諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「裸を審美する」近代的視線の獲得過程について

国際SNS上の関心空間に滞留する21世紀の匿名女子アカウント達は「私達は男の裸をむやみやたらと見たがってる訳じゃない。素晴らしい筋肉の照覧を心が求めているだけである」なんてギリシャの女神めいた物凄い言い訳を獲得するに至りました。
*さらには「筋肉なら女子のでもOK」と言い出して新ジャンルを開拓した集団も。

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L・M・モンゴメリ赤毛のアン(Anne of Green Gables、1908年)」のヒロインがルー・ウォーレス「ベン・ハー(Ben-Hur: A Tale of the Christ、1880年)」で屈強な男性騎手達が互いに鞭打ち合う戦車場面を読んでむやみやたらと興奮し、そっと付箋を貼ってからおよそ百年。確かに全体を貫いてきたのは「素晴らしい筋肉の照覧欲求」?

とはいえ実は日本男性も「女性の裸体に関する近代的態度」獲得までに半世紀以上の時間を費やしていたりするのでした。まぁ何事についても始めありって奴です。

小泉 凡(小泉八雲曾孫)「ラフカディオ・ハーン(1850年~1904年)とギリシャ企画展」序文

ハーンはよく子どもの頃、ノートの余白に筋肉の絵を描いていたという。その後も古代ギリシャ彫刻にみる並外れた肉体美について永く自問してきた節がある。ハーンが出した答えは、羞恥心がない時代だからこそ「愛の直観を通して、彼らは人体についての神々しい幾何学的観念の秘訣を発見したのです」(チェンバレン宛書簡)というものだった。つまりギリシャ芸術はキリスト教的な倫理観にとらわれないからこそ美しいと考えた様なのである。後年、ハーンはみずからも、10キロのダンベルで体を鍛えることを怠らなかった。

夏目漱石同様にオーギュスト・ロダン1840年~1917年)やアントワーヌ・ブールデル(1861年~1929年)の様なフランス自然主義彫刻を嫌い「古代ギリシャ人はただ単に裸を彫ってたんじゃない。人体から抽出可能な最も美しい曲線を崇拝対象としてたのである」と書き残している。


ギリシャへの愛着と憧れは肉体美だけではなかった。弟ジャームズに宛てた手紙に、自分の長所はあの浅黒い肌をしたギリシャ人種の魂から受け継いだものだと書いている。「私が正しいことを愛し、間違ったことを憎み、美と真実を崇め、男女の別なく人を信じられるのも、芸術的なものへの感受性に恵まれ」たことも。つまり、自らが自信をもって貫いてきた価値観をギリシャからの賜り物と考えている。


後にハーンが「夏の日の夢」に書いた「ある場所と、ある不思議な時の記憶」「小さな王国」「神さまのようなその人」が、原風景のギリシャと母のイメージを重ねたものであるとすれば、ギリシャへの憧憬は母への愛惜の念がその中核をなしていたといえるかもしれない。松江の大雄寺に伝わる子育て幽霊の話を「母の愛は死よりも強し」と言い換えて結んだことからも母への強い想いが伝わる。

夏目漱石「草枕(「新小説」1906年)」

三味線の音色が思わぬパノラマを僕の眼前に展開したと思うと、突然風呂場の戸がさらりと開いた。

誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけ入口に注ぐ。湯槽の縁の最も入口から隔たった場所に頭を乗せているから、槽に下る段々は、間二丈を隔てて斜めに僕が眼に入る。しかし見上げたる僕の瞳にはまだ何物も映らぬ。しばらくは軒をめぐる雨垂の音だけが聞える。三味線はいつの間まにかやんでいた。

やがて階段の上に人影があらわれた。広い風呂場を照てらすのは小さい釣りランプ一つのみだったから、この隔りでは澄切った空気を控えてさえ、しかと物色するのは難しい。まして立ち昇る湯気が細やかな雨に抑えられ、逃場を失っている今宵の風呂では相手の容姿を見定めるのが難しい。一段を下り、二段を踏んで正面から照らす灯影を浴びた後でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。

黒い影が一歩を下へ移した。

踏む石がビロードの如く柔らかと見えて足音もおぼつかず、動きはあくまで優雅で緩やかである。しかしとにかく、やっとその輪廓は少しは浮き上がった。僕は画工だけあって人体の骨格については存外視覚が鋭敏である。それですぐざま僕はこの風呂場の中で女と二人きりと覚ったのだった。

注意すべきかしまいか漂いながら考えるうちにも、女の影が遺憾なく僕の前に滑り込んできた。みなぎり渡る湯煙の柔らかな光線を分子ごとに含んだ薄紅色のソフトフォーカスの奥に、漂う黒髪を雲の様に流して背丈のあらん限りをすらりと伸ばした女の姿を見た時は、礼儀だの作法だの風紀だのという言葉が脳裏から離れ、ただひたすら美しい画題を見出し得たと思っただけだった。

古代ギリシャの彫刻ならいざ知らず、今世フランスの画家が命と頼む裸体画はあまりにも露骨であからさまな肉の美を極端まで描がき尽そうとする痕跡がありありと見て取れる。それを目にする都度、どことなく気を削がれる様な心持が僕を苦しめてきた。むろんその折々はただどことなく下品だと評するまでで、なぜ下品であるかが解らなかった。それ故にかえって答えを知りたいという煩悶に悩まされつつ今日に至ったのである。肉を覆えば美しさが隠れる。隠さねば卑しくなる。さらに当風の裸体画は隠さぬ卑しさに加え、その上にさらに技巧を重ねんと試みる。衣を奪った姿をそのまま曝すだけでは気がすまずこの衣冠の世における裸体を追求する。人間の常態を忘れ服を着た人々に挑戦すべく赤裸にありとあらゆる権能を詰め込もうとする。十分足りてるのに、十二分にも、十五分にも、どこまでも進んでひたすらに「裸体であるぞ」感を強調せずにはいられないのである。こうした技巧が極限に達っするとかえって窮屈になる。元より美しいものを、さらに美しくしようと焦れば焦るほど、美しさはかえってその度合を減ずるのが通例である。「満は損を招く」という諺もある。

放心と無邪気は余裕の賜である。画にも詩にも文章にも不可欠な必須条件である。近代芸術最大の弊害は、いわゆる文明の潮流がいたずらに芸術家を急き立て、様々な齟齬を引き起こさせる点にある。裸体画はその好例であろう。都会の芸妓は色を売り、人に媚こびるのを商売としているが、彼女らは嫖客の前では自らの容姿がいかに相手の瞳に映ずるかを絶えず気にし、自然な表情を覗かせる事はまずない。毎年目にするサロンの目録に掲載されているのは、この芸妓に似た裸体美人ばかりである。彼女らは一秒たりとも自らが裸である事を忘れないばかりか、全身の皮膚と筋肉を駆使して観察者にそれを誇示する事ばかり考えている。

今僕の面前に飄々と現われた姿には、こうした眼を遮る俗埃が一塵たりとも感じられなかった。かといって常人がまとった衣装を脱ぎ捨てた様といえば、それはそれで俗っぽ過ぎる。もとより着るべき服も振るべき袖も知らぬ神代の裸族の姿。あたかもそれを雲の中に呼び起した様な自然さだ。

湯煙が後から後から絶え間なく湧き起こり、屋内に充満する。部屋一面に春の宵の灯を半透明に崩し拡げたかの様な虹の世界が広がり、それらが細やかに揺れる向こう側で、朦朧にやっとそれと認められる黒髪を透かして真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その輪郭に視線が釘付けとなる。

首筋を軽く双方から包み、すらりと肩の方へ流れ落ちる髪の流れていく先は豊かに丸く折れ、五本の指に掻き分けられているのだろう。ふっくらと水面に浮く二つの乳房の下では、揺らめく引き波が滑らかに盛り返しながら、水面下に隠された下腹部の張り出しを微かに垣間見せる。吐口から強く噴き出す湯に当たり、勢の尽きるあたりで分れた肉が平衡を保つべく少しく前に傾いている。膝頭の方はまともに流れを受けて長いうねりを踵まで届かせ、平たい足の裏で始末している。世に、これほど錯雑した配合はあるまいとも、これほど統一された配合もないとも思われた。これほど自然で、柔かで、滑らかで見苦しくない輪廓など、そう安々とみつかるものではない。

なにより嬉しいのは、この裸体が普通のそれと異なり僕の眼前に露骨に突きつけられている訳ではないという事だ。あくまで全てを幽玄に見せる霊気の中を彷彿とさせられ、十分の美が奥ゆかしくも仄めかされてるだけに過ぎない。もしここに筆と墨と紙あらば何が出来るか想像するだけで楽しい。芸術に観じて申し分のない空気や温かみや幽玄な調子が備わる。鱗が一つ一つはっきりと丁寧に描かれた竜の絵を見るとかえって神秘的な雰囲気が失われてしまうというが、それなら彼女の一糸まとわぬあられもない肉体をあえてはっきりと目に止めるより、こうして湯煙ごしに清らかな裸体を想像している方が神が来て去った後の様な余韻にひたる事が出来る。その考えに思い当たった僕の眼には、突如としてこの輪廓が、桂の都より逃れてきた月界の嫦娥に見えてきた。彩虹の追手に取り囲まれて途方に暮れている姿の様に思えてきた。

その輪郭が次第に白く浮きあがる。あと一歩踏み出せば、せっかくの嫦娥が、あわれ俗界に堕落する。そんな事を考えた刹那、緑髪が波を切る霊亀の尾のごとく風を起してぶわっとなびいた。渦巻く煙を切り裂いて、白い姿が階段を飛び上がる。ホホホホと鋭く笑いう女の声が廊下から響いてきた。その声が向こうへ遠のくにつれ、次第に風呂場に静寂が戻ってくる。僕はがぶりと湯を呑むと湯槽の中に突っ立った。揺り返しの波が胸に当たる。縁を越す湯泉の音がさあさあと鳴る。
*頑張って現代日本語化を試みてみたが…本文の堅苦しさはその程度の事で収まる筈もなかった。

太宰治「美少女(1939年)」

*あらすじ。 妻に付き合って温泉に出かけた「私」は、混浴の浴場で湯治に来ているらしいある美少女を見かける…

私と対角線を為す湯槽の隅に、三人ひしとかたまって、しゃがんでいる。七十くらいの老爺、からだが黒くかたまっていて、顔もくしゃくしゃ縮小して奇怪である。同じ年恰好の老婆、小さく痩せていて胸が鎧扉のようにでこぼこしている。黄色い肌で、乳房がしぼんだ茶袋を思わせて、あわれである。老夫婦とも、人間の感じでない。きょろきょろして、穴にこもった狸のようである。

そのあいだに、孫娘でもあろうか、じいさんばあさんに守護されているみたいに、ひっそりしゃがんでいる。そいつが、素晴らしいのである。きたない貝殻に附着し、そのどすぐろい貝殻に守られている一粒の真珠である。私は、ものを横眼で見ることのできぬたちなので、そのひとを、まっすぐに眺めた。十六、七であろうか。十八、になっているかも知れない。全身が少し青く、けれども決して弱ってはいない。大柄の、ぴっちり張ったからだは、青い桃実を思わせた。お嫁に行けるような、ひとりまえのからだになった時、女は一ばん美しいと志賀直哉の随筆に在ったが、それを読んだとき、志賀氏もずいぶん思い切ったことを言うとヒヤリとした。けれども、いま眼のまえに少女の美しい裸体を、まじまじと見て、志賀氏のそんな言葉は、ちっともいやらしいものでは無く、純粋な観賞の対象としても、これは崇高なほど立派なものだと思った。

少女は、きつい顔をしていた。

一重瞼の三白眼で、眼尻がきりっと上っている。鼻は尋常で、唇は少し厚く、笑うと上唇がきゅっとまくれあがる。野性のものの感じである。髪は、うしろにたばねて、毛は少いほうの様である。ふたりの老人にさしはさまれて、無心らしく、しゃがんでいる。私が永いことそのからだを直視していても、平気である。老夫婦が、たからものにでも触るようにして、背中を撫なでたり、肩をとんとん叩いてやったりする。この少女は、どうやら病後のものらしい。けれども、決して痩せてはいない。清潔に皮膚が張り切っていて、女王のようである。老夫婦にからだをまかせて、ときどきひとりで薄く笑っている。白痴的なものをさえ私は感じた。すらと立ちあがったとき、私は思わず眼を見張った。息が、つまるような気がした。素晴らしく大きい少女である。五尺二寸もあるのではないかと思われた。見事なのである。コーヒー茶碗一ぱいになるくらいのゆたかな乳房、なめらかなおなか、ぴちっと固くしまった四肢、ちっとも恥じずに両手をぶらぶらさせて私の眼の前を通る。可愛いすきとおるほど白い小さい手であった。湯槽にはいったまま腕をのばし、水道のカランをひねって、備付けのアルミニウムのコップで水を幾杯も幾杯も飲んだ。

「おお、たくさん飲めや。」老婆は、皺の口をほころばせて笑い、うしろから少女を応援するようにして言うのである。「精出して飲まんと、元気にならんじゃ。」すると、もう一組の老夫婦も、そうだ、そうだ、という意味の合槌を打って、みんな笑い出し、だしぬけに指輪の老爺がくるりと私のほうを向いて

「あんたも、飲まんといかんじゃ。衰弱には、いっとうええ。」

と命令するように言ったので、私は瞬時へどもどした。私の胸は貧弱で、肋骨が醜く浮いて見えているので、やはり病後のものと思われたにちがいない。老爺のその命令には、大いに面くらったが、けれども、知らぬふりをしているのも失礼のように思われたから、私は、とにかくあいそ笑いを浮べて、それから立ち上った。ひやと寒く、ぶるっと震えた。少女は、私にアルミニウムのコップを、だまって渡した。

「や、ありがとう。」

小声で礼を言って、それを受け取り、少女の真似して湯槽にはいったまま腕をのばしカランをひねり、意味もわからずがぶがぶ飲んだ。塩からかった。鉱泉なのであろう。そんなに、たくさん飲むわけにも行かず、三杯やっとのことで飲んで、それから浮かぬ顔してコップをもとの場所にかえして、すぐにしゃがんで肩を沈めた。

「調子がええずら?」

指輪は、得意そうに言うのである。私は閉口であった。やはり浮かぬ顔して「ええ。」と答えて、ちょっとお辞儀した。

隣で湯船に浸かっている家内は、顔を伏せてくすくす笑っている。私は、それどころでないのである。胸中、戦戦兢兢たるものがあった。

*ちなみにこの太宰治「美少女」はKindle本化されて無料の部のトップクラスに君臨し続けている。それにつけても、何度読み返しても「まさかの時に志賀直哉 」はパワーワード

古代ギリシャ人はただ単に裸を彫ってたんじゃない。人体から最も美しい曲線をして崇拝対象としてたのである」…あれ「私達は男の裸をむやみやたらと見たがってる訳じゃない。素晴らしい筋肉の照覧を心が求めているだけである」なる主張とそれほど大差ない? ちなみにこの壁を乗り越えようとして19世紀後半のフランスで荒れ狂ったのが所謂「ポルノグラフィ論争」だったりします。

しかし何とこの時代のポルノグラフィの定義は「聖書や神話や歴史のモチーフに仮託する事なくエロティズムを表現する事」だったんですね。今日においてはむしろ(エロを聖書や神話や歴史のモチーフから解放した)自然派絵画自体よりエロいといわれるアカデミック美術(Academic art)こそが「非ポルノ」の代表だった時代…

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まさしく「産業革命による大量生産・大量消費体制が消費の主体を王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ階層から(プチ・ブルジョワジーを含む)新興産業階層や労働者に推移していく過程」における一挿話…