諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ソシオメトリー】【最終戦争論】誰が自由主義を殺すのか?

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こんな考え方もあるんですね。

過去の投稿において私は「ソシオメトリー」なる概念を決っして肯定的には評価していません。科学というより心理療法の一種であり、観測結果のフィードバックの仕方によってはがとんでもない形の暴走を産む事があるからです。

ただ、かくして日本では「Facebook殺人事件」の代わりに「神社の後継者をめぐる醜い内輪揉め」が起こると考える事なら出来るかも?

 さらには、こういう考え方もある様です。

ソシオメトリーをもう一度

学級集団での人間関係を調べるのに効果的なのが「ソシオメトリー(sociometry)」である。

ギリシア語で集団あるいは社会を意味する「socius」と、測定を意味する「metrum」を語源とする言葉で、社会測定という意味である。アメリカの精神医学者のモレノ(Jacob Levy Moreno、1892年~1976年)によって提唱された理論に対して限定的に使われる言葉である。

ヤコブ・モレノ - Wikipedia

ルーマニアブカレストに生まれ、オーストリアのウィーンで育った。父親のモレノ・ニシム・レヴィはセファルディムユダヤ系スペイン人)であった。

ウィーン大学で医学、数学を学び、1917年に医学博士号を取得。医学生時代は、フロイトの理論に拒絶的であったが、その後精神分析の実践に集団という設定が新たな可能性を開くことに関心を持つようになった。サイコドラマやソシオメトリーで、その実験的な試みを重ね、1925年にアメリカに移った後も集団療法の研究と実践を続け、ニューヨーク市で、特に子どもを対象とした集団療法を行った。コロンビア大学にポストを得て、ニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチでも教えている。

カール・ユングの弟子でもあり、妻ゼルダモレノは、夫の仕事をその死後も引き継いで実践を続けている。彼の弟子には、スウェーデン人のレイフ=ダンク・ブルーミスト(Leif-Dag Blomkvist)などがいる。

このソシオメトリーを行うのに、難しい問題が2つある。
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  • 1つは、データ処理の難しさである。個々の子供から集めた個別データを、学級全体のマトリクスデータとしてまとめるには、手順を追った複雑な作業が必要で、これは手慣れた人でも半日ぐらいかかってしまう。私が学級担任をしていた頃(10数年も前だが)、これをパソコンで処理するBASICプログラムを自作して使っていた。当時は今からみたらオモチャ程度の性能しかない8ビットパソコンで処理していたので、データを全て入力してからプリントアウトが済むまで数十分もかかったが、それでも手作業でやるよりは10倍以上速かった。同じ学年の他のクラスの処理も一手に引き受けて重宝がられていた思い出がある。その後、市販のアプリケーションでも「ソシオ処理プログラム」などが出てきたが、当時は自作プログラムを作る人も多く、中にはパソコン通信などで、自作プログラムを提供している人もいた。(当時はMS-DOSも普及していない頃で、パソコンやプリンタなどメーカー固有の仕様だったので、他人からもらったプログラムもうまく動作しないことも多かったが‥‥。自作したときには、データ処理のプログラムよりもプリンタ制御の部分が難しかった記憶がある)まあそれでも、データ処理は、定められた手順でこつこつと行えば手作業でもできるのだから、あまり大きな問題ではない。

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  • もっと大きな問題は、調査の際の子供に対する配慮であった。基本的には、好きな人・嫌いな人を書いてもらうことになるのだが、それをナマのかたちで、「これから好きな人と嫌いな人の名前を3人ずつ書いてもらいます」などと子供に言ったのでは、大騒ぎになる。そこで、「今度、席の並び替えのときの参考にするので、できれば同じグループになりたいなあと思う人の名前を3人書いてください。それから、なんとなくこの人とはいっしょになりたくないなあと思う人がいたならば、その人の名前も書いてもいいです。そういう人が特別にいないという場合は書かなくてもいいですよ」というような感じで話して、データを集める。座席の並び替えでなくても、遠足や発表会のグループづくりなどを例にしてもよい。いずれにせよ、子供にとっては、あまり気持ちのよい調査ではないので、できるだけ子供の気持ちを傷つけないように、じゅうぶん配慮する必要がある。

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この調査が保護者の間で問題になり、新聞等で取り上げられて社会的問題になってしまったことがあった。平成10年(1998年)6月の出来事である。ニュースとしては「一緒に遊びたくない子」の実名を書かせたということがセンセーショナルに書き立てられているが、記事をよく読んでみると「一緒に遊びたい子」も書かせている。時期的にも5月中旬ということだから、ちょうど学級の実態を調べるには適当な時期である。記事には、校長等が「配慮が足りなかった」ということで陳謝したとある。また上の2つめのサイトの記事では「教育関係者からも児童の名前を記入させたのは行き過ぎとの声もあがっており」という内容もある。私の考えでは、まさに配慮が足りなかったということだけが問題だと思う。きちんとした配慮があれば、この調査自体は悪いことではない。「児童の名前を記入させたのは行き過ぎ」という教育関係者がいたのだそうだが、その見解には疑問がある。ソシオメトリック・テストは実名の記入なしには成立しないのだ。この事件があってから、ソシオメトリーについて教育界全体が及び腰になってしまったような感がある。学級経営のために子供の人間関係を調べたくても、「うちの学校でも新聞に出たような調査をやっているようだ」という保護者からの声が出るのを恐れるためか、ソシオメトリーをやることができなくなった学校も多いようだ。インターネットで全国の学校の行事表などを検索してみたら、平成10年度までは5月頃に「全校一斉ソシオ週間」などという行事を行っていた学校も、平成11年度からはとりやめている事例もあった。

同時期に文部省が発表した方針がこれ。対比が不可能なほど、背後に想定されている筈の数理が目に浮かびません。

「新しい時代を拓く心を育てるために」 -次世代を育てる心を失う危機- (中央教育審議会(答申)平成10年6月30日):文部科学省

第1章 未来に向けてもう一度我々の足元を見直そう
(1)「生きる力」を身に付け、新しい時代を切り拓く積極的な心を育てよう
(2)正義感・倫理観や思いやりの心など豊かな人間性をはぐくもう
(3)社会全体のモラルの低下を問い直そう
(4)今なすべきことを一つ一つ実行していこう

第2章もう一度家庭を見直そう
1)家庭の在り方を問い直そう
(a)思いやりのある明るい円満な家庭をつくろう-子どもたちが真にそれを望んでいる
(b)夫婦間で一致協力して子育てをしよう
(c)会話を増やし、家族の絆を深めよう
(d)家族一緒の食事を大切にしよう
(e)過干渉をやめよう
(f)父親の影響力を大切にしよう
(g)ひとり親家庭も自信を持って子育てをしよう
2)悪いことは悪いとしっかりしつけよう
(a)やってはいけないことや間違った行いはしっかり正そう
(b)自分の行いには責任があるということに気付かせよう
(c)自分の子だけよければよいという考え方をやめよう
(d)思春期の子どもから逃げず、正面から向かい合おう
(e)「普通の子」の「いきなり型」非行の前にあるサインを見逃さないようにしよう
(f)身の回りの小さなことから、環境を大切にする心を育てよう
3)思いやりのある子どもを育てよう
(a)祖父母を大切にする親の姿を見せよう
(b)手助けの必要な人を思いやれるようにしよう
(c)差別や偏見は許されないことに気付かせよう
(d)生き物との触れ合いを通して、命の大切さを実感させよう
(e)幼児には親が本を読んで聞かせよう
4)子どもの個性を大切にし、未来への夢を持たせよう
(a)幼児期から子どもの平均値や相対的な順位にとらわれることをやめよう
(b)子どものよいところをほめて伸ばそう
(c)人間としての生き方やこれからの社会について子どもに語りかけ、子どもの将来の夢と希望を聞こう

5)家庭で守るべきルールをつくろう
(a)それぞれの家庭で生活のきまりやルールをつくろう
(b)幼児期から小さくとも家事を担わせ、責任感や自立心を育てよう
(c)朝の「おはよう」から始めて礼儀を身に付けさせよう
(d)子どもに我慢を覚えさせよう-モノの買い与え過ぎは、子どもの心をゆがめる
(e)家庭内の年中行事や催事を見直そう
(f)子ども部屋を閉ざさないようにしよう
(g)無際限にテレビやテレビゲームに浸らせないようにしよう
(h)暴力や性に関するテレビ・ビデオの視聴に親が介入・関与をしよう

6)遊びの重要性を再認識しよう
(a)「遊び」が特に幼児期から小学生段階で大切なことを認識しよう
(b)自然の中で伸びやかに遊ばせよう
(c)心の成長をゆがめる知育に偏った早期教育を考え直そう
(d)子どもの生活に時間とゆとりを与えよう

7)異年齢集団で切磋琢磨する機会に積極的に参加させよう
 身近な地域のボランティア・スポーツ・文化活動、青少年団体の活動、地域の行事に積極的に参加させよう

第3章 地域社会の力を生かそう
(1)地域で子育てを支援しよう
(a)どの親も通過する母子保健の機会を積極的に生かそう
(b)24時間親が気軽に悩みを相談できる体制づくりをしよう
(c)家庭教育カウンセラーを配置し、子育て支援に活用しよう
(d)子どもの電話相談の窓口を広げよう
(e)中・高校生がもっと乳幼児と触れ合う機会をつくろう
(f)家庭教育の学習機会を幅広く提供しよう
(g)企業中心社会から「家族に優しい社会」への転換を図ろう

(2)異年齢集団の中で子どもたちに豊かで多彩な体験の機会を与えよう
 1)長期の自然体験活動を振興しよう
 (a)民間の力を生かして長期の自然体験プログラムを提供しよう
 (b)親と離れて子どもたちが集団生活を営む「長期自然体験村」を設置しよう
 (c)「山村留学」や「国内ホームステイ」の取組を広げよう

2)ボランティア・スポーツ・文化活動、青少年団体の活動等を活発に展開しよう
(a)自分の大切さに気付かせ、社会貢献の心をはぐくむボランティア活動を振興しよう
(b)スポーツ・文化活動や青少年団体の活動を積極的に展開しよう
(c)学校は、学校外活動に関する情報提供を行い、参加を奨励しよう
(d)自由に冒険のできる遊び場をつくろう-「ギャングエイジ」にふさわしい遊びを

3)地域の行事や様々な職業に関する体験の機会を広げよう
(a)地域の行事に子どもたちをもっと参加させよう
(b)会社や工場での子どもたちの見学・体験活動を広げよう
(c)職場見学の機会を拡大し、働く父母の姿を見せよう

4)情報提供システムを工夫し、子どもたちの体験活動への参加を可能にしよう
 コンビニや郵便局等の身近な生活拠点を活用し、子どもの学校外活動に関する情報を提供しよう

(3)子どもの心に影響を与える有害情報の問題に取り組もう
(a)テレビ・ビデオ等の関係者による自主規制などの取組を進めよう
(b)業界団体とPTA等の教育関係団体との定期的な協議の場を設けよう
(c)有害情報から子どもを守る仕組みをつくろう
(d)有害情報の問題についての住民による積極的な取組を進めよう

第4章 心を育てる場として学校を見直そう

(1)幼稚園・保育所の役割を見直そう
(a)幼稚園・保育所で道徳性の芽生えを培おう
(b)体験活動を積極的に取り入れよう
(c)幼児の自然体験プログラムを提供しよう
(d)幼稚園・保育所による子育て支援を進めよう
(e)幼稚園・保育所の教育・保育と小学校教育との連携を工夫しよう

(2)小学校以降の学校教育の役割を見直そう

1)我が国の文化と伝統の価値について理解を深め、未来を拓く心を育てよう
(a)我が国や郷土の伝統・文化の価値に目を開かせよう
(b)権利だけでなく、義務や自己責任についても十分指導しよう
(c)よりよい社会や国づくりへの参加と国際貢献の大切さに気付かせよう
(d)人の話を聞く姿勢や自分の考えを論理的に表現する能力を身に付けさせよう
(e)科学に関する学習を生かし、驚きや自然への畏敬、未来への夢をはぐくもう
(f)子どもたちに信頼され、心を育てることのできる先生を養成しよう

2)道徳教育を見直し、よりよいものにしていこう-道徳の時間を有効に生かそう
(a)道徳教育を充実しよう
(b)もっと体験的な道徳教育を進めよう
(c)子どもたちの心に響く教材を使おう
(d)よい放送番組ソフトを教材として有効に活用しよう
(e)「ヒーロー」・「ヒロイン」がテレビやインターネット等を通じて子どもたちに語りかける機会を設けよう
(f)道徳の時間に子どもが一目置く地域の人材の力を借りよう
(g)地域住民や保護者の助言を得て道徳教育を進めよう

3)カウンセリングを充実しよう
(a)スクールカウンセラーに相談できる体制を充実しよう
(b)スクールカウンセラーの養成の充実を図ろう
(c)教員はカウンセリングマインドを身に付けよう
(d)「心の居場所」としての保健室の役割を重視しよう

4)不登校にはゆとりを持って対応しよう

 不登校は心の成長の助走期ととらえ、ゆとりを持って対応しよう

5)問題行動に毅然として対応しよう
(a)「まじめさ」や「異質さ」に対する不当ないじめを許さないようにしよう
(b)教師の努力でいじめをなくしていこう
(c)薬物乱用等の危険性についての理解を深めよう
(d)性をもてあそぶ考え方を正そう
(e)一所懸命に努力する学校・教員を支えよう
(f)警察や児童相談所等の関係機関とためらわずに連携しよう

4)ゆとりある学校生活で子どもたちの自己実現を図ろう
(a)教育内容を厳選し、自ら学び自ら考える教育を進めよう
(b)トライ・アンド・エラーが可能で、多様な努力を評価する入試改革を進めよう
(c)子どもたちに読書を促す工夫をしよう。

これはこれで重要な観点が抜け落ちていて真逆の方向への暴走、すなわち「フランスの平等は人種調査を行わない事によって保たれている」みたいな偽善的極論の台頭が全然防げていません。

それでは正解は何なのでしょう? 実は同じ問題を進化論(Evolution theory)も歴史的に抱えてきたのです。

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  • そもそも「適者生存(survival of the fittest)」の概念はハーバート・スペンサーが「生物学の原則(Principles of Biology、1864年)」で発案し、その影響を受けたダーウィンも採用した造語・概念。元来は「性淘汰(sexual selection)」理論も含めた多様で多態的な評価プロセス軸に従って遂行されるイメージであった。
    *19世紀においてそれは「階級としての生存を賭して闘争中だった貴族主義者のイデオロギー」なる側面を有していた辺りが興味深い。

    *そういえば悪名高い「ゴビノー伯爵の悲観的人種論」も、元来は「人種は混錯によってしか発展し得ないが、それによって純度を減少させていき、最終的には消失する」なる熱力学的エントロピー論の一種だった。

  • ところが何故かそれは一般には広まる過程で「弱肉強食」の概念と結びつけられて「貧富格差の拡大は生物学的必然であり、放置するのが正しい」なる社会進化論(Social Darwinism)や「生存条件を満たしていない人種は次々と滅ぼされていくのが自然原理」とする最終戦争論(The final war theory)へと発展してしまう。

    社会学者で哲学者でもあるハンナ・アーレントは「全体主義の起源(The Origins of Totalitarianism、1951年)」の中で「帝国主義というのは、ブルジョワジーが資本主義の競争・生産原理を政治の世界に持ち込む事によって起こった」と述べているが、これは帝国主義イデオロギーの核心を突いている。つまり軍事力に支えられた経済拡張という考え方で、今日我々が社会的ダーウィズム、あるいは政治的ダーウィズムと呼んでいる世界観とほぼ一致する。国家、民族、種族間の「生存競争」および強者の権利を指導原理として、いわゆる弱肉強食による自然淘汰を人間社会にも応用しようと思想傾向が広まり、社会的影響力を備えるに至ったのは他ならぬこの時代であった。

    言い換えれば倫理的衝動、責任感、使命感、そして名誉欲といった要因が競争略奪の精神と奇妙な形で結びついて、それを推し進めたのである。そしてこうした動機がイデオロギーに擬結すると「白色人種の使命」とか「世界ミッションに対する揺るぎない信念」といった体裁をまとう様になった。

    *シモーユ・ヴェイユに至っては「悪との党争を通じて樹立される相対善は、やはり悪の一種に過ぎない」なる苛烈な言葉まで吐いている。カール・シュミットいうところの「政治とは集団として抗すべき悪を見出し、党争の過程で内部同化を達成する技術である」なるニヒリズムに満ちた政治哲学に対するアンチテーゼ。
    シモーヌ・ヴェイユのために

  • さらに反差別主義者はこの流れを逆転させ、まるで核戦争における相互相互確証破壊(Mutual Assured Destruction, MAD)の如き「強者は弱者を滅ぼそうとする絶対悪なので、先制攻撃によって滅ぼし尽くす必要がある」なる「逆社会ダーウィニズム」を登場させた。こうした展開、究極的には、ある種の「力の均衡」論に落ち着くのかもしれない。
    相互確証破壊 - Wikipedia

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    *まず最初に吹き荒れるのは、それまで抑圧されてきた感情の暴走。

    *これと反差別主義が結びつくと、誰もが「殺される前に殺せ!!」と叫びながら最後の一人となるまで戦い続ける「万人の万人に対する闘争状態(トマス・ホッブス)」や「最も優秀な人種だけが生き延びてやっと真の意味での平和で平等な正義の社会が実現する最終戦争論(石原莞爾)」が顕現する。
    石原莞爾 最終戦争論

最大の問題は、こうした分析を通じて抽出/明示される特定次元の人間関係がフィードバック効果によって「唯一の人間関係の判断基準」という方向に煮詰まってしまう点。
*このタイプの思考様式においては「誰かに自分の何かを気に入られた事」が、そのまま「自分が全人格的に承認された事」と完全に一致すると考えられている。

実はそれは「個人や社会は特定の統一的アイデンティティを備えていてしかるべきである」と決めつける人格心理学や、ソシオメトリー理論に立脚するインフルエンサーマーケティングが共通して抱える理論的限界。そして概ね最終的には「個人が内包する多様性や多態性」をノイズとして排除する集団的傾向に誘導されていく結果に…
*そもそも背景にある数理自体、デカルト象限に従ってN次元評価軸を割り出した後には各次元の成分比率を割り出してプライオリティを決め、無視可能な次元はどんどん切り捨てていこうとする指向性を有している。

*心理学研究も 「処理流暢性(processing fluency、情報を脳が処理しやすいか否か,が人の判断に様々な面で影響を与える認知メカニズム)」の存在を指摘する。そもそも人間に「流暢性が高ければポジティブで合理的、低ければネガティブで非合理的」と考える傾向が存在するという事。

*そしてこの処理流暢性と「依るべき数理を見失った進歩主義者」や「依るべき伝統を見失った進歩主義者」の野合の組み合わせは、必ず正解への到達可能性を失って暴走する…

(他人の自由だけでなく自らの自由も確保し続ける為に)多様性や多態性を尊重しようとする自由主義」は、それ自体「究極の自由主義は専制の徹底によってしか達成されない」ジレンマを内包しつつ、この様な挑戦者も内に外に抱えているのでした。