諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】最近の「鳩山由紀夫の勝利宣言」について

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【速報】沖縄元知事の葬儀に参列した安倍総理にキチガイ女が罵声浴びせた模様 [無断転載禁止]©2ch.net

*その一方でリベラル層はまた、葬儀業に「死の穢れを身近に持ち込む絶対悪」のレッテルを貼り、斎場建設反対運動や近所の葬儀社の追放運動を繰り広げたり、深夜霊柩車を襲撃して傷だらけにして快哉の声を上げる「正義の人々」に隠れ蓑として利用されてもいる。まぁ確かに「(健全な若者こそが社会で最も尊ばれるべきという正義感から)点字ブロックを占拠する形でデモを遂行したり、多目的トイレに悪戯書きをする憤青達」同様に「(伝統を重んじる)保守主義者」の「敵の敵」というポジションだから居心地も悪くなさそう。

*思想の左右に関わらず、人は「これは差別でもイジメでもない。正当な理由に基づく正義の優先」と自分を説得する事に成功した時点で最後の一線を超える。文化革命当時、毛沢東紅衛兵下放を決断したのも、彼らが「地主社会を遺伝子的に終わらせる為には彼らの家系と配偶者一族全てを根絶やしにしなければならない」なる似非優生主義に熱狂し、実際に私刑事件を起こし始めたからだという。そして毛沢東は自らを頂点に頂く権威主義体制下における若者のこの種の暴走が(最終的には確実に毛沢東ら旧世代に向けられる筈の)鬱積した階級的憎悪の代償行為に過ぎない事を的確に見抜いていたのだという。

*この投稿自体はデマで、逆サイドからの反撃が壮絶に展開された。こうして一方的に相手側の絶対悪性を強調する「憎悪の連鎖」は勝手に加速していく。

*「想豫された正義」と「現実の正義の遂行過程」の乖離はギュンター・グラスブリキの太鼓(原作1959年、映画化1979年)」でも活写されている。

*そういえばこの「ブリキの太鼓」で「ドイツにも鰻料理がある」と知ったのである。それも割と最低な形で。「大海戦のあった年の翌年の鰻はプリプリに太ってる」。

この実例を目の当たりにしても「党争における勝利を全てに優先する態度こそが(全ての伝統的価値観と「諸勢力の利害の慎重な擦り合わせによって斬新的発展を遂げる」政策政治を急進主義的ニヒリズムによって破壊し尽くす事に快感を覚える)ジャコバン派恐怖政治やナチスの様な権威主義的体制の台頭を許してしまう」現実の構図が認識出来ない様なら人としてどうかしてる?

そういえば「国民が野党に期待するのは政府閣僚の首を幾つ落とせるか」みたいな発言もありましたね。政策政治を期待する人間は、もうそれだけで非国民という価値観?

政治とは最終的に「個別的なるものそれぞれへの執着心」の勢力的均衡たるべきで、それが議会制民主主義の本質なのかもしれません。