諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

続・ナショナリズムの歴史外伝② グローバリゼーションの真の怖さは最終的影響の不可視性?

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ある瞬間、ある一時代を切り取って、文化を論じるのは危険なのである。したがって、継続的に現地での価値観の変化に気をつけておくことが異文化を理解する上で欠かせない。

文化を「共有された行動規範」と端的に表現するのであれば、確かに外国の文化は異文化である。しかし、さらに視点を広げ、多様な価値観を前提とすれば、企業の内部においても各組織が独自の文化を保有していると表現できる。

価値の多様性を訴える社会的動きが、近年特に注目されるようになっている。その点、長年にわたり新卒一括採用という方式で男性中心に組成されてきたわが国の企業組織のほうが、多様性を排除しているという意味で特別な存在なのかもしれない。このような特徴を持つ組織がそもそも多様性を受け入れることは難しい。例えば、都市銀行が合併してメガバンクとなる場合、同じ業種で同じ業務でありながら用語が違うという。仕事をスムーズにするためには、共通の用語集を作らないと行内でのコミュニケーションが成立しないというほど、独自の言語、文化の中で閉じているのである。

他方、日常的に多様性を当然のこととして動いている組織にとっては、異文化の理解はそれほど難しくない。相手は自分とは違う視点、考え方を持っていることが前提で、業務が遂行されることになるので、日常的に丁寧なコミュニケーションが必要となるからだ。

これはこれで相応に釣り合い(Balance)のとれた思考様式。それに比べると以下の様な発想は極端過ぎるとも見て取れるのですが…

 全てが数値化/可視化され「社会を脅かす脅威」が「数値化/可視化されてない領域からの思わぬ影響」や「数値化/可視化のアルゴリズム自体に潜む誤謬」に集約していく時代にあって、既存社会の在り方をそれに必要な配慮を欠く形で変革しようとするイデオロギーが危険視される展開を迎える事自体には、ある意味歴史的必然が伴う様です。

そして、ここでいう「既存社会の在り方をそれに必要な配慮を欠く形で変革しようとするイデオロギー」は(全てを単一基準に基づいて適正化しようとする)進歩主義と(伝統的「個別的なるものへの執着心」の延長線上において、そうした動きに掣肘を加えようとする)保守主義の双方に跨る概念だったりするから厄介なのです。

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  • そもそもの発端は科学的実証主義の祖型、すなわちイタリア・ルネサンス期における人体解剖学や地動説の発展を背景にその中心地だったボローニャ大学パドヴァ大学で台頭した新アレストテレス主義哲学、すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」なる思考様式に辿り着く。

    *その発想のさらなる起源は欧州の大学設立期、すなわち12世紀ルネサンス時代にイスラム文化圏から流入したアラビア語/ヘブライ語文献の翻訳に邁進したパリ大学パドヴァ大学を席巻した「ラテン・アヴェロエス主義」にまで遡る。
    ラテン・アヴェロエス主義(Latin Averroism)

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    すなわち真の起源は(アリストテレス文献の重要な注釈者にして非ユークリッド幾何学の登場を予言した)イブン・ルシュド(1126年〜1198年)を輩出した西方アラビア哲学でもある訳だが、皮肉にもイベリア半島南部からマグリブチュニジア以西のアフリカ北岸)にかけて栄えたこの学統はイスラム文化圏本体にフィードバックされる事なく途絶を余儀なくされてしまい、むしろキリスト教系修道会のスコラ学に忠実に継承される展開を迎えてしまう。

    *ただしこの系譜の延長線上に現れた科学実証主義は、その手続き上の厳格さを担保し続ける為、問題解決の手段として独特の限界を有する事になる。すなわち「形而上学の死亡宣言」ともいわれるヴィントゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」宣言がそれ。
    「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

  • 18世紀に入ると「英国王領ハノーファー(1714年〜1837年)」が思わぬ存在感を発揮した。すなわちリスボン地震(1755年)の影響を受けたエドモンド・バーク「崇高と美の観念の起源(1757)」にインスパイアされたイマヌエル・カント(1724年〜1804年)が「神の領域(物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)))」を「人間に認識可能な範囲(物(独Ding、英Thing))」の外側に置くカント哲学を創始したのである。
    *「神の領域を人間に認識可能な範囲外に置く態度」…その思考様式をニヒリズムの一種としか感じられなかったヘーゲルは「民族精神(Volksgeist)とも時代精神Zeitgeist)とも表現されてきた絶対精神(Absoluter Geist)への無制限帰依だけが人間に真の幸福をもたらす」とするヘーゲル哲学を樹立。
    ハノーファー王国 - Wikipedia

    ピクチャレスク | 現代美術用語辞典ver.2.0

    「ピクチャレスク」はイタリア語の「ピットレスコpittoresco」を起源とするが、この語が美的範疇として特別な意味をもつようになったのは18世紀のことである。1782年に刊行されたウィリアム・ギルピンのピクチャレスクに関する著作がとりわけ重要であるが、こうした美的範疇が成立するに至った背景としてはとくに以下の2点が挙げられる。(1)「美」と「崇高」という美的範疇の体系化。これは当時イギリスで大流行したエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起源』(1757)に起因するものであり、ピクチャレスクという美的範疇はしばしば「美」と「崇高」というこの両者との相関関係において論じられた。(2)グランド・ツアーをはじめとする「観光」の普及。ピクチャレスクは、アルプス山脈に代表される具体的な景観との結びつきのなかで経験的に練り上げられていった概念である。上記のギルピンの著書もその例外ではなく、同書はワイ川と南ウェールズでの彼自身の経験にもとづく実践的な著作として執筆された。

    *「この過激思想」…元来の意味合いにおける保守主義的思考様式は伝統的に「国王とその寵臣に対する権力の集中」と「逆に大貴族連合が自らの伝統的既得権益を死守する為に王権を制限する動き」の双方をアンビバレント的に宿してきた。その結果が「フランス絶対王政と英国立憲君主主義間における正義構成力を巡る相互批判」なる伝統的論争を産んだとも。

    *しかしながらドイツ統一を強く渇望するヘーゲルら当時の有識者はあえて後者を切り捨て(後に大統領内閣制時代のヴァイマル共和制やナチス・ドイツが立脚する事になる)全体主義イデオロギーを準備する。とはいえまだまだ「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」が色濃く残る当時のハプスブルグ君主国の諸侯にそれを実践に移すだけの器量は存在せず、ドイツ統一は「魔法使いの弟子」とも揶揄されるプロイセン宰相ビスマルクの登場を待たざるを得なかった。その彼にせよヘーゲル哲学の純粋な実践者だったとは言い難い(イタリア王国を独立に導いたカブールやロシア革命ボルシェビキ独裁に帰結させたレーニン同様、何よりもまず彼は理論より現実への対応を優先する冷徹な政治家だったのだ)。皮肉にもそれに本気で取り組んで一定の成果を納めたのは大日本帝国軍国主義に傾倒していった時代の京都大学や文部省だったという次第。要するにドイツには当時(下手すればナチス台頭期ですら)「国家の要請には最優先で応じる用意があるという点で均質性が保たれた国民」など存在しなかったのに対し(戦国時代を経た)日本には(下手をしたら江戸幕藩体制期においてすら)自然にそう振る舞う臣民が存在したのでそういう展開を迎えた次第。

  • その一方で19世紀後半のアメリカにおいては「神は必ず問題解決の手段を人間の認識範囲に用意しておいて下さる」なる敬虔な信念に立脚した「プラグマティズムpragmatism米国実用主義」が台頭。これが皮肉にも神の存在自体を全否定しかねない楽観性を特徴とする「科学はあらゆる問題を解決可能である」なる「科学主義(Scientism)」を準備する。
    *ここで我々は本来の科学実証主義がヴィントゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」宣言に立脚する事を思い出さねばならない。その意味合いにおいて「科学主義」は科学実証主義を科学実証主義とする立脚点より逸脱して疑似/似非科学の領域に足を踏み入れる展開を迎えるのである。

  • 第一次世界大戦において「後進国」側が破れ、帝政ロシアもハプスブルグ君主国もオスマン帝国も消滅したが、期待通りの「科学主義(Scientism)」全盛時代は訪れなかった。代わりに国家間の競争が全てとなった「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」を経て資本主義圏には民間企業が国民総動員の概念を継承した「産業至上主義時代(1960年代〜1990年代)」が訪れたが、共産主義圏においては「科学的マルクス主義が主導する高度成長」なる共同幻想が破れてしまう。その結果有識者の間で「誰もが何らかの形で先天的欠陥品たる人間に代わって万能の人口知能が支配する人道的体制への移行論」と「人工知能や異星人といった絶対他者に人間らしい振る舞いを求める方が無理とする反ヘゲモニー」が鋭く対峙する一方で庶民はソ連崩壊(1991年12月)まで「(誰もが平等に貧しければ貧困に不満を抱く事もない)ブレジネフ書記長のユーフォリア」の甘い夢に浸り続ける展開を迎える。

    ブレジネフ政権とソ連の停滞

    ブレジネフ政権は18年の長期に及び、激動のソ連史の中でも「安定」した時代であったが、その反面、共産党官僚による支配はますます官僚的になり、人事は停滞して「老人支配」と言われるようになった(ブレジネフ政権末期の1981年の政治局員の平均年齢は69歳だった)。

    そのような中で、革命後に成長した層は活動の場は奪われ、社会主義建設という同志的連帯感や社会への参画意識は次第に薄れていった。当時西側諸国は技術革新時代を迎えていたがソ連の立ち後れが目立ち初め、何よりも経済成長が停滞し、市民生活も閉塞感に覆われるようになった。

    そのような中で一部の党高級官僚(ノーメンクラツーラという)は別荘を持つなどの経済的に恵まれた地位を縁故的に維持しており、特権階級化した。

  • 一般に左翼陣営の本格的凋落は日本においては1970年代後半における「新左翼陣営と旧左翼陣営の大同同盟」に端を発するとされる。各勢力間のイデオロギー共有が不可能な烏合の衆は外敵を設定してそれを攻撃し続ける事でしか「烏合の衆の集団の和」は保ち得ない。まさにナチス。まさに大日本帝国軍国主義。1980年代における「ナチ曽根降ろし運動」から、今日の「反安倍運動」に至るまで一貫して見られる動向。
    *正直いって私はこれをイデオロギー(Ideologie)の一種と認める妥協に到底耐えられない。

  • そして資本主義圏におけるサイバネティクス技術の加速度的発見を背景として熱力学第二法則に対する二つの発想が生まれる。一つは「エントロピー状態=エネルギーが様々な形で偏在し、その状態交換(運動)が盛んに行われる可能性を秘めた空間」「エントロピー状態=エネルギーが空間全体に均質に偏在し、もはや状態交換(運動)が行われる余地がなくなった熱的死状態」とする物理学上の規定に忠実な伝統的定義。もう一つは「マックスウェルの悪魔」論に端を発っする「エントロピー状態=通信が成立可能な閾値までノイズ除去が行われた秩序立った状態」「エントロピー状態=ノイズが通信を可能とする閾値を凌駕した無秩序状態」と規定する情報エントロピー理論。そして後者こそが「(他人の自由の一切を嫌い)全てを法律の制定などによって自らの統制化に置こうとする人道主義リベラリズム」を準備する展開に。
    *「(他人の自由の一切を嫌い)全てを法律の制定などによって自らの統制化に置こうとする人道主義リベラリズム」…まさしくパゾリーニ監督が遺作「ソドムの市(Salò o le 120 giornate di Sodoma、1975年)」で提唱した「(自らの自由権使にのみ執着し、それを制限する他人の自由権の一切を嫌う)究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマそのもの。

実際問題として「社会を脅かす脅威が数値化/可視化されてない領域からの思わぬ影響や数値化/可視化のアルゴリズム自体に潜む誤謬に集約していく時代」にあっては「進歩主義」も「保守主義」も究極的にはノイズの一種に過ぎないのかもしれません。

一方、釣り合い(Balance)感覚を重視する英国流保守主義は、それぞれの個人の是非でなく「彼らの個々の衝突が進歩に適切な時空間配分を生み出す」点にこそ注目するのです。まさしく「(ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない)時効の憲法(prescriptive Constitution)」を提唱した「保守主義の父エドモンド・バークや「フランス啓蒙主義の完成者」とされる事もあるコンドルセ伯爵の衣鉢を継いで「古典的自由主義の完成者」となったジョン・スチュワート・ミルを生んだ国。英国経済の担い手が「伝統的に毛織物産業に従事してきた地方領主」や「カリブ海の砂糖農園の不在地主」から「機械式工場制による綿織物の大量生産に従事する新興産業階層」へと推移する際においての議会を通じての法整備に四半世紀を費やした国。

要するに焦点は「最終的影響の不可視性」と正面から向き合い「今、適切なタイミングで適切な措置を遂行出来るのは誰か?」という話。しかも実際にはビスマルクやレーニンの様な「自らのイデオロギー的整合性になど一切拘泥せず、その時々に応じて必要とされる処方箋を黙々と処方し続ける」政治家タイプが最終的勝利を飾る事が多いという現実。果てさて私達はどちらにむけて漂流しているんでしょうか?