諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「自虐史観の輸出」なる新機軸

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その政治的信条の是非はともかく「擁護せずにはいられない多様性」なる概念なら確実に存在するのです。例えば中国ではこの人のこれが国際SNS上の関心空間で話題となりました。

 日本では「ブルーハーツに始まりサリン散布事件に終わった悲劇のムーブメントの別解を探し続けている」この人が突出しています。

ともかく今や「自虐史観」は先進国共通の一種の“たしなみ”となっています。

ひるがえって韓国ではどうでしょうか? 少なくとも日本に伝わってくる範囲では、みなさんには今なお「自虐史観」の“たしなみ”が欠けているように思われます。

みなさんはいつも“被害者”で、悪いのは日本だ、中国だ、ロシアだといった自国中心主義史観、“自尊史観”は、発展途上の後進国にこそふさわしいものです。そこから脱却しないことには、みなさんの国はいつまでたっても真の先進国にはなれない、日本のような二流先進国にさえ少なくとも文化的には追いつけないでしょう。

どうやらこの世には「日常の裂け目として理不尽に降誕する絶対他者」を直視せざるを得ない状況に追い詰められつつ、正気もアイデンティティも失う事なく生還を果たした「祝福された=呪われた」人々だけが到達可能な領域というのが存在する様なのです。そしてもちろん一般人には、そういう人々が「虚空を見つめる猫」程度にしか映らないのです。

実はこうした思考様式が容認されてる状況そのものが、元来ジョン・スチュアート・ミルが「自由論(On Liberty、1859年)の中で指摘した「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならず、国家権力や多数派工作的大衆専制がこれを妨げてよいのは他人に実害を与える場合だけに限定される古典的自由主義理念の真髄。最近暴走が目立つリベラル派の「スーパー自由主義古典的自由主義を否定し「我々だけが新たな正しい釣り合いのバランスを発見した」と主張する諸集団が未来永劫激しい内ゲバを繰り返し続けるだけの未来ビジョン)」の破綻を突くには最適のアプローチとも。逆を言えば、自らの正気やアイデンティティを保ち続ける為に「絶対他者=それまでの日常に裂け目を生じさせる理不尽」の出現を世界認識次元レベルで拒絶する様になったリベラル派の矛盾を突く最も有効なアプローチとも。