諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ドラゴンの歯】「反安倍主義」はナチス台頭の雌型?

ギリシャ神話に登場する重要アイテムの一つ「ドラゴンの歯(Dragon's teeth)」。大地に撒いて召喚する兵士達は、標的さえ定められれば死んでも死んでも新手が現れて戦い続けますが、それを見失うと互いに最後の一人まで殺し合って勝手に死に絶えてしまいます。日本の幕末でいうと水戸藩みたいなもの?

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最近では「安倍ヤメロ」運動にこの気配を感じていたのですが…

このパースペクティブから予想される「標的のロスト=最後の一人となるまで殺しあう内ゲバ状態への遷移」が、思うより早く起こってしまいそうなった気配が高まってます。こうなるともはや「とりま政権交代」どころじゃない?

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 「これは差別ではない。国際正義の優先である」なる新機軸。ニーチェ深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」現代版。
*まさしく「人類平等の理念を回復する為には、地上に存在するあらゆるレイシストから基本的人権すら奪う尽くさねばならぬ。この道理を受容しない似非人道主義者や似非平和主義者も同じ目に逢わされる」の世界。

*もともとベネディクト・アンダーソン「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」は「実際のアメリカ独立戦争フランス革命がどういうものだったかなど「市民革命は可能である」なる信念の形成過程にそれほどの影響力はもたらさなかった」と述べている。事実などだれが気にする? 大衆は小さな真実より大きな嘘を信じたがるものだ? 実際、本当に成功した革命の歩みは、こうした経緯によって形成されたイデオロギーとしての「想像された市民革命」と驚くほど関係がない。むしろ実際に実現しようとしたら、たちまち「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが表面化して「ジャコバン派の恐怖政治」や「ヒトラースターリンの独裁政治」が顕現するばかりともいわれている。

*こうした「想像された市民革命」の歴史は、むしろ中華王朝史における「美刺説(「春秋」や「詩経」には、これを編纂した聖人孔子の思想が隠されており、あらゆる章句に発祥の元となった史実とそれに対する毀誉褒貶が込められているとする神秘主義)」の在り方と重なってくる。王朝末期になると必ず関連学者が「古典に政権交代が予言されている」と言い出し、実際の王朝交代が完了するとまとめて粛清されてしまう。まさしくフランス7月革命(1830年)における6月暴動(1832年)。2月/3月革命(1848年〜1849年)における6月蜂起(1848年)。そしてフランス第三共和制(1870年〜1940年)発足時におけるパリ・コミューン(1871年)。その全てを体験した「一揆主義のニヒリスト」オーギュスト・ブランキが「革命にとって敗北はむしろ活力。真の死はその成功の瞬間に訪れる」と断言したのもさもありなん。

詩経 - Wikipedia

その成立からして「礼」と横断するところがあり、孔子自身も子弟にその修養を求めているように、左伝などを見ると、当時の卿・大夫・士の必修の教養とされた。また史記の儒林列伝において詩家が五経の筆頭にあることからも解るように、漢初には重んじられていたことが窺える。

  • のち宣帝のころに梁丘賀らの易家が興り、前漢末から後漢にかけての神秘主義=「讖緯説」の思潮の中で易家の地位は不動となり、漢書・芸文志では「易・書・詩・礼・春秋」の順に変化している。

  • 前漢では一芸に通じた博士が私塾において弟子に学問を伝授したが、後漢に入って太学におけるカリキュラムとして定着すると、詩家としての独自性は失われる。また思想界において経典化する一方、文学界においては、前漢の司馬相如や揚雄らを端緒とする賦(長文の韻文)が流行していく中で、換骨奪胎され、変容と再生をくりかえしていく。

  • 『春秋』の場合と同じく、編纂者である聖人孔子の思想がそこに隠されているという考え方が強かった。特にこの時代においてはすべての詩編には必ずその発祥のもととなった史実があり、歌詞にはそれらに対する毀誉褒貶がこめられている(美刺説)、という考え方が主流であり、この思想は唐代の『五経正義』において決定的となる(古注)。

  • しかし宋代の朱熹はこれに対して、「国風」については単なる民謡・小唄であり、なかには「淫奔者」の詩がある、と『集伝』で手厳しい批判を行い詩経の学の面目を一新した(新注)。しかし「雅頌」については、従来どおり「聖人」の作であることを認めている。
    *まぁ「詩経」には現代人の感覚では「田舎の純朴な伝統的乱行パーティ」を礼賛した様な詩篇も数多く存在するから朱熹が「こんな風紀を乱すポルノ、絶対後世に残してはいけない!!」と叫び出したのも無理はない。ちなみに「美刺説」自体は聖書やシェークスピア文学にも存在する。「全ての文学は絶対悪たる当時の政権に対する批判として成立してきた」と主張する反体制モラリストにいわせれば「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、初演1595年前後)」や「お気に召すまま(As You Like It、初演1600年頃)」を単なるラブ・ロマンスとして楽しんで消費する軽薄な一般人こそが「一刻も早く地上から撲滅すべき教養に欠ける狂人」であり続けてきたという次第。逆に「詩経の「淫乱詩」はむしろ、ただのポルノだからいいんだよ」と主張する層もアジアには確実に存在し「AV女優」蒼井そらのカリスマ的人気の背景になっていたりする。「ポルノと政治の関係史」はここまで錯綜しているのである。

なお詩経は日本にも古くに招来され、『日本書紀』によれば継体・欽明朝のころ、百済から五経博士が来日したという。以後、「博士家」において細々と伝えられたが、広く読まれた形跡はないようである。鎌倉・室町期に五山文学が興ると、道俗の間に漢籍に対する関心が高まり、「毛詩抄」のような資料も作られたようである。
*ちなみに「遣唐使が唐代中国から持ち帰った三代ポルノ」なるジャンルが存在する。「男性主人公が正妻と愛人の間で揺れる三角関係物(樋口一葉にごりえ(1895年)」や尾崎紅葉金色夜叉(1897年〜1902年)」の大源流)」「(主に老境の則天武后とその若き愛人の関係を描く)超熟女物」「(異界転生した男主人公が美少女化した魑魅魍魎の化身の類をコレクションする)異界ハーレム物」…これ抜きに「源氏物語」を筆頭とする和製コンテンツの成立は語れない?

樋口一葉 にごりえ

http://tamejirou.tumblr.com/post/5289030053/遣唐使が大量に持ち帰った書物の中には中国では位置づけが低かった一種のポルノ小説が含まれる一方中国の固

tamejirou.tumblr.com

*ちなみに「納豆菌は3万年前くらいに中国雲南省から(おそらく藁か何かに付着する形で)日本に渡ってきた。中国こそ日本の納豆の故郷」という話と「伝統的ポルノ好きで世界に名を知らしめる日本人ですら、唐代中国より伝来した「超熟女物」なるジャンルへの対処については未だに苦しみ続けている(映画「楢山節考(1983年)」のグランプリ・パルム・ドールを受賞はそのせめてものお返し)」という話は中国人をガチで落ち込ませるので論争の際に混ぜ込むと交渉を有利に運ぶ事が出来る。

楢山節考 (1983年の映画) - Wikipedia

本作はプロデューサーの日下部五朗が、岡田茂東映社長(当時)に、何度も「映画化したい」としつこく通ううち、以下の理由で岡田が製作OKを出したたもの。岡田が製作を認めなかった1979年の『復讐するは我にあり』が、今村監督で松竹で映画化され高い評価を得たため、今村監督で製作を予定した『楢山節考』に岡田はいい顔をせず、「前に木下恵介さんが撮ってるやろ。エエ加減なもん持ってくるな。」とボロクソ。ところが日下部が「社長、題は同じでも中身が違う。実はにっかつロマンポルノ10本分くらい、ドバーッと濡れ場があるんです。」とハッタリをかましたところ、岡田は「うわあ、そら、ええなあ!」とOKとなった。しかしこれは完全なハッタリで『楢山節考』には男女の絡みのシーンが数カ所あるものの、そのようなシーンはトータルでも数分しかない。岡田は『映画ジャーナル』1982年2月号のインタビューで『楢山節考』を"異色の芸術ポルノ"と表現し、日下部の話を真に受けていた。

第36回カンヌ国際映画祭では、大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』がグランプリ最有力と言われ下馬評が高く、製作の松竹は大島、奥山融副社長ら総勢20人以上がファーストクラスの飛行機でカンヌ入りした。『楢山節考』も『戦場のメリークリスマス』とともにカンヌ国際映画祭に出品されたが、こちらはまったく期待されてなく、誰もカンヌへ行こうとしない。プロデューサーの日下部は、「どうしてもカンヌに行きたい」と主張すると岡田社長から「恥をかくのは日下部一人で充分」と言われた。今村も「後輩の大島監督が受賞するのに何でわざわざ行かなきゃならんの」と言う。宣伝も営業の誰も付いて行くと言わず。結局、主演女優の坂本スミ子と2人で、エコノミークラスでカンヌ入りした。現地での宣伝合戦も『戦場のメリークリスマス』は、国際的にも知名度が高い大島やデヴィッド・ボウイを擁して注目度が極めて高かったが『楢山節考』が逆転、グランプリ・パルム・ドールを受賞した。岡田社長も今村監督もカンヌに来なかったため、世界中の映画人とプレスが日下部の元へ殺到。「あなたの映画が受賞したんですね、おめでとう」「そう、あれ、おれの映画なんです」と日下部はプロデューサーにとっての最高に一夜を満喫した。

まあ深作欣二監督映画「里見八犬伝(Legend of the Eight Samurai、1983年)」で「地母神的悪役」玉梓を演じた夏木マリとか、浅田次郎原作「蒼穹の昴(原作1996年〜、TVドラマ化2010年)」で西太后を演じた田中裕子 についての国際的評価は尋常じゃないし、それも含めての和製コンテンツとも。

自民党は即刻安倍内閣を自ら倒して民進党への政権交代を想定した選挙準備内閣を用意せよ」なる他力本願論の台頭。

 「蓮舫代表の戸籍公表問題」を巡るゴタゴタ

「残業代ゼロ法案」を巡る内部不和

日本共産党は今こそ共産主義イデオロギーを放棄して与党となれ」なる斬新な意見の台頭と反論。

(自己嫌悪の外部投影を含む)自分が生理的に嫌いな対象は全て撲滅すべきナチスレイシズム」なる外罰的態度、特定のスケープゴート的標的に対して向けられてる限り「攻撃の永遠続行」の原動力として有効。ただしそのベクトルが一瞬でも内向きにブレればたちまち自らを内ゲバによって焼き尽くしてしまうという次第。まさにこれこそが冒頭で掲げた「ドラゴンの歯(Dragon's teeth)」システムの駆動メカニズム。 

実際のナチス台頭の歴史に鑑みるとこれって、ナチスそのものというより「その無能の露呈によって結果的にナチス台頭を準備してしまった当時のドイツ左派」のポジションなのかもしれません。これまでの投稿ではそこまで考えが至っていなかった事を謝罪します。

本当に怖いのはこうした混乱を利用して「我々こそが安倍政権を倒して日本の正義をきっちり立て直します」と宣言するポピュリズム政党が国民的人気を集めて実際に選挙で勝ってしまう事。国民の選択肢がそれしかない状況に追い込まれてしまう事。全ては「安倍政権が外交と経済の分野で致命的ミスを犯さない」なる一点に掛かってくる?