ラマダン・ダイエット?
逆ラマダン・ダイエット?
前者については最近もちょっと話題となりましたが、どう考えても駄目です。実際のイスラム圏で「昼食事が禁止されている反動で、夜食べまくるせいで却って太る時期」 といわれてるくらいだから全く参考になりません。しかも日中は空腹のせいで誰もが短期になって喧嘩が頻発するらしい…
夜に1日1回しか食べない日が続くと、胃が小さくなる。
20日以上もこういう状態だから、体は慣れてしまった。
とは言っても、日没後の食事は待ち遠しいです。
エッサウイラの場合、日没を知らせるサイレンが鳴ります。ウ~~~~~~ン
これが鳴ったら、ムスリム(イスラム信者)はモスケに行ってお祈りをして、
ゆっくりと食事をする…はずだけど、これがどうしてどうして…
ムスリムも人の子です。中にはお祈りもせずに…
がっつく、がっつく。そこには飢えた動物本来の姿があります。
この話を聞いて思い出した事。pixiv経由で国際SNS上の関心空間に伝わった「二口女」の容姿に「無理なダイエットのせいで暴虐化した食欲が図らずしも顕現してしまった姿」なる新たな解釈が加わり、かつ女子アカウントの間で「どうせ私達は一生、この決っして逃れられない自らの内面に潜む魔物と共存していかなきゃならないの。だったら互いを敵視せず仲良く一緒に暮らしましょう」なる斬新な人生哲学まで派生した展開。
- ナポレオン戦争(1796年〜1815年)渦中の英国郷紳(ジェントリー社会)を舞台に選んだ「ラブコメ元祖」ジェーン・オスティンの文学世界。そこでは、まさしく代表作「高慢と偏見(Pride and Prejudice、1813年)」のタイトルが示す様な「人格上の欠陥」について女性自らが自然に自覚する可能性など皆無で「殿方との邂逅を通じての認識上の混乱と世界観の修復」が必要であるという考え方が打ち出された。これぞまさしく「事象の地平線としての絶対他者に対する拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」そのもの。彼女の作品に時代を超越して認められ続ける普遍的生命を与えたのはこの要素だった?
*何が恐ろしいって、映画「高慢と偏見とゾンビ(Pride and Prejudice and Zombies、1916年)」キャッチコピーにおける「それまで何について触れてきたかに関わらず、最後の一言でジェーン・オスティン文学以外の何者でもなくなる」あの謎の安定感…これぞダーウィンいうところの「性淘汰」の真髄?
- 南北戦争(American Civil War、 1861年〜1865年)前後の南部郷紳社会を描いたマーガレット・ミッチェルの長編時代小説「風と共に去りぬ(Gone With the Wind、 1936年、映画化1939年)にも「女は自分の我儘が全て許されたら怪物と成り果ててしまう」なる一説があるが、国際SNS上の関心空間に集う「可愛いもの(The Cute Thing)と同じくらい猟奇(The Creepy and Spooky Thing)が好き」な匿名女子アカウントは「トム・リドル (Tom Marvolo Riddle)は私!!」「鎌田君(kamata-kun)は私!!」「オブスキュラス(Obscurus)は私!!」などと連呼しながら「女性の内面に潜む怪物性」に主体的に対峙する権利を男子から奪還してきたのだった。これが真のフェミニズムでないなら、何が一体フェミニズムなのか?
- かくして21世紀に入るとこの問題についての男女関係が完全に逆転。「全てを解った上で「天然誘い受け」のポーズを取る眠り姫(別にずっとこのままでもいいと思ってる)に対して絶望的な特攻と玉砕を繰り返す白馬の王子様」なる図式が成立してしまったのである。
*男子からいわせれば「何様?」という話だが、その台詞を男子は数百年、下手をしたら数千年に渡って女子に言わせてきたとも。そしてハチ(米津玄師)「砂の惑星(2017年)」における「もう少しだけ友達でいようぜ、今回は」は微積分計算でしか求め得ない両者の理論上の交点とも。
もしかしたらイスラム教徒にとってラマダーンとは、まさにこの「決っして逃れられない自らの内面に潜む魔物」の身近さを思い出す期間なのかも?