが、オーギュスト・ブランキも指摘している様に革命なるもの、体制転覆に成功した瞬間から(次の革命勢力に狙われる)保守派への転向を余儀なくされるものとも。

あまり知らない人が多いと思うが、朝日新聞は業界では珍しい民主集中制である。たとえば慰安婦問題で「強制性を糾弾する」という方針を社として決めると、それに反する記事は許さない。マニュアルをつくって研修をやり、それ以外の立場で原稿を書かないように教育する。

これはいい面もある。多様な言論がある中では、朝日が反政府の方針を鮮明に出し、その方針がいやな記者はやめればいい。しかし現実には、日本の労働市場にはそういう流動性はないので、社の方針についていけない記者は面従腹背の左翼になる。「非武装中立」の論陣を張った阪中友久編集委員は、毎日、皇居に遙拝していた。

読売は渡辺恒雄主筆の独裁体制だが、あれほどわかりやすいと記者も対応しやすいし、彼の意見は(政局以外は)常識的だから、現場の評判は悪くない。クレームをつけられたら、すべて「ナベツネのせい」といえばいいからだ。NHKは、よくも悪くも大勢に従う以外の社論はない。だから逆に、最大公約数を代表する池上氏の行動が大きなインパクトをもつのだ。

はっきりいって、業界では朝日だけが狂っている。それも特定の独裁者ではなく、社内の左翼的な「空気」が暴走している(地方紙はそれをまねている)。これに歯止めをかけるのは、現場の「下克上」しかない。
*これが2014年段階での記事。そして現状を鑑みるに…

何たるテロメア(telomere)めいた因果応報…

むしろ「革命家にとっては革命家による革命の為の革命の継続が全て(大衆の支持など終始当てにしない)」としたオーギュスト・ブランキの「一揆主義(Putschism)」あるいは「革命永劫回帰」の反合理主義的(反資本主義的/反議会民主主義的)ニヒリズムの方が時代を超越した生命を獲得するという奇妙な展開。
反合理主義的(反資本主義的/反議会民主主義的)ニヒリズムアルベール・カミュAlbert Camus、1913年〜1960年)が19世紀政治的ロマン主義について述べた「神のみに向けられる利己的ダンディズム」に該当。「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマからの脱却を狙う動きの一環で、オーギュスト・ブランキはこれを天体運動に擬えたし、その精神はある意味ドーキンスの「利己的遺伝子論」へと継承される展開となった。

利己的遺伝子とは

オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評:阿部重夫主筆ブログ:FACTA online

そしてもちろん、こんな戦い方では支持者の数に物を言わせる政治的勝利は見込めないという次第…

そして早速、この展開…

そもそも日本のTV局は、ただでさえ自分の利益しか考えない勝手なコストカッティングによって「地デジ化」や「高品質TV」に賭けた国内電機メーカーの期待を蹂躙してきた訳です(まぁこの図式自体に「(誰も責任を取らない)無責任体質」そのものが埋め込まれている)。
*1990年代から2000年代にかけては「エンターテイメント業界の脱政治」や「汎用的なインターネットに対するコンシューマー・サービスに特化したi-modeの挑戦と挫折」なんて展開もあった時代だった。

そして(最近話題になってる「アニメ制作現場の闇」とも重なる)誰も口に出来ない「広告代理店の取り分が多過ぎる」問題…しかも広告代理店もまた広告代理店で別に栄華を極めてる訳でもない悲しい現実。何、この恐るべき負の連鎖…

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 一時期、国際SNS上の関心空間で「猫は悪魔の使い。一刻も早く手を切らないと我々全員が死を迎える」と触れ回っていた宗教右派アカウントを心の底から軽蔑して嘲笑ってました。しかし最近はむしろ逆に「彼らが何に怯えていたか」分かる様になってきた感があったりします。

恐るべき事に確かに公論空間なるもの、それが熱的死状態(エネルギーの偏在が様々な衝突を産む活気溢れる状態の終焉)に近付けば近くほど、国籍を問わずあらゆる隙間を埋め尽くす勢いで「猫関連投稿」に覆い尽くされていくものなのですね。

全然「猫そのもの」が悪い訳ではないんだけど、この恐るべき「世界を確実に堕落さえつつある様に見える猫ニヒリズム」に何か名前を与えたい。そもそもこの投稿からして気付くと途中から猫に乗っ取られていたという…

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まぁ「有名人のゴシップ」や「料理画像投稿(Food Porn)」や「温泉巡り(日本、ドイツ、イタリアといった限られた地域で絶大な人気を誇る)」にも、こうした「埋め草(Filler)」的側面なら確実に存在する訳ですが。

・グルメ
・温泉
・動物

テレビで安定した視聴率が取れる御三家。
視聴率に困ったときは、この3つのどれかをやれば良いとされる

エントロピー理論的な意味合いで メディアが「熱的死」を迎えつつある重要な兆候とも? そして何故かこういう展開を迎えると別種の闇が水面下から浮かび上がってくるのです。

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるんでしょうか…