諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【暴力ヒロイン】その起源は1970年代のウーマンリブ運動まで遡る?

日本のディズニー好き女子は不思議と「アナと雪の女王(Frozen、2013年)」のアナが以下の様だという抗議の声を上げませんでした。

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*そもそもDCコミックス「スーパーマン(Superman、1938年)」におけるクラーク・ケントの恋人ロイス・レーン辺りを大源流とするアメリカ起源のステレオタイプとも。これと長年戦ってきたアメリカ人女性の反応が過敏だったのも、おそらくそういう歴史のせい。そういえば当時のアメリカだけでなく大日本帝国でも「勤労婦人の社会進出に対する称揚と揶揄」なら実在したのである。

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*そして日本の広告業界は明らかに周回遅れ。まぁ「魔女の宅急便青春編」でも分かってた? 韓国芸能界が世界に認められつつあったKPOPを権威主義の限りを尽くして完膚なきまでに叩き潰した様なケースを想起させる。全般的に「バブル期日本で養われた感性」に国際性は備わっていなかったし、今日では反感しか喚び醒まさない感じがする。

それでは上掲投稿の一つでも「ツートップのもう一つの雄」と目されている「理不尽暴力系ヒロイン」についてはどうなってるんでしょうか?

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片渕須直監督ファンなら、終戦直後の闇市を舞台に「呉弁で啖呵を切りながら右手に大砲を仕込んだ義手で広島ヤクザと対等に渡り合うすずさん」を思い浮かべるなんて余裕? 特にこうの史代さんさん録(2004年〜2006年)」を読んでるとね。
腐乱鬼博士のサブカル読書魂!! : さんさん録 (1) /こうの 史代

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すぐ暴力振るうヒロインwwwwwwwwww:MAG速

*ここで興味深いのが海外の古株系アニメ漫画GANEファンの間では「間接キス」「お嬢様笑い」「ヤンデレ」といったお約束の起源が全て「金色夜叉(1897年〜1902年)」中編以降に登場する「アイスクリン(美人高利貸し)」赤樫満枝と目されてる辺り。「金色夜叉」の原案が1880年英米におけるベストセラー女性小説の一つバーサ・M・クレー「Weaker Than a Woman(女より弱き者)」なのは有名だが、そこに登場する「成金の妻に収まって贅沢三昧の暮らしをする様になったメインヒロインのヴァイオレットの嫌味な金持ち仕草」が日本人向けに「(新興高利貸しとなった赤樫満枝が必死で先輩方から模倣した)当時の成金の嫌味な仕草」に差し替えられたのが起源という発想。「間接キッス」ネタの初出が「私の盃が受けられないの?」「私の煙管を使いなさいよ」から「わーい間接キッス」と囃し立てる(女性上司が男性の部下に仕掛けた)セクハラ描写だった事など、むしろ日本人の方が語り継いでいないとも。

*女性小説…パルプマガジン黄金期を牽引したジャンルの一つたる「女性作家が女性読者向けに執筆した女性の生き方を主題とする読物集」。アメリカ純文学の大家ナサニエル・ホーソーンNathaniel Hawthorne 1804年〜1864年)が「大して才能にも恵まれてない彼女らの作品ばかり読まれて自分の作品が全然読まれないのは不公平」と編集者に当たり散らしたという逸話が残っている。これも「産業革命導入がもたらした大量生産・大量消費が消費の主体を王侯貴族や聖職者といったインテリ層からブルジョワ階層や庶民にシフトさせた」歴史的流れの一環。

*「テロをも辞さない女性解放運動」といえば英国のサフラジェット運動も有名。「英国臣民とは何か」鋭く問い掛けてくる内容。ちなみに「金色夜叉」の赤樫満枝も士族出身で小太刀の使い手。だから自分を巡る三角関係を暴力で解決する事を思いつく。

ところで国際SNS上の関心空間には「ネット上を流れるありとあらゆるPorn画像が最後に辿り着いて貯蔵される場所(ただし男性向けと女性向けが半々でLGBTQ向けという貴重なアーカイブも存在する)」「匿名性に守られる形で誰もが安心してそれらを交換し合うアジール」なんて側面も存在しますが、その一方では「三次元チャイルドポルノ厳禁」「自殺や拒食症を煽る画像の投稿自粛」なんて厳粛なルールが確実に存在してたりもするのです。
*「男子が妄想の中で美少女や美女をどうしようが私達は感知しない。私達が妄想の中で美少年やイケメンをどうしようが感知しない限りは」なる定言も存在する優しい世界。

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こんな国際SNS上の関心空間上を徘徊する女子アカウントの振る舞いにはただでさえ一般的にSAMURAIめいた行動原理が見受けられるものですが、特に「抜き打ち御免=鯉口も切らず抜き打ちで斬り捨てて良い」対象への振る舞いは強烈。まさしく「偏見の極みをもって抹殺する」なる軍事用語そのものの激烈さ。

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*時代も変わったものである。新海誠映画「君の名は(2016年)」でもこの辺りの描写はトリミング対象になっている。その一方で小説版には三葉の「何これ、触れば触るほど大きくなる!!」が残された。Gay界隈やSlash(日本でいう腐女子)界隈も「I get a boner」を頻繁に使う。この辺りが21世紀的バランスとなってくるらしい。フランスのとあるフェミニストは「男達が精液によって文学を綴ってきた様に、女達は経血によって自らの文学を綴らねばならぬ」と叫んだが、彼女らは「(たとえ結果として破滅が待つだけにせよ)自らを内側から突き上げる衝動に誠実に生き様とするロマン主義」の原動力を子宮でなく「心のチ●ポ」に求める道を選んだらしい。そして、むしろ男の性欲は「おっぱい!!おっぱい!!」といった具合に対象駆動型なのでちゃんと住み分けが成立してしまった不思議…

 もう一つの「抜き打ち御免」対象が「パンチラ」画像。こっちの世界の女性アカウントは「(室内で下着姿で寛いでる描写の一部としての)パンモロ画像」には比較的寛容で、それどころか集まって「ホットパンツの上からBig T shirtsを着て男の人をドギマギさせるの好き」なんて談義までしてるほど解放的ですが、その一方で好きな作品にパンチラ画像があると「パンチラなし動画」を大量回覧して押し潰したりするし、またその手の画像を回覧する男子アカウントを一発ブロックしてしまう事が多かったりするのです。
安部公房砂の女(1962年)」における「見る側には愛があるが、見られる側には憎悪しかない」という名台詞を思い出す。

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*「修正版」が大量回覧されて「オリジナル」の検索が困難になった実例の一つ。ちなみにちゃんと「普段は隙一つ見せない上流階層の優等生で幽体離脱の時だけはっちゃける」なんて演出上のコンセプトがあったりした模様。ちなみに、こうした「オリジナル画像」を回覧しても一発ブロック対象にはならない。

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*あまりに徹底してこうしたSAMURAI論理が広まった結果、最初から回覧すらされなかったのが「君の名は(2016年)」のパンチラ画像。日本でも「あれはいらなかったのでは?」という意見が多かったが、国際SNS上の関心空間においては「旅のロボから」の作画の人辺りの暴走という意見が広まった。ちなみに「旅のロボから」のエロは何故か女子アカウントも喜んで回覧。

わからないのは、瀧くん三葉が自転車立ちこぎしてる時のパンチラと、ラストで役場に向かって走る三葉のパンチラ。これは監督のフェティシズムとは思えない。川村さんと話して入れることに決めたのだろうか。
*「インターネット上に存在する世界最大のPornアーカイブ」とも目されている国際SNS上の関心空間においてすら回覧画像を全く発見出来なかったから徹底している。

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興味深いことに、1970年代から1980年代にかけて日本に少女漫画革命を起こした女性漫画家達の多くが横山光輝伊賀の影丸(1961年〜1966年)」や永井豪けっこう仮面(1974年〜1978年)」の拷問シーンでエロティズムに目覚めたと答えています。ただし同時に「あらかじめ必ず最後には逆転して拷問する側が滅ぼされると分かっているから安心して楽しめた」ともインタビューに答えていたりするのが重要。「暴力ヒロインなる観念」の本質は案外歴史をそこまで遡らないと見えてこないのかも?
*これ以上踏み込むには「女囚映画(1971年〜)」やアン・ライス「眠り姫(Sleeping Beauty)シリーズ(1983年〜1985年)」への言及を避けられないが、そこから浮上してくるのは「マゾヒストの究極の願望は下克上」で「専制の徹底にまで至る究極の自由主義者としてのサディスト」と全然対をなしていないという恐るべき現実。ところで暴力ヒロインには「付き合ってる訳でもない相手に独占欲を発揮する」という意味で、ここでいうサディスト属性が混ざってる気配も見てとれるからややこしい。ちなみにこちらの先例は高橋留美子めぞん一刻(1980年〜1987年)」の音無響子とも。実は「女子高生時代に惚れた学校の先生と結婚」「付き合ってる訳でもない五代裕作に近く女性に嫉妬して拘束(しばしば暴力まで振るう)」と色々壮絶なキャラだった。

WOMEN IN PRISON MOVIE(女囚映画)

ちなみに国際SNS上の関心空間を徘徊する女子アカウントは、そのSAMURAI的団結力を駆使して「(日本から伝わった)バレンタイン・デーに女性が男性にチョコレートを贈るイメージ」の撲滅にもほぼ成功しています。「そもそも一般的には知人とカードを交換し合い、普段お世話になってる人に花を贈る日という認識」「欧米社会においてはチョコレートは媚薬と認識されてきた時期が長く、それを女性の側から贈るという行為が過剰に性的想像力を煽る」という辺りが問題となった模様。
*過渡期には「チョコレート=媚薬なるイメージを逆手に取ったエロティズム」が楽しまれた時期もあったりしたのだが、ある時点からそれが逆バイアスに転換。

こうしたプロセスを見守り続けるうちに気付いたのがPDCAサイクルとは似ても似つかない以下のサイクルの繰り返しでした。

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  • 一切の先入観から解放されない限り「自分が何ついて先験的に脊髄反射的に好意や拒絶感を覚えるか」究極的な意味で明らかになる事はない。従って「何かが進行している」事は認識できても「何が進行しているか」認識出来ないケースが次第に延々と山積みにされていく。
    *とはいえ特定の先入観がその強固な立脚点を失ったタイミングで強制的にパラダイムシフトが引き起こされる場面自体は頻繁に見受けられ、これが状況を動かし続けている。

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  • それまで自覚していなかった「自分が何ついて先験的に脊髄反射的に好意や拒絶感を覚えるか」を認識した瞬間から、これを立脚点とした自己の再構築作業が始まる。ただしそうした営みが生成し続けるカテゴライズは(それが観念として存在し続ける限りはっきり実在感のある存在と認識されるにも関わらず)案外輪郭がはっきりしていない。かくして段々何が達成され、何が未達成か分からなくなっていく。
    *そもそも「先入観」の総量は案外減らない。

  • いずれにせよ、この流れについていけない人間が篩にかけられ、次第に脱落していく(このサイクルにおける数少ない観測可能な側面の一つ)。それは一見「情報エントロピー工学におけるエントロピー減少過程」と映るが、何故か次第にコミュニティの寿命を食い潰し最後は(一切衝突の怒らない)廃墟状態に到達する。
    *むしろ全体像としては「熱力学的エントロピー論におけるエントロピー増大過程」そのものなのである。かといって「衝突の減少」を回避する方法は現在なお見つかっていない。

実は最近「あらゆる差別の撤廃」をモットーとするリベラル論者の暴走が目立つのは、こうした着々と不可逆的に進行する営みが生み出すパラダイムシフトが全く視野に入ってないかもしれません。

こういう流れに関する記録は失われた後に復元するのが大変困難。なのであえて少しでも多く記録に残しておこうと心掛けているのです。例えば2010年代前半における国際SNS上の関心空間においては、こうした空気の変化を読んで最新トレンドに対応し続けるアカウントだけが篩に掛けられるのを免れたものでしたが、そうしたエピソードも2010年代に入ってから急速に風化しつつある様な有様。インターネットの情報保管能力は案外低い?