諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ハチ「砂漠の惑星」が示唆する2010年代後半のサバイバル術② 「象徴主義」なる前時代の遺産を超えて

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「十年に一人の天才」イケメンシンガーソングライター兼イラストレーターとして大人気のハチ/米津玄師…

さらには「不協和音のカレー職人」なんて二つ名も持ってる様です。

音楽が焼きまわしだのなんだの言っているやつは普通の音階、リズム、メロディに飽きてきているんだと思う。

彼はそこをぶち抜いた。

不協和音というのは気持ち悪いか気持ちいいか紙一重だ。音楽を作っている人間ならわかる話だが、使うのがとっても難しい。あまりにアクが強すぎて、ヘタに使うと楽曲が壊れる。

ゴーゴー幽霊船

あまりにナチュラルに不協和音をぶち込んでいるので、音楽をやっていない人は気づかない人もいるんじゃないだろうか。

何の記事に書いてあったか思い出せなくて引用元が出せないのが心苦しいが、『美しいものは汚したい』という旨の発言をしていたのを覚えている。

彼は意識的に不協和音を駆使して美しい楽曲を汚してきている。本当に美しいものって汚れているんじゃないだろうか。

そして変態フレーズだ。

ゴーゴー幽霊船をセクションごとに見ていく。ギターだけに限らず、変態フレーズ盛りだくさんである。

イントロ、左から聴こえる何やら奇妙な声らしきもの。幽霊を意識しているんだろうか。すごいセンスだ。

Aメロ、右のギター奇妙な位置のハーモニクス出しまくり。キンキン、とかカンカンとか聴こえるやつだ。

裏ではリバースがかかった謎の音が入っている、この音が揺れているので不協和音っぽく聴こえるのかもしれない。

女の子がテレビ君をバールのようなもので殴った後、右のギターがぶっ壊れてる、リズムも無視でぶっ壊れてる。芸が細かい。

そして何事もなかったかのようにしれっと戻ってくるあたりがこの楽曲のコミカルさを増幅させているように感じる。

サビは解放感を出すため変態フレーズを抑え気味にしている。謎の犬のような音がきになってしかたない。

何がすごいかって、破綻しないように片方が変態フレーズを弾いているときは、もう片方はカッチリ弾いている。

Vivi

この楽曲のイントロも不協和音に聴こえる。私が今傍らに置いているギターで確かめたところ、実は音が外れているわけではない。『コーラス』という音に揺らぎを加えるエフェクターをきつめにかけて不協和音感を出している。

楽曲としてギリギリのバランスを保っている。彼は逸材だ。

何が何だか訳が分かりませんが、実はむしろ逆にその「あり得ない理不尽さ」にこそ長大な歴史が存在したりするというのが今回の投稿の主眼。

タナトス(Thanatos、死の誘惑)理論の根底を為す「(一旦目撃すると、目撃者を2度とそれから目を離せななくなる神経症的恐怖に追いやる)不気味なもの」の発見者としてシグムント・フロイトから絶賛されたE.T.A.ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, 1776年〜1822年)は象徴主義の歴史において不動の位置を占める。
*その根底を為すのは「天上的なる神学的予定調和」を断固として拒絶し抜く「(数学や音楽理論が演繹的に導出する様な)計算されたもの(Das Gemmessene)」や「(芸術家をインスピレーションによって導く)切り裂く様なアイロニー(Schneidende Ironie)」で、それは時として人を「決して贖う事の出来ない凄惨な犯罪」に誘導するという。
「絶望的イロニー」とロマン主義的芸術観

しばしば日本のラノベ中二病の大源流に位置付けられる上遠野浩平ブギーポップは笑わない(1998年)」。両者を繋ぐのは「主人公」が口笛で奏でる「ニュルンベルクのマイスタージンガー(Die Meistersinger von Nürnberg、1868年初演)」とも。

1850年代にはマルキ・ド・サドエドガー・アラン・ポーを研究した「近代詩の父」ヴォードレールが「人間を感動させるのは言葉とその体系が想起させるイメージ」とする象徴主義の基礎を築いた。

以降、統計学や電磁波研究や細菌学や(人間の無意識を扱う)精神分析学などが発展し19世紀末までに「人間の認識対象とされる不可視領域」が急拡大を遂げ続ける。

産業革命導入による大量消費・大量生産の時代の到来は「消費の主体を王侯貴族や聖職者からブルジョワ階層や一般庶民に推移させる」一大変革を成し遂げた。

そしてその動きは概ね悲劇的結末に終わる芸術家の陰惨な内的世界(バッドエンドの世界)をも娯楽として消費せんとする動き、すなわち観劇を拍手喝采で締め括りたがる観客心理に譲歩した客観的世界(ハッピーエンドの世界)への強制移植を引き起こしたのである。

既にお気づきでしょうか?  先に述べた「あり得ない理不尽さ」が概ね以下の様な軸の展開に整理可能だという事に。

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①元来、それぞれの当事者の意識においては区別して扱われてきた以下の要素の意図的混同。特に(ロマン主義運動を嫌い)サド公爵とエドガー・アラン・ポーを絶賛した「評論家」ヴォードレールの無茶振りが象徴主義樹立には欠かせない契機となったが、実は「自らの認識世界が内包する分裂性の主観的再統合を志向する精神活動」こそがロマン主義運動の原動力ではなかったか?

  • サド公爵の内面における自らの根底から湧き上がる暗い衝動に抗えないリベルタン (Libertin、あらゆる既存倫理に逆らう退廃的貴族)」としての側面と「なまじ牢獄や精神病院に幽閉されたが故に、自己承認欲から市場マーケティングに没入し相応の成果を挙げた)流行作家」としての側面。
    リベルタン - Wikipedia

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  • E.T.A.ホフマンの「(厳格な音楽理論の実践者の一人としてモーツアルトの成功に憧れた)音楽家」としての側面と「(音楽家として中々日の目を見ない鬱憤を、片手間の同人誌活動にぶつけた)幻想小説」としての側面。

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  • エドガー・アラン・ポーの「(生涯に渡って厳格な制作理論の樹立を試行錯誤し続けた)崇高な詩人」としての側面と「(食う為に「炎上マーケティング」も含め手段を選ばず市場が求めるものを供給し続けた)節操なき雑誌編集者」としての側面。

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②「天上的なる神学的予定調和」を断固として拒絶し抜く「(数学や音楽理論が演繹的に導出する様な)計算されたもの(Das Gemmessene)の絶対的正しさ」と「(芸術家をインスピレーションによって導く)切り裂く様なアイロニー(Schneidende Ironie)の絶対的正しさ」の鋭い対峙。この様な形で「理系的思考様式」と「文系的思考様式」をどう共存させるかが問われ続けてきた結果、象徴主義はその立脚点を脳生理学の分野に推移させてきたが(脳構造の解明が全然間に合ってない歴史の現時点においては)それ自体はある種の疑似科学の域を出られない。

クオリア(感覚質) - Wikipedia

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21世紀に入って初めて実証科学の世界は「脳内に電気的に蓄えられた短期記憶が何らかの化学的基盤を有する長期的記憶に変換されていくプロセス」に足を踏み入れた(エングラム(Engram=記憶痕跡)仮説)。

ただしあくまで「記憶物質」の内容自体についての検証はこれから。「どういう情報がどういう化学物質に置換されているのか」「そのアルゴリズム自体に生物的普遍性はあるのか」などについて歴史の現段階においては全くの白紙状態といえる。

そもそも神秘主義者や象徴主義者が伝統的に想定してきた「(その内容の解明にさえ成功してしまえば人類の振る舞いが完全に予想可能となる様な)確固とした大系やアルゴリズム」は実在するのだろうか。例えばホログラフ(物体にレーザー光線を当て、そこから得られた反射光ともとの光との干渉パターンを感光材料に記録し、これに別の光を当てて三次元の像を再生する)や機械学習(Future Learning=特徴抽出アルゴリズム)などの思考様式を導入すれば「それなしに成立している人間社会」などいとも容易く想定する事が可能となる。
*伝統的にここでいう「(その内容の解明にさえ成功してしまえば人類の振る舞いが完全に予想可能となる様な)神秘主義的思考様式」は「(その解明を政治的経済的成功に結びつけようとする)権威主義的パーソナリティ」の持ち主によって研究され「顕密二教論」「民主集中制」などを生み出してきた。「シンギュラリティ(技術的特異点)がもたらす2045年問題」とは要するにこうした意味合いにおける「支配の手段としての神秘主義象徴主義」の終焉を意味するのかもしれない。

*歴史の現時点において人類は人類は既に音楽理論を「音楽が人間を感動させる力の背景にある巨大な大系/アルゴリズム」ではなく「人を感動させる展開を生み出す材料の一つ」に過ぎないと想定する様になっている。ダリが世に広めた「柔らかな時計」「エロティックなフランスパン」といったイメージも、あくまでそれ自体は「ミーム(Meme=文化遺伝子論)」といった次元で語られる内容であって「(その内容の全解読にさえ成功すればあらゆるビジョンが予想可能となる)人類が無意識下で共有する普遍的象徴大系/アルゴリズム」など持ち出すまでもない。ところが神秘主義象徴主義に「他者を支配する道具としての有用性」を見出してきた権威主義的パーソナリティの持ち主達は、かかる歴史的展開にある種のニヒリズムしか感じない様なのである。

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③かくしてこの問題に科学的にアプローチしようとする人々が際限なく悲観的となっていく一方で、こうした試行錯誤に「消費対象としての娯楽性」しか求めない一般人は際限なく楽観性を求める様になっていく。このギャップにどう対処すべきかという問題が「国家間の競争が全てだった」総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)の衣鉢を「国民総動員体制の継承」という形で受け継いだ産業至上主義時代(1960年代〜1990年代)に再浮上してくる。
*要するに「マーケッティング至上主義」にもまた相応の形で必然的に「タナトス(Thanatos、死への誘惑)」を内包する形でニヒリズムへの指向性を有している。グローバリズムが本質的に「個別的なるものへのそれぞれの執着心」への無関心によって成立している様に。

こういう形で過去を振り返った時初めて「砂の惑星」における「(始原の海からの)全くゼロからの誕生」「マシニックな連想空間における希望なき放浪(試行錯誤)」というメタファーの重要性が再浮上してくる訳なんですね。

要するにそれは登場の最初から「象徴主義=秘教主義的ロマン主義」を魅了してきた「祝福=呪詛」すなわち「背後から全てを統括する隠微な法則が読み解ける様になれば世界の統括者(Ruler)の一員に加われる」なる共同幻想、その信者達を「究極の自由主義jは専制の徹底によってのみ達成される権威主義的ジレンマに拘束してきた同調圧力からの解放を意味していたのかもしれません。

*要するに国家間の競争が全てとなった「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」と、民間企業やマスコミがそのうち「国民総動員」の概念のみを継承した「産業至上主義時代(1960年代〜1990年代)」を支配してきた諸原則。後者はTVゲームや電子音楽の登場期とも被さってくるがそれ以前の時代、すなわち「産業革命導入による大量生産・大量消費のサイクルが消費の主体を王侯貴族や聖職者からブルジョワ改装や一般庶民に強制シフトさせた時代(19世紀)」以前まで溯ろうとしても「領主が領土と領民を全人格的に支配する農本主義的伝統」に辿り着くばかり。ここに両者の間を繋ぐ「(イデオロギー自体から解放される一方で、秘教的権威主義性を強めた「節操なき」マーケティング戦略を振り翳す)資本主義体現者の捕食動物的セルフイメージ」という中間帯が顔を覗かせる。まぁ要するに共産主義にせよ資本主義にせよ「人民支配の道具」なる無意識的縛りから脱却しない限り、そうそうは違った景色を見せてはくれないものという次第。

*そして、かかる民間企業やマスコミが過去史最大の負の財産たる「究極の自由主義jは専制の徹底によってのみ達成される」権威主義的ジレンマに捕捉されラリー・ニーブン「魔法の国が消えていく」的「魔力そのものの蕩尽」過程を迎え魅力の最後の断片まで喪失していく過程において「始原の砂漠」的情景が浮上してきたという事。

上遠野浩平ブギーポップ・ウィズイン さびまみれのバビロン(2013年)」

「あなたは何か信じているものがある?」

もちろんあなたのことを信じている、と応えると、彼女はどういう訳か少し顔を曇らせて「それがあなたの限界よ。何かを信じるということは、そこに線を引いてしまうことなのだから。信じてしまっ た時点で、そのことについて考えることをやめてしまうのがのが人間というもの ─ ─そもそも信じるというのは防衛 本能に由来するものなのだから、仕方がないのだけど」と、 かなり難解なことを、ブルースでも口ずさむような 優美な声で言う。

信じるのが防衛、というのはどういう意味か、と訊いてみると、彼女は不思議そうな目 を向けてきて「あなたは、何かを信じないときに、それに対してどのような姿勢を取るかしら?  拒絶? それとも無視? いずれにせよ、人は信じられないものとは距離 を置こうとする。それはそうよね、信じられないというのは、それが自分に対して牙を 剝くかも知れ ないということでもあるのだから。信じられるものだけを身近に置いて おきたいと誰もが願っている ─ ─でもね」

 彼女 は、彼女にだけ許さ れている よう な、何に立脚しているのかまるでわからない 根拠不明の微笑みを浮かべる。

「この世に信じるに足るものなんて、ひとつも存在しない ─ ─ どんな宗教も、神は天上におわすという。それはつまり、この地上の人間世界の何処にも神という絶対的信仰 の対象はいないということでもある ─ ─ あらゆるものは常に疑いの対象であり、同時に頼らなけれ ばならない拠り所でもある。その困難を受け入れてこそ、初めて人は己の意思というものを持つことができる のよ。でも……」

 彼女の眼はいつも、今目の前にあるものではなく、遙かに遠いものを見ているようで ある。

「でもそれは苦しい道でもある。だから人は、どこかで適当に手を打つ ─ ─苦しみに耐えられなくなって、判断停止に陥る。自己防衛本能が、目先の苦痛からとにかく逃れようとするのよ。これもまた、人が人である以上、避けられない事ではあるんでしょうね…」

 要するに壮絶な過渡期だった1990年代末から2000年代にかけての試行錯誤期を経て2010年代まで生き延びる事に成功したのは「泥の大海にあえて蓮乗花を探す焼け跡的センチメンタリズム」、すなわち「タフでなければ生き延びられない。タフなだけでは生き延びる資格がない」なるハードボイルド的倫理観念だけだったという事になるのかもしれません。そしてそこからさらに米津玄師の1st Album「diorama(2012年)」から2nd Album「YANKEE(2014年)」への飛躍が存在した次第。それはまさに「前も後ろもいよいよない。ならば全部忘れて(Shout)」の世界。アンリ・ベルクソンの 「エラン・ヴィタール = 生命の飛躍」…
*1st Album「diorama(2012年)」より


2nd Album「YANKEE(2014年)」より

それはぐるっと一周して総力戦体制時代や産業至上主義時代ばかりか「サド公爵の自己承認欲」や「エドガー・アラン・ポーの炎上商法も辞さない成功欲」が「強烈な片思いとしてのみ語り得る(そしてそういう形でしか語ってはならない)事」として容赦無く裁かれた瞬間だったのかもしれません。まさしく「遠い昔のおまじないがあんまりな嘘と知るのさ」の世界。

要するに「僕達は結局どこへだっていけやしない」なる絶望的自己認識のみが可能とする再出発。民主集中体制の全否定。その地獄みたいな景色と本気で向き合った事がない人間が気軽に「Now and Then」なんて口にするなという事なのかも?

果てさて私達はどちらに向けて漂流してるんでしょうか?