諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ヒッピー的思考】「経済を回さない」決意こそ尊い?

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こういう価値観、どれくらい世間に蔓延してるものなんでしょうかね?

 最近よく指摘される「ミレニアル世代は消費を投票と考える」論についても「そういう時代遅れの馬鹿がいつまでも生き延び続けてるから、俺達迷惑してるんですよ。一刻も早く全員死に絶えて、誰もがゲームも動画も無料の範囲でしか楽しまない様になれば誰もが楽しく暮らせる理想郷が実現するのに」なんて反論がぶら下がる事があります。

 これもおそらく最近このブログでよく話題にしている「デフレ信仰」の一環。

究極的には売値ゼロ実現の為に(人件費や設備投資を含む)原価ゼロを目指す(暴走した松下幸之助水道哲学の如き)デフレ理論」こそが、実証主義的人文科学(Positive Humanities)と科学主義(Scientism)の狭間の薄明の領域に生じた搾取の本質である。
*おそらく経済のグローバル化が始まった17世紀における「太平洋三角貿易」や「再版農奴制」辺りが端緒。日本でも国内流通網整備を背景に「蝦夷の昆布」「琉球の砂糖」などが搾取の対象とされたが、問題の本質はむしろ過剰競争による価格の劇的低下にあり、必ずしも搾取を伴うとは限らない。木綿業界や製紙業界の様にそこから新たな経済展開が拓けた例もあるし、最近はメモリーの低廉化や大容量化がこれに該当。

こうして全体像を俯瞰してみると「反体制が無条件に格好良い事だった」ヒッピー世代にその発想の起源がありそう?

ダグラス・ラミス「ヒッピー論」(「思想の科学」1971年6月号)

サンフランシスコには、1967年の秋に「ヒッピー」の概念の葬式が行われたという馬鹿話が伝わっている。確かに丁度その頃「ヒッピー」という概念自体がマスコミに絡めとられ、ファッション分野や音楽分野や書籍分野などに解体されて商品市場に組み込まれ始めたのは事実だ。「後に残されたのはプラスチック製のイミテーションだけでした」と、この馬鹿話は容赦なく断定して終わる。それが事実である証拠も、事実でない証拠も現時点では存在してない。

我々は何に支配されているのか?

もし我々が自らの解放を願うなら、まず我々自身が何に支配されているか見定めなければならない。その内容は誕生の瞬間から刻々と飽くことなく進化を遂げてきて、今日ではとんでもないレベルまで精緻化が進んでいる。
*そういえばヒッピー運動全盛期は、フランク・ハーバートデューン/砂の惑星(Dune)シリーズ(1965年〜1985年)」の執筆が始まった時期と重なる。その世界観においては機械文明を発達させたイックス(IX)の「思考機械」が禁じられ、代わりにそれぞれの諸勢力が生身の人間の演算能力を引き上げた「メンタート」や、人間に予知能力を付加する「メランジ(スパイス=香辛料)」の力を借りて独自の精緻な精神世界を構築し、他勢力をその完全コントロール下に置こうと鎬を削り合っている。そしてヒッピーとは(少なくとも自意識的には)自らをこうした「愛なき闘争」の外側に置きたいなる願望の顕現だった様なのである。

マルクスフロイトは共に、意識及び行動が我々の必ずしも感得していない物理的・心理的諸条件から生じているかについて言及した。現代のテクノロジスト達はそれをさらに発展させ、これら諸条件の巧妙なる操作方法を編み出した訳だ。

カール・マルクスは「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」において「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗うべし)」とグノーシス主義的(反宇宙的二元論的)人間解放論を展開した人物。皮肉にも(レーニンが米国テイラー主義などを参照して樹立した)科学的マルクス主義は、かかる無政府主義的懐疑論からの完全脱却を出発点としている。

そしてシグムント・フロイトは人間を実際に動かしているのは当人がそう信じたがってる様な「意識的決断の積み重ね」ではなく「無意識からの呼び声」であるとした。

あるTVコマーシャルが放送されると、数百万の視聴者達は「何と下らないCMだ」と呟きながら何故そうするか分からないまま出掛けていって、その商品を買ってしまう。これが「動機の研究(Motivational Research)」の成果であり、それによって我々の意識を出し抜いて無意識に直接訴えかけ、我々の行動様式を勝手に望むまま規定し続ける事が可能となった。

1957年9月12日、ニューヨークの某スタジオで市場調査員であるジェームズ・ヴィカリーが記者会見を開いた。その内容は驚くべきものだった。映像内に視聴者が知覚できないほどの一瞬だけ、「コーラを飲め」や「ポップコーンを食べろ」というフレーズを何度も流すことで、コーラとポップコーンの売上をそれぞれ57.7%および18.1%伸ばすことに成功したというのである。これは”サブリミナル広告”と命名された。

ヴィカリーの思惑では、煩わしいテレビCMに取って代わる可能性のあるこの発見は、アメリカ中からの喝采と賞賛を受けるはずだった。しかし、実際には洗脳に対する恐怖と反感を呼び起こすことになった。

そして1962年、とうとうヴィカリーは発表できるほど十分な調査は行われておらず、一切を悔いていると白状したのだ。

それでもサブリミナル広告の威力に対する懸念は収まることがなかった。1957年のパニック以来、イギリスではその使用が禁止されている。

また科学的管理法を用いれば我々人間をデータとして記録して調査分析し、そこから得られた情報をコンピューターにかける事で、最適なる技法が算出出来る。これが誰もが論じている情報化時代の正体であり、その実体は情報の巧妙な操作及び支配(Control)に基づく人間管理の具現化に他ならないのだ。

*確かにコンピューターなるもの、演算能力を全く備えていないタピュレーティング・マシン(パンチカード・システム)段階から既に軍事計画や都市計画の策定に不可欠な統計結果を得る為の集計手段として活用されてきた。

もし我々がそうした経営学的、都市計画的束縛から脱却して解放されたければ、これらの法則を侵犯する突然変異の変種になるしかない。かくしてヒッピーが好んで自らをそう呼ぶ「変わり種(Freaks)」が地上に生を受ける事になる訳だ。

それでは「経営学的拘束」とは何か。

資本主義経済の急激な成長は、惜しみなく労働力を供給してくれる一方、その生産物を次々と消費してくれる貴方に依存している。もし貴方が女性ならばさらに、貴方の為に惜しみなく働いてくれ、欲しくなった物を次々と買ってくれる男性しか恋人や結婚相手に選ばない事で、冷徹な督戦係としての役割まで演じさせられる事になる。かくして広告主は望む成果を手に入れ、貴方の家の中にガラクタの山が積み上がるという結末が待っている。
*こういう考え方は科学的マルクス主義から排除されたマルクス本来の思想への回帰を主張して1960年代を席巻したマルクス主義経済学アルチュセール(Louis Pierre Althusser、1918年〜1990年)の重層的決定論をさらに発展させたドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス(1972年)」辺りに由来する? そして奇しくもその想像力はP.K.ディックの不条理世界概念とも重なってくる。空っぽの人間の心を代わりに満たす商業主義…

それでは「都市計画的拘束」とは何か。

公共の場にいる我々は都市工学的誘導に基づいて今どこにいるべきか一々細かく指図され続けている様なものだ。そしてそれに逆らって人々が立ち止まったり「想定外の行動(そもそもこの言葉自体に相手側を罪悪感で身動き出来なくさせようとする悪意が埋め込まれている)」を取り始める事ほど、政治家や官僚や警察を困らせる事はない。最も重要なポイントは流動性を保ち続ける事、すなわち誰もを絶えず忙しく移動し続けなければならない状況に置く事で淀みなき流れを生じさせ、それに逆らおうとする意図を未然に摘み取り続ける点にある、反体制デモでさえ、予め警察に届け出たコース通りに更新してる限りは統制下に置く事が出来るという訳だ。

こうした抑圧的状況下では市民は無数の部分に分断され、各部分が互いに争い続ける事を強要される。そうした動きに逆らおうとする内的衝動を恐れて自ら抑制する様に教育され、それぞれが完璧な自己搾取マシーンとして機能する事を求められるのだ。

それでは「完璧な自己搾取マシーン」とは何か。

「自分は不完全で不的確で魅力も存在に過ぎない」「だからこそ、体制側の交通規制に従って自らの欠陥を補完してくれる商品を購入し続けり事で完全かつ適格な魅力ある存在となる事を目指し続けなければならない」と信じ込まされ、その目標を実現する為に働かされ続ける状態の事を言う。

丸一日裸で過ごしてごらんなさい。自分が如何に普段「自分達だけで放置されたら耐えがたい醜悪な動物に退化してしまう」という恐怖に突き動かされて暮らしているか否が応でも思い知らされる筈だ。そして、そうした裸の状態こそが、本来の自分も自然で生得的で本質的な核心部分なのだという現実が普通に受け容れられる様になる。こうして個々の人間が「再統合(Reassembled)」され科学的管理技法で「予期不可能(Anomary)」な状態を取り戻す事をこそ、体制側は心の底から恐れているといっても過言ではない。

*こうした発想から出発したヒッピー文化の反体制思考はそもそも「海賊ラジオ放送者」「電話回線の無断使用者(Phreaks=Phone+Freaks)」「TV説教を通じて仲間を増やす宗教右派を打倒する為の放送ジャック」といったゲリラ戦(体制側のインフラに寄生した非対称戦)を礼賛してきたし、その延長線上にサイバーパンク文学が登場してくるのである。

「オルタモントの悲劇(1969年)」「シャロン・テート虐殺事件(1969年)」「ガイアナ人民寺院集団自殺事件(1978年)」といった悲劇的展開の積み重ねを通じて「究極の自由主義専制の徹底によってしか達成されない」現実認識への回帰を余儀なくされたとされるヒッピー文化ですが、実はまだまだ健在という事?