諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【GODZILLA -怪獣惑星-】「風の谷のナウシカ」「スターウォーズ」を超え「21世紀の指輪物語」へ?

GODZILLA -怪獣惑星-(2017年)」 を鑑賞した感想はまさにこれ。

f:id:ochimusha01:20180223194133g:plain

ホビットの冒険(The Hobbit, or There and Back Again、1937年) - Wikipedia

指輪物語』の前日譚に当たるJ・R・R・トールキンの児童文学。ホビットと呼ばれる小人が、魔法使いやドワーフとともに竜に奪われた財宝を取り戻すべく、竜の住む山を目指す冒険譚。

f:id:ochimusha01:20180225055437j:plain

荒俣宏は映画『ホビット』について、ゴラムとのなぞなぞシーンを、スフィンクスオイディプスのなぞなぞシーンに相当する、と解説した。私はこれを読んで、まさにその通りだ、と思った。というか、あからさまにオイディプス王だ。なぜ気付かなかった、というくらい。英雄物語の典型的な場面がここに描かれていたのだ。

英雄はしばしば、地下の世界、黄泉の世界、闇の世界といった舞台へ転落し、そこから復活すると同時に力を得る(悟空も死んでから界王に出会い、力を得たわけで)。ビルボは地の底の沈黙の世界で、ゴラムに会う。これはあからさまに死の世界だ。

トールキンもこの場面で、スフィンクスのなぞなぞの場面を意識したのだと想像される。トールキンはもともと神話を研究している学者で、神話の形態について私のような素人よりよほど長けていたはずで、ならばと作品の中に神話の1シーンを込めたとしても不思議ではない。

原作にもこう書かれている。

「なぞなぞ遊びというものは、はかりしれないほどの昔からつたわる、神聖な遊びごとで、どんなわるい奴でも、この遊びの相手をだましてはいけないことになっていることを、ビルボはよく知ってしました」(上・163ページ)

しかしビルボは、このなぞなぞをズルをして勝つわけだ。ズルをしてゴラムに勝ち、魔法の指輪を手にするが、同時に呪いを受けてしまう。原作にも「あのさけび、あののろいをききつけたのだろう」(上・177ページ)とはっきりと、単に叫びではなく“呪い”と言及されている。

これもやはり英雄物語の形式に当てはめた考え方だったのだろう。英雄物語を大雑把に分類すると、2つに分かれる。桃太郎が鬼退治に成功し、宝を得て「めでたし、めでたし」で終わる物語と、アーサー王のように運命に打ちのめされて死んでしまう物語だ。

なぜ英雄物語がまったく違う2つの結末を迎えるのか。それはおそらく、冒険の最中に反道徳的な何かを犯してしまうためだろう。例えばオイディプス王は、冒険の最中、知らぬとはいえ父親を殺してしまったのだ。これが大きな過ちとして、呪いを受ける理由になってしまったのだろう(オイディプス王って全てにおいて理不尽なストーリーだよね)。一方ビルボは、ズルをしてなぞなぞ対決に勝利するのだ。

トールキンはこういった英雄物語の形式を当然、知っていて、知った上で自分の物語に込めたのだろう。すると『ホビットの冒険』『指輪物語』の2作は、2つの英雄物語の結末が描かれている作品、ということになる。もっとも、ビルボが受けた呪いは、その甥っ子であるフロドが精算するわけだけど。

本作が成功したため、出版社はトールキンに続編の執筆を依頼。これがのちに『指輪物語』となり、この執筆の過程でトールキンは、『指輪物語』との整合性をとるために本書に改訂を行っている。まずは1951年の第2版において「くらやみでなぞなぞ問答(第5章)」で重要な改訂がなされ、その後もビルボが足を踏み入れた世界に関するトールキンの考えの変遷を反映し、1966年の第3版でさらなる改訂が加えられた。

批評家から広く称賛を受け、カーネギー賞にノミネートされたほか、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン最優秀児童文学賞を受賞。今日に至るまで人気を保ち、児童文学の古典的作品と見なされている。本作の日本語訳としては、瀬田貞二の訳によるもの(1965年)と山本史郎によるもの(1997年)がある。

f:id:ochimusha01:20180225060135j:plain

ピーター・ジャクソン監督による実写映画化のプロジェクト『ホビット』があり、3部作のうち第1部『ホビット 思いがけない冒険』が2012年11月に、第2部『ホビット 竜に奪われた王国』が2013年12月(日本公開は2014年2月)に、第3部『ホビット 決戦のゆくえ』が2014年12月(日本公開は2014年12月13日)に公開された。

それにつけても「エッロいエルフ」とは? 

櫻井孝宏 - Wikipedia

〈物語〉シリーズ(2009年〜)」 の忍野メメ

f:id:ochimusha01:20180223201447j:plain

劇場版「ベルセルク(2012年〜)」のグリフィス/フェムト

f:id:ochimusha01:20180223201711j:plainf:id:ochimusha01:20180223201633j:plainf:id:ochimusha01:20180223201614j:plain

PSYCHO-PASS サイコパス(2012年〜)」の槙島聖護

f:id:ochimusha01:20180223201827j:plain

「東京喰種 -トーキョーグール-(2014年〜)」のウタ

f:id:ochimusha01:20180223202020j:plain

アニメ版「ノラガミ(2014年〜)」の蠃蚌 (らぼう)

f:id:ochimusha01:20180223200307g:plain

そして「GODZILLA -怪獣惑星-(2017年)」のメトフィエス

f:id:ochimusha01:20180223200551j:plain

国際的には「世界の仲代達矢」ポジとも。

日本では「シン・ゴジラ(2016年)」における「牧悟郎博士=岡本喜八監督」というファクターから 大宅壮一原作映画「日本のいちばん長い日(1967年)」を連想する論調が数多く見受けられます。しかし実は岡本喜八監督を「世界の岡本喜八」たらしめた作品は、あくまで同じ橋本忍脚本映画「大菩薩峠(The Sword of Doom、1966年)」。しかしその割に日本においては不思議と「大菩薩峠(The Sword of Doom、1966年)」の知名度が海外ほどではありません。

  • それは岡本喜八橋本忍が主人公机竜之助(仲代達矢)を徹底して「単なる衝動的殺人者に過ぎない」存在と割り切って描いたのが評論家達の逆鱗に触れ、完全黙殺されたせいともいわれている。
    *「黙殺」…要するに戦前よりずっと机竜之助の行動に何らかの意味を求めようと悪戦苦闘してきた(そして常に失敗し続けてきた)評論家達は、自分たちのそれまでの努力を足蹴にされた様に感じてキレたとも。
    https://68.media.tumblr.com/tumblr_lnvv6ivhSW1qlh9eeo1_500.gif
  • 逆に海外ではなまじ「単なる衝動的殺人者に過ぎない」が故に島田虎之助(三船敏郎)の大見得が心に刻印されてなお、自分が邪剣使いという認識が直接は芽生えない天然振りが評価される形に(それでも苦しんで狂う)。そしてそんな難役を仲代達矢が「色気たっぷり(Sexy)」に演じているのが高評価に繋がった。
    https://68.media.tumblr.com/9521d363fd49f796e70bfd6f76a1b0f5/tumblr_o9jtyvxXkZ1tr6ni8o1_500.gifhttps://68.media.tumblr.com/tumblr_lpq4prJeB21qlh9eeo1_500.gif

色気たっぷり(Sexy)?」何ですかその判断基準?

綺麗め系統のイイ男が、冷酷な人でなしだったとしたら? 自動的に、女が不幸になる。ええ、展開は決まっています(笑)。その逆を考えるともっとわかりやすくて、たとえば、ブ男が、冷酷な人でなしだったとしたら? 自動的に、男(っていうか本人)が不幸になる。それだけです。女は、ブ男で冷酷な人でなし、なんていう男とは特に関わろうとしませんから、ドラマが生まれるはずもない。

f:id:ochimusha01:20180223195151j:plain

  • そんなわけで「綺麗め系統のイイ男+冷酷な人でなし、という設定でいこう!」と決まった瞬間、「女が不幸になる」という展開も自動的に決まる。そして、普段は無意識下に追いやっているけれど心のどこかに潜んでいるはずの女の自虐的心理やら破滅願望やらを刺激することになり、妙な熱狂が渦巻くであろうことは、必至。

  • だいたい「四谷怪談(1965年)」以前まで伊右衛門の様な綺麗め系統のイイ男は、いい人、やさしい人、と決まっていたんです。正確に言えば、頼りないというか、優柔不断というか、主体性がないというか、そういう意味での、やさしい人、ですけどね(笑)。いや、でも、今だってそういうタイプの二枚目がもてはやされている気もしますが。

    f:id:ochimusha01:20180225094227j:plain

  • でも、そういうのって、ちょっとばかりつまんないんですよね。刺激がない。面白くない。心が揺さぶられない。唯一面白いとしたら、そういうぼんやりさんの心をこっちが揺さぶること、ですか(笑)? でもそれもやがて飽きるでしょう。何ていうか、「え、そういうのもアリ?!」「あぁ、もう理解不能!!」というような興奮や驚きを、他人の上に見出したいんですよね。ましてやそれを、イイ男の上に見出せたとしたら。たぶん、これ以上ないくらいの快楽なんじゃないか。そう思うのです。

  • 実は、そんな驚きを、今回この『四谷怪談』の仲代達矢の上に見出すことができました……! 映画前半の仲代達矢は、普通の悪人・伊右衛門だったんです。まるで眠狂四郎のように虚無的なニヒルな表情で人を殺して「うーん、天知茂バージョンとあまり変わらないかなー」なんて思ってました。

    f:id:ochimusha01:20180225094055j:plain

  • ところが、ラストに近づくにつれ、仲代達矢、バリバリと狂い出すんです! 目をむき、叫び、転げまわり。以前自分に向かって「お前、女に惚れたことねぇのか?」と言った直助(中村勘三郎)の幻覚に向かって「女に惚れたことのない悪党ほど始末におえないものはねぇだとー?!」と食ってかかり斬りまくり、充血した目をギラつかせ。お岩の亡霊から身を守るための結界も斬り捨て、女も斬り捨て、転げ出るように戸を開けると、サーッと眼前に吹き上げる木枯らしに、舞う粉雪。恐る恐る、ゆっくりと正面を見据えるまでの、自分が何をしているのかもう分からなくなっていることへの恐怖と憤怒と冷酷のまじった、その凄い表情といったら。

    f:id:ochimusha01:20180225094839g:plainf:id:ochimusha01:20180225094904g:plainf:id:ochimusha01:20180225094948g:plain

  • ここで私、初めて仲代達矢にセクシーなものを感じてしまいました。何故なら、このときの彼の顔に、何かよくわからない、自分の理解を超えた、謎のような未知のような怖いような底なしのようなものを見たから。このときの仲代達矢には、決して「実は心の奥底ではお岩を愛していたのだ」とか「何がどうあっても立身出世したかったのだ」とか、そういう「なるほどねー」と腑に落とすことができるようなものは何もなかったと思う。そこには「意味」なんて何もなくて。それこそ、結局すべてを失くしてすべてがはぎとられた後に残ったのは、真ん中が空洞のダンボール芯だけ、というような。でもそのダンボール芯が異様に頑丈でつぶそうとしてもなかなかつぶれないどころか、なんだか異様な存在感を発している、というような。
    *これって考えてみれば、エドモンドバークが提言したピクチャレスク(Picturesque)概念における「崇高は美と戦慄の同居によって達成される」なる指摘そのもの?

  • そんな空洞と無意味をあらわにしたまま、異様な存在感だけを発して、ただただ目をむいて虚空を睨んでいる。そんなものを目の前にしたら、もうどうしていいのかわかりません、私だったら。まぁ、それがトイレットペーパーの芯だったら「このダンボール芯、なんか不気味だから捨てちゃお」で済みますけど、それがイイ男だったとしたら。もう金縛りにあったように固まりますね。間違いなく。

    f:id:ochimusha01:20180225093922g:plain

つまり、セクシーとは、そういうものなのでしょう。きっと。それは、自分の理解を超えたものに対してはそうした反応をするしかない、そうした反応によって未知のものを乗り越えようとするしかない、人間の切ない本能なのかもしれません。だから、外見的に好みだとかスペック的に好みだとか、そういうこととセクシーはあまり関係がないのかもです、実際は。たぶん。もちろん、イイ男であるに越したことはないでしょうけれど、ね。

一見、以下の生理的価値判断基準と矛盾している様に見えます。
しかしそれは男性にとっての「運命の女(Femme fatale)」概念も同じ。そしてここに至って初めて「男性にとってのセクシーな悪女」なる概念は「女性にとってのセクシーな悪党」との対称性を獲得するのです。
*なんとなく女性側に「本当に怖ろし過ぎる相手には男子を生贄に捧げ、自分は観客席から安心して眺めていたい願望」を感じるが、まぁ同種の卑怯さは男子側も備えている訳で…

こうしたキャラが上掲の生理的価値判断基準を超えて輝くには「退屈な日常の侵犯者」なる立場を獲得する必要があります。そしてその時「退屈な日常」は同時に現在の繁栄を獲得する過程で犯した「原罪」と、それに由来する数々の矛盾を露わにするのです。まさにこれぞ「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨て(再黙殺)のサイクル」のうち「混錯」に該当するプロセス。

それは「退屈な日常」が、自らの認識範囲内に潜む些細な矛盾を解決しようと始めた試みが、それまで無意識下に埋設され隠されてきた巨大な根源的矛盾を掘り当ててしまった結果発生する「落雷」そのもの…

宮崎駿風の谷のナウシカ(漫画版1982年〜1994年、映画化1984年)」のクライマックスで語られた生命論

f:id:ochimusha01:20180225081311j:plain

ナウシカ
「私達の身体が人工で作り変えられていても、私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている」
「その朝が来るなら私達はその朝にむかっていきよう」
「私達は血を吐きつつ、繰り返し繰り返しその朝を越えてとぶ鳥だ!!」
「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう」
「だが、お前は変われない。組み込まれた予定があるだけだ。死を否定しているから。」

墓の主
「これは旧世界のための墓標であり、同時に新しい世界への希望なのだ」
「清浄な世界が回復した人間を元に戻す技術もここに記されている」
「交代はゆるやかに行われるはずだ」
「永い浄化の時は過ぎ去り、人類はおだやかな種族として新たな世界の一部となるだろう」
「私達の知性も技術も役目もおえて、人間にもっとも大切なものは音楽と詩になろう」


ナウシカ
「絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない」
「その人たちはなぜ気づかなかったのだろう。清浄と汚濁こそ生命だということに」
「苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない。それは人間の一部だから・・」
「だからこそ、苦界にあっても喜びやかがやきもあたあるのに」


墓の主
「私は、暗黒の中の唯一残された光だ」
「娘よ。お前は再生への努力を放棄して人類を滅びるに任せるというのか?」


ナウシカ
「その問いはこっけいだ。私達は腐海と共に生きてきたのだ。亡びはすでに私達のくらしのすでに一部になっている」


墓の主
「生まれる子は、ますます少なく石化の業病から逃れられぬ。お前たちに未来はない」
「人類はわたしなしには亡びる。お前たちはその朝をこえることはできない」


ナウシカ
「それはこの星が決めること」


墓の主
「虚無だ!!それは虚無だ!!」


ナウシカ
王蟲のいたわりと友愛は虚無の深遠から生まれた」


墓の主
「お前は危険な闇だ。生命は光だ!!」


ナウシカ
「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」
「すべては闇から生まれ闇に帰る。お前たちも闇に帰るが良い!!」


墓の主
「お前は悪魔として記憶されることになるぞ。希望の光を破壊した張本人として!!」


ナウシカ
「かまわぬ。そなたが光なら、光など要らぬ」
「巨大な墓や下僕などなくとも私達は世界の美しさと残酷さを知ることができる」
「私達の神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ」

*後から振り返ると、宮崎駿にとってこの作品は中江兆民にとっての「三酔人経綸問答(1887年)」だったのかもしれない。実際、扱ってるジレンマもほぼ重なってくる。

中江兆民「三酔人経綸問答(1887年)」 - Wikipedia

明治10年代に加熱した自由民権運動が明治政府の国会開設で沈静化すると、運動は条約改正など対外関係における国権論に移行し、民権と国権の折り合いが争点となった。兆民は運動が国権論へ傾くなかに同書を執筆したといわれる。1887年(明治20年)に徳富蘇峰の主宰で兆民も寄稿していた『国民之友』第3号(1887年(明治20年)4月15日発行)に『酔人之奇論』の題名で一部が発表され、5月に集成社から刊行された。3人の思想の異なる登場人物、洋学紳士(紳士君)、豪傑君、南海先生が酒席で議論する物語である。

f:id:ochimusha01:20180225074441p:plain

  • 理想主義者」の紳士君は人類史を3段階に区分し、明治10年代に日本へ紹介されていた社会進化論を用いて、進化を発展の原動力とした。フランス、ドイツなどヨーロッパ列強を批判し、完全民主制による武装放棄や非戦論などの理想論を展開する。
    *特に(国連理念の先駆けとされる)カント「永遠平和のために」に帰依するところが大きい。
    イマヌエル・カント「永遠平和のために(Zum Ewigen Frieden、1795年)」 - Wikipedia

    フランスとプロイセンバーゼルの和約を締結した1795年にケーニヒスベルクで出版された。バーゼルの和約は将来の戦争を防止することではなく、戦争の戦果を調整する一時的な講和条約に過ぎなかった。このような条約では永遠平和の樹立には不完全であると考えた場合、カントには永遠平和の実現可能性を示す具体的な計画を示すことが求められる。本書はこのような平和の問題が論考されている。出版の翌1796年には第二補説を含めた増補版が発表されている。

    本書の冒頭で『永久平和のために』という標語がオランダの食堂宿にあった墓場の絵が描かれた看板に由来することを示し、それが「人類一般に妥当するのか、決して戦争を止めようとしない国家元首らに妥当するのか、或いは甘い夢を見る哲学者のみに妥当するのかは未定としよう」と書き、当時の現状を風刺的、懐疑主義的に批判している。

    *しかしながらカントのこの著作自体が「真の平和は人類全てが死滅するまで理念の中にしか存在しない」なる悲観論から出発した様に、国際社会はとりあえず「最終的には個人的自由の保証が永久平和をもたらす」とする社会進化論そのものに「容易く絶対主義へと転落し、最終戦争に至る権力者同士の無限闘争を生み出すのみ」なるレッテルを貼って弾圧する道を選んでしまう。

  • これに対して「英雄主義者(ロマン主義者)」の豪傑君は欧米列強の世界進出が(継承する所領を持たない領主の次男坊以下や食い詰め遍歴騎士に起死回生の機会を与えた)広義のノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest、10世紀〜12世紀)や十字軍運動/大開拓時代(11世紀〜13世紀)や大航海時代(15世紀半中旬〜17世紀中旬)に由来する事を指摘。近代化に向けて舵を切った大日本帝国に居場所をなくした武士を同様に中国大陸に快く送り出し、新たなる居場所の確保か潔い全滅かを選ばせるべきとした。
    *こうした思考様式の背後には秩禄処分(1876年)によって在野に放逐され、士族反乱(1874年〜1877年)に破れ、自由民権運動(1874年〜1890年)に便乗して数多くのテロ行為に走った士族階層の鬱憤への配慮、政府の制止を振り切る形で私兵によって敢行された台湾出兵(1874年)やクーデターによって朝鮮王朝を倒そうとした大阪事件(1885年)の背景に見られた「新天地における武家支配体制の復活」願望に対する同情が見て取れる。

  • 現実主義者」南海先生は両者の論争を調停する形で「世界平和の理念は歴史の現段階においては、まだまだ理想に過ぎないから武装放棄は早計」「大陸への派兵も欧米列強を無用に刺激するから実施不可能」「欧米列強の脅威から日本を守り抜くにはむしろ(スイスの様な)国民皆兵化による武装中立状態が望ましく(軍事専門家としての)士族活用の場は必ずここに見いだせる」とした。
    *ここでは、そもそも「君主制こそ一刻も早く絶滅すべき絶対悪」なるレッテル貼りを歴史的に主導してきた思想家ルソーも歴史家ブルクハルトも(神聖ローマ帝国フランス王国と衝突しながら部族連合状態を保ち続けてきた)スイス出身者だった点を思い出すべきであろう。当時の日本における「現実主義」は、最初から第一次世界大戦(1914年〜1918年)を待つまでもなく、ヴェストファーレン条約(羅Pax Westphalica、独Westfälischer Friede、英Peace of Westphalia、1648年)に端を発する欧州国際協調路線というより、それによって後付けで独立を勝ち取りつつもそれがもたらすとされた「偽りの平和」を一切信じず国民皆兵状態を今日まで維持し続けているスイスの総力戦体制を志向していたのだった。

これら登場人物に関する解釈が諸説存在する。

  • 3人全てに兆民の考え方が反映されているとする見方…文量の多くを占める紳士君の思想が兆民自身の理想主義的な面を反映している一方で、彼の英雄的要素が豪傑君に反映されていると解釈する者(蘇峰、桑原武夫)がいる。

  • 兆民の考えが特に南海先生に反映されているとする解釈…兆民が行う鋭い分析と彼の持つ常識家的現実主義者の側面が南海先生に見いだせるとする者(桑原)、また、南海という言葉は兆民の出身地である土佐国を含んでいた南海道と関係性があるのではないかと見解をとる研究者(堀口良一)もいる。

  • 兆民以外の者の思想が反映されているとする解釈…例えば蘇峰や井上毅の思想を各々紳士君、豪傑君の主張の中に見いだす研究者(山室信一)がいる。ちなみに、井上毅はこの書が面白い趣向を持つと指摘しつつも、東海散士の『佳人之奇遇』ほどは売れないだろうと評していた。

この様に様々な読み方をされてきた著作だが、原文を素直に受容すると「ええとこどり」を目指すあまり、まず(たやすく絶対主義に陥る)自由主義を右翼(軍国主義)と左翼(社会主義)が挟撃する形で滅ぼし、その後「大陸浪人の一旗主義」と「一般臣民の欧米列強に対抗する為の総力戦体制構築願望」の止揚(aufheben)に成功した大日本帝国末期の軍国主義の出現を予告していたとも見て取れる。「ルソー思想の日本への紹介者中江兆民ですら、元士族という立場上の制約からこうした到達点しかイメージ出来なかった辺りに大日本帝国の限界はあったのかもしれない。

*そして、こうした心境に至った宮崎駿監督が次に手掛けたのが「On Your Mark(1995年)」だったのは、おそらく偶然ではない。同時期にはオウム真理教サリン散布事件(1994年〜1995年)が発生。「反体制こそ正義」なる米国ヒッピー思想からの安直な受け売りは遂に致命的打撃を被る展開を迎える。

On Your Mark - Wikipedia

同監督による「風の谷のナウシカ」と比較対象にされるこの作品の絵コンテの脱稿は1995年の1月で、オウム真理教による地下鉄サリン事件の2か月前であった。

f:id:ochimusha01:20180225092256j:plain

地表が放射能で汚染され、病気が蔓延し、人類が地下に住むようになった世紀末後の未来の都市が舞台。あるカルト教団の施設「聖NOVA'S CHURCH」を襲撃、制圧した武装警官隊。その中の警官2人は、教団施設の奥で翼の生えた少女を発見する。2人は彼女を救助するも、研究資料として今度は政府機関の施設に連れ去られてしまった。2人は彼女を空へ帰そうと奮闘を始める。

この羽のはえた少女は「ウラン」ちゃんだったのである。

f:id:ochimusha01:20180225100347j:plain

f:id:ochimusha01:20180225100405j:plainf:id:ochimusha01:20180225100557p:plain

*そして同時にこのMVに登場するチャゲとアスカは、サイバーパンク文学を代表するウィリアム・ギブスン「クローム襲撃(Burning Chrome、1982年)」におけるボビー・クワインとオートマチック・ジャックのコンビに重ねられている感もある。

岡田斗司夫は本作を、ほとんど戦力の無い相手を無差別に殺戮する行為から目をそらした一人の警官が空想に逃避する物語で、天使の少女は初回の襲撃シーンで死んでいる少女(白い衣服が翼に見えている)だと解釈している。また、ラストで自動車が横道に停車するのは、2人が放射能や大気汚染で死亡したからであると指摘している。
*この作品を鑑賞して「聖NOVA'S CHURCH」を「(悪の権力に一方的に殺戮される)ほとんど戦力の無い正しい人々を無差別に殺戮する悪の権力」しか思い浮かべられない発想は、ある意味1972年に実際にアイルランドで起こったU2「Brady Sunday(1983年)」に由来するのかもしれない。日本のその筋の人達が「山岳ベース事件(1972年〜1973年)」や「あさま山荘事件(1973年)」によって国民感情を敵に回した事を決っして認めない様に…ここではむしろ「悪に対立するものとしての善は、ある意味では、対立するすべてのものがそうであるように、悪と同質である」なるシモーユ・ヴェイユの言葉を思い浮かべるべきとも。
258夜『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ|松岡正剛の千夜千冊

*だが肝心のアイルランド人が1998年にはベルファスト合意(Belfast Agreement、4月)に抗議する形でIRA暫定派の分派「真のIRA」が遂行した「オマー爆弾テロ事件(Omagh bombing、8月15日、一般市民29人死亡/約220人負傷)」を通じて彼らが「ほとんど戦力の無い正しい人々」どころか「英国同様に(自分達に一向に同調してくれない)一般市民を同じくらい憎悪し、容赦無く無差別に殺戮する完全武装のテロリスト集団」に過ぎない事を思い知らされてしまう。かくして一般市民から完全に見捨てられたIRAは2000年5月に段階的な武装解除を表明.。独立国際武装解除委員会の受け入れにも応じて2005年7月28日に武装闘争の終結を宣言、同年7月25日には同委員会によって武装解除(武器の放棄)が確認されている。そういえば日本でもオウム真理教サリン事件が国内支持者を失った日本赤軍壊滅につながっていく流れが存在した。

*さらにこの話には続きがある。パナマ文書(Panama Papers)によって「愛国者」どころか「実際には金儲けにしか関心がなく脱税に勤しんできた売国奴」だった実態を暴かれてU2も熱狂的ファンから見放される展開が待ってきた。そういえば宮崎駿角川春樹のコカイン所持容疑による逮捕(1993年8月29日)とASKA覚せい剤取締法違反(所持)容疑を結ぶ「日本エンターテイメント界の腐臭」には図らずしも感づいていたのではなかろうか。

*その一方で日本においてはさらに「ペルー日本大使公邸占拠事件(1997年)」が「特殊部隊突入による人質全員解放・犯人全員射殺」という結末を迎え、かつ日本人が「人質全員解放」ばかり喜んで「犯人全員射殺」を自業自得の結果としか受け止めない展開に戦慄しや中島みゆきが「4.2.3」を発表。その中で「日本人は危ない。何度でも繰り返す。平和を望むと口にしながら日本と名のついてないものにはいくらでも冷たくなれる。人は慌てた時ほど正体を現すものだ」と陰鬱に歌った。「この事件を契機にTVと視聴者の関係が変わった」ともいわれている。

*ある意味1990年代後半にこうして「正しい絶望」に到達し得た者だけが21世紀に入ってから「正しい再出発」を遂げられたとも。

ここで我々は「落雷」を発生させるのが限度を超えた電位差であり、その発生が同時にそれを必然的に許容範囲下へと引き下げる事実を思い出すべきなのかもしれません。日本の応仁の乱(1467年〜1477年)や16世紀から17世紀にかけて欧州で繰り広げられた宗教戦争の時代がそうであった様に…

f:id:ochimusha01:20180225150038j:plain

  • こうした「ホビットの冒険(The Hobbit, or There and Back Again、1937年)」における「(邪竜スマウグに奪われたドワーフの故郷としての)はなれ山(Erebor)」や「指輪物語The Lord of the Rings、執筆1937年〜1949年、初版1954年〜1955年、映画化2001年〜2003年)」における「力の指輪(the One)」といった象徴的存在を発端に展開される「それを入手した者全てに等しく不和と破滅をもたらす呪われた富」とか「原罪から目を逸らした偽りの繁栄とその崩壊」といった諸概念は、既にこれらの作品が下敷きとしたリヒャルト・ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環四部作(Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」において盛り込まれていたのでした。
    フランス革命ナポレオン戦争後に英仏で盛んとなったケルト・リヴァイバル運動、特にその影響を色濃く受けたサン・シモン主義やフランス国民に対する民族教育がロシアに伝わってゲルツィンらスラブ民族主義者を誕生させ、バクーニンに唆されてドレスデン蜂起(1849年)に参加したワーグナーが「(当時資本主義的発展の牙城だったロンドンをモデルとする)魔都ヴァルハラ」に屈服したニーベルング族、臣属しながら蜂起の機会を狙うロキ、支配階層に怨念を抱く先住民としての巨人族やラインの乙女達といった民族主義的主題に満ちた「ニーベルングの指環第一部:ラインの黄金(Das Rheingold、作曲1854年、初演1869年)」を発表する流れ。ワーグナーが以降バイエルンルートヴィヒ2世パトロンとする様になった関係で「ニーベルングの指環」自体におけるこうした物語性の展開は極めて象徴的な結末しか迎える事が出来なかった。この制約は「(ロンドンに代わって世界経済の中心となったニューヨークを魔都に見立てた)メトロポリス(Metropolis、1926年)」や「指輪物語」といった後続作品も引き摺る事になる。

  • そしてこの作品は資本主義社会や原子力時代に懐疑的なヒッピー世代に再発見されると、こうした物語性が遂にエンターテイメント業界のメインストリームへと躍り出る事になる。ただし日本のTVドラマ「北の国から(1981年〜2002年)」に感激したエコ左翼が「人間らしい生活を取り戻す為にTVを捨てよう!!」と連呼し出す様な恐るべき矛盾を孕みながら…いずれにせよ「ニーベルング族の解放」なる元来ワーグナーが盛り込んだ主題は、何故か常に後回しにされ続けるのである。
    *まぁ「支配の指輪=資本主義=原子力」といった文明の諸概念が、それを放棄すればあっけなく全ての問題が解決する様な単純な絶対悪だったなら、これほど長くその問題について人間が悩み続ける筈もなかったといえよう。そしてだからこそ、それはエンターテイメント業界において黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨て(再黙殺)のサイクルを回す「事象の地平線としての絶対他者」として君臨し続けてきたのである!!

指輪物語 - Wikipedia

ロード・オブ・ザ・リングThe Lord of the Rings)」の出版史

トールキンは「ホビットの冒険(The Hobbit, or There and Back Again、1937年)」発表後に別の本を書くつもりはなかったが、出版社に説得され「新ホビットの冒険」を構成しはじめた。完璧主義者であるトールキンの希望のため、執筆ははかどらなかった。かれは小説作品を準創造(sub-creation)、そしてかれ自身を準創造者と考えて、創造をかれの義務であると信じていたため、その創作には妥協がなかったものと推測される。

f:id:ochimusha01:20180223232321g:plain

f:id:ochimusha01:20180224053247g:plain

  • それはトールキン自身の言語学、おとぎ話、北欧神話ケルト神話に対する興味から始まった。トールキンは驚くほど自らの世界を詳細に形成し、中つ国とその世界のために、登場人物の系図、言語、ルーン文字、暦、歴史を含む完全な神話体系を創造した。この補足資料のいくらかは『指輪物語』「追補編」で詳述されている。神話の物語は『シルマリルの物語』と題する聖書のような叙事詩的長編へと織りあげられた。

    f:id:ochimusha01:20180225061722j:plain

  • J・R・R・トールキンは以前 『指輪物語』は「基本的には宗教的でカトリック的作品」であると記述した(The Letters of J. R. R. Tolkien)。そこではゴクリへのビルボおよびフロドによって示される慈悲および哀れみという大きな美徳が勝利をおさめる。フロドが一つの指輪の力と戦ったとき、トールキンの心には主の祈りの言葉「我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」が常にあった。トールキンは、自分の作品はどんな種類の寓意をも含まないと繰り返し主張し、また、その問題についてのかれの考えが序文に述べられているのだが、支配の指輪は原子爆弾の寓話であるという推測をするものは多かった。

  • トールキンは本作を、大きな一巻本で刊行しようと意図していたが、これは第二次世界大戦後の紙不足のために不可能になり、そのかわりに『旅の仲間』(第1部、第2部)、『二つの塔』(第3部、第4部)、『王の帰還』(第5部、第6部、追補編)の3巻に分割され、1954年から1955年の間に出版された。1966年、この他にファンの作った三つの索引が『王の帰還』に追加された。

    f:id:ochimusha01:20180225125616j:plain

  • 1960年代初期、ペーパーバック出版社エース・ブックスのSFの編集者ドナルド・A・ウォルハイムは『指輪物語』の米国ハードカバー版は米国の著作権法では保護されないと考えた。そしてエース・ブックスはトールキンに許可を得ず、印税も払わずに本作を出版し始めた。

  • トールキンは、かれに手紙を書いた米国のファンへこのことをはっきりと述べたため、ファンによる草の根の圧力は次第に大きくなり、エース・ブックスはそれらの出版を取りやめ、正式な出版の場合よりはかなり低い額ではあるが、トールキンへの名目上の印税支払をすることになった。しかしながら、正式に認可された版がBallantine Booksから出版され、すさまじい商業的成功を得たため、トールキンは十分に報われることとなった。1960年代半ばには、本作はアメリカで最も有名な作品の一つになり、「ガンダルフを大統領に!」といったスローガンが現れるなど、社会現象とまでなった。

    f:id:ochimusha01:20180225125829j:plain

  • 本作は多数の言語に翻訳されたが、トールキン言語学の専門家として、これらの翻訳の多くを検査し、翻訳過程およびかれの作品内容両方を説明するコメントをした。

  • トールキンによるエピック・ファンタジーの大成功で、ファンタジーへの需要が非常に大きくなり、このジャンルは大きく花開いたと言える。以後、ファンタジーの多くの良書が出版されたが、特筆すべき作品としては、アーシュラ・K・ル=グウィン の『ゲド戦記』やステファン・ドナルドソンの『信ぜざる者コブナント』がある。

  • 1987年、テキストの電子化により、英米のテキストが一致。そして2004年には50周年記念版として、クリスティーナ・スカル、ウェイン・G.ハモンドによる注釈。トールキン作の「マザルブルの書」の挿絵つきで出版された。2005年、クリスティーナ・スカル、ウェイン・G.ハモンドによる索引の再構成、テキストの全面見直し版が出版された。

    f:id:ochimusha01:20180225130029j:plain

 他の芸術分野すべてと同じように、立派な作品を真似ただけの派生本はたくさん現われた。『指輪物語』の筋をなぞっただけの派生品について、トルキニスク(Tolkienesque)という用語が使われるようになった。魔法のファンタジーの世界を邪悪な冥王の軍隊から救う探究に乗り出す冒険者の一団が…というストーリーがそれにあたる。
*SF作家P.K.ディックは、こうした「足の裏に毛が生えた小人の冒険譚」がヒッピー文化を代表する風潮に批判的で、その立場からK.W.ジーター 「Dr. Adder(執筆1974年頃、刊行1984年)」に序文を寄せている。

*そして「ドクター・アダー」を読む限り、こうした「反トールキン(反ハイファンタジー)路線」はジョージ・ロメロ監督の文明批判に満ちたゾンビ映画の展開とも密接な関係があった事を認めざるを得なくなる。要するに現世において人間が「生きながら死んでいる現実から解放される」にはどうしたら良いかという物語性が新たに浮上してきたのである。

ロード・オブ・ザ・リング - Wikipedia

ロード・オブ・ザ・リングThe Lord of the Rings)」の映画化

ビートルズ版の計画があったが実現しなかった。スタンリー・キューブリックも映画化する可能性を調査したが、そのためには、あまりに「壮大」であるとその考えを放棄した、といわれている。

  • 1970年代の中頃、有名な映画監督のジョン・ブアマンは、権利所有者で製作者のソウル・ゼインツと共同で、実写映画についての検討をおこなったが、当時はあまりにも費用がかかりすぎると分かった。1978年、ランキン=バススタジオとトップクラフトは、『指輪物語』関連で最初の映画化として、テレビ放映用アニメーション版『ホビットの冒険』を製作した。これは『指輪物語』の前篇にあたる。その直後に、ソウル・ゼインツは、ランキン=バスの後を継いで、『旅の仲間』および『二つの塔』の前半部分をアニメーション映画として製作した。

  • 1978年、ユナイテッド・アーティスツがリリースした『指輪物語』の監督はラルフ・バクシで、俳優の姿を撮影して、その上から作画するという「ロトスコープ」と呼ばれるアニメーション技術を特色としていた。(おそらく予算の圧迫あるいは超過、あるいは大作と取り組む困難のために)この映画の品質は不均一であった。マックス・フライシャーロトスコープ技術を使い、実際のアクション・シーケンスの上からアニメーションの絵を書いて、ある部分は完全にうまくアニメーション化されていた。さらに、映画はヘルム峡谷の戦いの後で不意に終わるが、しかしサム、フロドおよびゴクリは死者の沼地を横断する前なのである。最善を尽くしたにもかかわらず、バクシは(物語の残りを収めた)後編を製作することができず、ランキン=バスとトップクラフトが、かれのために1980年にテレビ放映用アニメーション版『王の帰還』を製作する余地を残すことになった。

  • これらの映画が若い観衆に目標とされる一方、大人のファンは物語の深みや暗さの多くが台無しになったと苦言を呈した。
    *そして当時のエンターテイメント業界の関心はむしろ「スターウォーズ(1977年)」の商業的成功に引き寄せられたのである。

このような結果から、『指輪物語』をちゃんと映画にするのは不可能だとも思われるようになった。さらに、小説への全般的な関心の減少も、映像化にこぎつけるのを難しくした。しかしながら、映画製作技術の進歩、中でもコンピュータグラフィックスの進歩により、映画化が実現可能になった。
*こうした展開は「映画のカラー化に伴う制作費高騰の隙を突いた英国怪奇映画や日本特撮映画の躍進(そして、さらにその恩恵に目敏くあやかろうとした「B級映画の帝王」ロジャー・コーマンの暗躍)」とか、さらに上手をいったイタリア怪奇映画やオーストラリア映画ニュージーランド映画の躍進といった実に資本主義的な要因を抜きには語り得ない。

  • ミラマックス映画は、ピーター・ジャクソンを監督として、『指輪物語』の完全実写映画化を開始した。資金調達が失敗に終わりそうになったとき、ニュー・ライン・シネマが製作を引き継いだ(ミラマックスの幹部ハーヴェイ・ワインスタインおよびボブ・ワインスタインは、最後まで映画の製作に残った)。

  • 三部作の実写映画は同時に撮影された(例えば、大きな戦闘シーン等に広範囲にコンピュータで生成した画像を追加した)。『ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間』は2001年12月に、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』は2002年12月に、そして『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』は2003年12月に公開された。三つの映画はそれぞれの年にすべて長編ドラマ・プレゼンテーション部門のヒューゴー賞を受賞した。

  • これらの映画が物語を多少変更しており、おそらく、トールキンのもともとの考えとは本質的に異なるところがあると批評した者もあったが、多くは素晴らしい作品として賞賛した。有名な批評家ロジャー・エバートは「ジャクソンは、文学の魅惑的でユニークな部分をとって、現代のアクション映画の用語にそれを再話した。…かれがこの映画で行ったことは恐ろしく困難であり、かれは賞賛に値するが、トールキンに忠実にある方がもっと困難で、勇敢だっただろう」と述べている。

  • これらの映画はアカデミー賞で17のオスカー(『ロード・オブ・ザ・リング』で4、『二つの塔』で2、『王の帰還』で11)を獲得し、「ファンタジー映画はアカデミー作品賞を受賞出来ない」というジンクスも打ち破った。しかし『ロード・オブ・ザ・リング』で助演男優賞イアン・マッケランがノミネートされたものの俳優部門での受賞はなかった(その理由はあまりにも登場人物が多すぎるからだと言われている)。前二作に比して『王の帰還』でのノミネート数が突出し、ノミネートされた全ての部門でオスカーを総嘗めにしたのは、三部作全体に対する評価が作品が完結した時点で為された結果と広く見なされている。

  • 視覚効果、とくに感動的なディジタル登場人物であるゴクリの創造は画期的である。一年半かけて三つの映画を同時に撮ってしまうという、撮影の規模だけでも先例がない。

映画は、本質的な興行的成功を証明した。ニュージーランドウェリントンで、2003年12月1日に行われた『王の帰還』のプレミアはファンの祝賀と公式のプロモーションのうちに行われた(映画の製作はニュージーランドの経済に著しく寄与した)。映画史上最大の水曜日の初日となったといわれる。『王の帰還』はさらに、1997年の『タイタニック』の後に、初めて10億$(全世界)の興行収入を得た映画となった。2004年のアカデミー賞で、『王の帰還』は6年前の『タイタニック』と同じく、11の部門でオスカーを獲得した。11部門の受賞は『ベン・ハー』『タイタニック』と並んで史上1位。全ノミネートで受賞した記録では単独1位である。

ところで、ここで思い出すべきはトールキン南アフリカ出身者だった事。

J.R.R.トールキン(John Ronald Reuel Tolkien CBE、1892年〜1973年) - Wikipedia

父方の先祖のほとんどは職人であった。故郷は現在のドイツのザクセン州にあたる。イギリスに渡ったのは18世紀ごろで、「迅速かつ熱心に、イギリス的に」なったという。苗字のTolkienは、ドイツ語のTollkiehn(注:tollkühnは「無鉄砲」の意)を英語化したものである。強いて語源に沿って英訳するならば、dull-keen(注: 日本語では「鈍い・鋭い」)となるような語であり、あえて矛盾した語を重ねる撞着語法(oxymoron、こちらは古代ギリシア語由来で「鋭い・鈍い」の意味)の言葉である。

f:id:ochimusha01:20180225143926j:plain
母方の先祖としてジョン・サフィールドおよびエディス・ジェーン・サフィールドの夫妻がおり、バーミンガムに住んでいて、市の中心に店を持ち、1812年以来はラム・ハウスと呼ばれるビルで商売をしていた。ウィリアム・サフィールドが書店と文房具屋を経営していたのである。曾祖父も前述の祖先と同じ名のジョン・サフィールドという名で、1826年から服地と靴下を商っていた。

f:id:ochimusha01:20180225150357j:plain
オレンジ自由国(現在は南アフリカ共和国の一部)のブルームフォンテーンで、イギリスの銀行支店長アーサー・ロウエル・トールキン(1857-1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド) (1870-1904) の間に生まれた。1894年2月17日生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる。

f:id:ochimusha01:20180225150513j:plain
アフリカに住んでいたとき、庭でタランチュラに噛み付かれた。これは、彼の物語で後に類似したことが起こる出来事である。3歳の時母と共にイングランドに行った。当初はちょっとした親族訪問のつもりだったが、父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカでリューマチ熱により亡くなってしまった。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むためにバーミンガムに行き、1896年には(現在はホール・グリーンにある)セアホールに移った。ここは当時ウースターシャーの村で、現在はバーミンガムの一部である。トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley BogやLickey Hillsの探索を楽しんだようで、この地での経験も、BromsgroveやAlcesterやAlvechurchといったウースターシャーの町や村や、おばの袋小路屋敷(Bag End)と同様、その後の作品に影響を与えたと思われる。

f:id:ochimusha01:20180225143800j:plain
母は二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた。植物学に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは風景と木を描くのを好んだが、好きな科目は言語関係で、母は早いうちからラテン語の基本を教えた。その結果ラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。バーミンガムのキング・エドワード校に入学して、バッキンガム宮殿の門に掲示されたジョージ5世の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力したり、学資不足のためセント・フィリップス校に一時籍を移したりもした。

f:id:ochimusha01:20180225143400j:plain
1900年、母はバプテストであった親戚の猛烈な反対を押し切ってローマ・カトリックに改宗したため、全ての財政援助は中断された。その母は1904年に糖尿病で亡くなり、トールキンは母が信仰の殉教者であったと思うようになった。この出来事はカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、信仰がいかに敬虔で深かったかということは、無神論者に転じていたC・S・ルイスをキリスト教に改宗させた際にもよく現れている。しかしルイスが英国国教会を選び大いに失望することになった。
C・S・ルイス(Clive Staples Lewis, 1898年〜1963年) - Wikipedia

孤児となったトールキンを育てたのは、バーミンガムのエッジバーストン地区にある、バーミンガムオラトリオ会のフランシス・シャヴィエル・モーガン司祭であった。トールキンはPerrott's Follyとエッジバーストン水道施設のビクトリア風の塔の影に住むことになる。この頃の住環境は、作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。別に強い影響を与えたのは、エドワード・バーン=ジョーンズとラファエル前派のロマン主義の絵画だった。バーミンガム美術館には、大きくて世界的に有名なコレクションがあり、それを1908年頃から無料で公開していた。

f:id:ochimusha01:20180225143117j:plain
16歳のときに3歳年上のエディス・メアリ・ブラットと出会い、恋に落ちた。だがフランシス神父は、会うことも話すことも文通することも21歳になるまで禁じ、この禁止に忠実に従った。1911年にバーミンガムのキング・エドワード校に在学中、3人の友人のロブ・キルター・ギルソン、ジェフリー・バッチ・スミス、クリストファ・ワイズマンと共に、半ば公然の「秘密結社」である「T.C.B.S.」を結成した。これは、学校の近くのバロウズの店や学校図書館で不法にお茶を飲むことを好むことを示す「ティー・クラブとバロヴィアン・ソサエティ」の頭文字を取った名である。学校を去った後もメンバーは連絡を保ち続け、1914年12月にロンドンのワイズマンの家で「協議会」を開いた。トールキンは、この出会いから詩を作りたいと強く思うようになる。

f:id:ochimusha01:20180225150746j:plain

1911年夏、友人たちとスイスに遊びに行ったが、1968年の手紙にその生き生きとした記録が残されている。彼ら12人がインターラーケンからラウターブルンネンまでを縦走し、ミュレンの先の氷堆石まで野営しに冒険したことが、(「石と一緒に松林まで滑ることを含めて」)霧ふり山脈を越えるビルボの旅のもとになっていることを指摘している。57年後まで、ユングフラウとシルバーホルン(「私の夢の銀枝山Silvertine(ケレブディル)」)の万年雪を見て、そこから去るときの後悔を覚えていた。彼等はクライネ・シャイデックを越えグリンデルワルトへ向かい、グレッセ・シャイデックを過ぎてマイリンゲンに、さらにグリムゼル峠を越え、アッパーヴァレーを通りブリーク、そして、アレッチ氷河とツェルマットに着いた。

f:id:ochimusha01:20180225150940j:plain

21回目の誕生日の晩、エディスに愛を告白した手紙を書いて、自分と結婚するように彼女に頼んだが、返信には「自分を忘れてしまったと思ったので、婚約した」とあった。ふたりは鉄道陸橋の下で出会い、愛を新たにする。エディスは指輪を返し、トールキンと結婚する道を選んだ。1913年1月にバーミンガムで婚約後、エディスはトールキンの主張に従いカトリックに改宗した、1916年3月22日にイングランドのウォリックで結婚した。

f:id:ochimusha01:20180225151127j:plain
1915年に優秀な成績で英語の学位を取り(エクセター学寮で学んでいた)オックスフォード大学を卒業した後に、第一次世界大戦にイギリス陸軍に入隊し、少尉としてランカシャー・フュージリアーズの第11大隊に所属した。部隊は1916年にフランスに転戦し、トールキンソンムの戦いのあいだ、同年10月27日に塹壕熱を患うまで通信士官を務め、11月8日にイギリスへと帰国した。多くの親友同然だった人々も含めて、自軍兵士たちが激戦で次々と命を落した。スタッフォードシャー、グレート・ヘイウッドで療養していた間に、「ゴンドリンの没落」に始まる、後に『失われた物語の書』と呼ばれる作品群についての着想が芽生え始めたとされる。1917年から1918年にかけて病気が再発したが、各地の基地での本国任務が行なえるほど回復し、やがて中尉に昇進した。 ある日キングストン・アポン・ハルに配属されたとき、夫婦でルースの近くの森に出掛け、そして、エディスは彼のためにヘムロックの花の咲いた開けた野原で踊り始めた。「私たちはヘムロックの白い花の海の中を歩いた」。この出来事から、トールキンベレンルーシエンの出会いの話の着想を得、彼がしばしばエディスを彼のルーシエンと呼んだ。

f:id:ochimusha01:20180225144204p:plain
第一次大戦後、退役してからの最初の仕事は、オックスフォード英語辞典の編纂作業であった。トールキンはWで始まるゲルマン系の単語の語誌や語源をおもに担当。1920年、リーズ大学で英語学の講師の地位を得、1924年に教授となったが、1925年秋から、ペンブローク学寮に籍を置くローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語教授として、オックスフォードに戻った。

f:id:ochimusha01:20180225151255j:plain
ペンブロークにいる間に『ホビットの冒険』と『指輪物語』の『旅の仲間』と『二つの塔』を書く。また1928年、モーティマー・ウィーラーがグロスターシャー、Lydney Parkのアスクレペイオン(古代ローマの診療所)の発掘を行うのを助けた。学術刊行物の中では特に1936年に講演され、翌年に出版された“Beowulf: the Monsters and the Critics”は『ベーオウルフ』研究において、また広く古英語文学研究において、時代を画するほどの大きな影響を与えた。Lewis E. Nicholsonは、トールキンの『ベーオウルフ』に関する論文は「『ベーオウルフ』批評の大きな転機として広く認識された」と述べ、純粋に歴史学的要素より詩学的な本質に迫る要素を評価したことを認めている。しかしまた、いわゆる言語学的な要素のみならず、広い意味での文献学的な研究への道を切り拓いたとも言える。事実、彼は書簡の中で『ベーオウルフ』を「『ベーオウルフ』は私の最も評価する源泉の一つである」と高く評価した。 実際に『指輪物語』には、『ベーオウルフ』からの多くの影響が見出される。これを書いた頃は、『ベーオウルフ』の中で描かれる歴史的な部族間の戦争の記録は重視する一方、子供っぽい空想に見られるような怪物との戦いの場面を軽視するのが、研究者たちの一致した見方だった。トールキンは、特定の部族の政治を超越した人間の運命を『ベーオウルフ』の作者は書こうとしたのであって、それ故に怪物の存在は詩に不可欠だったと主張した(逆に、Finnesburgの戦いの挿話および古英詩断片のように、『ベーオウルフ』やその他の古英詩中で部族間の特定の戦いを描くところでは、空想的な要素を読みこむことに異論を唱えた)。1940年代前半には、トールキンは『ベーオウルフ』の原型となった民話の試作『セリーチ・スペル』を執筆していたようである。

1945年にはオックスフォードのマートン学寮に籍を置くマートン記念英語英文学教授となり、1959年に引退するまでその職位にいた。1948年に『指輪物語』を完成、最初の構想からおよそ10年間後のことであった。1950年代にはストーク=オン=トレントにある息子のジョン・フランシスの家で、学寮の長い休日の多くを過ごした。イギリスの田園をむしばむと考えた、工業化の副作用を激しく嫌悪していたのである。成人後の人生の大部分のあいだ、自動車を忌み嫌い、自転車に乗るのを好んだ。この態度は『指輪物語』における、ホビット庄の無理矢理な工業化など、作品のいくつかの部分からも見て取ることができる。

f:id:ochimusha01:20180225151601j:plain

妻エディスとの間には4人の子供を儲けた。神父になったジョン・フランシス・ロウエル(1917年11月16日-2003年1月22日)、教師になったマイケル・ヒラリー・ロウエル(1920年10月-1984年)、父の後を継いだクリストファ・ジョン・ロウエル(1924年11月21日)、そして長女のプリシラ・アン・ロウエル(1929年)である。オクスフォードのWolvercote墓地には夫妻の墓があり、中つ国の最も有名な恋物語の一つから、「ベレン」そして「ルーシエン」の名が刻まれている。

アパルトヘイト(1948年〜1994年) - Wikipedia

指輪物語The Lord of the Rings、1937年〜1949年)」の著者J・R・R・トールキン南アフリカ出身。実はそこに描かれた「諸王国共通の脅威に対抗する為にハイエルフやドワーフやエントや人類の連合軍が形成される景色」こそ「(それまで大英帝国を傾ける規模で互いに憎み合い殺しあってきた)オランダ先住民と英国移民が国内でイニチアシブを握る続ける為に野合したアパルトヘイト政策の原風景であり、だから「諸王国共通の脅威=闇の勢力」側には多数の黒人部族が加わっているし、オークやゴブリンといった戦闘部族はその多くが諸王国側の部族が魔改造された姿か、あるいはそれを模倣して創造された魔法生物という設定。


まぁアメリカのパルプマガジン発祥のヒロイック・ファンタジーの世界においてもアジアやアフリカの諸国はそういう描かれ方をしてきたので、J・R・R・トールキンがとりわけ人種差別的だったという訳でもない。また同じ南アフリカ出身のノーベル賞作家J・M・クッツェーの「夷狄を待ちながら(Waiting for the Barbarians、1980年)」はこうした伝統を逆手にとって「蛮族に滅ぼされていくローマ帝国的悲哀」を見事に描ききっている。

そう、この世界観においては「混沌の諸勢力」を束ねる「死人うらない師(Necromancer)」「一つの指輪(the One Ring)の作り主」「冥王(Dark Lord)」「かの者(the One)」「唯一なる敵(the One Enemy)」サウロン(Sauron、クウェンヤ(Quenya=エルフ語)で「身の毛のよだつもの」の意)こそが絶対君主的であり、彼に魔改造されたゴブリンやオーク達こそ「社会自由主義の為に戦うおぞましき敵戦士」なる位置付けなのである。実際そのサウロンも当初は「マイロン(Mairon=クウェンヤで「讃むべき者」あるいは「卓越せし者」の意)」を自称し周囲からもそう呼ばれていたという設定になっている。

f:id:ochimusha01:20180123034948j:plain
*それにもかかわらず今日の社会自由主義陣営のセルフイメージは諸王国側というのが実に興味深かったりする。あんたらアパルトヘイトを倒した側じゃなかったの?

*ちなみに「ロード・オブ・ザ・リング」でアラルゴンがエレヒの石から呼び出した死者達は「アラルゴンの先祖に非礼を働いた罪人」達。1970年代以降の左翼の歴史観では戦没者も「(当時日本唯一の良心だった)共産主義者に非礼を働いた罪人」という認識だから「まさに同じ!!」と感じたのかもしれない。

*とにかく1970年代以降左翼陣営は旧左翼と新左翼の和解が成立し「差別との戦い」を最重要課題とする様になって大きく変質していく。五味川純平「戦争と人間(1965年〜1982年)」はまさにその端境期に執筆された点が重要。

その南アフリカではアパルトヘイト廃止後も政治的経済的難局が続いている。

この時代に至ってなお「ニーベルング族の声=真の庶民の声」はやはり後回しに? いや実は、この流れこそが実は終始「ニーベルング族の声=真の庶民の声」だった?

結論からいえばトールキンが「指輪物語」で予測した様にハイエルフ(英国系移民)もドアーフ(オランダ系移民)も早晩身ぐるみ剥がれて「中つ国(Middle-earth)」を去らねばならなくなる様です。これぞ人道主義の勝利なのかな?
*そういえばブロムカンプ監督の家族は、こういう未来を予測してとっくにカナダへと移住済み。故郷とは遠くにありて思うもの?


こうした全体像を俯瞰した上で「GODZILLA -怪獣惑星-」の何が新しそうなのかについて考察してみましょう。

f:id:ochimusha01:20180225163025j:plain

  • 「超越的存在が普通の人々を残して故郷から去っていく物語」ではなく「普通の人々が超越的存在だけが残った故郷への帰還を果たそうとする物語」である…この変更によって「ニーベルング族の本音」問題が解消。一方、ゴジラは一切の人間性の押し付けから解放され、ますますその超越性を高める事に。

    一般には「庶民」の人生と「伝説の人達(Legend)」の人生は一瞬交わるだけに終わる。そうまさに「ローマの休日(Roman Holiday、1953年)」における某国王女と新聞記者のたった1日の邂逅の様に。

    ところが「スターウォーズ」における「庶民」は、巻き込まれたらもう二度と逃げられない。遂には「伝説の人達(Legend)」が皆死ぬか隠れてしまい、自分たちだけで突撃する展開まで…これって「進化」なの? 「庶民側の要望」が反映された結果なの?

    *そして「スター・ウォーズ/フォースの覚醒(Star Wars: The Force Awakens、2015年)」や「スター・ウォーズ/最後のジェダイStar Wars: The Last Jedi、2017年)」で「超越的存在が普通の人々を残して故郷から去っていく物語」は全うされつつある。

  • 「エルフ」も「ドワーフ」も原則として善良なだけの存在ではなく、隙あらば人類を支配下に置こうとしている…「エルフ=エクシフ」は自分の宗教を宇宙じゅうに広めるのが最優先課題で「ドワーフ=ビルサルド」も「メカゴジラさえ動けば…」なんて不穏な立場。それでも単独ではあまりに無力過ぎる人類は生き残る為に両者に依存し続けなければならない状況。とはいえゴジラが存在し続ける限りこの呉越同舟状態は続く…
    *エクシフには「人類を原始時代から導いてきたが、いつの間にか制御不能となったので姿を消した」という側面も。まさに実際の歴史上におけるエルフの在り方そのもの?

    f:id:ochimusha01:20180225160132j:plain

  • 原則として「ゴジラ=支配の指輪」そのものではない…まぁ例によって例のごとくメトフィエスさん(CV櫻井孝宏)は何か別の思惑がありそうなのでが、とにかく現時点では「原罪から目を逸らした偽りの繁栄の崩壊」はあらゆる文明を襲う必然的段階と説明され、「それを入手した者全てに等しく不和と破滅をもたらす呪われた何か」の役割は(それでゴジラを倒そうとして逆に人類側が大被害を被った)ヘドラに割り振られた模様。
    *やはりヘドラには他の怪獣とは別格の存在感が…

    f:id:ochimusha01:20180225155602p:plain

  • 「先住民」が単なるルサンチマンに満ちた復讐者ではなさそう?…まだ殆ど設定が公開されてないが、概ねの特撮ファンは「モスラを神として崇拝するインファント島の原住民」を重ねている。とりあえず現段階においては「ニーベルングの指環」における(利用されるだけ利用され滅ぼされていく)巨人族や(ウォーダンの忠臣の振りを貫きつつ虎視眈々と叛逆のチャンスを狙う)ロキや(ただひたすら愚痴を言い続けるだけの存在に堕ちた)ローレライの乙女の様な「もののけ姫(1997年)」における「古い神」的なルサンチマンは感じない。

    *この流れには「広島の原爆で殺された人間の魂が合体したエクトプラズム」とか「全てを憎悪して暴れまわり逮捕された後、釈放と引き換えに政府の協力者となった元暴走族」とか「先祖の怨霊を操るアイヌの子孫」みたいなルサンチマンの寄せ集めだったアメコミヒーロー物「ビッグ・ヒーロー・シックス(Big Hero 6、1998年)」が「ベイマックス(Big Hero 6、2014年)」にリブートされたみたいな凄味が感じられる。まさしく「20世紀は遠くなりにけり」である。

たったこれだけの設定変更(というより余分な設定の削除)によって、指輪物語系物語文法が伝統的に抱えてきた「20世紀的制約」がクリアされ「全てが数値化されていく(その分だけ見落とされたファクターやアルゴリズムの誤謬がもたらす災厄も大きくなる)21世紀的世界観」に到達するのは実に見事。

同時にゴジラの超越性を制約する発想もすっかり枝刈りされ「剥き出しの絶対他者」という側面を強める事になりました。続編は今年5月らしいですが、今から楽しみ…