諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】そもそも「ヒトラーのナチス」とは一体何だったのか?

そもそも「ヒトラーナチス」とは一体何だったのか? これまでの投稿をちょっとまとめてみました。結構、多くの人が誤解していそうです。

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 ①ナチズムは「傲慢な強者の理論」どころか、どこまでも徹底して「マイノリティに寄り添う立場に立ったイデオロギー」だった。

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  • ヒトラーが生まれ育った「オーストリアハンガリー二重帝国(1867年 - 1918年)」とは「ドイツ帝国(1971年〜1918年)」分離後に残された諸民族に対し(元来は支配民族たるはずの)ドイツ系市民が多大な妥協を強いられた多民族帝国だった。ヒトラーはまずこれを面白く思っていなかった。

  • そして第一次世界大戦(1914年〜1918年)において戦勝国となったフランスは「ビスマルク体制(1871年から1890年にかけて履行されたフランスを孤立させる外交戦略)」への報復とばかり絶対払いきれないような額の賠償金を課した上で、ドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出するドイツ経済の心臓部たるルールを軍事的に占領(1923年)。対抗可能な軍事力も保有せず、ハイパーインフレに見舞われて経済的大打撃を受けた当時のドイツ人は「このままでは我々ドイツ民族は地上から絶滅させられる」と本気で信じ込んだ。
    *ヘルムート・プレスナーはこの過程で「どうせどの民族も最後には滅びていくにしろ、ドイツ民族が最初にそうなる運命を強要されるのは理不尽だ」なるゲルマン民族生物学的発想が生じたとする。

  • NSDAP(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei=国家社会主義ドイツ労働者党)の主要幹部はオーストリア出身のヒトラーを筆頭に「外国でマイノリティとして冷や飯を食わされてきた外交官や植民地商人の子弟」が数多くを占めており、彼らの掲げた欧州占領地域拡大戦略には「欧州中にマイノリティとして散在する民族同胞の救出」という側面もあったのである。その考え方自体はドイツ本国における彼らの親類縁者の間でも相応に好評だった。
    *そもそもの発端は19世紀前半、すなわち王政復古時代にドイツ語圏で積極的に進められた「危険分子の国外追放」だったとも。かくしてハイネはフランスに、マルクスはロンドンに骨を埋める展開を迎えたのである。

  • こうして全体像を俯瞰してみると「北朝鮮の独裁者」金正恩が「我が闘争」の熱狂的ファンという噂も頷ける。それくらいナチズムと「迫害しかされてこなかった朝鮮民族の悲劇の歴史」を重ねるのは容易だし、海外の「民族同胞」は「北朝鮮の正義を世界中に受容させる役割」を期待されているのである。

②「独裁」そのものは既にナチスドイツが政権を奪取する以前、すなわちヴァイマル共和制時代から始まっていた。

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  • いわゆる「大統領内閣(Präsidialkabinett)」制度がそれ。
    ヒンデンブルク

    ドイツ国大統領 - Wikipedia

     世界恐慌の中の1930年3月27日、ヘルマン・ミュラー大連立内閣は失業者対策で社民党の党内合意を得られずに瓦解。社民党、ヤング案反対運動に興じる国家人民党、ヴァイマル共和政を「ブルジョア共和政」として忌み嫌う共産党、いずれからも政府支持を期待できない中、ヒンデンブルクは議会に拘束されない政治を志向し、側近のクルト・フォン・シュライヒャーの薦めに従ってハインリヒ・ブリューニングを首相に任命しつつ、憲法48条第2項に基づいて公布する大統領緊急命令(以下、大統領令)を発令して政治を行う「大統領内閣」を開始した。ブリューニング辞職後もフランツ・フォン・パーペン内閣、クルト・フォン・シュライヒャー内閣と大統領内閣を継続。

    1930年7月16日にブリューニング内閣が提出した赤字補填案が国会で否決されるとヒンデンブルクは大統領令を出して強引に可決させたが、社民党がこれを国会の投票で否決し、国会の解散につながった。1930年10月18日には大統領令で国会から予算審議権を剥奪している。また、台頭するナチ党の弾圧にもしばしば使用され、1931年3月28日にはナチ党の集会と新聞を禁止する大統領令が出され、1932年4月23日にもナチ党の突撃隊と親衛隊を禁止する大統領令が出されている。パーペン内閣時代の1932年7月20日には大統領令で社民党のオットー・ブラウン首相率いるプロイセン州政府をクーデターで強制的に解体した。

    こうして、従来なら大統領令の発令対象にならなかった分野にも続々と大統領令が発令されるようになり、大統領令の乱発によって国会の重要性は低下。しかし、大統領令の拡大は最高裁判所や多数の憲法学者、ドイツ民主党など中道ブルジョア政党から独自の立法権としてむしろ擁護されていた。

    それでも大統領内閣ではナチ党や国家人民党とうまく折り合いがつかず、結局は1933年1月30日にナチ党・国家人民党による連立政権と大統領内閣を組み合わせたようなヒトラー内閣が誕生するに至る。 

③実はディズニーランドとナチスドイツの設計思想は、いわゆる「パラソル戦略」なる一点において共通していたりする。

  • ディズニーランドは「メルヘン好き」「西部劇好き」「野生の王国好き」「スペースオペラ好き」といった(日常ではそんなに互いに接点のない)様々な客層を引き寄せる。同様にNSDAPは「帰国後の社会に馴染めず鬱憤を貯めていた第一次世界大戦従軍兵」「没落を恐れる中産階層」「戦前の栄光の回復を夢見る資本家や正規軍軍人」といった実際の政局では対立し合う諸勢力の調停役として君臨する事に成功した。
    *特にヴァイマル共和制を支えた社会民主主義者からも、共産主義者からも、(スパルタカス団や革命的オップロイテに所属する)無政府主義社からも殲滅を宣言され、実際ルール占領とハイパーインフレに際して一切守ってもらえなかった資本家階層と中間階層を味方につける事に成功したのが大きな転機となった。その一方で左派が終始支持層としてアテにし続けてきた労働者階層は肝心のタイミングで彼らを裏切る事になる。そうまさに英国労働者が選挙権拡大に際して自由党労働党でなく保守党を選んだ様に。「左派の原理主義」がその原理主義性自体のせいで敗北を喫したのは何もナチスドイツ台頭期ばかりではない。

  • ただしディズニーランドの場合は集めた人々の「絶縁」がしっかりしており「ウェスタンワールドがこれだけ充実しているのだから、もうメルヘンワールドは廃止すべき」といった排他的意見など簡単に一蹴されてしまう。だからこそ中央に建てられたシンデレラ城はあくまで「全体的統合の象徴」の立場に留まり続ける。ところがナチスドイツ体制下においては(互いを没落させ合う)内ゲバが放置され、その結果戦争が泥沼化するほど「シンデレラ城(ヒトラー総統の権威)以外は全て廃墟」という状況が顕現化していった。ヒトラー総統は最初から独裁者だったというより、こうした状況が「型抜き」した独裁者だったのである。
    *これ実はフランスの絶対王政や帝政下でも起こった展開。前者においては国王がギルドや都市の様な伝統的社団の立場に立って(反乱まで起こした)大貴族連合に対抗。後者においては皇帝が新興産業階層の立場に立って(組織票で選挙を制した)王党派や教皇至上主義者に対抗。とはいえ例え当初は「名目上の調停者」に過ぎなかったにせよ、一旦権力に到達した独裁者の権限は以降無制限に増大を続けていく。

④「宮廷ユダヤ人追放」に該当する経済的動き自体なら、フランスや日本にも存在。むしろその事によって「ホロコースト」に該当する政治的動きを回避した側面も。

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  • 日本においては戦国時代に大名と御用商人の癒着が生み出した地域経済が「株仲間(全国規模の富商や富農の連合体)」にわずか百年足らずで殲滅させられた。

  • フランスにおいても第二帝政時代において「国王と教会の権威が担保に得られない限り金を貸さない守旧派」代表格たるロスチャイルド家が、皇帝ナポレオン三世の呼び込んだポルトガルユダヤ人やユグノーなどの産業資本家階層に散々打ち負かされ、改心を余儀なくされている。
    *「守旧派ロスチャイルド家」…それでも確固たる担保を求める伝統的態度から完全に脱却は出来ず、以降も「鉱山や油田の採掘権」などに執着し続け、新たな社会問題を彦起こす。

  • むしろドイツにおいては(地域によっては)これに該当する動きがなかった事が問題だった。さらに(ホロコースト遂行によってドイツ本国を遥かに超える被害を出した)東欧においては「領民の経済的不満が鬱積したらユダヤ人を見せしめに処刑する前近代的遺習がそのまま温存されていた。

反日リベラル層が憧憬する「西ドイツのブラント首相の謝罪」も捏造に満ちている。

著者インタビュー『日本人はなぜ存在するか』

那覇:よく「ナチスと日本を一緒にするな」と言う人がいるけど、たとえば西ドイツのブラント首相というのは冷戦下でもワルシャワを訪れて、非常に優れた儀式をやったわけでしょう(1970年、ゲットー記念碑の前で跪き祈りを捧げた)。日本の首脳が慰安婦問題に関する施設に行って、態度で「申し訳なかった」という思いを示す、それが国際社会から見たときひとつの終止符になる、そういうあり方を構想できないものでしょうか。

ヴィリー・ブラント(Willy Brandt、1913年〜1992年)

戦後のドイツ社会民主党の政治家。60年代末から首相として東方外交を展開し、ドイツ統一の基礎を築いた。

第二次大戦後のドイツ社会民主党SPD)の政治家で党首。ナチス時代は亡命生活を送った。戦後、西ベルリン市長に選出され、1961年の東ドイツ政府によるベルリンの壁の設置などに直面しながら、市民レベルの東ベルリンとの交流を模索した。

1969年の総選挙ではキリスト教民主同盟(CDU)は第1党だったが過半数はとれず、第2位の社会民主党と第3位の自由民主党の連立となり、首相にブラント、副首相兼外相に自由民主党のシェールが就任したので、ブラント=シェール内閣ともいう。西ドイツでは戦後で初めて社会民主党の首相となった。首相就任以来、西ベルリン市長時代からの腹心エゴン=バールに立案させ、積極的なソ連=東欧圏との接触を図る東方外交を展開した。

それは西ドイツをドイツ唯一の国家であるとして東ドイツを認めないという従来の基本姿勢を変更し、共産党国家が東隣にあるという現実を認め、そこから変革の糸口をつかもうとする「接近による変化」という発想であった。彼は積極的にソ連ポーランド東ドイツを訪問し、それぞれと条約を締結、国交正常化を図った。特に西ドイツ=ポーランド国交正常化条約を締結し、ポツダム協定以来確定していなかったドイツ・ポーランドの国境をオーデル・ナイセ線であることを認め、ドイツに領土拡張の野心がないことを周辺諸国に表明して欧州の安定に寄与した。ソ連との間ではソ連=西ドイツ武力不行使条約、東ドイツとの間では東西ドイツ基本条約を締結した。

東ドイツとの基本条約締結は、それまて相手を国家として存在しない、従って交渉もしない、という態度を改め、話し合いを始めることによって現状に風穴を開け、解決に道を探ろうという、ブラント首相の「接近による変化」の大きな成果であり、当時は誰も実現不可能であろうと考えていた、東西ドイツ統一を導く出すこととなる。

また、これらの積極的な東方外交の展開は東西冷戦の変質をもたらし、緊張緩和(デタント)を実現させたと評価され1971年度のノーベル平和賞を受賞しが1974年に秘書の一人に東独のスパイ容疑が持ち上がり、首相を辞任。

ブラントの東方政策は東側とのビジネスとも揶揄するむきもあったが、そのような雑音を押しのけて、彼の「ドイツの過去の犯罪をはっきり認める」倫理的高潔さは世界に感動を与えた。

三島憲一『戦後ドイツ -その知的歴史-』1991 岩波新書 p.192

特に70年12月ワルシャワを訪問した折り、かつてのユダヤ人ゲットーでの蜂起の記念碑に……花輪を献げたブラントは、雨上がりで濡れているにもかかわらず、コンクリートの地面に突如としてひざまづいて黙祷を献げた。予定外の行動である。かつて自分もその政権のゆえにドイツを追われた人間が、ポーランドで最も残虐をきわめたナチスの行為のゆえに深く頭を垂れた。この態度はなぜ東側と対話をしなければならないかについて、静かだが雄弁な説得力を持っていた。

実際の真相は以下。

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ポーランド「ドイツはWW2の賠償として110兆円払え」 海外の反応 こんなニュースにでくわした

■ 「戦中、300万のユダヤ人を含む600万人のポーランド人が殺された。またワルシャワのほとんどが破壊された」全くだ。ポーランドはドイツとロシアによって途方もない苦しみを味わった。だが戦後、国境が西に動いたことでドイツの広大な領土がポーランドに与えられ、オーデル川東岸にいた約1千万のドイツ人が全てを失い、難民となって苦しんだことも忘れるべきではない。ポーランドのこの要求はこれらの苦しんだドイツ人とその子孫に対する侮辱であり、ドイツ政府は無視するべきだ。ポーランドユダヤ人の組織的抹殺に大きく関わっていた。そのような国が大騒ぎをして目立つべきではないと思う。以上。

 ■ 彼はロシアに対しても賠償を請求するつもり?ああ、ロシアにはプーチンがいたな…。やめといた方が賢明だね。

  • そもそも現在の欧米リベラリストの間で彼は「極右でナチス」と評されている。何故なら東ドイツとの責任を図る一方で「だが安心してほしい。我々は決して(ナチス支配下では嬉々としてユダヤ人狩りに協力しながら、第二次世界大戦後は全責任をドイツ系市民に押し付けて財産を奪い、輪姦し、虐殺しながらその多くを国外追放の刑に処した)ポーランドの偽善を未来永劫許さない」と西ドイツ市民に向かって断言したポピュリストでもあったからである。
    *そもそも彼はヴァイマル共和制時代に「社会的ファシズム」のレッテルを貼られ共産党と無政府主義集団とナチスの総攻撃を受けた社民党の党首だっtqのであり、もうその時点でドイツ左派の評判が芳しくなかったりするのである。

    ヴィリー・ブラント - Wikipedia

    1970年12月、ポーランドとの間で相互武力不行使とオーデル・ナイセ川をポーランドの西部国境とすることを定めたワルシャワ条約を締結。これによって第二次大戦後に西ドイツ国内で保守派から反対されてきたポーランドの西部国境を承認し、そのほかの一切の領土についての返還請求権を放棄。これによって旧ドイツ東部領の喪失が確定。

    • この時12月7日に首都ワルシャワで、ユダヤ人ゲットー跡地を訪ねユダヤ人犠牲者追悼碑の前で跪いて献花し、ナチス・ドイツ時代のユダヤ人虐殺について謝罪の意を表しているが、後にブラントは回想録では当日のポーランド側の反応について「私は、ポーランド側を困惑させたようだ。あの日、ポーランド政府の誰も、それについて私に話しかけなかった」と述べている。
      *要するに「例の写真」で本当に注目に値するのは「背後で狼狽えるポーランド共産党の面々」だったという次第。
    • ブラントはあくまでもホロコーストについて謝罪の意を示したのであって、戦争やポーランドへの侵略について謝罪したわけではないとして、帰国後にはポーランドが戦後行った旧東部ドイツ領からのドイツ人追放を「戦後のドイツ人の旧東部ドイツ領からの追放という不正はいかなる理由があろうと正当化されることはありません(白水社「過去の克服 ヒトラー後のドイツ」より引用)」」と非難している。
      *この辺りは「ドイツ人のユダヤ人とポーランド人それぞれに対する伝統的態度の違い」に由来する側面もある。
      「ドイツ版皇民化運動」ビスマルク宰相の文化闘争

    こうした事情からまた跪いて献花するブラントの姿は共産党政権下のポーランド国内で公表されなかったため、ポーランドの一般人にはほとんど知られていなかった(中公新書「〈戦争責任〉とは何か」より)。従って日本ではしばしば「ブラントの跪きがポーランドの対独世論を変えた」という趣旨で論じられることがあるが実はそのような事実などないのである。 

  • そもそも政治パフォーマンスとしての彼の突然の謝罪の「真意」は「ワルシャワ蜂起が実際には二つあった」という歴史的事実を抜きには語れない。

    ワルシャワ・ゲットー蜂起(1943年)

    ユダヤポーランド人が立ち上がり、ゲットー全体が灰燼に帰した。

    ワルシャワ蜂起(1944年)

    ワルシャワ住人全体が蜂起。被害がワルシャワ全土に及び70万人以上が生活の場を失った。何しろ当時のナチスをして「これはマズい」と思わせ、民間人を無制限に略奪・強姦・殺害し尽くしたカミンスキー旅団や「ディルレヴァンガー」SS特別連隊の解散を強行したほど。
    *「カミンスキー旅団やSS特別連隊ディルレヴァンガーの処分」…人道的配慮というより、彼らが現れた途端レシスタンス側が「死兵」に転じ、捕虜も取らず最後の一兵まで決死で戦って味方の被害を何倍にも拡大するのが問題視された結果とも。

  • そして今日なおドイツはワルシャワ蜂起(1944年)鎮圧の方については謝罪した事がない。「ナチス支配下では嬉々としてユダヤ人狩りに協力しながら、第二次世界大戦後は全責任をドイツ系市民に押し付けて財産を奪い、輪姦し、虐殺しながらその多くを国外追放の刑に処したポーランドの偽善」も許してなどいない。
    *かくして「ブラント首相は戦前を一切反省してないナチス」なる新しい定式が成立し、ドイツ側の警戒心をさらに高める事になる。背景にはさらに「遅れてきた高度成長期」に湧くポーランドにおけるナショナリズムの高まりと、ライバル台頭を警戒するドイツ世論が存在したという。

    占領者によるポーランド市民の待遇 - Wikipedia

  •  さらに歴史は思わぬ方向に転がる。欧州のリベラル層の間で「ワルシャワ蜂起」に際してナチスからすら処罰を受けたカミンスキー旅団の罪を許そうとする動きが出てきたのである。なにしろその人材供給源となったのはウクライナで、彼らはスラブ人に対しても容赦なく無制限に略奪・強姦・殺害を遂行し続けた事からロシアにおいてナチス以上に嫌われている。一方彼らの側もロシアを激しく嫌悪。最近昨今国際ニュースを賑わせている「ウクライナ分離独立派」の支柱の一つであるスヴォボーダはこうした伝統を重んじ「カミンスキー旅団の末裔」たる事を誇りとしてやまない。
    プーチン大統領が凄味を効かせ「よろしい。欧州は既にナチズムに対する禊は終わったという立場なのか。ならばこちらにも考えがある。ロシア国民がそんな偽善を許すと思うか?」と言ってのけてロシア国民の熱狂的声援を受けた背景には、こうした歴史的背景があったのだった。
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  • そしてポーランドにおいて「ポーランド人のホロコーストへの加担への言及」を禁止する法案が成立。「ナチスこそ絶対悪」なる表現は完全に偽善の領域に転落した。まさしく反日運動家が主張する「日本民族を(ナチスユダヤ人に対して目指した様に)偏見の極みをもって抹殺し尽くすまで、人類から差別が撤廃される事はない」なる矛盾の極みに満ちた論法が今や「リベラルの正義」そのものとなったのである。この問題は「アメリカにおいて先住民たるインディアンや黒人を覗く全侵略民族が駆逐され尽くすまで人類から人種差別が撤廃される事なない」なる過激論法につながっていく。

⑥「ドイツでは戦後一貫して幼少時より徹底してナチスの犯罪行為を絶対悪として教え込む教育がなされてきた」も嘘。

 

この辺りの錯綜した状況についてはギュンター・グラスの小説「蟹の横歩き(Im Krebsgang、2002年)」辺りが入門編に相応しい。

蟹の横歩き - Wikipedia

  • 何しろナチス残党が多数逃げ込んだ東ドイツにおいてはヒトラーナチスの犯罪性を問う事自体がずっとタブー視されてきた。メルケル首相がヒステリックなまでにリベラル寄りに振る舞い続けねばならないのも、旧西ドイツ系の国民より「これだから東ドイツ出身者は…」と後ろ指を刺されたくない故とも。

  • その一方で東ドイツ出身者は「全てのマイノリティは必ず敬われなければならなず、それが出来ない者はすべからずレイシストナチスである」「ところでドイツにおけるマイノリティとは我々東ドイツ出身者に他ならない」「従ってナチズムに傾倒する我々を非難するドイツリベラル層こそレイシストナチスという事になる」なる三段論法を駆使。こうした動きに便乗する形で旧西ドイツ市民の間でも(宗教革命時代にまで遡るプロイセン王統ホーエンツォレルン家とバイエルン王統ヴィッテルスバッハ家の対立を大源流とするミュンヘン市民のベルリン市民への対抗意識をも取り込んだ)ナチズム再評価の流れが生じる展開が生まれている。そもそも(オーストラリア出身のヒットラーら在外ドイツ人勢力に乗っ取られる以前の)ナチズムが(カソリック教徒が多く神聖ローマ帝国時代の分封体制下ではユダヤ人追放を「国是」としていた)バイエルン/ミュンヘン文化を大源流とする事を忘れてはいけない。

    *こうしたリベラリズムとナチズムの表裏一体関係は歴史的に根深い。例えばイスラム教が「(東ローマ帝国ササン朝ペルシャの戦争泥沼化で漁夫の利を得た)ハドラマウト商人の国際的活躍によるアラビア半島沿岸部の繁栄」が「伝統主義的で経済的発展がもたらす貧富格差拡大やモラルハザード進行といった諸葛藤の吸収力に欠けるアラビア半島内陸部の混乱」を引き起こし、これを解決する為の処方箋として成立した事を想起させる。イタリアにも同種の問題が存在し、これがファシズム成立の大源流となった。(これまでの投稿においても幾度も繰り返してきたが)江戸幕藩体制を「版籍奉還(1869年)」「廃藩置県1871年)」「藩債処分(1876年)」「秩禄処分(1876年)」といった一連の政策履行によってあっけなく解体出来てしまった日本人には、かかる「地域分断の絶対性がもたらす絶望感」がなかなか理解出来なかったりする。

最近、日本のリベラル層は「都議会選で絶対悪たるヒトラー安倍政権とナチス自民党に正義の鉄槌を下した都民ファーストの会が「関東大震災に際しての朝鮮人虐殺などなかった」と言い出して困惑しているが、欧州のリベラル層もまた同種の「」を抱え続けてきたという次第。あれ、これはどう見ても「ヒトラーナチスだけスケープゴート的にサンドバックにしても仕方がない」展開なのでは?

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いずれにせよ、どんなに美しいイデオロギーも「世界平和と人類平等を実現する為に、偏見の極みを以って滅ぼさねばならない人々が存在する」などと言い出したら(特にマイノリティの立場からそれを言い出したら)同じ道を歩む羽目に陥ると考えた方が良さそうなのですね。