諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

映画「メッセージ」観てきました⑥ ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は「本家超え」を志向する?

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督映画「メッセージ(Arrival、2016年)」単体を鑑賞しただけではそれと気付けなかったのですが「ブレードランナー 2049(Blade Runner 2049、2017年)」も鑑賞してこの監督の「改変の手癖みたいなもの」が見えてきました。
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要するにこの監督の作品には自分なりのサブスクリプトを埋め込んで、原作のスクリプトに対抗させる傾向させる傾向が強く見受けられるのです。

ブレードランナー 2049」の場合、「追加脚本」は主人公のKと彼に連れ添うクラウドAIのジョイ(Joy)の物語でした。特にジョイは20世紀末から21世紀初頭にかけての「(エルフ作品やミンク作品の様な)陵辱系エロゲー」の終焉以降のエロゲー展開と密接な関係を有する重要キャラだったりします。
*かといって別に史上初めて登場した新概念でもない。むしろ紀元前後まで遡る「高級遊女」概念の正当な継承者としてガチャ中心の近年のソーシャルゲームに警鐘を鳴らす存在とも。

それでは「メッセージ」における「追加脚本」は? こちらの場合の「もう一つの原作」は、ある意味「(空港や原子力発電所辺りの)保安教育マニュアル」といった施設警備教材だった様に思われます。

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  • フェンス防御と警備業法第15条…異星人の宇宙船が地上に降り立つと「彼らは敵だ、一刻も早く撃退しろ」と主張する市民団体や、真逆に「彼らこそ地球の間違いを糾す為に現れた救世主」と主張する市民団体が押し寄せる。彼らの現場への侵入を阻むのが(空港などの周囲に張り巡らされている)高さ約3mのフェンス+45cmの忍び返し。またこうした動きに対して警備兵は見守り応対に徹するが、実際警備業法第15条には「警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たつては、この法律(警備業法)により特別に権限を与えられているものでないことに留意するとともに、②他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない」なる規定がある。
    *主人公達は、こうした鬩ぎ合いの現場をヘリコプター上から一瞬垣間見るのみだが、異星人の宇宙船飛来が人類にもたらした上掲の様な独特の緊張感を表現するにはそれだけで十分だし、誰もが「実際に有り得そうな事」とイメージ可能。というか、それ自体はH.G.ウェルズ宇宙戦争(The War of the Worlds、原作1898年、映画化1953年)」においても「異星人を救世主と考えて全面服従を求め裏切られる市民団体」自体は登場しており、ティム・バートン監督映画「マーズ・アタック!(Mars Attacks!、1996年)」でもパロディ化されている。

  • 管理区域の設定…宇宙船の周囲を囲む土地は複数の管理区域に分割され、それぞれに専門家チームが配置されている。警備兵が許可証チェックによって各チームの接触を厳しく制限するが、これはそれぞれの研究成果を統合可能なのは上層部だけという構図を生み出す為。
    *実は映画版より原作の方が詳しく描写されており、主人公一行はただひたすらこうした制限の撤廃を求め続ける。映画版はむしろ「研究者達のあらゆる行動を(より大きな権力の要請を受けた)警備兵が統制している状況」の描写の一環として採用したのみという印象。

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  • 制限区域…実際に宇宙人と邂逅するエリアに足を踏み入れるには許可証チェックに加えて厳しい服装チェックもあり、かつ入退場するメンバーが時程表によって厳しく制限されている。
    *原作ではそもそも異星人が地球に降りてこず、代わりに地上に降ろされたスクリーン状の通信機を介してコミュニケーションが行われる。だがもし実際に異星人が地上に降りてきたら、同様の対応となるだろう。そういう意味で映画版に相応のリアリティを与える役割を果たしている描写にして、次に述べる「内部脅威」が可能となる伏線ともなっている。ちなみにオリジナル要素たる滞在時間制限は実に原子力発電所の作業マニュアルっぽい。

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  • 内部脅威…やがて(それまでの描写においてあらゆる場面の背景に写り込んできた)警備兵の使命感が暴走を始め、遂にはテロ事件を起こして異星人の一人を死に至らしめる。
    *所謂「見張りを誰が見張るのか?」問題。多くの保安教育マニュアルにおいても「これを防ぐには(採用する警備員の身元調査の徹底など)別次元の対応が必要とされる」と認められている。映画中にあっては主人公が恐ろしく聡明で時程表からテロの可能性を読み取る。早速マニュアル通り中央監視室に連絡を取ろうとするが、テロ遂行を決断した警備兵達の工作でそれが不可能となっており、仕方なく自分達が出向く。まぁこの辺りはエンターテイメント映画のお約束?

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こうしたプロセスの積み重ねを通じてドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は原作たるテッド・チャン「あなたの人生の物語(Story of Your life、1998)」には存在しない、かつその超克を目指す様なサブストーリーを組み込む事に成功しているのです。

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  • 時間を超越した認識を有するた異星人達は、三千年後に自分達を救うはずの人類が今滅びない様に手を打つ為にやってきた。
    *これは異星人をあくまで「(人類の認識可能範囲における)事象の地平線としての絶対他者」に規定しようとしたポーランド人SF作家スタニスワフ・レムソラリスの陽のもとに(Solaris、1961年)」やロシア人SF作家ストルガツキー兄弟の「丘の上のピクニック(Roadside Picnic、1977年英訳)」「願望機(1989年英訳)」の流儀には反するが、元々このルールを破ったのは(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が深く私淑する)ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーの手になる「惑星ソラリス(Солярис、1972年)」や「ストーカー(Сталкер、1979年)」だったりする。

  • だから当然、身内の一人が警備員達のテロ行為によってあえない最後を遂げる事も予め知っていた。
    *原作には全くない要素。というかこの「イエス・キリストが予めユダの裏切りを知っていた」的なエピソード、それ単体で原作のテーマを軽く超越する破壊力を有している。

さて、こうした要素について私達は一体どう受け止めるべきなのでしょうか?