諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【エドガー・アラン・ポー】【E.T.A.ホフマン】この腐り果てた世界の片隅に

先日より急にアクセス数が伸びてるこの投稿…

果たして検索に引っ掛けられたのは、E.T.A.ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann、1776年〜1822年)に関する部分?

それとも「フランス象徴主義の先駆者」としてのエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年〜1849年)に関する部分?

なんて論考を重ねてたら、どうやら答えは間違いなく以下らしい模様。

文豪ストレイドッグス」まだ人気コンテンツとしてちゃんと生き延びていたんだ…それにしても、この世界ときたら間違いなく本当に腐り果てていやがる?

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ところで(しばしば当人すら忘れがちですが)このサイトは大雑把に要約すると以下の様な「ある種の経済論的文化史観」に立脚しているのです。
*大前提として採択したのは「(下からのそれに先駆けての)上からの欲望解放」がルネサンス以降の商業芸術発展の発端となったとする欧州中心史観。その起点についてスイスの文化史学者ヤーコプ・ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化(Die Kultur der Renaissance in Italien、1860年)」は「ルネサンス期における教皇の領主化」、ヴェルナー・ゾンバルトは「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)」において「教皇のバビロン捕囚(1309年〜1377年)が産んだアビニョン教皇庁の退廃」とする。

  • 元来「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」が全てだった時代、いわゆる「商業作品」は王侯貴族や聖職者のパトロネージュを受ける形でしか成立し得なかった。その一方で「(作品の製作者と読者が一体となって展開する)同人誌活動」は当時から既にこうした枠組みを超越して展開していた。
    *かかる時代に独特の足跡を残すには「変態のパトロン」を見つける事こそが重要だったのである。こうした時代を代表する「超越者」は以下。

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    *明日をも知れぬ浮沈の激しい人生を生きるうちに「せめて書斎や閨房くらい好きなエロ画像で飾りたい」なる欲望を密かに宿す様になったコンドッティエーレ(Condottiere、イタリア人傭兵隊長)に依存した「ヴェネツィア派絵画の巨匠ティツィアーノ(Tiziano Vecellio、1488年/1490年頃〜1576年)。そもそもルネサンス時代までは王侯貴族や聖職者ですら、かかる私的空間を個人が所有する慣習を有しなかった。従ってこうした戦略そのものがそれ以前の時代まで遡れない。

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    *こうした歴史上の流れに連なるもう一つの系譜が「解剖学上の実用品」なる新たな商業価値を得て宮廷のパトロネージュから脱した蝋人形作家の世界。そこに秘められた隠微なエロティズムは、やがて庶民を巻き込んだ見世物文化への進出を果たす。

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    絶対王政下で没落していくフランスの田舎貴族にやはり「エロはいいぞぉ!!」路線で迫った「ロココ美術の完成者」ジャン・オノレ・フラゴナール(Jean Honoré Fragonard、1732年〜1806年)。そもそもロココ美術自体、それまで(ポルトガルやスペインやローマ教皇庁から伝来した)バロック芸術同様、フランス王室のパトロネージュを受けた宮廷美術として栄えてきたのだが、ポンペイ再発見(1748年)以降、質実剛健を旨とした古代ギリシャ・ローマ美術への回帰を主張する新古典主義美術がこれに取って代わり「反体制芸術」へと転じたのだった。没落者のルサンチマンと結んだ結果(やはり同様の背景が産んだ)ロマン主義表現の先駆者となった側面も存在し「宮廷を飾るのはやはりロココ芸術でなければならぬ」なる定式を世界中に広めたディズニー映画登場を準備した。

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    *この頃には既に「宗教的苦行としての恋愛」なる概念がロマン主義登場に先駆けて絵画化されている。これもまたパトロンの要望に沿っただけなのか、それとも…

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    http://musey.net/wp-content/uploads/2016/02/image-23.jpghttps://g1b2i3.files.wordpress.com/2010/04/jean-honore-fragonard-the-vow-to-love.jpg

    *ちなみに家系図的には「優美なロココ調宮廷芸術の供給者」「えげつない解剖学標本の供給者」「新古典主義芸術の供給者」がぴったりと重なり合う。要するにこうした「表現」の背後に存在したのは全て「食べていく為には何でもする芸術家一族」の生々しい生き様だけだったという恐るべき展開。f:id:ochimusha01:20180119103410j:plain

    *そういえば、そもそもBLの起源は「男女間の絡みには敏感な当局が、同性間のそれには比較的無頓着だったのでやり放題だった」状況に由来するという。これはこれでまさしく「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」としたカール・マルクスの「上部構造決定論」の世界。

    *それにつけても当局から規制されれば規制されるほど「触手物」とか「妖怪強姦物」とか「男の娘3P物」とか「清姫ミュージカル」とか「八百屋お七人形振り」とか生み出してきた日本人の伝統的想像力って本当に半端ない。ドイツ人や英国人に匹敵する筋金入りの変態民族…

    ところでイタリア人がこっちを仲間に入れて欲しそうな目でみている。仲間に入れますか?

  • 最初の発端は16世紀末にオスマン帝国の猛攻を受けてレパント交易から締め出されてしまった「貿易大国」ヴェネッィア。生き残りを賭して「出版立国」や「観光立国」を目指した結果、「(それまで主に宗教上や政治上の論争を加速させる役割を果たしてきた小冊子(パンフレット)を個人消費に結びつけた)文庫本文化」「(観光客を誘致する「箱」としてその豪勢さを競いつつ、作曲家に「その中身を埋める」役割を収入源として提供した)豪勢なオペラ文化」「(持ち運び可能で、誘致された観光客に売りつけられる)キャンバス画」なる「芸術家自活の為の三点セット」が発明されオランダやフランスや英国に伝わっていく。

    *父親に「パトロンに媚びる為の英才教育」を施されながら「世界初の(パトロネージュだけでなく貴族子弟への家庭教師といった副業の一切を拒絶し譜面販売収入のみに頼る)自活した作曲家」となった「楽聖ベートーヴェンLudwig van Beethoven、1770年〜1827年)。そして、その超絶技法に陶酔するブルジョワ女子がファンクラブを結成し関連キャラクター・グッズを買いまくったフランツ・リストFranz Liszt、1811年〜1886年)。こうした展開が可能となったのもかかる「ヴェネツィアの三大発明」の御蔭?

    ベートーヴェンの歩んだ生涯とは

    リストの部屋

  • そして19世紀後半に入ると産業革命進行によって大量生産・大量消費スタイルが不可避となり、王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ=ブルジョワ階層に代わって新興産業階層(資本家や工場経営者やホワイトカラー層(事務職や中間管理職や技術者)やブルーカラー層(肉体労働者やサービス産業従事者))が消費活動の主役に躍り出た。しかしながら「(神が用意した一般的救済プロトコルにあえて背を向け、自らの内側から届く声にのみ耳を傾ける形で善悪の彼岸の超越を目指す悲壮な障害を全うしようとする)ロマン主義」の宿命を全うしたがる芸術至上主義者達にとって、かかるパトロン交代は「大衆」と呼ばれる「新たなタイプの暴君」への従属に悩まされる日々の始まりに他ならなかったのだった。

    *「新たなタイプの暴君」としての大衆は、体制側に組して芸術至上主義を攻撃するかと思えば「もっとエロやグロを!!」と叫んで業界全体を恐るべき方向に導いてきた。いや、やはり大衆は王侯貴族や聖職者同様、芸術至上主義者達に利用されてきただけなのか?

    *こうした時代にパリに本拠地を置いたバレエ・リュス(Ballets Russes、1905年〜1929年)が後世の舞踊・音楽・美術の世界に絶大なる足跡を残してきたのである。

こうした全体の枠組みの中で、あくまで「私はモーツァルトをこよなく敬愛する音楽家」なる自認から離れなかったE.T.A.ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann、1776年〜1822年)は、あくまで「パトロンをあてにしない)同人誌向けアマチュア小説家」としてフランスのロマン主義に絶大なる影響を与えたのでした。
*まぁホフマンを喜んだ「フランスの若き芸術家」達は、その大半が悲壮な最後を迎えた訳だけど。現実は常に甘くない…

オペラを楽しむ「ホフマン物語」 - 東京二期会

E.T.A.ホフマン(1776年~1822年)は、プロイセンの旧都ケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)に生まれ、法学を修めて裁判官をしながらファンタジー作品を書いたロマン主義の代表的作家である。

スケッチや作曲の才に恵まれ、自らが作曲した『ウンディーネ』というロマン主義オペラを1816年にベルリンで上演して大成功を収めている。若い時からモーツァルトに心酔し、ミドルネームをヴィルヘルムからアマデウスに変えている。

初期の作品には音楽への熱狂をテーマにしたものが多く、シューマンピアノ曲集の素材となる短編連作「クライスレリアーナ」、「ドン・ジョヴァンニ」解釈を主題とする短編「ドン・フアン」等がある。

中期以降の小説の特徴は独創的なストーリーと辛辣な社会風刺にあり、数多くの奇妙な登場人物を創造している。たとえば「黄金の壺」では主人公の恋人は蛇の姿で現れ、「砂男」には美しい自動人形、「蚤の王」には蚤の王や花粉から生まれた王女などが登場する。犬、猫、猿など動物の登場も多く、夏目漱石の「吾輩は猫である」にヒントを与えた長編小説「牡猫ムルの猫生観(びょうせいかん)」では、飼い主の蔵書でドイツ語の読み書きを学ぶ学者猫の自伝が披露される。

1822年に46才の若さでベルリンに没している。

その評価

 E.T.A.ホフマンの幻想作品は1830年代のフランスで大評判となり、19世紀後半には『コッペリア』、『ホフマン物語』などの舞台化もなされる。時代を下がった1892年にはペテルブルクでバレー『くるみ割り人形』の初演が行われ、ホフマンの名は不朽のものとなってゆく。

ホフマン物語」の主題

エピローグにおいて、恋人のステラが酔いつぶれたホフマンを見捨てる設定、友人ニクラウスがミューズに変身し、ホフマンが「愛するミューズよ、僕はお前のものだ!」と叫ぶ設定はすべてオペラの創案であるが、この最終場面において『ホフマン物語』を統べる主題が明らかにされる。オッフェンバックがホフマンに見出し、作品の主題に据えたもの、それは「芸術家の恋」というロマン主義的理念であった。芸術家たらんと欲する者は地上の愛に浸っていてはならないという要請である。

E.T.A.ホフマン - Wikipedia

ホフマンは人気作家であったものの、同時代ではハインリヒ・ハイネやアーデルベルト・フォン・シャミッソーからの高評価を除き、文学的な評価は得ておらず、どちらかといえば通俗作家の位置に留まっていた。ホフマンの評価はむしろドイツ国外で高まり、1828年にフランスに初めて翻訳されて以降バルザックユゴー、ゴーティエ、ジョルジュ・サンド、ミュッセ、ヴィリエ・ド・リラダン、デュマ、ネルヴァル、ボードレールモーパッサンなど、中でも特に小ロマン派と呼ばれる作家達に大きな影響を及ぼし、またウォルター・スコットのホフマン紹介文の翻訳中で初めてコント・ファンタスティックという語が用いられた。ロシアではプーシキンドストエフスキーなどがホフマンの物語を愛好し、その影響はエドガー・アラン・ポーにも及んでいる。ドイツではリヒャルト・ヴァーグナーがホフマンから霊感を得ており、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『タンホイザー』は『ゼラピオン同人集』のなかのパリを舞台にした小説群に多くを負っているほか、『さまよえるオランダ人』もホフマン作品の暗鬱で神秘的な人物像から影響を受けている。またジークムント・フロイトはホフマンの『砂男』を題材にして「不気味」という感情の源泉を分析した『不気味なもの』という論文を執筆している。

ホフマン作品を基にした楽曲としてはバレエ『くるみ割り人形』『コッペリア』やオペラ『ホフマン物語』、「スキュデリ嬢」をオペラ化したヒンデミットの『カルディヤック』などが知られている。『くるみ割り人形』はホフマンの童話『くるみ割り人形とねずみの王様』からのデュマの翻案(『はしばみ物語』)を基にしており、『コッペリア』はホフマンの『砂男』が原作、『ホフマン物語』は『大晦日の夜の冒険』『砂男』『クレスペル顧問官』の3作を翻案したものである。ほかにホフマンの同名の作品から霊感を得て作られたロベルト・シューマンピアノ曲集『クライスレリアーナ』や、同名の小説をオペラ化したブゾーニの『花嫁選び』などがある。なお『クライスレリアーナ』はホフマンの文学的分身であるヨハンネス・クライスラー楽長が語るという体裁の音楽評論であるが、ホフマンの代表作の一つ『牡猫ムルの人生観』は人語を解する猫ムルの回想録にこのクライスラー楽長の伝記が混じってしまったという形で書かれた長編小説であり、夏目漱石の『吾輩は猫である』には主人公の猫がこの作品に触れて、ドイツにも同じ境遇の猫がいると知って感慨にふけるシーンがある。

『スキュデリ嬢』は推理小説風の作品で、森鴎外は「エドガー・ポーを読む人は更にホフマンに遡らざるべからず」と述べ、『玉を懐いて罪あり』の題で訳出した。

楽家としてのホフマンは七十数曲を残しており、成功した『ウンディーネ』以外の作品も後世に再演、再評価されている。CDに録音されたものに、ハープ五重奏曲ハ短調、グランド・ピアノ三重奏曲ホ長調などがあり、歌曲「ソプラノ、テノールとピアノのための6つのイタリア」は、『牡猫ムルの人生観』の中で言及されている。小説の体裁でモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の評論ともなっている「ドン・ジュアン」は、この作品の解釈として当時画期的であり、その後の作品理解に大きな影響を与えた。

*ちなみに江戸川乱歩作品のうち最もホフマンの作風に近いのは「小酒井不木から聞いた屍蝋の作り方」と当時流行していた「ショーウィンドーに蝋細工の人体模型を展示し、チェーン展開していた薬局」を結びつけた「白昼夢(1925年)」で、原則として江戸川乱歩を認めていなかった夢野久作ですらこの作品だけは手放しで褒めている。
江戸川乱歩 白昼夢
夢野久作 江戸川乱歩氏に対する私の感想

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彼が執着したテーマのひとつに「自動人形」があり、文学史的にはバレエ『くるみ割り人形』や『コッペリア』の原作者という位置付けになっています。が、そのテーマ領域を追究したオリジナル作品、たとえば『砂男』(Der Sandmann)なんかを読むと、彼の世界観の雰囲気が

ことに驚かされます。(さらにあのテーマ曲が、サウンド的にも内容的にもホフマンの文脈にばっちり似合う。怖いほどに似合いすぎる!)

  • 本来、ドイツ人的には「イノセンスがホフマンっぽい」と言うべきなのですが、それじゃあ芸がありません(笑) 

ということで実際のホフマン作品というのは、かなりハードコアでダークで、何よりもオモシロなのです。そして『砂男』では、人形という存在をめぐって以下のようなテーマ性が読み取れます。

  • 人間と自動人形を分ける真の境界はどこにあるのか?
  • 人間の主観が客観を浸食し、結果的に人形に一種の生命を与えてしまう可能性があるのではないか?
  • 精緻に造られすぎた人形は、人知を超えた何かに通じる経路として機能するのではないか?
  • アイデンティティの本質とはいったい何か?

…なので、ポテンシャル的には『イノセンス』を超えて『攻殻機動隊』シリーズ全体というか、観念的ジャパニメーション世界というか、要するに21世紀的アイディアのアレコレにまで踏み込むサムシングがある、それがホフマンの「巨匠」性の、真の本質ともいえるでしょう。

ホフマンの作品には、人形を通じて意識下に何かをダウンロードされ、結果的に脳が焼き切れてしまう人物とかが出てきます。凄いですよこれは。そう、「電脳」や「ゴースト」というタームを使わずとも本質的に同じような方向性を持った作品をつくることは可能なのです。非常に興味深い。しかも19世紀初頭、ナポレオン時代にそういう話を書いてしまったのが実に超絶です。

その一方で詩人としての大成を夢見つつ、それでは食えないので「世界史上初の職業作家」を目指したエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年〜1849年)は、編集者として炎上マーケティングを駆使し過ぎたせいで米国本土においては嫌悪され、忘れ去られたのに対してフランスではボードレールフロベールに(「売春婦を一切神秘化する事なくそのまま描いたティツィアーノや「残酷を好んで顕現させた蝋人形作家」ズンボを好んだサド侯爵同様のマーケティング指向が気に入られて)再評価対象となって今日に至ります。

江戸川乱歩E.T.A.ホフマンに対する関心は当然、エドガー・アラン・ポーに先行する推理小説「スキュデリ嬢(Das Fräulein von Scuderi、1819年)」にも端を発するもので、この作品に登場する「宝石に異様なまでの関心を示し犯罪にまで手を染める」宝石職人カルディヤックこそが「盲獣(1831年、映画化1969年)」や怪人二十面相のモデルとも。この系譜はパトリック・ジュースキント原作「パフューム ある人殺しの物語(Das Parfum – Die Geschichte eines Mörders/Perfume: The Story of a Murderer 、小説発表1985年、映画化2006年)」にまで影響を与え続けます。


*要するに「近世以降の欲望解放」あっての怪人20面相という事。

一方、エドガー・アラン・ポーや「アルンハイムの地所 (The Domain of Arnheim、 1846年)」や「ランダーの別荘 (Landor's Cottage、 1849年)」で開拓したペソミスティックな人口庭園譚は、ゾラの自然主義から出発しながら象徴主義路線に転じたフランス人作家ジョリス=カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans, 1848年〜1907年)の「さかしま(À rebours、1884年)」発表によって新次元へと突入。谷崎潤一郎「黄金の死(1914年)」や、江戸川乱歩の「パノラマ島奇談(新青年連載1926年~1927年)」を経て小栗虫太郎失楽園殺人事件」の影響も色濃く受けた横溝正史悪霊島(1979年〜1980年)」へと行き着く事になります。

こうやって全体像を俯瞰してみると「(神が用意した一般的救済プロトコルにあえて背を向け、自らの内側から届く声にのみ耳を傾ける形で善悪の彼岸の超越を目指す悲壮な障害を全うしようとする)ロマン主義=近世以降の欲望解放」の歴史自体が、まさしくハードモードの変態史そのもの。そしてまさにその過程全体が「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容し切れなかった部分の切り捨てのサイクル」を描いている様に見受けられるのです。

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もしかしたら科学的マルクス主義が、ただひたすら「生産」の事だけを考え様とし続けたのは「消費」が本質的に備えるこうした恐ろしい部分から目を逸らしたかったから?