諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【武装難民】【新羅の入寇】「全ては生得的に軍国主義化を求める日本民族の典型的妄想」?

最近ネットを騒然とさせてる展開。

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うまい事言ったつもり? でも実は現実に既に存在してるんです。「非実在の世界に追放されてしまった武装難民」なる概念がね。

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新羅の入寇 - Wikipedia

古代朝鮮半島に栄えた王国、新羅の流民や帰化人による犯罪及び新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等の総称。かつては「新羅の賊」と呼ばれた。新羅寇とも言う。

新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。さらにはしばしば新羅滅亡以後の賊徒侵攻も含む。

後世に再編された朝鮮側の諸史料に新羅寇の記録はまったくなく、逆に新羅倭寇に苦しんだとか日本に人質をもとめられた等の被害記事が多い。

いずれにせよ、朝鮮半島で後三国時代の混乱が高麗国の成立によって一旦治まると新羅寇の記録は日本側の史書でも見えなくなる。

弘仁の新羅の賊(811年〜818年)

弘仁2年(811年)12月6日、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった。翌12月7日未明、灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現し、これらの船が賊船である事が判明した。そこで、先に着岸した者のうち五人を殺害したが、残る五人は逃走し、うち四人は後日捕捉した。そして、島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけた。また遠く新羅朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告された。大宰府は、事の真偽を問う為に新羅語の通訳と軍毅等を対馬島へ派遣し、さらに旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門・石見・出雲等の国に通知した。

弘仁4年(813年)2月29日、肥前の五島・小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸した。新羅の賊は島民9人を打ち殺し101人を捕虜にした。この日は、基肄団の校尉貞弓らの去る日であった。また、4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本から新羅へ帰国した、と大宰府から報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した。事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した。

承和5年(838年)には、796年以来絶えていた弩師(どし、大弓の射撃を教える教官)を復活させ、壱岐に配備した。

弘仁新羅の乱(820年)

弘仁11年(820年)2月13日、遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。 しかし、相模・武蔵等七国の援兵が動員され追討した結果、全員が降服した。
帰化人には口分田と当面の生活費が与えられたが、実は博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり、それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みしたものとする説もある。

乱後処理として弘仁14年(823年)に若くして気鋭の藤原衛が遠江守に任ぜられる。衛は穏やかで落ち着いた統治を行い、百姓達も喜んだ様子であったとされる。

以上の経緯から新羅からの帰化人対策に詳しくなった藤原衛は、のちに新羅との最前線である太宰大弐を勤めていた承和9年(845年)、新羅人の来航・帰化申請の禁止を朝廷に進言した。朝議の結果、以後は帰化を申請してきた場合でも、漂着民に食料衣服を与えて追い返すこととされた。これは『貞観格』にも収められ、以後の新羅人対策の基本方針になった。

丹後国に上陸した「新羅東方の細羅国人」

貞観五年(863年)に丹後国にやってきた54人は「新羅東方の細羅国人」と主張した。

山春永らの対馬侵攻計画(866年)

貞観8年(866年)には、肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)・藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃しようとした計画が発覚している。

貞観の入寇(869年〜870年)

貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊、艦二艘に乗り筑前那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと卜(うらない)が伝えたとある。

9世紀半ばには、五島列島に唐や新羅の商船が寄港する基地があり、新羅海賊もここを経由して博多を襲撃したとみられている。また、同年の貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日)には、貞観地震や肥後で地震が発生している。

これに対し政府は囚人を要所に防人として配備することを計画したり、沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決め、賊徒を射た「海辺の百姓五、六人」を賞した。

その後、新羅に捕縛されていた対馬の猟師・卜部乙屎麻呂が現地の被害状況を伝えたため、結局大宰府管内のすべての在留新羅人をすべて陸奥などに移し口分田を与えて帰化させることに定めた。

このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に励んでおり、問えば「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」と答えたという。

また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶(ふじわらのげんりまろ)が新羅国王と内応して反乱を企ていたことが発覚している(藤原元利万侶の反乱計画)。

そして朝廷は貞観12年(870年)2月15日、弩師や防人の選士50人を対馬に配備。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した。これらの国防法令は「延喜格(えんぎきゃく)」に収められ、以後の外交の先例となった。
*また、伊勢神宮石清水八幡宮、香椎、神功陵などに奉幣および告文をささげ、「わが日本の朝は所謂神明の国也。神明の護り賜わば何の兵寇が近く来るべきや(日本は神の国であり、神の守護によって敵国の船は攻め寄せない)」と訴えている。以降、神功皇后による三韓征伐説話もたびたび参照されるようになり新羅を敵視する神国思想の発展へとつながっていく。

貞観12年(870年)9月、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する。
*貞観14年から19年にかけて編纂された『貞観儀式』追儺儀(ついなのぎ)では、陸奥国以東、五島列島以西、土佐国以南、佐渡国以北は、穢れた疫鬼の住処と明記されている。こうして対新羅関係の悪化は「天皇の支配する領域の外はケガレの場所」とする王土王民思想の形成をも促したのである。また、貞観の入寇の三年前の貞観8年(866年)には応天門の変が起こっており、こうした日本国内の政権抗争と当時における新羅排斥傾向の高まりを結びつけて考える説もある。

寛平の韓寇(893年〜895年)

日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、壱岐対馬にかけての入寇とその征伐の記録である。

貞観15年(873年)、武将でもある小野春風が対馬守に赴任、政府に食料袋1000枚・保呂(矢避けのマント)1000領を申請して防備の拡充を行っている。

寛平5年(893年)5月11日大宰府新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」。

翌寛平6年(894年)4月、対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、この知らせを受けた朝廷は、政治の中枢の人間である参議の藤原国経を大宰権帥として派遣するなどの対策を定めたが、賊は逃げていった。
*この間遣唐使が定められたが、一説に唐の関与を窺うためであったともいう。

寛平6年(894年)、唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻を始めた。9月5日の朝、45艘でやってきた賊徒に対し、武将としての経験があり対馬守に配されていた文屋善友は郡司士卒を率いて、誘い込みの上で弩を構えた数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃して220人を射殺。計300名を討ち取った。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。

捕虜の証言によればこれは民間海賊による略奪ではなく、新羅政府による襲撃略奪であった。捕虜曰く、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。

同年9月19日、大宰府の飛駅の使が撃退の成功を伝え、遣唐使も中止された(翌年9月にも壱岐島の官舎が賊のため全焼したことを伝えているが、これはおそらく本年度のこととみられる)。

翌年の寛平7年(895年)にも、新羅の賊が壱岐を襲撃し、官舎が焼かれた。

延喜の新羅の賊(906年)

天健金草神社の社伝には、延喜六年(906年)七月十三日、隠岐国の坤方から猛風が吹き、天健金草神の託宣があった。 「新羅の賊船が北海にあり、我、彼の賊を追退せんがため大風を吹かせた」その後、帆柱等が流れ着き、神威の大きさを知らしめた。と伝えられている。

長徳の入寇(997年〜)

長徳三年(997年)、高麗人が、対馬肥前壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。
*『百練抄』にはすべて「高麗国人」とあるが、『紀略』は南蛮の賊、奄美島人という『小右記』にみえる報告書の説を採って統一している。現地でも混同があったようだ。

同年11月に政府は南蛮の討伐を、翌9月には貴駕島に命じて南蛮の捕縛を求めた。この貴駕島は近年律令式建物遺構が発見された奄美・喜界島と推定されている。南海の法螺貝、夜光貝、硫黄などは日本の重要な交易物であり、薩摩が被害地に加わっていることから、薩摩に出入りの多い南蛮以外に考え付かなかったのだろうと推測されている。被害の全容が筑前筑後薩摩壱岐対馬、と報告されているところから見ても奄美島人の単独行為とは思われず、数百人の拉致も前例がない。

寛平の韓寇と酷似しているほか、長保3年(1001年)にも高麗人の海賊行為が見られる。参議藤原実資の「小右記」当該記事の頭書(見出し)に「高麗国の賊」としていることについて、後に全て高麗の所業と判明したためにこのような頭書が書かれた、とする説がある一方、歴史作家の永井路子は、陰険な性質で反道長派の実資が、報告を受けたときの道長たちのあわてぶりを克明に記していることから、そのことへの当てこすりとしてわざと「高麗の賊」との見出しをつけた(たかが奄美の賊に攻められた程度でなんとみっともない、という皮肉)という見解を示している。

藤原行成の「権記」の該当部分ではかなり深刻な事態であった様子が記されており、蔵人頭の行成と参議の実資ではかなり異なる受取り方をしている。

1093年には「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは単なる口実だとも考えられる。

半島に対する感情悪化と「九州武士」の登場

すでに貞観の韓寇にたいする奉幣祈願の文に「我が日本の朝は所謂 神明之国なり」という思想がみえ、神風による非戦の解決が唱えられているのが注目される。

延喜3年7月には隠岐国託宣があり、神風が賊船を漂没させたという風聞が行われている。また「?爾(サイジ)たる新羅、凶毒狼戻なり」「新羅人、奸を挟(いだ)くこと年久しく、凶毒未だ悛(やま)ず」など、韓寇を非難するさまざまな言辞がみられる。

被害地では新羅人への反感も高まり、承和元年(834年)には「百姓、之を悪(にく)み彎弓で射て傷つく」などと在留者への暴力まで発生した。これに対し朝廷では「新羅人の来航を全面的に禁止すべき(藤原衛)」などの少数意見もあったが、徳を慕って来日する者に「仁恕」を示すべきとの意見が多数を占め、賊虜を放還するなど中途半端な対応を重ねた。

大宰府の府官による討伐は、封建武士の成長が遅れた九州において、健児クラスの武人を極端に成長させることはなかったが、後世少弐氏など府官の名目を持ち外交権の一部を管掌する特異な武士の成長を促した。

*さらにはこんな事件も。
刀伊の入寇 - Wikipedia

寛仁3年(1019年)に、女真族満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。 

名称

刀伊とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)つまり東夷を指すtoiに、日本文字を当てた物とされている。 15世紀の訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では되(そのまま「トイ」)として表れる。

史料

この事件に関しては『小右記』『朝野群載』等が詳しい。朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がない。

日本沿岸での海賊行為頻発

9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前筑後肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であった。

侵攻の主体

刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配してひそかに高麗に渡り情報を得た。 長嶺諸近が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺諸近の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったことなどの情報を得た。

日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族

刀伊の入寇」の主力は女真族であったと考えられている。12世紀に金を、後の17世紀には満洲族として後金を経て清を建国する民族。近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクおよびからその北側にかけての沿海州日本海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、アムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられている。

10世紀前後に資料に現れる東丹国や熟女直の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たサブグループであったと考えられる。

13世紀初頭に蒲鮮万奴は中国東北部に大真国を建てたが、これら日本海沿岸部に進出していた女真族たちも加わっており、この時期にウラジオストク周辺や沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。しかし、日本海側沿岸部に進出した山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようで、近年の発掘報告によれば13, 14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構はその後使用された形跡がほとんど確認できず、これによって日本海沿岸部に進出していた女真グループは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。替わってモンゴル帝国に早期に従属したアムール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフトしたものと思われる。

また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側の資料でアムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。この認識の差異も内陸のアムール水系への交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている。

刀伊の入寇までの北東アジア情勢

926年に契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。当時の東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。

10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。1005年に高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。

1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられる。しかし、当時の女真族の一部は高麗へ朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであると主張した。また『小右記』でも海賊の中に新羅人が居たと述べている。 

対馬島への来寇

寛仁3年(1019年)3月27日、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。

壱岐島への来寇

賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。

藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼。

筑前国怡土郡への来寇

その後、刀伊勢は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、さらに博多を攻撃しようとしたが、最初の襲撃の後を襲った荒天の間に形勢を立て直した大宰権帥藤原隆家により撃退された。

博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日に肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へと撤退。

高麗沿岸への襲撃

藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行った。『小右記』には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女と多治比阿古見大宰府に提出した報告書の内容が記されており、それによると、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じたという。

しかし賊は高麗の水軍に撃退された。このとき、拉致された日本人約300人が高麗に保護され、日本に送還された。

高麗との関係

上述の虜囚内蔵石女と多治比阿古見は、高麗軍が刀伊の賊船を襲撃した時、賊によって海に放り込まれ高麗軍に救助された。金海府で白布の衣服を支給され、銀器で食事を給されるなど、手厚くもてなされて帰国した。しかし、こうした厚遇も、却って日本側に警戒心を抱かせることとなった。

『小右記』では、「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、新羅は元敵国であり、国号を改めたと雖もなお野心の残っている疑いは残る。たとえ捕虜を送って来てくれたとしても、悦びと為すべきではない。勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と、無書無牒による渡航を戒める大宰府の報告書を引用している。

日本は宋との関係が良好になっていたため、外国の脅威をあまり感じなくなっていたようである。日本と契丹(遼)はのちのちまでほとんど交流がなく、密航者は厳しく罰せられた。

被害

対馬の被害…有名な対馬銀山も焼損し、被害は、対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人(うち男102人、女・子供244人)であった。またこの時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され、対馬に帰還した。

壱岐の被害壱岐では壱岐守藤原理忠も殺害され、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59人の、合計148人が虐殺された。さらに、女性は239人が連行された[3]。壱岐に残った民は、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人であった。なお、この被害は壱岐全体でなく、壱岐国衙付近の被害とみられる。

記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという。

朝廷の対応

当初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、賊虜3人がみな高麗人であって、彼らは「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てたが、新羅や高麗の海賊が頻繁に九州を襲っていること(新羅の入寇、高麗の入寇)もあってか、大宰府や朝廷は半信半疑であった。

結局、賊の主体が高麗人でないと判明したのは、7月7日、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという。この非常事態を朝廷が知ったのは藤原隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着した後であった。

朝廷は何ら具体的な対応を行わず、防人や弩を復活して大規模に警護を固めた弘仁、貞観、寛平の韓寇の時に比べ、ほとんど再発防止に努めた様子もなかった。その上、撃退した藤原隆家らに何ら恩賞を与えなかった。これは平将門の乱藤原純友の乱承平天慶の乱)に続き、朝廷の無策と武士の影響力の増長を示すこととなった。
*ただし、追討の勅符の到着前に撃退していたため、勅符の重要性を強調して藤原行成藤原公任が恩賞不要の意見を述べたが、藤原実資が反論して恩賞を与えるべきとの結論に達したとされている。また、後に引退していた藤原道長の口添えによって恩賞が出されたともされている。

藤原隆家と九州武士団

藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、眼病治療のために大宰権帥を拝命して大宰府に出向していた。専門の武官ではなかったが、撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなった。

九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、平致行(致光?)、平為賢(為方・大掾為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれる。

源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。なお、中世の大豪族・菊池氏は藤原隆家の子孫と伝えているが、石井進は在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖だったろう、との見解を示している。

地政学的背景自体は全く変わってませんから「日本の未来に有り得る情景」なのが恐ろしい…ちなみにこうした記録が朝鮮側の諸史料にまったく存在しない事から「全ては生得的に軍国主義化を求める日本民族の典型的妄想」とする考え方も割と古くから存在します。いわゆる「日本民族は一刻も早く地上から滅ぼし尽くすべき先天的ナチス民族」説の重要な論拠の一つ。「人類平等の理念を達成する為には、日本人や黒人や東南アジア人やユダヤ人の様な先天的劣等民族を”生得的に人権意識を備えた気高き人類”と絶対に同一視してはならない動かぬ証拠」なる考え方に重要な基盤を供給してる訳ですね。こうした考え方の支持者の側から言わせれば、かかる不動の大義に少しでも違和感を覚える人間はすべからずナチズムを信奉するレイシストで、世界平和と人類平等の理念達成の為に、容赦なく一族郎党ともども絶滅収容所送りにして滅ぼし尽くさねばなりません。
*この思考様式の興味深い点は「ユダヤ人に対するホロコースト」を弾劾してもやはり「ナチズムを信奉するレイシスト」に分類されてしまう辺り。それだけ「絶対正義の実現」を提唱する側はイスラエル空軍が平然と敢行した先制攻撃「イラク原子炉爆撃事件(1981年)」が北朝鮮に対しても実施される事を心の底から恐れているのであり、最近の国際トレンドも「ヒトラーナチスも絶対悪だが、ユダヤ人絶滅を目指した志自体は必ずしも間違っていなかった」なる方向に向かっている。実際イラン革命防衛隊や彼らと親しい北朝鮮関係者の立場からすればそういう発想に至るのも止むを得ない側面が存在し、そういった彼らの立場に対する人道的配慮が欠かせないという訳である。実際日本のリベラル層の間でも「後進国の核開発設備を先制攻撃する民族はすべからずナチス民族」なるコンセンサス自体は次第に共有されつつある。ちなみに、こうした思考様式がこれまで一度も国際問題となった事がないのは、実際のユダヤ人が(「アメリカとイスラエルは一心同体」と主張する)親イスラエル派と(大事件がある都度、イスラエル国旗を焼いて抗議する)反イスラエル派に分裂しているからとも。
イラク原子炉爆撃事件 - Wikipedia

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*そもそも「ドイツ本国におけるユダヤ人狩り」においても、旧プロイセン王国領の様に長期にわたってユダヤ人と共存共栄を謳歌してきた経済的先進地域に限って「遠縁の親戚まで辿れば必ずユダヤ人富裕層が見つかる」状況が存在した。北朝鮮における「(遺伝子レベルでの、ただし婚姻関係も容赦なく含む)親日派と富裕層狩り」にも同様の側面が存在し(脱北者の証言によれば)実質上「有力者は気にくわない相手を好きなタイミングで「親日派や富裕層の親族」認定して破滅させられる」既得特権と化してしまっている。こうなるともはや「ユダヤ人」とか「親日派」とか「富裕層」といった言葉が本来宿していたある種の標的性自体が形骸化してしまうのである。そして最後には「我々が憎んで殺せと命じた対象は、親兄弟でも親族でも隣人でも自発的に歓喜に包まれながら殺さない人間はすべからずレイシストナチス」といった思考様式だけが残される事になる。

  • そういえば新羅入寇の同時期には関東で平将門が蜂起して平貞盛藤原秀郷藤原為憲ら追討軍に討たれたり、瀬戸内海で海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が蜂起して朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた承平天慶の乱(931年〜947年)も起こっている。こうして朝廷は次第に問題解決に際して「私兵を養う在郷有力者」の軍事力に頼らざるを得なくなっていき、遂には武家政権誕生に至る訳だが「日本民族は生得的ナチス」派にいわせれば、まさにこの流れこそが「(幾度となく繰り返されてきた)日本民族ナチス化=軍国主義化の典型例」なのだという。
    *ある意味「封建時代を経験した日本と欧州だけが自主近代化を成し遂げた」とする説の真逆。この発想に従うなら「近代化こそナチス」なる結論への到達を余儀なくされる。

    *この立場からすれば「一切の文明の利器を捨てて江戸幕藩体制の頃に戻ろう」と主張する日本のエコ左翼すら「ナチズムを信奉するレイシスト」のレッテルを貼られ絶滅収容所送りを免れ得ない。そして日本人が本当に回帰すべきは「(雲上人にさえ生まれつけば、領民に対する搾取も強姦も虐殺もやり放題の)平安時代」という事になる。確かに当時の基底をなす「領民が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」は、領主の絶対自由を無条件に容認してくれる(領主側にとっては)最高のシステムであり、SEALDsも国会前演説で「2000年前からの伝統を守れ(まさか先進国たる中華王朝から後進国たる倭国に下賜された「漢委奴国王印」下賜の事?)」と表現していたが、これが蔓延ってる限り「大量生産と大量消費の普及に伴い消費の主体が王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ支配階層からブルジョワ階層や庶民に推移する」産業革命など絶対に起こり得ないのだった。その意味では「資本主義こそナチス」?

  • 実際、欧米においてもナチズムの起源を「十字軍運動を背景として12世紀後半に結成されたチュートン騎士団の東欧への転戦とドイツ騎士団領(1224年〜1525年)の興亡」や、ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが文化闘争(Kulturkampf、1871年1878年)にかこつけて遂行した「ポーランド系市民を中心とする)東方領カソリック教徒に対する同化政策」にまで遡及して求める向きがある。これはこれで「人類平等の理念を達成する為には、ドイツ人やロシア人やユダヤ人やモンゴル人の様な先天的劣等民族を”生得的に人権意識を備えた気高き人類”と絶対に同一視してはならない動かぬ証拠」といった(しばしばカチンスキ兄弟の様な強硬派ポーランド人に見られる様な)反独反露イデオロギーにつながっていく。
    *何が恐ろしいって、あの極左盧武鉉大統領すら「共闘」を申し出られて断ったくらい。ただこれは「ドイツは既に世界中に対して謝罪済み。日本もそれに続け」なる伝統的イデオロギーを根底から破壊されてしまうのを恐れたせいとも。

    *この辺りの発言を辿っていくと、必ず「実はロシア人なんてみんな白人の皮を被ったモンゴル人に過ぎない」なんてイデオロギーに突き当たる。民族間憎悪のエスカレートに際限なんて存在しない。

    ポーランドナショナリズムの恐ろしさは「かつての大国時代に本当にドイツやロシアを力づくで屈服させる事に成功した歴史」を有してるあたり。最近はさらに「英国アーサー王伝説古代ローマ時代にブリテン島防衛の為に強制徴用された古代ポーランド人の伝えた伝承の影響を色濃く受けている」事実まで発覚し欧州中が「ポーランドのくせに生意気だぞ!!」なる鼻息を荒くしているという。

  • 実はこうした感情自体はアイルランドの様な「大国イギリスの隣国」や、カナダやメキシコの様な「大国アメリカの隣国」にもアンビバレント的コンプレックスに満ちた複雑なイデオロギーとして存在する。ここにさらにフランス系移民とかスペイン系移民といったマイノリティ問題が絡んでくるから、当事者すら容易には正解に辿り着けない程の混沌に満ち溢れている。

こうした考え方が案外馬鹿に出来ないのは、そもそもマジョリティ(優位派)とマイノリティ(劣位派)の関係など現実には相対的なものに過ぎないのに「虐げられてきたマイノリティは虐げてきたマジョリティに対して無条件に一方的に報復してよい」「その際にマジョリティ側は道義的理由から一切の反撃を禁じられる」なんて思考様式を認めたら「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが炸裂して「(誰もが歴史の主体になりたがり、競争の末に敗退すれば死が待つのみの)修羅の道」が顕現する現実を如実に示してくれるからです。
*ある意味こうした思考様式こそが「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」における各国を動かした最大の原動力だったとも。そして次の「産業至上主義時代(1960年代〜2000年代?)」には、日本においても「受験戦争の加熱」といった具合にその偏執狂的世界観の主体が次第に企業や個人へとダウンサイジングしていく。


2ne1「I am the best」歌詞

ネガ チェイル チャル ナガ(내가 제일 잘 나가、私が一番イケてる)×4

Bam Ratatata Tatatatata ×4

Oh my god

どこからみても 最高じゃない
2番目なんて『really 』最低じゃない Alright

みんなに追われてる
でも僕は走って
あなたのテーブルで踊ってる I don't care

一目惚れしちゃう
I’m hot hot hot hot fire
爆発しそう ほらワタシはhigher

12 o'clock on the dot,Steppin up in the spot.
Check my hair,
Blow a kiss for all the hearts
They gon' drop.
I am the flyest of them all
Fasho, deny this oh no

ネガ チェイル チャル ナガ(내가 제일 잘 나가、私が一番イケてる)×4

脱がしてみても 最高じゃない
ボディーラインもマジで『psycho』じゃない Alright

女子たちマネしちゃう
男子は叫んで
オレ様疲れる
もうみんなやめて

カッコつけるだけの
ウロウロなPlayer
捨てられたLoser
そう負け犬Gamer

It's 2 in the morning
our body's getting freaky
This beats bumping loud
But this boys keeps talking
I can't really hear him
But I think he's saying he loves me
Put a number 1 this paper
But I thow like a frisbee huh?

ネガ チェイル チャル ナガ(내가 제일 잘 나가、私が一番イケてる)×4

俺 天上天下唯我独尊
No no no no Na na na na×4

Bam Ratatata Tatatatata×4
Oh my god
*「最高=Psycho」なる地口(駄洒落)の恐ろしさ。ここに見受けられる「(韓国人が自嘲的に自認する)一番でなければゼロと考える競争社会特有の偏執狂的態度」はアルバム「NOLZA(2011年)」に基調を彩ったテーマの一つ。CLのメモを見た韓国系アメリカ人のプロデューサーが「何て隠し球だ。これで世界が盗める!!」と歓喜して全面採用し実際に国際的大ヒットとなった。それにつけても、こうした動向に対応する形で「また韓国人の偉大さが証明されてしまったか。だが2ne1は少しやり過ぎた様だ。韓国精神の再注入が必要」と考え、彼女達にトロット(韓国の演歌)を歌わせて全てを台無しにしてしまった韓国芸能界、ジャスティン・ビーバーやPSY「江南スタイル」の発掘者でもありながら「NOLZAの成功はCLの美貌のせい」と浅薄にしか評価せず彼女を引き抜きながらそのプロデュースに失敗した(スピルバーグ監督同様にハンガリーユダヤ人閥に所属する)音楽プロデューサーのスクーター・ブラウン、「これぞまさに我が企業のテーマソング」と気に入りSufaceのCMにおけるてテーマソングに選んでしまったMicrosoft社の絶望感…


*日本人なら中島みゆき「悪女(1982年)」から森高千里「ストレス(1989年)」を経てこの国際トレンドに到達した流れをきっちり意識すべし。別にそれ自体が欧米文化に鮮烈な影響を与えたという訳でもないが、当時の日本がそれなりに国際トレンドに追随出来ていた証左として。

*それにしてもこの場合「本物」と「偽物」を峻別する事にどんな意味があるのか。「歴史上の現実においてイエズス会は所詮「騎士道修道会のデッドコピー」に過ぎなかったし、新撰組もまた「(武闘派農民の憧れを一心に集めた)武士団のデッドコピー」に過ぎなかった。しかしだからこそ、彼らだけが到達し得た「本質」もまたある?

*それはまさに到達不可能性を熱狂によって補おうとする魔術的リアリズムの世界に他ならない。まさしくニーチェツァラトゥストラはかく語りき(Also sprach Zarathustra、1885年)」でいうと「(誰もが「たかが遊びに過ぎない」と口では言いながら必死に没頭しようとする)ロバの偽祝祭」の世界。

*2ne1「NORZA」の大流行は国際SNS上の関心空間に「(2ne1を否定する相手は鯉口も切らず自然に刀が鞘走って相手を斬り捨ててしまう、居合抜きの達人の如き)女侍アカウント」を跋扈させた。その彼女らは好んで久米田康治原作ヤス作画の漫画「じょしらく(原作2009年〜2013年。アニメ化2012年)」のアニメ版ED「あっぱれ日本」も聞いていた。勝因は「さよなら絶望先生 (2005年〜2012年)」の久米田康治と「とらドラ!(2006年〜2009年)」のヤスのコラボ作品だった事に加えて「吉田兄弟のW三味線」が音源としてロンドンやNYあたりのDJにもてはやされた事…こういうのが「世界最先端を突っ走る日本」なのであって、どんどん「世界で一番イケてるという日本人のセルフイメージ」なんてどんどん時代遅れに。

*ところでYouthbeでこの辺りの動画を検索したらNANOの曲を大量にリコメンドされ、かつそれには日本語コメントがほとんどない。もしかしたら日本はまだかろうじて「情報発信国」には留まっているものの、既に本当に「情報受信国」の座からは滑り落ちてしまっているのかもしれなくて?

*そして満を持した形で「(実は内面的にはかなり純情な)1980年代日本の不良少女」から 「(どんな苦難も平然と乗り越える)女Badass」への変貌を「ワンダーウーマン(Wonder Woman、2017年)」をしっかりと描いてみせた。この時「国際SNS上の関心空間を巡回する女侍アカウント」が注目したのが「(欧州の伝統においては、それに乗って臣下から担ぎ上げられる事が国王即位を意味した)盾を用いた演出」。どうやら彼女達は「生涯仕えるに値する主人」を探しているらしい? そして高らかに「ヒトラーナチスさえ絶対悪視してれば事足りる」と考える安直な正義感から脱却…

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マジョリティ(優位派)の殲滅を試みるマイノリティ(劣位派)」の最大に問題点、それは「マジョリティ(優位派)の殲滅に一定以上成功した段階で、従来のマイノリティ(劣位派)がマジョリティ(優位派)に転じる」あたり。もちろん当事者にとっては最初から「自分がマジョリティ(優位派)の立場に立って、マイノリティ(劣位派)殲滅を完遂する為の方便」に過ぎないのが普通で、だから「こんなの騙される方が悪いに決まってるわ!!」と高笑いで宣言しながら相手を滅ぼし尽くしても、理論上は良心的葛藤の生じる余地など生じる筈もないのです。しかし実際の「本当に朝廷に勝利してしまった武家政権」や「本当に欧州再統一に成功してしまったナチス・ドイツ」においては、それを契機に様々な矛盾が噴出し、モラルハザードが加速して大変な事になってしまいました。太陽王ルイも、フランス国王の座が「大貴族連合や教会といった既得権益の存続に執着する守旧派マジョリティに対する(新興産業階層といった)進歩派マイノリティの代理人」といった構図を失い、単なる独裁者へと変貌したらフランス絶対王政が崩壊するのを予見していました。どうやらここにも、ある種の「事象の地平線」が存在すると考えるべきなのかもしれません。

さて、私達は一体、どんな未来に向けて漂流しているのでしょうか?