最近「コンピューターRPGとは一体何か」について考える機会が増えました。
考えられる要因
- 先行人気作品の影響…MMORPGの中に閉じ込められるタイプの作品、ゲームのノベライズなど。
- 主人公の成長や彼我の戦力差の明確化…数字化によって「主人公が成長しました」「強い敵が現れました」と読者に伝えやすい。また主人公のステータスを圧倒的なものにすることによって簡単に俺tsueee的な展開が実現出来る。
- 作者・読者がゲームに親和的…一般文芸の平均的な作者・読者に比べれば、異世界転生モノ・なろう系小説の平均的な作者・読者は、よりゲームに親和的。
数年前ですら「何をいまさら…」みたいに言われているが、すっきりとした説明はあまり見当たらない。
ここで発想を逆転させてみましょう。もしかしたら「安易にレベルやスキルの概念を導入している」のではないのかもしれません。「レベルやスキル以外の概念が急速にエンターテイメント文化全体から失われつつある」のかもしれないのです。
- 概ね「ロマン主義運動(自らの認識範囲を主体的に再編成し近代的個我を確立する)」や「世界の数値化(それをどう組み上げて推論に繋げるかはともかく「入ってくる情報のデータ型」が次第に固定されていく)」の広まりは「それ以前のより漠然とした世界観を急速に忘却の彼方に追いやる」副作用を伴う。
*例えば「魔法の内容がゲーム的に整理された」ハリー・ポッター(Harry Potter)シリーズ(原作1997年〜2016年、映画2001年〜2011年)の登場期にも「こうした作品の登場がトールキンやル・グインの世界における複雑怪奇で漠然とした魔法の発動条件を完全に忘却の彼方へと追いやるのだ」なんて指摘があった。
- とはいえ、こうした問題は既に1980年代以降、すなわちゲームのコンピュータ化が進行してRPGのUI/システムに関するコンセンサス形成がが始まった時点から潜在していたといえよう。そしてもちろん、そうした歴史の開始はさらにTRPG形成期にまで遡る。
*ダンジョン探索型コンピュータRPG「ローグ(Rogue)」の初版が公表されたのが1980年。1983年にBSD UNIX 4.2に入れられて配付されることで広まった。
ローグ(Rogue) - Wikipedia
それでは全ての大元たるTRPGの世界は、最初から完璧に「(歴史の現時点においては、ほぼコンセンサスが確立している)コンピューターRPG/TRPGのシステム」の諸条件を備えていたのでしょうか? 最近「もちろん最初からそうだった筈がない」という話題がネットで盛り上がっていたりします。
そもそも「Tank(壁役=防御力の高い騎士)」「Attacker(壁役=攻撃力の高い戦士や魔法使い)」「Healer(回復役=回復魔法を唱える僧侶)」の様な役割分担は何時生まれたのでしょうか?
オリジナルD&D以降の1970sで、いわゆる Cleric (Class) にあたるものをガイギャックス&アーネスンがどこから引いたのか。@nirvanaheim さんあたり既に調べてそう。https://t.co/BigD3Lqwqc…
— 強歩する男 (@tricken) 2017年6月26日
D&D以前の所謂“ブラックミムーア・キャンペーン”(1974年以前にプロトタイプD&Dとして名指される連続ゲーム)の逸話の中に詳しい形成過程があるようです。https://t.co/ONqaHcBeyi
— 強歩する男 (@tricken) 2017年6月26日
ブラックムーア、でした。
— 強歩する男 (@tricken) 2017年6月26日
2017/06/28時点では、Blackmoorキャンペーンに関する新資料が出ていて、以下の通りになっています。
「回復呪文」が出てきたのは「ブラックムーア・キャンペーン」(1974年より前のプロトタイプD&D)である……ほぼ確定。
「聖職者」クラス、OD&DにおけるClericクラスが出来たのは、 bad guysの出してきた「吸血鬼」対策が講じられた時である……ほぼ確定。
「聖職者」クラスの後に「回復呪文」が生まれた……どうもそうとも限らないようだ。吸血鬼vs聖職者の構図が提案される前にブラックムーアキャンペーンにおいて「回復呪文」自体が導入された局面があったらしい(ただ、聖職者という役割がかっちり出てきていない段階ではあったもよう)。
【ロード(パラディン)の奇跡】:欧州中世の「王の奇跡」(→指輪物語の後半アラゴルンのパワーの元ネタに?)
— 強歩する男 (@tricken) 2017年6月27日
【クレリックの奇跡】:『黄金伝説』等の中世聖人崇敬の中に観られる治癒の技のほか、中世修道士が、武闘派でありつつ従軍して衛生兵相当の働きをしたことから?
みたいな区分でしょうか
今日の今日まで、【クレリックの奇跡(神聖魔法)】【ロードの奇跡(神聖魔法)】【パラディンの奇跡(神聖魔法)】の力の泉源を「まあ似たようなdeitiesからだろ」と思ってたんですが(←雑)、元ネタである地球の神話や信仰は三クラスそれぞれに、少しずつ違いそうですね。話を聞くに。
— 強歩する男 (@tricken) 2017年6月27日
修道士はいろいろな出自の人がいたので中にかつて戦場に出ていた人もいましたが、特別武闘派というイメージは無いんじゃないかな。どうだろう。
— 氷川霧霞 @金ム28a (@kilica) 2017年6月27日
まあ全然専門じゃないので可能性探ってみた程度だけど、薬草師集団としての地位を持つ修道士らが十字軍には兵士として参加していたりするので、聖職者でありながら兵士であり、他人を治療するスキルをもつ者のイメージはこのあたりにあるのかも。https://t.co/3OnBIuWaIV https://t.co/9dcGi8hiSH
— てぃあご (@tiago_pump) 2017年6月27日
*とどのつまり「強度の攻撃能力と回復能力を併せ持つ人気ヒーロー」ウルヴァリンの能力イメージ形成とほぼ同時期に概念形成が進んだ事になる。
ここで興味深いのが検討の過程でポール・アンダースン(Poul William Anderson、1926年〜2001年)の名前が突如浮かび上がってくるあたり。
アメリカ合衆国の小説家、SF作家。北欧系で、名のPoulは英語名のPaulとは異なる。姓はアンダーソンと表記することもある。ファンタジーや歴史小説もいくつか書いている。ヒューゴー賞を7度、ネビュラ賞を3度など、様々な賞を受賞している。
- 1926年11月25日、ペンシルベニア州ブリストルで生まれる。誕生後まもなく一家はテキサス州に引越し、10年以上を過ごした。父が亡くなると、未亡人となった母は子供たちをつれてデンマークに帰国した。アメリカに戻ったのは第二次世界大戦勃発後で、ミネソタ州の農場に落ち着いた。
- ミネソタ大学で物理学を専攻し、1948年に卒業。しかし、物理学者になろうとはしなかった。というのも大学在学中の1947年、『アスタウンディング』誌に発表した「明日の子供たち」(F・ウォルドロップと共作)で作家デビューしていたためである。大学卒業後はフリーランスのライターとして働き始めた。長編第一作『脳波』は1951年に出版された。
- 1953年、カレン・クルーゼと結婚し、サンフランシスコのベイエリアに引っ越した。1954年に生まれた1人娘は、後にSF作家グレッグ・ベアと結婚した。後にバークレーにほど近いカリフォルニア州オリンダに家を建て、亡くなるまでそこで過ごすことになった。
- 1960年代にはヒロイック・ファンタジー作家のグループ Swordsmen and Sorcerers' Guild of America の一員としてファンタジー小説も書き、リン・カーターのアンソロジー Flashing Swords! に掲載されている。1966年、中世ヨーロッパの文化を研究・再現する団体 Society for Creative Anachronism の創設に関わった。
- 1972年、アメリカSFファンタジー作家協会の第6代会長を務めた。
- ロバート・A・ハインラインの1985年の小説『ウロボロス・サークル』の献辞にある「ポウル」はポール・アンダースンのことである。
- 癌のため一カ月間入院したのち、2001年7月31日に死去。
多作かつ「はずれのない作家」と言われる。ハードSFの書き手として知られ、相対論的効果を正面から扱った『タウ・ゼロ』は評判となった。他にはタイム・パトロールものの古典『タイム・パトロール』なども有名。作品の一部は「惑星間協調機関(The Psychotechnic League)」シリーズという独自の未来史を形成していた(日本語にはあまり訳されていない)。「リアリティーを高めるため、常に五感のうちの三つ以上に言及する」という独自の手法を持っていた。
ケルト神話北欧神話ギリシャローマ神話などで、(キリスト系の神の奇跡に拠らない)回復魔法の伝承があれば、それも参考になってる可能性はあるのかもしれない。ただその辺になると完全に他力本願です。
— 強歩する男 (@tricken) 2017年6月27日
コメント欄にて「ヒュギエイアの杯」「アスクレピオスの杖」など、治癒の神格ファミリーがいるよね、というコメントを頂きました。ギリシャ神話だとそのあたりかー。
— 強歩する男 (@tricken) 2017年6月27日
【ドルイド僧(その他古今東西のシャーマン)の治癒の魔術】【ギリシャ系の治癒の神々の加護】【キリスト教系の癒やしの技】【中世欧州における“王の手は癒しの手”】【中世修道院/修道士の「戦う衛生兵」的モチーフ】などが提案されております。
— 強歩する男 (@tricken) 2017年6月27日
こう眺めると、D&D3e以降には既に整理が終わっていた、治癒能力を持つクラス(クレリック/ロード/パラディン/ドルイド等)は地球の各伝承群とまだ対応しやすい。OD&D前後のクレリックは、まだ古代から近代までの多様な伝承が混ざったまま基本クラスになってた可能性がありそう。
— 強歩する男 (@tricken) 2017年6月27日
あ、あと同じくHAWK & MOORからHealing Spellはポール・アンダースンの著作からの影響ではないかとの記述も。 pic.twitter.com/sdZh576Fc8
— ぢぇいぢぇい(^JJ^) (@alpharalpha_jj) 2017年6月27日
①案外見過ごせないのが「ポール・アンダースンが大学を物理学専攻で卒業した、すなわち様々なエネルギーを交換可能な一つの系で扱う思考様式に慣れた人物」でもあったという事なのである。
*「体力の数値化」は「(敵の攻撃などによる)減少」を記述可能とするだけでなく「(魔法や休息による)回復」も可視化するのです。そして「現在のHP」と「最大HP」の概念の追加が可能となる。ポール・アンダースン自身の影響はともかくTRPG形成の過程でそうした思考様式そのものが次第に導入されていった事実は動かない。
- 例えば「大魔王作戦(Operation Chaos、1971年)」の舞台となるのは科学の代わりに魔法が発達したパラレルワールドの二十世紀世界だが、その世界において科学と魔法はユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の様な「相応の連続性も存在する等価の公理体系」として描かれている。
②そしてSF/ファンタジー小説の世界においては、次いで現れたラリー・ニーヴン「魔法の国が消えていく(The Magic Goes Away)シリーズ(1976年〜)」の設定こそが決定的なパラダイム・シフトを引き起こしたとも。
- とにかく魔力をエネルギー源そのものとして扱い「使い尽くすと枯渇する」なる概念を導入した辺りが最大の画期となった。
*「使い尽くすと枯渇する」部分はともかくTRPGやコンピューターRPGの世界に(HPの概念に続いて)MPの概念を加え「あらゆるパラメーターを数値化する」動きを加速化したとも。
マジックポイント (magic point) またはマジックパワー (magic power)主としてコンピュータRPGなどのゲームで使われる用語・概念。プレイヤーキャラクターが魔法などの特殊能力を使うために消費する「魔力」の量を表す数値で、一般にMPと略される。また、精神力や意志力などといったものを表現するものとなっていることも多い。類似する用語・概念としてパワーポイント (power point, PP) 、マナポイント (mana point, MP) 、スキルポイント (skill point, SP) などがある。
*実はそもそも「全ての魔法の背景に特定のエネルギー源を想定し、これをマナ(Mana)と呼ぶ」発想自体「社会学の始祖の一人」エミール・デュルケーム(Émile Durkheim、1858年〜1917年)の甥で文化人類学者だったマルセル・モース(Marcel Mauss、1872年〜1950年)の「呪術論(「社会学と人類学(Sociologie et anthropologie、1950年、邦訳1973年)」に贈与論や身体技法論と併せて所収)」までしか遡れない。しかもモースの呪術論はその贈与論や身体技法論に比べてマイナーだったからトールキンやル・グインのファンタジーなどに反映されなかったのも致し方ないところであった。- テーブルトークRPGの多くの製品でも、これとほぼ同等の概念が用いられているが用語や呼称としてマジックポイントやMPが使われることは少ない。
- 主に魔法を使うことで減算(消費)され、0になると魔法は使えなくなる。ゲームによってはヒットポイントと同じように、0になることで気絶などの状態をもたらすことになるものもある。また、強力な魔法ほど消費するMPの量は大きく、0になっていなくても残りのMPが設定された必要MPを下回っているとその魔法は使えないことが多い。『ウィザードリィ』のように、消費するMPは一定だがレベルごとに異なったMPを使わねばならないというものなどもある。
- ゲームにおける魔法は一般に強力なものである。ほとんどのゲームにおいて、武器による攻撃は(武器さえ持っていれば)ほぼノーコストで行えるのに対し、魔法は初歩的なものでも必ずMPと言うコストを消費しないと行えない場合が多く、そのコスト差の分魔法の方が強力になっているゲームが多い。例えば攻撃用の魔法であれば、通常の武器による攻撃よりも相手に与えるダメージが大きかったり、複数の敵を同時に攻撃出来るなど、何らかの形で有利な設定がなされているものである。また、戦闘で敵の動きを封じて味方を助ける、武器の威力を増す、味方を何かの害から守る、など戦闘を有利に進める特典を与える魔法もあれば、自分や仲間の傷を即座に癒す魔法などもある。MPの消費は、これらが無制限に使われてゲームの展開が平坦なつまらないものにならぬよう、魔法の使用に制限を加える意味も持っている。
- 黎明期のロールプレイングゲームにおいては、いかにこのポイントを節約してスタート地点からより遠くまで探索できるかなど、悩み楽しむのが面白さの肝であった。
- リソース(資源)運用ゲームとしてのゲーム性を進化させたテーブルトークRPG作品ではMPをメンタル(精神)・ポイントやマインド(意思)・ポイントの略だと解し、魔法だけではなく集中力を要する複雑な行為を使用するためのリソースとする方向性が見出された(MPとはまったく別にSP、PPなどを独立させたゲームも存在する)。
- ロールプレイングゲームに登場する多くの敵が行う攻撃行動はプレイヤーキャラクターのヒットポイント (HP) を消耗させる肉弾攻撃だが、リソース運用ゲームとして見た場合に最も手強いのはMPを直接消耗させてくる特殊な攻撃である。
- リソース運用ゲームとしてのロールプレイングゲームはMPの扱い方を多彩に進化させた。例えば、多くのMPを消耗する代わりに非常に大きな成果を得られるルールや、MPを全て消耗してしまうと肉体的なダメージが無くても昏睡状態に陥るなどのリアリティのあるルールの登場である。こうした工夫によって様々な個性を見せた作品が生まれた。
- テーブルトークRPGでは安全な場所を確保した上での「キャンプ」による休憩によってMPを回復するのが一般的である。黎明期のコンピュータRPGでは「キャンプ」の表現が難しかったことから、街や村の「宿屋」などの所定の施設でMPを回復するゲームが多い。この手法はキャンプよりも分かりやすく非常に多くの作品で流用されコンピュータRPGの一般的なスタイルとして定着した。アイテムなどを使って回復できるゲームでもその回復力が著しく低かったり、或いはアイテムの入手が非常に困難(非常に高価、もしくはクエストの成功や、敵を倒すことでしか入手できないなど)なケースが一般的なため、MP回復は施設を中心に行うのが効率のよいプレイスタイルと言える。
- また、ヒットポイント (HP) を消耗することでMPを得たり、魔法によって敵からMPを吸収したり、味方に分け与えるシステムのあるゲームもある。さらに「ハイドライドII」などでは、時間経過と共に少しずつ消費したMPが自然回復するコンピュータゲームらしいシステムが採用されている。
最近のコンピュータRPGでは探索途中でも回復が容易になっているゲームが主流となっており、上記のようなリソース運用ゲームとしてのロールプレイングゲーム概念は淘汰されつつある。それにより、探索の全行程におけるリソースよりも、個々の戦闘における戦略・戦術が重視されるスタイルが定着した。
- テーブルトークRPGの多くの製品でも、これとほぼ同等の概念が用いられているが用語や呼称としてマジックポイントやMPが使われることは少ない。
- さらにその運用規則を厳格に定め、これに立脚した術者同士の駆け引きを主題とした事から「ロジカル・ファンタジー」と呼ばれた。
魔法の国が消えていく - Wikipedia作中における魔法や(そのエネルギー源たる)マナの扱い。
- マナは地球上の天然資源であり、魔法を使うことで減少する。
- マナが枯渇した場所では、魔法は使えない。マナに依存して生きている生物(神、悪魔、ドラゴン、一角獣、人魚など)は、マナの枯渇した場所では死亡するか変態をとげる。魔法で作られた物体は、マナの枯渇により崩壊する。
- 隕石などの地球外から降ってきた物体にはマナが含まれている。また、殺人によっても大量のマナを得られる。
- 魔法使いは、名前を知った相手を操れる。そのため魔法使いは本名を明かさない。
最終的にマナは枯渇し、魔法使いは魔法が使えなくなり、魔法生物は死に絶える。そして(魔法に頼らない)人間の時代が始まる。
*例えば「駆け引きの面白さ」を完全に引き出したゲーミングは、むしろ数学者が全体像を再構成した「Magic The Gatharing(1993年〜)」の登場を待つしかなかった。なにしろ「マジック・ザ・ギャザリング」の面白さを支えているのは「各数値や札を特別な形で扱う札」が無数に存在する辺り。「場のMPを一瞬だけ0にする術」と「その時自分だけは影響を受けない術」の組み合わせを「打ち消し魔法」によって無効化するといった丁々発止の駆け引きが繰り返される醍醐味は既存のTRPG/コンピューターRPGには実装が難しかったのである。
マジック:ザ・ギャザリング - Wikipedia
*その一方でこうした世界観はゲーム・システムそのものというよりTRPG/コンピューターRPGの各クエストの背景として設定される物語として語られてきた。ただし全面採用してしまうと物語全体が「魔法使用文化からの最終的脱却」なる悲劇的結末に向かう事を避けられなくなり作品の商業的成功の足を引っ張る事すらある。
- マナは地球上の天然資源であり、魔法を使うことで減少する。
③かくして「情報エントロピー論的なるもの」がSF/ファンタジー/ゲームの世界においても重要な役割を果たす様になるが、ベクトルが真逆に向いた二つの説が並行して存在しているからややこしい。
*要するに「開放系」仮説と「閉鎖系」仮説が対峙している? ここに「エントロピー理論は進化論の可能性を否定し神の意志の実在を肯定する」なんて立場からの議論も絡んでくるからややこしい。
- 「無数のエネルギー格差が存在し、エネルギー交換の行われる可能性が比較的高く保たれている状態」を低エントロピー状態、「一切のエネルギー格差が消滅しあらゆる意味で均質化が達成された状態」を熱的死状態と位置付ける思考様式…エネルギー保存の法則の働きに比較的忠実なインプリメントだが、貴族主義的なゴビノー伯爵やニーチェの「距離のパトス(Pathos der Distanz)」論を肯定し「人類平等の理念」に反するという理由で思想史上は否定されてきた。
- 「世界が完璧に相応の秩序の統制下にある状態」を低エントロピー状態、「混沌が蔓延して完全に統制が失われた状態」を熱的死状態と位置付ける思考様式…その発想の根源自体は「黄金時代」「白銀時代」「青銅時代」「鉄の時代」と時代が下るにつれ人類は没落してきたとする古代ギリシャ的悲観主義史観、(蛮族の侵入により崩壊した)古代ローマ帝国の悲劇、中世的普遍史観や18世紀フランス啓蒙主義や科学的マルクス主義の自壊、(自らの認識範囲を主体的に統合しようと試みる)ロマン主義運動などに求められそうである。実際にエントロピー理論と結びつけたのは「(カオス理論導入による)完璧なシステムの崩壊が引き起こす大規模パニック」マイケル・クライトンのテクノロジー小説とも。
*ほとんどジョージ・ロメロ監督が創始したと言って良い「ゾンビ・アポカリプス物」なる分野は「(既存秩序維持の礎として)身分固定された犠牲者の怨恨」を暗喩しつつ「(そうした犠牲を払って繁栄してきた)現代文明の崩壊」を描くという意味で両方の側面を視野に入れている。どちらの仮説に従っても「世界中がゾンビだけになる=熱的死状態」なる終焉を迎える点は変わらない。
*そういえば「ブレードランナー 2049」の予告編にも同種のキーワードが散見される。現代エンターテイメント業界における重要トレンドの一つ?
④さらにややこしい事に、実際に「情報エントロピー論」と呼ばれる理論体型は内容が全く異なるとされる。
*上掲の「世界が完璧に相応の秩序の統制下にある状態」を低エントロピー状態、「混沌が蔓延して完全に統制が失われた状態」を熱的死状態と位置付ける思考様式の起源とも。
情報理論の概念で、あるできごと(事象)が起きた際、それがどれほど起こりにくいかを表す尺度である。ありふれたできごと(たとえば「風の音」)が起こったことを知ってもそれはたいした「情報」にはならないが、逆に珍しいできごと(たとえば「曲の演奏」)が起これば、それはより多くの「情報」を含んでいると考えられる。情報量はそのできごとが本質的にどの程度の情報を持つかの尺度であるとみなすこともできる。常に非負の値または無限大を取る。
- 事象が起こる確率に対し、 その事象が起こった事を知らされたとき受け取る(選択)情報量に目を向ける。起こりにくい事象(=生起確率が低い事象)の情報量ほど、値が大きい。
- 情報量は本来無次元の量であるが、一般に「情報量が確率の逆数の桁数の期待値となる対数式」として扱い、その底として何を用いたかによって値(桁数)が異なり、単位を付けて区別される。例えば対数の底として2、e、10を選んだときの情報量の単位は、それぞれビット(bit)、ナット(nat)、ディット(dit)となる。
- それぞれのできごとの情報量だけでなく、それらのできごとの情報量の平均値も情報量と呼ぶ。両者を区別する場合には、前者を選択情報量(自己エントロピーとも)、後者を平均情報量(エントロピーとも)と呼ぶ。
- AとBが独立な事象の場合、「AもBも起こる」という事象の情報量は、Aの情報量とBの情報量の和である(情報量の加法性)。
*例えば、52枚のトランプから無作為に1枚を取り出すという試行を考える。情報エントロピー理論において「取り出したカードはハートの4である」という事象の情報量は、前述の定義からlog52となる。そして「取り出したカードのスートはハートである」という事象と「取り出したカードの数字は4である」という事象の二つを考えると、前者の情報量はlog4、後者はlog13となる。この両者の和はlog4 + log13 = log(4×13) = log52 となり、「取り出したカードはハートの4である」という事象の情報量と等しい。これは直感的要請に合致する。なおここでいう「情報」とは、あくまでそのできごとの起こりにくさ(確率)だけによって決まる数学的な量でしかなく、個人・社会における有用性とは無関係である。たとえば「自分が宝くじに当たった」と「見知らぬAさんが宝くじに当たった」は、前者の方が有用な情報に見えるが、両者の情報量は全く同じである(宝くじが当たる確率は所与条件一定のもとでは誰でも同じであるため)。
情報科学の分野にもエントロピーという用語が出てくる。これは情報量の大きさ(情報の確かさ)を表すために導入された概念である。そもそもは統計力学とは無関係のアイデアだったのだが、統計力学に出てくるエントロピーの概念に似ていることに気付いて同じ名前を採用することになった。物理学のエントロピーと区別するために「情報エントロピー」と呼ばれることがある。
なぜそのような異分野の概念をここで説明しようとしているかというと、最近、この「情報」というものが物理学と深い関わりを持とうとしてきているような気がするからである。ブラックホールについてホーキングが新しい理論を打ち立て、それに関係して、ブラックホールの表面積がエントロピーを表しているだの、ブラックホールに吸い込まれた物質の情報は永久に失われるのかどうかだのといった問題が語られるようになってきた。どうやら最先端の研究では、熱力学的なエントロピーと情報のエントロピーとが同列に語られているようなのである。
ブラックホールの熱力学 - Wikipedia
ホログラフィック原理 - Wikipedia
実はそれ以前から、情報エントロピーと熱力学的エントロピーについて、「それらは区別する必要のない全く同じものだ」と考える意見と、「形式が同じというだけの全く別概念だ」と考える意見とが存在している。
*もしかしたら情報エントロピー理論こそが上掲の「世界が完璧に相応の秩序の統制下にある状態」を低エントロピー状態、「混沌が蔓延して完全に統制が失われた状態」を熱的死状態と位置付ける思考様式の大源流なのかもしれないが、現段階では本当にそうとまでは断言し切れない。ただしそもそも「サイコロを振ると確実に1から6までの出目が離散的に保証されているのが低エントロピー状態」「"直前の出目が1なら3、6なら2となる"とか"気分次第で2か3"といった付帯情報が増えれば増えるほど高エントロピー状態」とする発想自体がその登場以前の時代まで遡れるか疑問という側面も。
- 情報エントロピー理論においては情報エントロピーが大きいほど情報量が少なくなる。すなわち状態Sが多様であるほど表現できる状態の数Wとなるが、一般の事象にあってはWが大きいほど、それは正しい答えにたどり着くための選択肢の幅が広くて、知識の曖昧さが大きい事を意味する。すなわちSの大きさは情報が足りない状態を示しており、情報の獲得によってその値は下がっていくのである。そしてWが 1 になったとき、つまりそれはSが 0 になったときということだが、それは選択すべき答が唯一つに確定した「情報が十分にある状態」となる。
*以前「原則的に逐次的に遂行される事を遂行した(それ自体にはあらゆる未来に起こり得る可能性が記述された)プログラム原文」と「これが情報としてCPUに与えられて処理(Action)が生じ、CPUが然るべき手続きを経て接続装置(Device)への働きかけを行い、得られたフィードバック情報がCPUに戻されて新たな処理(Action)を産む」と考える伝統的思考様式について述べた。密教やスンニ派古典学やスコラ学などが扱ってきたいわゆる「言語神学」の世界がこれに該当する。
*コンピューター動作の基本原理でもあり、概ね「プログラム原文」が「原則的に逐次的に遂行される事を想定する」のはその原初形態が(それ自体はシングルタスクしか遂行し得ない)単一の割り込み待ちメインループを想定するからである。ただしこの「割り込み待ちループ」はある種のコールバック構文によってどんどん増やしていく事が可能で、マルチタスクや複数のCPUを同時制御する並列計算(parallel computing)はそういう形で実現されてきたのである。
*そもそもこの世界観においては各CPUにとって他のCPU全てが接続装置(Device)と映る(より正確には、各CPUの視野内にあるのは通信インターフェイスのみ)。それ以外に視野内にあるのは情報を収納したり取り出したりするレジスタ/メモリ/HDD等のストレージ、周期的に時を刻む水晶発振器や逆に法則性を否定した乱数発生装置、さらには(A/D(アナログ/デジタル)変換やD/A変換によってブラックボックス化された)量子コンピューターの様な全く動作原理の異なる処理体系となる。
*そして実は「情報エントロピー論」は、ここでいう「通信インターフェイス」を成立させる為に発明された理論だった。アナログ情報は送信先が遠距離であればあるほど宿命的に致命的な形で劣化していくが、20世紀後半に入ると「転送内容のデジタル化および符号化と復号化に際しての工夫」によってこの問題は超克される。要するに、ここでいう「情報エントロピー理論」は「サイバネティック制御工学=線形統計学に立脚するフィードバック理論」同様にパケット通信に立脚するTCP/IPプロトコルなどを基礎付けた理論でもあるという次第。
- 必ずしもSを 0 に持って行くような問題ばかりではなく、Sのところへ情報Iを注入することで曖昧さはどの程度にまで減るか、ということも論じる。情報エントロピーの減少分が、情報量を意味しているというわけである。
*フーリエ変換においては理論上「検出された波形」を除去した残りに再帰的に同様の措置を施し続ける。そして、その過程が進めば進むほど「検出された波形を合成した波形」は元波形に限りなく近づいていく。まさしく「シンセサイザーの原音再現性」そのもの。
どちらのエントロピーも、状態の多さ、曖昧さ、定まらなさを表しているようだ。統計力学におけるエントロピーというのは、マクロな意味での状態を一つに定めた時、それを実現するためのミクロな状態がどれだけ多様性に富んでいるかを表していると言える。つまり、その多数ある状態の「どれでも良さ」「選択の幅の広さ」を表しているわけだ。
では各状態の出現確率が異なるとした時のことも考えてみよう。正準集団や大正準集団などを考えた時がそうだったが、その時のエントロピーは今回出てきた平均エントロピーと同じ形になったのだった。ここから何が読み取れるだろう。
ある微視的状態に注目すると、エントロピーが大きいほど、その状態は選ばれにくい。「選ばれにくい」というのは、その状態が何ら特別ではなくて、代わりはいくらでもいる…他のどれでもいいということだ。各微視的状態の出現確率は違っているので、「どれでも良さ」には差がある。エントロピーは、その「どれでも良さ」の平均値を表しているというわけだ。
*この問題はおそらく「個別的なるもの」に対するリージョナリズムやナショナリズムの執着と、グローバリズムにおけるそれらへの無関心と深く関わってくる。情報を確定的に扱うには「抽象化」「モデル化」が不可欠だが、実際のそれは絶えず「現実問題解決手段としての有用性」なる天秤に乗せられ続けているのである。
どうやらこの問題「コンピューターRPG/TRPGのシステム推移」「キャラクター関係論の推移」「世界観そのものの推移」に分けて改めて全体像を見直す必要がありそうです。いずれにせよ情報エントロピー論的に見て「世代を経るごとに継承される情報が減少していく現象」そのものが良い方向に向かっているとは到底思えません。どうしてそうなったかについて、これからの投稿で解き明かしていく必要がありそうです。