諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【しあわせ荘の管理人さん】「事象の地平線としての絶対他者」としてのVRについて

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資本主義の歴史とは変態の欲望解放の歴史でもあった…

だが、なまじ「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・雑錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」が回っているが故に、常にそこに「N匹目の泥鰌」がいるとは限らない…

ただまぁ「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なんて考え方もある。一概に全てを否定する訳にもいかない?

「しあわせ荘の管理人さん。」を語るうえで避けられないのは、キャラクターの濃さである。本作のヒロインたちはあえてリアル寄りな顔になっており、これが気になってしまう人も多いことだろう。無論、これは狙いがあってそうなっているのである。

本作のヒロインは、家庭に複雑な事情を抱えたお嬢様「桜井静香」、ハーフのツンデレモデル「橘・バルバラ・クリスティーネ」、そして多趣味なオタク「竹山日真里」の3人。本作では、この3人が本当に暮らしているかのように描写をするために、いかにも二次元キャラクターというデザインは採用できなかったのだ。

彼女たちはしあわせ荘で暮らしているため、毎日どころか時間ごとに行動や容姿が異なる。プールで泳いでいれば髪はまとめているだろうし、寝ているときは化粧をしていないし、寝起きは髪の毛がボサボサだったりする。服や下着だって変えていて当然だ。VRというもので眺めるのだから、そういうところでリアリティという説得力がなければならない。むしろ髪型が変化して誰だかわからなくなるようないかにも二次元なデザインは、生活感を描くのに不向きなのであろう。

女性とのコミュニケーションを楽しむという意味で類似ジャンルとなる「サマーレッスン」は、IGN JAPANのレビューで「リアリティを感じない」と評されたことがある。VRという現実と見まごう体験だからこそ、顔つきや動作、果ては干してある洗濯物といったものにまで説得力が求められるのだろう。その顔つきという点に関しては、「しあわせ荘の管理人さん。」のコンセプトは一歩進んでいるとすら評価できる。

 まぁ進化とは莫大な量の時間と死体の積み重ねの産物な訳でして。それにつけてもこれは…これは…