諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【中森明菜】【1980年代パッシング問題】「貞女VS毒婦」なる二項図式の壊滅過程?

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これまでの投稿において19世紀末にダーウィンの系統進化論やスペンサーの社会進化論(Social Darwinism)に対する誤解から「弱肉強食論」や「終戦争論」が生まれ、それが「(新聞や映画やラジオに立脚する)総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」や「(テレビや週刊誌に依存する)産業至上主義時代(1960年代〜2000年代?)」の重要な原動力の一つとなってきたメカニズムが明らかとなりました。

(インターネットに立脚する)多様化の時代(1990年代〜)」とは、実はこの立場を捨て、元来進化論が寄ってきた「適者生存」「性淘汰」「相互扶助の連鎖」といった概念の復活によってこの問題を克服しようとする試みなのかもしれません。ざっくりながら自分の直感に合致する歴史観をやっと獲得出来た感じ?

しかしながら、その結果としてこうした時代的変遷が産んだ「1980年代パッシング問題(21世紀から振り返った日本文化史上において、1980年代から1990年代にかけて巨大な空白が存在する様に見受けられる問題)」を解決すべく、個別事例についてより詳細に当たらなければならなくなってしまった感があります。
*まぁ全体主義的傾向が強かったそれまでの時代に「多様化の時代が始まる前夜」を求めていく作業な訳ですから、楽な筈がありません。


例えば中島みゆき「悪女(1981年)」と2000年代に中森明菜がこういう形でこの曲をカヴァーするまでに一体何があったのでしょうか。


そしてふと気付いてしまったのです。西部開拓時代の終焉期、それまで時代を支えてきた「賞金稼ぎ」の最後の末裔たるトム・ホーンが縛り首にされる時「これまで西部がどれだけ人間をボロボロになるまで酷使して使い捨ててきたか、新参者には想像も出来まいよ」と嘯きます。中森明菜という存在はその意味でもこの時代を象徴する存在というべきかもしれないと。

  • 明らかに最初の動きとしては映画「Times Square(1980年)」からYMO「BGM(1981年)」に至る流れを意識すべきだろう。そもそもYMOがこのアルバムに「BGM」なるタイトルを与えたのは「バックグランド・ミュージックとして聞き流さないと危険な内容を詰めた」という意味合いからだったという。確かにそこには「迂闊に肯定も否定も不可能な絶対他者との邂逅」を真摯に描こうとする姿勢が見受けられらたものである。
    *そして真摯だったからこそ「Times Square(1980年)」におけるヒロイン二人は最後に道を分かつ。絶対他者と一般人が同じ道を歩み続ける未来など到底見出せない時代だったが故に。

  • その一方、不思議なまでに1980年代前半の角川映画に登場した役者の国際評価は高い。「探偵物語(TVドラマ化1979年〜1980年、映画化1983年)」における松田優作深作欣二監督映画「魔界転生(1981年)」における千葉真一、新里見八犬伝における「地母神的」夏木マリの演技など。逆に「役者の演技だけがクローズアップされる」という現象は、和製ドラマのそれ以外の部分が今日では想像もつかないほど行き詰まり、その穴を「役者のカリスマ的演技」が埋めていたかを意味しているのかもしれない。
     
    *「伊賀忍法帖(1982年)」における渡辺典子の「三役挑戦」も、かなり頑張った方だと思うが、この時代にはまだまだ「一人の女性が貞女と毒婦を演じ分ける事の意義」が現代ほど認識されていなかったのである。

  • 今日から振り返ると、アン・ルイスは欧米における欧州ニューロマ運動のトレンド化に思っていた以上にインスパイアされていた。ビジュアルバンドを通じて日本にゴシック・ロリータ文化を根付かせた系譜でもあるからややこしい。
    *ヴィサージやウルトラヴォックスとメイド服文化の連続性。何それ美味しいの? 当時をリアルタイムで生きていた人間すら納得のいかない錬金術。同時に中国伝来の「拉麺」が日本文化に取り込まれ「ラーメン(日式拉麺)」へと変貌していくダイナミズムも感じる。中島みゆきが「悪女」に込めた「不良少女の純情(深情け)」の華麗な形での復活。


  • 1970年代から継承した「(万人に噛み付く凶暴な)不良少女」のイメージも和田慎二スケバン刑事(原作1976年〜1983年。実写ドラマ化1985年〜1987年)」における「(国家権力の後ろ盾を得た)正義の不良」なる鮮烈なイメイージに上書きされてしまう。
    *この流れに米国青春搾取映画との関連が生じてくる辺りが興味深い。

    *それにしても当時は「ブルーワーカーとホワイトワーカーの階級的境界線」も揺らぎ始めていた事を彷彿とさせる。スターウォーズシリーズにおける汚れの描写や丁寧に描かれるグランドサービス過程、航宙士から港湾労働者に転落したリプリー、「ブレードランナー」や「ニューヨーク1997」やサイバーパンク文学が好んで描いた(そのほとんどが闇に沈んだ)猥雑な街並み、そして溶接やフォークリフト操縦の現場へと進出していく女性達…


    *こうして全体像を俯瞰してみると、むしろシンディー・ローパー「Girls Just Want To Have Fun(1983年)」やマドンナ「Like a Virgin(1984年)」の踏み込みはいかにも浅く、この辺りが後世における「1980年代パッシング」の遠因の一つとなっていく。

  • そして北条司「キャッツ♥アイ(CAT'S♥EYE、1981年〜1984年)」「シティーハンターCITY HUNTER、1985年〜1991年)」の世界。当時はピアース・ブロスナン主演の「探偵レミントン・スティール(Remington Steele、1982年〜1987年)」と一緒くたに楽しまれていた。
    *かくしてTMNGet Wild」が華やかに登場する。


    *著者のインタビューによれば「チャーリーズ・エンジェル(Charlie's Angels、1976年〜1981年)」辺りが元ネタだったという。

  • そして1990年代に入ると、1980年代をロリ子役として過ごしてきたアラニス・モリセットAlanis Morissette)が「You Oughta Know(1995年)」なんぞを歌い出す。今日なお中島みゆき悪女」と並んで「結婚式で絶対歌ってはならないタブー曲」の一つとされている。

    *こうして遂に国際的に廃墟感が広がって「1980年代パッシング」が始まる訳だが、ここで興味深いのがGoth系信者が口を揃え ティム・バートン監督映画「シザーハンズ(Edward Scissorhands、1990年)」をその重要な真祖の一つに挙げてる辺り。そして日本においても1980年代のどこかの時点で洋楽趣味がビジュアルバンドへの熱狂に差し変わっている。

どうやら錬金術のタネは当時のこのプロセスにある様だ? それにつけてもテクノやニューロマや米国青春搾取映画テーマ曲の亜流として始まり、次第に独自性を獲得していく1980年代独特の「あの音」感って一体何なのか。そして…

こうしたムーブメントに先行してある種のグループサウンズの完成形となった1970年代アニメの主題歌「キューティーハニー」「魔女っ子メグちゃん」辺りとの連続性となると、完全に理解不能…いや、もしかしたら「既存秩序が「事象の地平線としての絶対他者」から有用な部分を切り取っていくサイクル」への追記によって、この問題は解決可能なの?

時代によってPC(Political Correctness、政治的正しさ)が何かは移ろいでいく。しかし「事象の地平線としての絶対他者」は、社会変革の触媒とはなり得ても、その全てが完全に社会の一部として取り込まれる事はない。

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  • 既存価値観の矛盾が鬱積すると、それまであえて強制的に視野外に置かれてきた「事象の地平線としての絶対他者」が奇妙な説得性を持ち始める。
    *例えばカソリック陣営とルター派の歴史的和解を意味する「アウクスブルクの和議(Augsburger Reichs- und Religionsfrieden、1555年)」が、かえって蚊帳の外に置かれたカルヴァン派を暴力に傾倒させていった様に。

    *同じく「外交革命(独Umkehrung der Allianzen, 仏Révolution diplomatique, 英Diplomatic Revolution)」によるハプスブルグ家とブルボン家の歴史的和解による戦争の沈静化がフランス人の目を国内の身分制の矛盾に目を向けさせ、フランス革命(仏Révolution française, 英French Revolution、1878年〜1899年)」を勃発させてしまった様に。

    *同じくハプスブルグ家がマジャール系貴族を取り込む事で他の諸勢力との関係を拮抗させ様としたオーストリアハンガリー二重帝国(1867年〜1918年)」が「マイノリティとしてのドイツ民族の救済」をスローガンに掲げて欧州全土を統治下に置いたヒトラー率いるナチスなる鬼子を産んでしまった様に。

    *同じく南アフリカによるオランダ系先住移民と英国系先住移民の「手打ち」の産物たる「アパルトヘイト(Apartheid、1948年〜1994年)が、(それまで分断統治されてきた)黒人諸部族を切り捨てた為にかえって彼らを団結させ、解放運動に駆り立てていった様に。そう「仮想敵を設定して集団内部に団結をもたらす戦略」は常に「それを契機に敵も団結し新たな巨大抵抗勢力を生み出す」リスクを孕んでいるのである。
    アパルトヘイト - Wikipedia

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    ウーマンリブ運動やLGBTs解放運動もこうした経緯から歴史の表舞台に登場してきたが、実はそれゆえに「誰かを切り捨てた途端に自分達も同じ立場に堕してしまう」というジレンマを抱えているのである。

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  • こうして既存価値観を揺るがす新たな価値観が台頭すると、体制側まずそれを「最後には必ず自滅していく」絶対悪認定して勧善懲悪のバランスを保とうとする。
    *例えばハリウッド映画界において長く倫理規程として君臨してきたHays Code(1930年制定、1934年〜1968年履行)も映画は「幸福で健全な結婚」を推奨する内容でなければならないと定め、同性愛や異人種間の結婚をギャングやその情婦同様に「異常で間違った存在として描き、必ず破滅に終わらさねばならない」と定めている。ただしこれを策定したのが主にユダヤ人とアイルランドカソリックのグループだった事から、当初よりプロテスタント系映画人などの間に「絶対に守るもんか。必ず抜け穴を探し続けてやる」と誓われてしまった側面も存在した。

    *その影響で(江戸川乱歩の影響で)同性愛者をしばしば作中に登場させた」横溝正史も、そうした人々を「他にも病的西壁を沢山備えた先天性悪人」として描き、物語中において確実に破滅させ続けていく。さらに「悪い種子(The Bad Seed、原作1954年、映画化1956年)」やナボコフ「ロリータ(Lolita、1955年)」の影響を受けて以降は「美少女シリアルキラー」が常連に加わった。また黒澤明監督も「言われるまでもなくヤクザは絶対に美化して描かないし、幸福な結末も迎えさせない」と誓って映画製作に邁進した一人として知られる。

    (マレーシアでは)映画に同性愛者のキャラクターが出てきてもよいが、それは同性愛者がネガティブに描写されていたり、悔い改めたりする場合だけだ。

    Gay characters can be shown in films, but only if they are portrayed negatively or repent. 

  • だが堤防崩壊は蟻の一穴から生じる。かくして(商業至上主義的目論見もあって)表舞台への台頭を許された「いかがわしい人々」 は次第に既存価値観を形骸化させ、新たな価値観の構築を促進する触媒となっていくのである。

    *こうした時代には「(商業至上主義的目論見もあって)完全に黙殺されるよりネタとしていじられた方が遥かに人道的で健全」なる過渡期的価値観が現れる。「 とんねるずのみなさんのおかげです(1989年〜1994年)」における「保毛尾田保毛男」の登場は、まさにそうした時代の落とし子だったとも。

    *そういえば同時期のハリウッド映画界にも「バッドマンの乳首」事件があった。これは「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲(BATMAN & ROBIN、1997年)」の監督ジョエル・シュマッカー(同性愛者)が、作中に「バットマン・コスチュームの乳首」を含め同性愛的暗喩を大量に持ち込んだのを当時の評論家が一斉に叩いた事件。
    ジョージ・クルーニー、酷評作「バットマン & ロビン」を笑い飛ばす | 海外ドラマ&セレブニュース TVグルーヴ

  • だが決して「(表舞台への進出の足掛かりを得た)いかがわしい人々」が「それまでまっとうだと思われてきた人々」に完全勝利する日など訪れない。勝利するのは常に「新たに設定された境界線においてまっとうとされた人々」であり、それは「新たに設定された境界線においてもいかがわしい人々が切り捨てられていくプロセス」でもあるからである。
    *同性愛者の間でエイズの被害が広がったのは「婚姻なる特定のパートナーを公的に認める公的規範外に置かれているせいで、不特定多数と関係する傾向が異性愛者より多く見られた」せいでもあった。そして「同性婚合法化」には、彼らをこういう不安定な状態から救済するという意味合いと同時に「(異性愛者が既にその現実を受容している様に)同性愛者の乱交派を改めて社会規範外に追いやる」効果も備えていたのである。

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古くは生涯革命家を続けたオーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)がこのサイクルについて触れている。「革命家は勝利の栄光と無縁である。何故なら既存体制の転覆は概ね、反体制派を狩る新たな敵の登場しか意味しないからである」。

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要するにこの考え方はミシェル・フーコーが「狂気の歴史(Histoire de la folie à l'âge classique、1961年)」で無残に失敗し(欧米社会が常に既存秩序の外側に置いてきた精神病の病理は「事象の地平線としての絶対他者」そのものではなかった)、「監獄の誕生―監視と処罰(Naissance de la prison, Surveiller et punir、1975年)」で掌握に成功したと信じた(だが実際にはそこで指摘された「体制側の抱えるジレンマ」は反体制側にとっても他人事ではなかった)アプローチの延長線上に位置付けられるという事なのでしょう。そして20世紀における「(手を差し伸べて救済すべき対象としての)20世紀の不良少女」のイメージは、21世紀においては「(既に基本的に自足しており、自分の選んだ相手から一時的慰めを求めるだけとなった)Badass Girl」への飛躍を果たしたという次第。
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ここまでが「歴史」。そしてこうした問題の最前線は「(あくまで集団化による政治的勝利に執着し続ける)第二世代フェミニズムと(そうした大義名分を掲げる事によって切り捨てられるマイノリティとも寄り添おうとする)第三世代フェミニズムの対峙」すなわち「LGBTs勢とLGBTQA勢のハルマゲドン」とも?