諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「ダンケルク」観てきました② 「石炭袋=久遠常在」の境地と「21世紀のダンケルク」。

そして現代のダンケルク

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そもそもクリストファー・ノーラン監督は初監督作品「メメント(Memento、2000年)」の時から「時間軸」に拘ってきた監督でした。

そして「ダンケルクDunkirk、2017年)」においては「陸組の1週間」「海組の1日」「空組の1日」の無理ない共存を描いています。

 この魔法の種は一体…

まず「人類の認識範囲」を以下の様に設定する。

  • 「人類の認識範囲」は原則として華厳経における「海印三昧の境地」、フェニックス・ガタリのいう「マシニック(機械状)の世界」、より具体的にはオブジェクト志向並列処理言語においてコンピューターのメモリ空間を満たすインスタンス・オブジェクト(外界(接続デバイス)やインスタンス・オブジェクト間のリンク網を全てカプセル化したハンドル集合)の事。要するにこれが仏教でいうところの「(人類の観点からは決っして自己と他者の切れ目が発見出来ない)縁起の世界」。

  • 法華経における「久遠常在」の概念は時空間を超越した先に救済の根源を求めるが、これは宮沢賢治銀河鉄道の夜」における「石炭袋」、すなわち人間の目に映る「ブラックホール=事象の地平線としての絶対他者」に対応する。理論上それは「縁起の次元」と直行している筈だが、そもそも両者の関係が各オブジェクト・インスタンスの内部記述の中にそれぞれカプセル化されている為、実際には予測不能の振る舞いを見せる事も多い。

個人の自由意志に対して前者すなわち「縁起の世界」の概念は「究極的にはこの時空間に如何なる影響も及ぼせないという諦観」を、後者すなわち「事象の地平線としての絶対他者」はその逆に「力の集積と量的拡大が時空間の制約を超越する可能性」を示唆する。一見それぞれ全く異なる原理とも見て取れるが、実は両者は相補関係にある表裏一体の存在なのかもしれない。
*自分で提言しておいて何だが、なんかカント哲学とヘーゲル哲学を強引にアウフヘーベン(aufheben、ドイツ語では「廃棄する・否定する」と「保存する・高める」の二様の意味があり、日本語では「止揚」あるいは「揚棄」と訳されてきたが、正解は案外「(時代遅れの旧神や怨霊などを敬いつつも遠ざける)敬遠」あたり?)した様な不思議な内容。まぁ要するに、最近「数学的アルゴリズムと完全に一致すると証明された」コンピューター工学の世界と(それが直接扱えない、矛盾に満ちた)現実世界の諸矛盾を(ベイジアン・フィルターや量子コンピューターといった諸概念の技術的援用も受けられ、リアルタイムで書き換え続けられる)内部スクリプトにまとめて皺寄せしたという構図。

例えば映画「ダンケルク」において(時空を歪ませる)主体として取り上げられたのは(大陸に取り残された40万人の連合軍将兵の救出を目指した)ダイナモ作戦(Operation Dynamo、1940年) で、画面上に登場する各登場人物は全てそれに取り込まれる形で「時空の歪み」を体験する事になります。以下の様な諸概念と表裏一体を為す形で…
*それが誰の意思なのかについては作中でも一切描写されていないし、実に難しい問題。そして実は冒頭で取り上げた「英LCC破綻による全便キャンセルがもたらした11万人の帰国難民」における同種の背景構造と比較する事によって、さらなる深淵が覗ける展開を迎える。

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  • 宮沢賢治オツベルと象(1926年)」における「世界の秘密を知ってしまった」仔象の寂しげな笑い。人類が喜んで自ら搾取されに向かう対象としての資本主義の再発見。だが実は、それ以前に遡っても「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義権威主義体制」が存在するばかりで、科学的マルクス主義とはこれへの回帰に他ならなかったのではあるまいか?

  • 塹壕戦にホメロスが「イーリアス(希: Iλιάς, 羅: Ilias, 英: Iliad、紀元前8世紀)」に描いた英雄達の栄光など「主観的誤謬」という形でしか存在し得ないと知りつつ、浸透作戦の先頭に幾度も立ち続け「英雄」となったエンルスト・ユンガーの「魔術的リベラリズム」の世界。

    *当時はソビエト連邦神聖ローマ帝国の分権状態再来を夢見たスパルカタス団や中世的ギルド再建を夢見た革命的オップロイテにも同種の傾斜が見て取れる。

    ナチス台頭期をリアルタイムで生きたマンハイムは「現実の保守主義は、中高集権強化に熱狂する全体主義的指向性だけでなく、絶対王政成立を恐れ徹底抗戦を続けてきた第貴族連合の様な社稷(血統)的無政府主義という正反対のベクトルも含む」としている。

    実際、当時のドイツには最終勝者とならなかっただけで「ソビエト連邦成立にインスパイアされて神聖ローマ帝国時代の分権状態への回帰を主張した」インテリ中心のスパルカタス団や「中世ギルドへの回帰を夢見た「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年)」の著者ジョルジュ・ソレルに端を発するアナルコサンディカリスム(Anarcho-syndicalism)の影響を色濃く受けた」革命的オプロイテといった無政府主義運動も数多く存在しており、そうした守旧派的動きに対する警戒心がかえって国民を「中央集権化=全体主義化」へと駆り立てていく側面すら存在したのである。

    *「泥の大海に蓮乗花を探すセンチメンタリズム」に立脚する米国ハードボイルド文学と親和性が高い。そして両者はサム・ペキンパー監督映画「戦争のはらわた(Cross of Iron、1977年)」において交錯する。♪蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ…

  • そして今日のオルタナ右翼の大源流とも目されているゲッベルスの「絶えず何かに熱狂している様に見せかけているが、その実何も信じてない」独特のニヒリズム

こうしたニヒリズムへの対抗馬として河原礫「ソードアートオンライン・シリーズ(2001年〜)」「アクセル・ワールド(2009年〜)」やアンディ・ウィアー「火星の人(The Martian、2011年、映画化2015年)」には米国開拓者精神に由来する超越主義(transcendentalism)への原点回帰が見受けられる展開を迎えたとも。

かくして映画「ダンケルク」のクライマックスは燃料切れを起こしたスピットファイヤが夢の活躍を繰り広げる展開に。ただし、そこにはもうカントの様に先験的(transzendental)要素を求めたり、ヘーゲルの様に「事象の地平線としての絶対他者」に「宇宙の救世主としての統合力」を求める様な甘えなど存在していなかったのです。この方面において人類は想像以上の進化を遂げてきた?

  • 「私はトムリドル」「私は蒲田君」「私はオプスキュラス」と連呼してきた国際SNS上の関心空間に集う女子アカウントは「それでも(いやだからこそ)他人に被害を及ぼし始めたら殺せ」と断言する。この線引きこそ女性解放運動の大源流にあったジョン・スチュアート・ミル「自由論(On Liberty、1859年)」の極意「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合は権力がこれを妨げる事を許される」の内在化?
    *ここに「銃社会ならではの頭の切り替えの早さ」「スティーブン・キングモダンホラー小説でも描かれた(ゾンビ映画創造を可能とする)隣家との独特の距離感(日本だと団地の隣人間に同種の疎外感が存在する)」などを指摘する向きも。

  • 一方国内男子は「スピットファイヤ!!スピットファイヤ!!スピットファイヤ!!」と連呼するのみ。Reddit4chanではオルタナ右翼として振る舞う「絶えず何かに熱狂している様に見せかけているが、その実何も信じてないゲッペルス・タイプも、国際SNS上における関心空間では女子アカウントの数的優位に魅了され、大人しくその追っ掛けに徹している事をふと思い出した。

    *その女子は国内でも国外でも「空組きゃー」「海組きゃー」「陸組きゃー」だったりする。

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こうして全体像を俯瞰してみると、実は「意志の力による時空の歪み」など、思うよりあっけないほど普遍的な体験な様に思えてくるから不思議なもの。そして実はそれこそが「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」とカール・マルクスが看過した「人間の社会性」の正体なのかもしれません。

とりあえず「ダンケルク」を鑑賞しながら、そんな事について考えていました…まずはメモがてらこうして記録に残しておく事にします。