諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「ブレードランナー2049」観てきました① 「愛があるから他人(Stranger)で居続ける」という選択肢?

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とにかく「何について掘り下げてもネタバレになってしまう」せいでネットで盛り上げ難いのが玉に瑕とも。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督も「何の予備知識もなく見るべき」とネタバレに触れる事を戒めてるし…それもあってか日本国内のネット評も、国際SNS上の関心空間の反応も今ひとつ?

「多様化の時代」への対応が不十分?

Slackの『WIRED』US版カルチャー部門のチャンネルでこの映画について話したとき、同僚のピーター・ルービンが次のように言っていました。この映画の女性の描き方について分析したデヴォン・マロニーの記事を編集したあと、この映画は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のようには女性ファンからの支持を得られないだろうと思ったと。

そこにも一理あるかもしれませんが、わたしは白人の苦悩が強調されていることに同様の不快感を感じました。

オリジナル版も封切りされた瞬間からヒットした訳ではない。

ぼくは単純に、『ブレードランナー』を熱狂的に愛するファンたちの人数を読み違えていたんだろうと思う。1982年に公開されたオリジナルの上映期間はわずか数週間で、その後の数十年分にも値する再上映や改訂が行われた。当時の称賛の声をすべてひと言にまとめるのは今日でさえ難しく、いまだにファンの間に議論を巻き起こしているほど難解な映画だからね(「ハリソン・フォードがある種のロボットを捜索する」という説明では、あまりに単純すぎる)。

 『2049』がこの週末に集客できなかった理由として考えられること(上映時間が長い、R指定、意図的にストーリー展開を秘密にしたこと)のなかで、ぼくが一番すんなり理解できるのは、おそらく最も人間的なことじゃないかな。話の筋がちょっと入り組んでいるので(しかも間違いなく暗い)、3時間もの時間を自分の理解できなさそうなことに費やしたくないと思う人が多くなかったんだと思う。


ブレードランナー 2049』は、人々にとって「やりすぎ」だったのかもしれない。時間も長すぎたし、話も複雑すぎた。何もかも「トゥーマッチ」だったのかもしれない。そしてこれが、『怒りのデス・ロード』のような作品との決定的な違いになっている。

同じように何十年も昔の話をベースにした作品であり、観客は誰も面白いものになるとは期待していなかったはずです。それでも『マッドマックス』は、「無敵のシャーリーズ・セロンが砂漠で繰り広げる大規模で激烈なカーチェイス」で観客を呼び込むことができた。あなたの言葉で『2049』をまとめるなら、「ライアン・ゴズリングが存在の意味を見失う──ロボットとともに」となるでしょう。これでは簡単にはヒットしないですよね。

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とにかく良くも悪くも「1980代」感覚が出発点。 ただ当時はある種のカンブリア爆発期に辺り、どの系譜に位置する流れか見極めるのが重要なのです。

① そう、1980年代はまさしく「駄目男」全盛期でもあった?

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「光のスターウォーズ」と「闇のブレードランナー

ブレードランナー 2049』は1982年の『ブレードランナー』の続編(sequel)であるとともに、『ブレードランナー』の対としてある「スターウォーズ」シリーズの新3部作へのカウンターという位置づけもある。「スターウォーズ」初期3部作は、1977年、80年、83年に公開された。光の『スターウォーズ』に対する闇の『ブレードランナー』。英雄譚に対する暗黒譚。理性に対するエゴ、統制に対する快楽…。この2つの傑作にはいくらでも対となる言葉を挙げることができる。
*どちらかというと「スターウォーズ」と直接対比すべきは「エイリアン」で、少なくとも当初ははどちらも売り方として揃って「(吸血鬼映画的な)宇宙空間におけるゴシック的恐怖」を前面に押し出していたものである。

ほぼ同じ時代に製作されたこの2作は、公開当時の1980年前後において、対となる未来観をも示していた。かたやノリノリのかつての西部劇を宇宙で展開するヒロイック・ジャーニー。かたや退廃著しいかつての大都市LAで止まない雨のなか、ドブネズミを追うかのごとく進むネオ・ノワール
*前者は「西部劇」というより「(黒澤明監督作品を中心とする)時代劇」が源流。後者はアンジェイ・ワイダ監督の手になるポーランド映画灰とダイヤモンド( Popiół i diament、1958年)」も含めた「焼け跡ハードボイルド」が源流。

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SFにおける未来観が、基本的に現代社会に対するコメンタリー、すなわち現代における批判的な世界観を反映していることを考えると、この2つの映画は、まさに80年代初頭における「世界観」を象徴していた。それはともに原案・製作・監督として活躍したジョージ・ルーカスリドリー・スコットとの対比でもある。
*そういえば米国発祥のスプラッタ映画を英国人作家クライヴ・バーカーが欧州風ダーク・ファンタジー風にアレンジした「ヘル・レイザー(原題Hellraiser、英題Clive Barker's Hellraiser、1987年)」を発表したのも同じ1980年代。

スピルバーグらと同様に大学で──ルーカスの場合はUSC(南カリフォルニア大学)──映画を「学んだ」第一世代のひとりであるルーカスは、ハリウッドの映像文化の最も元気があった部分に注目してノスタルジックに未来を再構築した。

一方、スコットはイギリス出身の映像作家らしく、ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートRCA)でグラフィックデザインを学んだのち、はじめは映画ではなくテレビ、そしてCM製作からスタートした。彼がクリエイターとして頭角を現したのはCMディレクターとしてだ。スコットは、84年にアップルがマッキントッシュを発売する際に流した、ジョージ・オーウェルディストピア小説『1984』を模したあの伝説のCMの製作者としても知られるが、実はCM製作のほうがもともとの本業だったわけだ。
*ここで「1984」に対比すべきルーカスの作品は、むしろ「THX1138 (1971年)」かもしれない。そしてこの路線の興業失敗が彼を「(ベトナム戦争以前に時代を回顧する青春物たる)アメリカン・グラフィティ(American Graffiti、1973年)」や「(スペースオペラというジャンルの復活に成功した)スターウォーズ(1977年)」の様な「明るいノスタルジー」の世界に向かわせたとも。

そんな彼のグラフィックデザインや広告制作のバックグラウンドから、彼の映画はいずれも世界観を示す背景美術としてのプロダクションデザインに力が入れられている。宇宙空間におけるゴシック的恐怖を描いた傑作である『エイリアン』ではH・R・ギーガーにデザインを任せた。同じ手腕で、『ブレードランナー』ではシド・ミードを抜擢し、あの雨が止むことのない闇のLAという暗黒世界を見事に現出してみせた。

 しばしば『ブレードランナー』は、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が原作といわれるが、それはあくまでも公式発表であり、電気羊本は原案を与えたに過ぎない。実際には、スコットと製作者・脚本家のハンプトン・ファンチャーとの間で映画としての企画が練り上げられた。そして、この映画用の企画開発の際、大いに影響を与えたのが、フランスの「バンド・デシネ(フランスでいう「コミック」)」の巨匠メビウスだった。

要するに、イギリスのCMディレクターが、フランスのアーティストの世界観に触発されながら未来のLAを構築したのだから、『ブレードランナー』にノワールという映画プロットとは別に、欧州的な退廃感がつきまとっていたのも当然だったわけだ。生粋のハリウッド育ちのルーカスとは、子どものころから見てきた世界が全く異なっていた。
*ハリウッドの南イタリア勢や映画学科勢はこぞって黒澤監督映画に耽溺したが、その黒澤明監督が(放射能の様な)不可視の驚異の浸透がもたらす実存不安の高まりを描こうとすると「いきものの記録(1955年)」になってしまうのである。その一方でカナダ勢は(自国が常に隣接する米国より文化的併合の圧力を受けている事による実存不安の高まりに曝されている事もあり)クローネンバーグ監督を筆頭に、その扱いに強い。

(ちなみに、同じくメビウスの世界観に触発されたウィリアム・ギブソン1984年に上梓したのが、サイバーパンクSFの嚆矢である『ニューロマンサー』だった。ということは、現代の情報化されたSF的未来の源流をたどると、その源泉にはメビウスがいたことになる。サイバーパンク、というか、サイバー系のSFにどこか暗い退廃的な空気が前提にされるのは、メビウスに端を発する欧州趣味が当初から合流していたから、という解釈もできそうだ。)
*そのウィリアム・ギブソン(徴兵されベトナム戦争に派遣されるのを嫌ってしばらく浮浪者生活を続け、最終的にはカナダに亡命したヒッピー文化の落とし子)をサイバーパンク文学の世界に引きずり込んだのが「ヒッピー文化の導師」といわれたティモシー・リアリー博士だったりする。こうした経緯から、この系譜における「駄目男」感は1970年代に成否的敗北が顕著化した元ヒッピー達の「負け犬」意識に由来するとも。

「 旧世代」の権威主義に対する超克の試み

旧主人公のデッカード役のハリソン・フォードの向こうを張って新主人公Kを演じるライアン・ゴズリングが抱える懊悩は、だからリドリー・スコットに対するドゥニ・ヴィルヌーヴの抱く苦悩と、全く並行的だ。のびのびとした創作にあたかも天井から蓋をするように、超自我の位置に2人の老人がいることへの抵抗の結果が『2049』である。父―子の厳格な構図への反抗だ。

その垂直的な関係は、実はタイレル亡き後のブレードランナー世界の統治に携わる、ウォレス(ウォレス・コープ創業者)、フレイサ(レプリカントリーダー)、ジョシ(LAPD)の3人にも、綺麗に当てはまる。

前作で殺されたにも関わらず、いや、死んでしまったからこそ、より一層、タイレルの威光は30年後のこの世界でも隅々にまで行き渡っている。レプリカントを発明したタイレルは、それゆえこのブレードランナー世界の創造主であると同時に、彼が生産したレプリカントが存在する世界を統御するための教え、いわばタイレル教の教祖なのである。そんな神=真祖の地位を占めるタイレルの意向を、それぞれの持ち場の論理から忖度し継承し、あわよくば乗り越えようとしているのが、先の3人の「使徒」たちなのだ。

 ①ウォレスは、科学者としてタイレルの野望を引き継ぐだけなく、「文明の発展には廃棄可能な(=disposable:ゴミ箱に入れることのできる)奴隷が必要だ」という帝国的野心から、レプリカントの生産拡大に異様な関心を示し、その力をもって宇宙植民地(オフ・ワールド)での躍進を夢見ている。それは彼なりの「人類救済」への焦りなのかもしれない。
*彼はむしろ(国家間の闘争が全てとなった総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)の落とし子としての)国家主義者というより(それから企業やマスコミが挙国一致体制のみを継承しようと考えた産業至上主義時代(1960年代〜2010年代?)の落とし子としての)資本主義者を体現してる様な気がする。そういう立場にも関わらず「(たとえ世界を敵に回しても自らの内なる声に忠実に生き様とするロマン主義運動的な)センチメンタリズム」に立脚して「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを最大限に発揮する形で「慈悲深き家父長」役を演じてる辺りがこの人物のおぞましさ。その容貌は映画「エンゼル・ハートAngel Heart、1986年)」において主人公の魂を決定的に破滅させた悪魔(演じロバート・デニーロ)からの引用で、本来はデビッド・ボウイが演じる筈だったという辺り1980年代オマージュに満ちている。そういえば、そもそも「自分の過去を明らかにしようとする記憶喪失の探偵」という主人公の立ち位置自体「エンゼル・ハート」の主人公(演じミッキー・ローク)っぽい?

②一方、フレイサは、レプリカントのリーダーとして、タイレルの夢想した「自由人としてのレプリカント」に向けて奴隷解放を希望する。
*皮肉にも「家父長制打倒」をスローガンに掲げつつ自らも割と家長的権威主義への郷愁を捨て切れず、最終的に保守的な宗教的右派と共闘の道を選んだ「第二世代までのフェミニスト」と重なってくる。実は宗教的右派にも、社会的ダーウィニズムが猛威を振るった19世紀後半から12世紀前半にかけて「リベラル派」を名乗った経緯が存在し、その意味では両者の共闘は「旧世代リベラル派連合」といった趣に。

③そしてこの2人がともに、この時代を破壊してでも新たな世界を生み出そうとするのに対して、現状の社会秩序の維持を忠実に果たそうとするのが、この世界の警察権力の象徴として登場するジョシだ。
*この人物は明らかにフィリップ・K・ディック「流れよ我が涙、と警官は言った(Flow My Tears,The Policeman Said、1974年 )」に登場する「(学生運動を容赦なき弾圧で殲滅させた)警察署長」に対するオマージュ。ちなみにこの作品に登場する「(デザイナーズ・ベービーにして人類の次世代を担う超人類たる)シックス」は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androids Dream of Electric Sheep?、 1968年)」に登場したレプリカントの進化型という側面も有する。

面白いのは、この3人の、ともすれば互いに相反する目的/理念は、しかし真祖たるタイレルのなかでは、すべてひとつに収まっていたことだ。タイレルは、矛盾した力学をすべて飲み込んだ混沌としてあり、それゆえさらに信奉の対象となってしまう。とりわけウォレスはタイレルを尊敬するがゆえに狂信的に乗り越えてみせようとする。


つまり、ブレードランナー世界の去就を扱う物語としての『2049』とは、いわば存在しないタイレルの預言の書、すなわち教典としての“Book of Tyrel(タイレルの書)”の解釈とその実践を巡る、一種の正統/異端を扱う物語なのだ。
*こうした構造がヒッピー運動に引き続いて(第二世代までの)フェミニストが「家父長制打倒」を叫び続けた1980年代っぽいとも。1990年代以降の「(多様化と多態化を重視する)第三世代以降のフェミニスト」には継承されなかった部分。しかも、かくして孤立を余儀なくされた「第二世代までのフェミニスト」の急進派は、その後それまで敵視してきた「(むしろ「家父長制」を理想視する)宗教的右翼」と共闘する道を選ぶ展開に。「反抗」はむしろ「無関心」より愛に満ちている?

②ところで日本のハードボイルド文学史において戦後復興期の「焼け跡ハードボイルド」 と1990年代以降台頭してくる「少女ハードボイルド」の間をつなぐ「1980年代ハードボイルド」の本来の基調はあくまで「(たとえ世界を敵に回しても自らの内なる声に忠実に生き様とするロマン主義運動的な)センチメンタリズム」だった様である。そして意外なまでに「ブレードランナー2049」はその系譜に位置してない。

*というか「鼻に絆創膏をした駄目探偵」といったら本当に「エンゼル・ハート(1876年)」でなければロマン・ポランスキー監督「チャイナタウン(Chinatown、1974年)」で、こうした作品は主人公の私立探偵が「空虚=自発的に動いて次々と地雷を踏み抜いていく活発型ではない」でないと成立しないものである。

ならば「ブレードランナー2049」の作中で語られる「(おそらく「カフカ的不条理感感」と表裏一体の関係にある)愛があるからこそ、他人(Stranger)で居続ける気遣い」は何処からきたのでしょうか? 以下続報…