「全てが数値化されていく社会」とは、逆をいえば「何をその例外とすべきかも明確に可視化されていく社会」でもあります。
「数値化」によって理論上全てがコンピューターで計算可能となった事は、対価として新たな問題を浮上させた。
- 公害による環境破壊や資源枯渇といった「数値化に際して視野外に置かれた要素」が数値そのものに与える影響の表面化。
- HFT(High Frequency Treading)やアルゴリズム取引の暴走といった「数値処理をコンピューターに任せる事そのものが潜在的に抱える危険性」の顕現。
こうした問題への対応はどうしても後手後手に回らざるを得ないのが 「利点(長所)」に対する「欠点(短所)」といえよう。
この次元においては、以下の様な発想が改めて重要となります。
「水にありがとうって、お礼を言うとご飯が美味しくなる」という疑似科学があるけど、毎日ご飯を作ってくれてる人に、ちゃんと「ありがとう」って言う方が、絶対にご飯美が味しくなってくからな。水にお礼言うより先に、奥さん(旦那さん)とか親とかにちゃんと言うべき。
— 深津 貴之 (@fladdict) 2017年8月6日
心理の問題を疑似科学だは的外れ。自然の恵みへの感謝と家族への感謝に順位づけするのも的外れ。
— 不透明人間 (@hutoumei) 2017年8月6日
「全てが数値化されていく=これを扱うアルゴリズムも単一化していく」という話ではない辺りがミソ。むしろ同時に「数値解釈の単一化を志向する権威主義的姿勢」も退けられていくのが時代の流れだったりする訳です。
まさしくフェニックス・ガタリいうところの「マシニック(Machinique=機械状)」の世界?
すぐに思いだしたのは、フェリックス・ガタリの「マシニック」(「機械状」と訳される)という概念だった。これは、通常の「マシーン」 とはちがう。ガタリによれば、「無意識」を「機械状無意識」(l'inconscint machinique) といいなおすのだが、彼によると、「それは、単にそこに宿されているものがイメージや言葉だけではなく、あらゆる種類の機械装置であり、これらの機械装置によって無意識はこれらのイメージや言葉を産出したり、再現したりするように仕向けられるということを強調するためである」(高岡幸一訳『機械状無意識』、法政大学出版局)。
ガタリによれば、無意識というのは、精神分析の専門家や「制度化されたディスクールの中に膠化してしまった『無意識』」などではなく、「個人の内側にあって、その人が世界を知覚したり、自分の身体自分の領土や自分の性を体験するやり方においてのみ働くだけでなく、夫婦や家族や学校や近所や工場や競技場や大学等の内側にあっても働くものなのである」。だから、無意識は、フロイトやラカン流の定義とは反対に「未来に向けられ、その寿命は可能性そのものであり、言語活動をかすめる可能性でもあり、同時に皮膚を社会体を宇宙空間・・・をかすめる可能性でもあるのである」。
いうなれば並行処理を実現する無数の「割り込み待ちループ」のどれがメインループか分からない(もしくはそれを明らかにする事に格別の意味はない)世界。ある意味これこそが現代の理神論というべきとも。