諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「我々のだけは差別でなく絶対正義の優先に過ぎない」?

可愛くラッピングしたらみんな飛びつくんだよ?

f:id:ochimusha01:20170711211122j:plain

 最近はこういう「思わぬ形でメディア・リテラテシーを試す」のが流行してる?

レミングの集団自殺神話 第一章 レミングの集団自殺について (Introduction)

レミングの集団自殺神話 2章殺戮のディズニー Disney's Lemming Snuff Film

人間界の認識は日々改められていきます。

レミング(Lemming)

f:id:ochimusha01:20170726054441j:plain
哺乳綱ネズミ目キヌゲネズミ科ハタネズミ亜科レミング族の動物の総称。和名はタビネズミ(旅鼠)。北極及び北極近辺のツンドラ生物群系に生息する。天敵はホッキョクギツネ、シロフクロウ、オコジョなど。

  • 3~4年周期で個体数が急激に増減することが知られている。大増殖の原因については良くわかっていないが、その後の激減については、餌の不足や天敵による捕食が原因であると考えられている。 個体数が大増加すると、集団移住を始めると考えられている。集団移住についても、どういうきっかけで始めるか等、不明な点が多い。
    *一説には、大増殖によって個体ごとの縄張りが重なり合い、それによるストレスがきっかけとなるとも。

  • かなり長い間「集団自殺をする」と考えられていた。スカンディナビアでは「集団で海に飛び込む」という伝説が古くから知られ、また16世紀頃までは「雲の中から自然発生する」とも考えられており、1555年のスウェーデンの文献に、「雲から生まれる」ことを示唆する木版画が描かれている。「集団自殺をする」とする説は近年まで信じられており、現在でも誤解している人々は多い。

  • 実際には、集団移住を行っている際に一部の個体が海に落ちて溺れ死ぬことはあるが、これは自殺ではなく事故であり、すべての個体が海で溺れ死ぬことはない。また、レミングは泳ぎがうまく、集団移住の際に川を渡ることは良くある。

集団自殺する」説が流布した原因としては、以下のことが考えられている。

  • 周期的に大増殖と激減を繰り返しており、集団移住の後、激減することから誤解された。

  • 集団で川を渡ったり、崖から海に落ちる個体があることから誤解された。

  • 生物は種の保存のために行動するという俗説、1960年代に提唱された個体数調節理論とレミングの逸話の合致。

  • 1958年のウォルト・ディズニーによるドキュメンタリー映画『白い荒野』(原題『White Wilderness』)にレミングが崖から落ちるシーンや、溺れ死んだ大量のレミングのシーンがあるが、これはカナダ放送協会のプロデューサー、Brian Valleeの1983年の調査によって意図的に崖へと追い詰め海へと飛び込ませたという事実が明らかになっている。

  • この他、1991年のパズルゲームレミングス』のヒットも一因である、と言われている。

なおサバクトビバッタやイワシの様に繁殖力が著しく高い昆虫類や群集性魚類においても大発生と減少を繰り返す習性が見て取れる。

史上稀に見る大量殺戮合戦となった第一次世界大戦(1914年〜1918年)を経験したショックからフロイトが考案した「タナトス(Thanatos)理論(人間の精神は先天的に本質的に死の欲動を内包し、これがしばしば攻撃や自己破壊への傾倒を産むとする考え方)」にインスパイアを与えたイメージの一つでもあった訳ですが…

例えば最近の「完成型」がこれ。

 *こうした考え方の延長戦上に「中華人民共和国北朝鮮の方が欧米や日本の様な自称「自由主義圏」より遥かに自由を謳歌している。自らの信じる自由を思う存分遂行する自由だ!!」なる発想が登場する。

*「国民の総意」の形成は簡単。ネット上において「独立を支持する沖縄県民はたった4%しかいないというが、残り96%を粛清すればたちまちその数字は100%となり沖縄県民の総意となる。多数決なんてそんな曖昧な指針に過ぎない」なんて意見も耳にした事がある。

*要するにそれはルイ14世が謳歌した絶対王政の自由。スターリンの自由。大江健三郎がとある対談において読者から「貴方は既にその存在が権威であり、ただ存在するだけで反対意見を自粛させるその権威主義的雰囲気を生み出している」と指摘された時、「日本に私ほどの反権力者は存在しないのに、その言い草は何だ」と徹底反論して完全に沈黙させる事に成功した事を自慢していた。まさしく「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマそのもの。現実に存在するのは常に「新しい流儀の導入を拒絶し続ける老害の我儘のみ」ともいえあれるが、まず当の本人が「自分自身の変化」を意識する事はない。

*「当事者が「新しい流儀の導入を拒絶し続ける老害の我儘」を自覚する事はまずない」…「フェデリコ・フェリーニのカサノヴァ(Il Casanova di Federico Fellini、1976年)」はその情景の完全映像化に成功した極めて稀な例とも。「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを世界に改めて投げ掛けたのもパゾリーニ監督の遺作「ソドムの市(Salò o le 120 giornate di Sodoma、1975年)」だったし(ムッソリーニチネチッタ建設とマーシャル・プランに基づくその再利用に端を発する)当時のイタリア映画の到達点は今日なお戦慄に値する。

「そもそも、みんな何と戦ってるのか」?

素人の考えた「狂犬病対策」

恐怖を煽る「ヒアリ商売」

*実際に「日本で最初にヒアリに噛まれた港湾地域のコンテナ作業員」は「暑いから袖をまくってとそこを噛まれるぞ」と半ば自嘲的に警告している。現実は案外そんなもの。しかしそういう「警告された側も途方にくれるしかない、しょうもない現実的な情報」がTVを流れる事はない。「(実際にヒアリに噛まれる可能性のある職場で働いている人ほど現実的情報に飢えてない一般人には)面白くない」からである。

誰が強制する訳でもない「自主規制」の壁

「バイアス」が招く悲劇

自分の差別だけは「例外」

韓国には「人がすれば(誰もが絶対に許さない)不倫、自分がすれば(誰もが認めざるを得ない)甘いロマンス」なんて慣用句があるそうです。ここで思い出すべきが福沢諭吉いうところの「政痴」の概念とも。

 そして「政痴」と「自分の差別だけは例外」意識の併せ技も登場。

福沢諭吉はこうした「政痴」の起源を「江戸時代の御家騒動」に求めます。要するに上古の氏姓制度の時代からずっと、中央政権がどんな厳罰をもって対処しても懲りない「立身出世の可能性を夢見て党争に熱狂する人々」が存在し続けてきたなる認識が明治時代には確固として存在していた様なのです。

最近、福沢諭吉のいう「政痴」の概念をフロイトの 「タナトス理論」と結びつけて考える機会が増えました。そういえば当時のドイツも「党争が全てとなる展開」がヒトラー台頭を産んでる訳で、その意味においてなら現代日本が「ナチス台頭期に似てきた」なる表現は的を得ているのかもしれません。

実際「1930年代ドイツで何があったか」理解する助けになってたりして。

f:id:ochimusha01:20170730000646j:plain

 

 

当時のドイツがルビコン川を渡ったのはナチス台頭の遥か以前、すなわち政治が「自分の自由は他人の自由より優先される価値がある」と主張する人々の手段を選ばぬ党争の場に成り果ててしまった段階だったという次第。

*これ実はPixar映画「カールじいさんの空飛ぶ家(2009年)」の主題でもあったのである。偏屈ながら次第に人間性を回復していく「カール爺さん」と、物語中において悲壮な最期を遂げる「過去の英雄」チャールズ・F・マンツを分けたのは一体何だったのか…

欧米(特にアメリカ)において「ロマン主義的英雄」はハーマン・メルヴィル「白鯨(Moby-Dick; or, The Whale、1851年)」における「(復讐に熱狂するあまり何の良心の呵責もなく船員全員を道連れにする)エイハブ船長」の様な存在がイメージされ、これがしばしば「新世紀エヴァンゲリオン(TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」の碇ゲンドウ(さらには、そのモデルとなった側面もある宮崎駿監督や庵野秀明監督の性格)と重ねられ「巻き込まれる側のアンビヴァレントな感情」と対比されてきました。こうした感情的ジレンマの伝統的欠如こそが今日本を追い詰めているとも。

果てさて私達はどちらに向けて漂流しているんでしょうか?