諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「ダンケルク」観てきました① SM的共依存関係と「事象の地平線としての絶対他者」の狭間

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せっかく「ダンケルク」を見に行ったのでそれについて書きたいのですが「3種の時間軸の平行進行」と「石炭袋=久遠の仏」概念の共通性をうまくまとめて語る記述の完成に手間取っていてなかなか発表段階に至りません。

ただ、このままだと確実に旬を逃してしまうので、そこから切り出す形で部分的考察などをメモ形式で残しておく事にします。

M(マゾヒスト)のMは「満足のM」。

ムチで打たれたり暴言を吐かれたりと、肉体的・精神的な支配を受けることで快感を得ます。心理学的には自分の欲求を追及したい人のことだそうです。

S(サディスト)のSは「サービスのS」。

相手の快楽を引き出して快感を得るのです。そのために、ムチで打ったり暴言を吐いたりという行為を行います。好きな相手を自分好みにするために調教を行う、という愛のあるいじめが基本です。

すなわち、どちらかというと“ご奉仕”するのはS。

そして、肉体的にハードなプレイをする究極のドSには、究極のドMが相手でなければ、それは単なる拷問。お互いのニーズが合っていなくてはSMは成り立たないのです。

*何故か日本においては「(製造業会やマスコミが、それ以前の総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)から「挙国一致体制」の概念のみを継承しようとした)産業至上主義(1960年代〜2000年代?)」の成熟期あたる1980年代から1990年代にかけてこうした議論が盛んとなった。

伝統的にしばしば「女子の本質はマゾヒズム(被虐性)、男子の本質はサディズム(加虐性)」「領民の本質はマゾヒズム、領主の本質はサディズム」なんて言い回しが用いられてきましたが、現実には男子も女子も領主も領民も加虐性と被虐性の両方を備えており、状況によって使い分けているだけ。ならばどうしてそういった言い回しがコンセンサスとして広まったのでしょうか?
*考えてみればこれもまた「事象の地平線としての絶対他者」と最良の関係を構築しようとする戦略の一つとも。要するにSM的共依存関係は、この次元においてある種の「計器」として作動し得るのではなかろうか?

そして映画「ダンケルク」でスピットファイヤーとフォッケウルフの巴戦に興奮するうちに、さらに性能差の離れた零戦とP-40の空中戦が脳裏を過ぎったのです。

  • 巴戦に突入してからの運動上の優位性に絶大な自信を有していた零戦パイロットは、敵側に背後を取られても却って喜んだという。実際、しばしば逆転勝利も決めているのである。この「まず相手に一発殴らせて反撃の大義名分を確保しつつ、相手に自分の側の優位と余裕を知らしめる尊大な態度」こそマゾヒズムの本懐の一つというべきかもしれない。

    *そういえば米国におけるワンダーウーマンの展開は(「ヘスティアの紐で縛る」アクションから容易く想像される様に)ボンテージ文化(特に「女王様」に服従する倒錯)と密接な関係にあった。特に1950年代に顕著に見られた傾向で、そういえば江戸川乱歩「影男(1955年)」や横溝正史「三つ首塔(1955年)」の様な作品にも共時性が及んでいる。

    *また1970年代から1980年代にかけて日本に少女漫画革命を起こした女性漫画家達の多くが横山光輝伊賀の影丸(1961年〜1966年)」や永井豪けっこう仮面(1974年〜1978年)」の拷問シーンでエロティズムに目覚めたと告白している。ただし同時に「あらかじめ必ず最後には逆転して拷問する側が滅ぼされると分かっているから安心して楽しめた」とも言い添えている。

    *「吸血鬼クロニクル・シリーズ」のアン・ライスは「眠り姫(Sleeping Beauty)シリーズ(1983年〜1985年)」なるSMファンタジーも手掛けているが、その中でSM文化が「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義権威主義」やカソリック文化や「(トルコのハーレムなどの異国情緒に向けられた)外国人趣味」を起源とし、その水面下に絶えず「下克上の野望」が渦巻いてきた事を明らかにしている。この辺りの認識は同時期世界的ヒットとなった南アフリカ出身のJ・M・クッツェー「夷狄を待ちながら(Waiting for the Barbarians、1980年)やカナダ出身のマーガレット・アトウッド「侍女の物語(The Handmaid's Tale、原作1985年、映画化1990年、ネットドラマ化2017年)を読み解く鍵ともなる。 ただこうした実際の歴史に忠実すぎるSM観は1990年代には早くも女性向けポルノグラフィ・コンテンツとしては色褪せ初めていたし「(トーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス」を好む平凡な女子学生とSMを通じてしか女性を愛せない大富豪の出会いに端を発する)フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ・シリーズ(Fifty Shades of Grey、2011年〜)」には、エイドリアン・ライン監督「ナインハーフ(NINE 1/2 WEEKS、1986年)」のパロディとしてかろうじて成立したという側面を有していたのである。そう、多くのカウンター・カルチャー運動がそうであった様に、ボンテージ文化もまた公認され洗練される代償として本質的に内包していた「他者性」を手放さざるを得なくなる展開を迎えたのだった。
    フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ - Wikipedia

  • 一方、急降下性能と装甲の厚さくらいしか敵への優位が存在しないP-40パイロットは(相手に反撃の余地を一切与えず目的を達成し、後はただ逃げ去る)一撃必殺戦法に活路を見出した。この「自分に可能な事をただひたすら洗練させて相手への影響力を増そうとするスペシャリスト=職人的態度」にサディズムの大源流の一つを見る向きも。
    P-40E-1 - War Thunder Wiki*

    *そもそも「サド侯爵のサディズム」は「(フロンドの乱(La Fronde 1648年〜1653年)で大貴族連合が絶対王政側に破れて以降、没落が続いてきた貴族文化の鬱屈が産んだ)リベルタン (Libertin)文化(あらゆる既存倫理に挑戦する事にしか生き甲斐を見出せない退廃志向)」や「(無神論の一環として流行した)人間が刺激に反応する装置に過ぎない事を強調する機械的生理学論」や「(その徹底的なまでの他者拒絶姿勢と悪魔的な形で表裏一体をなす)市場マーケティング主義」の複雑怪奇な混合物だった。その意味合いにおいて(あえて宮廷文化に背を向け「ロココ文化の完成者」となる道を選んだフラゴナール同様に)「ロマン主義運動や象徴主義の先駆」と目される事になったのである。つまりこのアプローチもまた(カリスマ性の起源同様に)絶対他者性と不可分な関係にある。

実際にはさらにこれに「加えて「男は選ばれる性」「女は選ぶ性」みたいな文化的背景もありそうです。

*そして「絶対他者性」を喪失し、権威主義的気質だけが残った「(宗教や政治や経済と未分化状態にあった)伝統的SM文化」は、それと決別したBDSM(Bondage、Discipline、Sadism、Masochism)文化から置き去りにされ、無残な老醜を晒す展開を迎えるのである。

*そういえば1960年代黒人公民権運動の勝利は非白人文化に台頭の契機を与え、1970年代初頭に「黒人搾取映画(Blaxploitation / Blacksploitation)」や「カンフー映画」の大ブームを引き起こした。その一環として「女囚人物」なるジャンルも登場しボンテージ文化とナチズムの親近性から「ナチス収容所物」なるサブジャンルも産んでいる。こうしたカンブリア爆発的状況は最終的に1990年代における「文化の政治至上主義や経済至上主義からの脱却」という方向に向かう事になったのだった。この流れを黙殺しては「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」や「産業至上主義時代(1960年代〜2000年代?)」の次に第三世代フェミニズムなどが所属する「多様化の時代(1990年代〜)」が登場してくる歴史的流れが読み解けなくなる。

*そして狩撫麻礼が「あちら側(産業至上主義に完全に組み込まれ満足している一般市民)とこちら側(かろうじてそれだけは回避した多種多様な抵抗者の群像)の峻別」を幻視し得た1980年後半から1990年代前半。この時期にのみ確からしく感じられた何かというのも確実に存在した。だがもちろんそれは以降の時代「決して取り戻せない過去」へと変貌したという次第。21世紀を生きる現代人は、まずこの認識から出発しなければならないのである。

要するに「ダンケルク」という映画には、こうした有象無象を本当に一切合切捨て去ったら後に何が残るか試して見たという実験映画的意味合いもあったと思うのです。なにしろ映像中に登場するナチスドイツ軍はこうした「人間らしい感情」を生じさせてくれる余地を一切与えてくれません。かくして「絶対他者なるもの」は、どんなに完璧な形で放逐しても必ずこうやって舞い戻ってきてしまうものなのです。その時代の人間が想像する最もおぞましい形で…

*「人間らしい感情」を生じさせてくれる余地を一切与えてくれないナチスドイツ軍…そう、まさに新海誠監督映画「君の名は(2016年)」においてあくまで「日常に裂け目を生み出す絶対他者」の立場に留まり続けるティアマト彗星そのもの。映画「エヴェレスト 神々の山嶺(原作1994年〜1997年、漫画化2000年〜2003年、映画化2016年)」におけるヒマラヤ山渓そのもの。

とりあえず「ダンケルク」を鑑賞しながら、そんな事について考えていました…まずはメモがてらこうして記録に残しておく事にします。