諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ヒッピー世代】「東電フリー」と「東電フリーライド」の狭間

何かもう、事実上袋叩きに近い感触でした。

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ただ、実はこういうタイプってアメリカのヒッピー世代残党にも多かったりします。あえて自宅を持たず、キャンピングカーで移動して電話代や電気代や電波代は踏み倒し放題。果ては海賊ラジオ放送まで…彼らはただそのライフスタイルを真似てるだけで罪はない?

どうやら根底に「権力はいかなる形態であれ絶対悪(だから何をしても犯罪にならない)」なる無政府主義イデオロギーが通底している模様ですね。韓国でも電車のタダ乗りが大流行し、TVの取材に「全部政治が悪いせい」と答える一幕があった様です。

そういえば中国における「AV女優」蒼井そら人気もまた、当初は「汚職官僚の退廃的生活を放置したまま敢行された)中国政府の反低俗運動」に対する抗議のシンボルとして奉じられていた様なのです。

なぜ中国でここまで『蒼井そら』が人気なのか?中国人から聞いたその理由―中国オタ事情 : KINBRICKS NOW(キンブリックス・ナウ)

解読「蒼井そらの中国人気」=反「反低俗」とネット精神の象徴から一般的人気へ―中国紙 : KINBRICKS NOW(キンブリックス・ナウ)

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まさしく古くはフランス革命前夜に(なまじ「ルイ15世のスパイ」として活躍した存在だったが故に)ルイ16世から危険視されたボーマルシェ絶対王政に対する風刺を込めた「フィガロの結婚(伊Le nozze di Figaro、仏Les noces de Figaro、英The Marriage of Figaro、独Die Hochzeit des Figaro、劇作発表1784年、モーツァルトによるオペラ化1786年)」に当時の若手貴族が熱狂したのと重なってくる反骨スノビズム。ただし当時彼らを動かした狂信的情熱は、リヒャルト・ワーグナータンホイザー(Tannhäuser、1845年初演)」のパリ初演(1861年)に際しては、それに乱入して乱暴狼藉の果てに中止に追い込む形で顕現したのでした。

タンホイザー - Wikipedia

1861年ナポレオン3世の招きによって実現したパリでの初演はオペラ史上最も大失敗を引き起こしたものとして知られる。ワーグナーは2年前の1859年9月にパリに引っ越して住んでおり、目的は『トリスタンとイゾルデ』の主役を歌える歌手を探すために転居したものだった。1860年1月から2月にかけて、パリのイタリア座で行われた自作の演奏会を開催し、『さまよえるオランダ人』の序曲や『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲などを披露した。この演奏会で多くの芸術家たちから支持を集めたが、新聞などからは敵視され、加えて同地で自作のオペラを上演することを切望していたワーグナーは、この新聞批評によって望みが失われたことにひどく落胆したといわれる[3]。 その最中、ナポレオン3世から『タンホイザー』をオペラ座で上演するように勅命が降り、この思いもしない事態にワーグナーはそれに応えるべく矢継ぎ早にオペラの添削とフランス語訳に着手した。この勅命が下りた理由にはパリ駐在のオーストリア大使の妻パウリーネ・フォン・メッテルニヒ侯爵夫人によるものとされている。夫人はワーグナーの崇拝者であり、パリ上演のために口添えをしたことが下りたことに繋がったといわれる。ただしそれは「外交戦略」の一つとしてであった。

「パリ版」の改訂を終えたのは1861年1月のことで、上演のためのリハーサルは「春の祭典」120回、「ヴォツェック」の150回よりも多い、197回にわたって行われたと伝えられる。3月13日にナポレオン3世の臨席のもと初演を迎えた。だがオペラ座の予約観劇者で会員でもあるジョッキークラブの若い貴族の面々は、かつてバレエの挿入を要求した際に拒否されたことに対するワーグナーの態度に激怒していて、公演を妨害しようと企み、大きな嘲笑や怒号を行った。これにより初日の公演は収拾がつかない状態に至った。 2回目(3月15日)と3回目(3月25日)から徐々にエスカレートしていき、ジョッキークラブの貴族たちは仲間を呼び寄せて、ラッパや狩笛、鞭などを持ち出して妨害工作を行い、喧騒をきわめた末、公演が続行できない事態にまで発展。この事態を知ったワーグナーは支配人に書簡で、自らの取った態度と習慣に従わなかったことの非を認め、『タンホイザー』の公演を撤回するに至ったのではあった。

*ただまぁ「当局が弾圧するほど広まる」勃興期から「新しい価値観が樹立されると、そこに組み込まれなかった残余が容赦無く切り捨てられる」収束期に至る「事象の地平線としての絶対他者」の受容サイクルにおいては、決して「全員が選ばれるハッピーエンド」だけは有り得なかったりもする次第。政治利用されたコンテンツが、その事によって次々と元来の価値を失って空虚化して忘れ去られていく修羅の道…そのうち後世に名を残すのはごく一部の天才の所業のみ?

カロン・ド・ボーマルシェ - Wikipedia

フィガロの結婚』上演に関して一旦は国王に禁止命令を出されながらも、それを撤回させて見事に上演を成功させて人生の絶頂期を迎えたボーマルシェ。だが水道を巡る事業と、顔さえも知らない女性の問題に義侠心から首を突っ込んだことで足をすくわれ、その栄光に陰りが現れる。そしてフランス革命の勃発によって完全に止めを刺されることになる。

  • 18世紀のパリが、とにかく不潔で非衛生的な都市であったことはよく知られているが、それは人間が生きる上で欠かせない水においても例外ではなかった。井戸水は排泄物やその他無数の汚物の混入によって汚染され、それを用いてパンやビールを作るものだから、健康にも悪影響を与えていた。当時の人々がどのように清潔な水を手に入れていたかといえば、街を練り歩く「水売り」からのみであった。このような状況を解決しようと、1777年に発明家のペリエ兄弟はパリ水道会社を設立した。シャイヨの丘に揚水ポンプを設置してセーヌ川の水を汲み上げ、パイプを通してその水をパリ市民に提供するのが目的であり、この当時としてはまさに画期的な試みであった。1780年代になって、ペリエ兄弟の要請を受けて、ボーマルシェも経営に参加するようになった。会社は資金集めのために株券を発行したが、初めのうちは中々買い手がおらず、額面の2000リーヴルを割り込む始末であったが、1785年になって人気が沸騰し、結局4000リーヴルの値を付けるまでになっていた。銀行家のクラヴィエルとパンショーはこれに目を付け、株価の下落を狙ってあれこれ仕掛けたが失敗し、大損してしまった。そのため、会社の信用を傷つけて株価の下落を謀ろうと考え、ミラボー伯爵をけしかけて、攻撃文書を書かせることにした。この目論みは見事に成功し、攻撃された水道会社の株価は半分近くまで下落した。ミラボー伯爵は、以前ボーマルシェに借金を申し込んで断られたことを根に持っていたようだ。ボーマルシェもこれには黙っていなかったが、これまでとは違った反応を見せた。彼の公開した反論文書は、相手の非難より水道会社設立の意義やその業務の進行状況に多くを割いた内容のものであった。ミラボー伯爵へはまるで大人が子供をたしなめるかのような回答を向けており、それは攻撃というよりからかい程度のものであった。伯爵はこの回答に激怒し、本来の目的であった水道会社の件を忘れて、ボーマルシェへの人身攻撃に躍起になったが、ボーマルシェは相手にしなかった。理由はわからないが、この手の論争に飽き飽きしていたのかもしれない。この2人の関係は1790年になって、伯爵からの和解の申し出によって修復されたが、この時のボーマルシェの態度をパリ市民たちは弱腰と考えたようで、後々この点につけ込まれることになる。

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  • 1781年10月、ボーマルシェはあるナッサウ大公妃の邸宅に大勢の人とともに食事に招かれ、その席である女性の話を耳にした。その女性は夫にひどい扱いを受けており、邸宅に監禁されているという。大公夫妻はこの女性を自由の身にしてやりたいと考えていたため、ボーマルシェに協力するように求めたが、これまで行動を起こすたびにトラブルになってきたことを理由に、初めは消極的であった。しかし、その女性の夫が出した手紙を読むうちに次第に態度を変え、女性の救出に協力する気になったようだ。この女性は、名をコルヌマン夫人という。スイスに生まれたが、13歳で両親を失った。15歳の時、親族の勧めに従い、持参金36万リーヴルを携えて銀行家であるコルヌマンと結婚した。次第にドーデ・ド・ジョサンという男を愛人にするようになったが、これは彼女自身の浮気心からではなく、コルヌマン自身がそそのかしたのである。ドーデの裏には軍事大臣モンバレー公爵がいることを知り、彼を通じて軍事大臣に取り入って私腹を肥やそうとしていたのだ。この試みは見事に成功したが、1780年12月に軍事大臣が交代すると、ドーデの利用価値が無くなったために彼を切り捨てた。その一方で、銀行業の赤字を解消しようと夫人に持参金を寄越すように迫ったが、拒否されたため、国王の封印状を手に入れて身重の夫人を牢獄へぶち込んだのであった。早速救出に乗り出したボーマルシェは、ヴェルサイユに赴き、ナッサウ大公夫妻とともに手分けをして関係者へ働きかけた。その結果、12月17日付で夫人を産科医の家に移して看護せよとの王の命令書を獲得した。こうして夫人は産科医のもとで出産を済ませ、コルヌマンの手の届かないところで法による庇護を受けることができた。離婚が許されない時代であったから、コルヌマンは和解しようと考えたようだが、うまくいかず、結局別居状態のまま数年間が経過した。それから5年以上が経過した1787年2月、突然この件に関するコルヌマン夫人、ナッサウ大公夫妻、ドーデ・ド・ジョサン、警察長官ルノワールボーマルシェの5人を標的とした中傷文書がパリに大量にばらまかれた。この文書には「コルヌマン」と署名が入っていたが、実際それほど頭の切れる男ではなかったようだから、このような思い切った真似は出来なかったろうし、思いついたのもまた彼ではないだろう。この文書を手掛けたのは、弁護士のベルガスという男であった。この弁護士は売名しか頭にない悪徳弁護士で、生涯にわたって中傷や名誉棄損で裁判を引き起こし続けた。弁護士というよりデマゴーグというほうがふさわしい輩である。たまたまコルヌマンと出会ったベルガスは、コルヌマンの抱えるこの問題を絶好の機会と捉えたようで、彼の顧問弁護士となって、この一件に散々脚色を加えて文書を発表したのであった。ベルガスが特に標的としたのは、ボーマルシェの栄光とミラボー伯爵との論争で見せた弱腰であった。コルヌマンを妻に裏切られた哀れな夫に仕立て上げ、妻を救出した者たちを極悪非道な人間として描く。これを世に広めるためには人目を惹く必要があるが、そのためにボーマルシェを徹底的に叩いたのである。これに対抗するために、ボーマルシェも反論文書を発表した。コルヌマン夫人を救出した事実を認めた上で、彼女がいかに夫から虐待されていたか、コルヌマンがいかに暴虐非道な男であるかを、その証拠となる手紙とともに論理的に示した。この論理的な反論には何も返答できないと考えたのか、この後のベルガスの攻撃はもっぱらボーマルシェへの中傷に絞られることになった。ベルガスのしつこさは相当なもので、この問題が起こってから1年半の間に200以上の中傷文書がばらまかれている。ボーマルシェも決して黙っていたわけではなかった。コルヌマンとベルガスを名誉棄損で訴え出るとともに、複数の反論文書の公開で対抗しようとしたのだが、市民たちはベルガスにこそ正義があると信じ込んでいたため、大した効果を挙げなかった。裁判ではボーマルシェが勝訴したが、ベルガスによる中傷攻撃で失った人気は回復しなかった。

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その一方、1787年6月、バスティーユ城砦前のサンタントワーヌ街の土地が競売に付されていることを知ったボーマルシェは、これをおよそ20万リーヴルで落札し、170万リーヴルの大金をかけて豪邸を建設した。建設完成と同時に、この地区の区長に選ばれている。広大な土地に贅の限りを尽くした豪奢な建物は、法律を犯してこそいなかったが、如何せん場所が悪すぎた。市民たちが旧体制の象徴と見做していたバスティーユ城砦の前の土地にこれほどの豪邸を建築したために、庶民から激烈な反感を買ったのである。彼らに襲われないように日ごろから貧者たちへの施しを忘れなかったが、それでも自宅からそう遠くないところで市民たちによる放火暴動騒ぎなどもあって心配になったのか、警察長官へ治安の回復を求めたりしている。市民たちはボーマルシェを旧体制側の人間と見做していたようで、パリ・コミューンのメンバーとして招集された際にも、コルヌマンとの一件で彼に敵対した人間たちから激しい非難が挙がり、しばらくメンバーから外されたほどであった。

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  • そして1792年3月2日、彼の元へある手紙が届いた。ボーマルシェの激動の人生の締めくくりにふさわしい事件の始まりである。この手紙はベルギー、ブリュッセル在住の商人ドラエーという男が差し出したもので、ボーマルシェにある取引を申し出る内容であった。この当時のベルギーではブラバント革命が一時的な成功を治めていたが、指導者たちが仲違いを起こして結局失敗、短期間で再びハプスブルク家支配下に組み込まれていた。ドラエーはこの革命の際にハプスブルク家に味方したために財産を没収されるなど大損害を受けていたが、革命の失敗によってそれを補償してもらえることになった。革命に際して追放されたヨーゼフ2世は病死してしまったため、ベルギー皇帝の座に納まったレオポルト2世はドラエーにブラバント中の小銃を買い取る独占権を与えた。ただ、この銃は革命軍から接収したものであるため、これらすべてを国外に売り飛ばすことが条件であった。数にして20万挺の銃を用意できたものの、これほどの銃を捌く能力がドラエーにはなかったようで、困りはてた末にボーマルシェに目を付け、混乱を極めているフランスに役立つから、と提案してきたのである。
    ブラバント革命(Brabanter Revolution) - Wikipedia
    1789年10月24日に生じたベルギー合衆国建国につながった革命。同時期に起きた他の革命とは全く違う特徴を持っていた。リエージュ革命やフランス革命アメリカ独立革命が社会刷新の表れであったとするならば、ブラバント革命は現存の社会秩序を維持を目指し、ヨーゼフ主義や啓蒙専制主義に対して抵抗した運動であったのである。こうした過程を通じてオーストリアネーデルラントの諸州は、共属意識を高め、1790年1月11日にベルギー合衆国というベルギー国家の最初の建国をおこなった。しかし、この国家はわずか数か月後、特に建国者たちの仲違いで失敗に終わる。f:id:ochimusha01:20171111005123j:plain
  • すでにこの頃にはボーマルシェは事業を畳んでいたし、その話の大きさに乗り気ではなかったために一旦この話を断ったが、ドラエーが粘り強く動き回ったため、結局3月16日になって「小銃をフランス政府が購入した場合、利益の3分の2をボーマルシェ、3分の1をドラエーが取る」との内容で契約を交わした。この合意を実現させるために、早速ボーマルシェは軍事大臣と交渉に入ったが、その支払い方法で中々折り合いがつかなかった。ボーマルシェはオランダ通貨のフローリンで支払いを要求したのに対し、政府側はアシニャ債での支払いを主張したからである。アシニャ債は当時のフランスの大混乱が影響して、通貨としてとにかく弱く、外貨との交換レートがどんどん下がっていたから、利益が目減りするのを避けたいボーマルシェが難色を示すのも当然であった。それでもなんとか4月3日になって交渉は成立した。ボーマルシェがおよそ75万リーヴルの終身年金証書を抵当として差し出す代わりに、アシニャ債で50万リーヴルの融資を受け、追加資金が必要な場合は政府が提供するとの内容であった。

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  • 早速代理人ラオーグをブリュッセルに派遣したボーマルシェであったが、この話は思うようには進まなかった。各国の利害が絡んでいた上に、あくまで秘密裏に運んでいるはずのこの取引についてかなりの情報が漏れ出ていたからである。誰が情報を漏らしたのか、今となっては確認する術もないが、革命期のフランス政府の情報管理の緩慢さと、政府内部に私腹を肥やすために平然と売国行為を働く人物がいたことを裏付ける事実である。情報を漏らす人物のおかげで、ついにパリ市民たちまでもがこの取引について知るようになった。秘密取引が秘密でなくなったどころか、6月4日付の国民議会において「ボーマルシェブラバントで7万艇の小銃を買い付けたにもかかわらず、それをパリのどこかに隠している」との告発されてしまう。そもそも取引が成立していないのだから全くの事実無根であるが、この告発をきっかけとして「小銃を隠し持っている」との噂が独り歩きしていくことになった。この噂はどんどん広がっていき、ついに8月11日、ボーマルシェの豪邸は民衆による襲撃を受けた。ボーマルシェはこの襲撃に際して、はじめは弁解のために民衆に立ち向かおうとしたようだが、殺害される恐れがあるとの友人の勧めに従って、ひっそりと邸宅を抜け出したという。噂を信じ切っていた民衆たちは、ボーマルシェ邸で武器を探し回ったが、見つかるはずもなく、その代わりに大量に売れ残ったヴォルテール全集を見つけたという。

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  • 議会での告発と時期を同じくして、突然代理人がパリへ帰ってきた。オランダ政府が「自国の港に置いてある小銃の行先がインドであること」の保証として、5万フローリンを要求してきたのだという。関係大臣と協議を重ねて保証金捻出の目途を付けて、代理人をオランダに発たせたボーマルシェであったが、ここでもうまく事は運ばなかった。この取引の利益を横取りしようと画策した外務大臣ル・ブランの妨害に遭ったのである。ル・ブランは、ボーマルシェ代理人のパスポートを取り上げた上で、ラルシェという男をボーマルシェ邸へ出向かせた。8月20日のことである。この男は、オーストリアの商社から依頼されてやってきたと告げたのち、1週間後に小銃をフランスに到着させられるから、利益を折半にするよう提案を行ってきた。そして、今日中に返事をするように半ば脅迫めいた言葉を残して立ち去っていったという。こうして、ル・ブランの妨害に気づいたボーマルシェであったが、対策を考えるには遅すぎた。ラルシェの残していった脅迫めいた言葉が現実のものとなり、8月23日に逮捕されてしまったのである。「国から支払代金を受け取りながら、購入済みの小銃をフランスへ移送することを拒否した」という国家への裏切りが彼にかけられた容疑であった。取り調べにおいて、一つ一つ丁寧に整然と説明を行ったため、嫌疑は晴れかけたが、ここでも邪魔が入った。ボーマルシェの言葉を借りれば「黒髪で鷲鼻の、ある恐ろしげな顔つきをした小男」であるジャン=ポール・マラーが現れ、取り調べの調査結果をひっくり返したのである。これによって、再び牢獄暮らしの日々が続くかと思われたが、8月29日になって突然釈放命令が下された。彼の愛人アメリー・ウーレが、ボーマルシェを助けるためにその美貌を活かして、パリ・コミューンの主席検事であるマニュエルと関係を持ったためである。ボーマルシェの女好きが、図らずもこうして身を助けたのであった。

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  • 9月18日、ボーマルシェとその同行者1名に対してパスポートが発行されたので、それを利用してイギリス、オランダへ問題解決のために赴いた。この時点では、ボーマルシェの取引相手であり、融資をしてくれていたイギリスの銀行家が小銃購入の名義人となっていたから、まずイギリスへ向けて小銃を運び出し、イギリスからインドへ向けて運び出すふりをして、フランスへ運べばオランダを刺激しないで済むだろうと考えてのことであった。10月3日にロンドンに到着し、手筈を整えてオランダへ向かったが、同地の政府が要求した保証金5万フローリンが届いていなかった。確かに関係大臣と協議して保証金の目途は付けていたものの、政情不安によって大臣がころころ変わっていたから、結局有耶無耶になっていたのである。新たな問題の発生に対処しようとオランダで金策に走るうちに、フランスでは国民公会議員ルコワントルが提出した、小銃を中々フランスに運び出さない(運び出せない)ボーマルシェに対する非難決議が可決されていた。この決議の可決によって逮捕状がハーグのフランス大使の元に届けられたため、ボーマルシェはオランダにいられなくなり、難を逃れるためにイギリスへ戻らなければならなくなった。だが、この非難決議の陰で糸を引いていたのは、ル・ブランやその取り巻きたちであった。またも邪魔をされたことに怒ったボーマルシェは、穢された名誉を回復するために、フランスへの帰国を企てた。非難決議が出ているのにわざわざフランスへ出向くと言うのはまさに自殺行為であり、この考えを知った銀行家は仰天するとともに、自身の債権が焦げ付くのを恐れてボーマルシェを告訴し、公権力に身柄を確保させた。ボーマルシェも拘留されて冷静さを取り戻したのか、遺された手紙から察するに、特に銀行家へ恨みを抱いてはいなかったようだ。この問題に関する経緯を詳細に記した文書を書き上げ、イギリスの銀行家に対する債務を履行して自由の身になったボーマルシェは、2月26日にパリへ戻った。さっそく獄中で書き上げた文書を印刷してパリ中にばら撒くと、非難決議を提出したルコワントルはあっさり自身の非を認めたため、5月7日になって公安委員会から正式に無罪が言い渡された。それどころか、小銃の取得に全力を挙げるように依頼されたのであった。その依頼に応じてオランダに出向いて様々な策を試みるが、なおも事態は好転するどころか、悪化する一方であった。成果を挙げられないまま時だけが過ぎ、ついに1794年3月14日、亡命者リストに名前を載せられてしまう。この名簿に名前を載せられると、財産はすべて没収され、帰国次第反逆者として逮捕されてしまうため、ボーマルシェはフランスに帰ることもできなくなった。その後もあれこれ手を尽くすも何も状況を変えられず、結局10月20日、イギリス当局が小銃を接収したことでこの問題は幕を閉じた。名義上の所有者がイギリス人であることに、時の首相であったウィリアム・ピットが目を付けたのであった。こうして、3年に渡るボーマルシェの努力はすべて無駄になった。資金も使い果たしてしまったボーマルシェは、ひたすら貧窮に喘ぎながら故郷へ帰れる日を待つほかなかった。1796年6月になってようやく亡命者リストから彼の名前が外された。パリへ帰還できたのは同年7月5日のことであった。

パリに戻ったボーマルシェは、再び幸せな家庭生活を取り戻すためにあれこれ動き回った。それとともに、小銃取引の件で金銭的決着をつけるべく、フランス政府との交渉に乗り出した。1797年1月、総裁政府は委員会を組織してこの問題の調査に乗り出した。どちらがどれほどの債務を負っているのか、委員会は問題を精査し、調査に乗り出してから1年後にボーマルシェを債権者と見做して、フランス政府に100万フランを支払うように結論付けた。額に不満があったのか、これを不服としたボーマルシェは再審理を要求したが、今度は正反対の結論が出てしまった。当然ボーマルシェはこれに納得せず、再び審理を要求したが、結論は変わらなかった。判決の不当性を訴えるために財務大臣に手紙を送るなどしているが、結局ボーマルシェの生前にこの問題は片付かず、逝去から3年後の1802年にようやく決着する。
*中国人有識者はしばしば冷徹に「我が国にフランス革命が起こるのはこれから」と分析する。要するに絶対王政体制下において当初は「国内の様々な伝統的社団同士の揉め事の裁定者」に過ぎなかったフランス王統。それが(経済的発展と内ゲバによる伝統的社団の形骸化を背景に)真の意味で「独裁者」として君臨する様になると、国民の不満の投影先も国王しかなくなってフランス革命1787年〜1799年)が勃発した流れに中国共産党の党史を重ねているのである。伝統的集団指導体制を否定し「中華人民共和国の中央集権化達成」を狙う習近平もまた、その独裁志向そのものが悪というより、同様の破滅が待つ未来しか予期し得ないが故に危惧されているという次第。

 ただ、それならそれで、いやむしろそれならばこそ「無料視聴」はご遠慮願いたいところ。中国当局の取り締まりも厳しさを増す一方だし…

この事は、その先に現れたのがミレニアル世代の「消費は投票(自分が甘受し続けたいサービスにはきっちりお金を払う)」なるMilking Ideologyだった事と合わせて考えねばなりません。

さて、私達はいったいどの方角に向けて漂流しているんでしょうか?