諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【匿名ネット上では、人は原型など保っていない】オリジナリティなきコンセンサス形成の行き着く果ては?

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ところで以下はコピペbotアカウントの一種らしいのですが…

 あ、オリジナルはこれなのか。投稿への反応の流れが幾分違う様です。

インターネット上においては、こうしてオリジナルかコピーかも関係なくコンセンサスの形成が進んでいきます。人間が人間としての輪郭を留め続けるのが極めて難しい世界といえるかもしれません。

①ところで英国人SF作家アーサー・C・クラークの「幼年期の終り(Childhood's End、1953年)においては、かかる全面的大同化現象の原因を「人類が秘めた進化の可能性そのもの」に求めた。
*1960年代を席巻したアンディ・ウォーホルポップアートと重なる部分が少なくない。産業革命がもたらした「大量生産・大量消費の時代」の一つの到達点…

みんな機械になればいい。誰も彼もみんな同じになればいいんだ( I think everybody should be a machine. I think everybody should like everybody.)
なんでオリジナルじゃないといけないの? 他の人と同じがなんでいけないんだ?(But why should I be original? Why can't I be non-original?)

②その一方で「1980年代における幼年期の終り」とも呼ばれた米国人SF作家グレッグ・ベアの「ブラッド・ミュージック(Blood Music, 1985年)」はナノテクノロジー(正確には分子ナノテクノロジーとそれによるDNAの再プログラム)を扱った初のSF小説でもあり、ディーン・R・クーンツ原作映画「デモンシード(Demon Seed 1977年)」と並んで遺伝子う組み換え技術によるコンピューターと人間の物理的融合を扱ったバイオテクノロジー物の先駆けとなる。
*当時はルディ・ラッカーやテッド・チャンもこのテーマに積極的に取り組んでいる。テクノロジーに詳しい人間ほど「(現段階では無頓着に放置されている)人類のその方向への進化の可能性に注目したとも。

*一方、戦後日本の社会学界隈においては(特に科学的マルクス主義の国際的権威執喪失以降)「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」としたカール・マルクスの「上部構造決定論」と「その枠内に生まれついた人々が、その枠内で生きる事と死ぬ事を強要されるマックス・ウェーバーの「鉄の檻(Gehäuse)理論」の同一視が強引に推進され「この偽りの世界を破壊し尽くしてそれから解放されない限り、人類は本物の幸福に到達出来ない」なるネオ・グノーシス思想が台頭。

*ただし1990年代に入り「インターネットの普及によって人類は融合し均質化する」なる新たな思想の潮流が現れると、この種の旧世代の大同化イデオロギーは輝きを喪失。例えば当時を席巻した「新世紀エヴァンゲリオンNeon Genesis EVANGELION、TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」においてもその構想は「旧体制派の妄想」としてネガティブに描かれるのみだったのである。

③かくして、その普及最初期こそ「接続された人類の全面的大同化をもたらす」可能性がアンビヴァレント的に語られたインターネットだったが、実際にそういう事は起こらず、それでは一体今何が進行中なのかについて活発な議論が繰り広げられている。そして先に挙げた「国際SNS上の関心空間における人間の原型喪失」はMeme(インターネット遺伝子)論に関連付けて語られる事が多い。

*その一方で大手SNS企業はむしろ「インターネット上においては、各アカウントのリアル人生における人格性と影響力が益々強調される」とするインフルエンサー理論をマーケッティングの主軸としてきた。前者と異なりマネタイズの道筋が見つけ安いのが魅力とも。

*これまで私はインフルエンサー論とMeme論のどちらが正解かという意識に囚われてきたが、バーチャルユーチューバーの流行によってその観点自体が間違っていると思い知らされた。それぞれの流れがそういう方向に収束していくかについて、その渦中において完全な推論を構築する事など不可能。それが「今まさにここで歴史が進行している」醍醐味でもある。

私自身は、1970年代から1990年代前半にかけての商業至上主義の暴走(TV番組黄金期、およびこの現象に対する映画産業の相対的立場の樹立過程)および21世紀に入ってからの当時のカンブリア爆発的混乱の収束過程を「事象の地平線としての絶対他者に対する黙殺と拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」なる分析で説明しようと試みてきました。

今から思えば発想の契機は2015年6月26日、すなわちアメリカの連邦最高裁判所同性婚憲法上の権利として認めるとする判断を示した当日に国際SNS上の関心空間において当の同性愛者達が異性愛者達と「これは体制側がアウトサイダーを内側に取り込む戦略の一環なんだ。かくして乱婚派の同性愛者は、乱婚派の異性愛者同様に体制の外側に切り捨てられるんだ」みたいな会話が交わされるのを目撃した事だったかもしれません。「世界中で同性婚が合法化している現象」を「人権の益々の勝利」としてでなく「世界が益々狭くなる兆候の一つ」として冷静に俯瞰するこの立場…

さて、それでは「海に向かってバカヤローって叫んだだけなのに海面から意識高いひとがザバアーッって顔を出してバカなのは貴方ではないですか?とか言い始める」今のインターネットは何処に向かうのでしょう…というかこの次元における「事象の地平線としての絶対他者」って、一体どうマッピングすべきなの?