諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「怒りがコントロール出来なくなった中高年」と「バブル時代の遺産」

今から思えば、エンターテイメント業界における「老寂」問題を最初に感じたのは以下の エピソード辺りだったかもしれません。

  • フランク・ハーバート異世界における青春を描いた「デューン/砂の惑星シリーズ三部作("Dune"、1965年〜1976年)に続き、現実に押し潰されて人間性を完全に喪失した絶対君主と化した主人公のその後を描いた「砂漠の神皇帝(God Emperor of Dune、1981年)」 を発表した時。
    「砂漠の神皇帝(GOD EMPEROR OF DUNE、1981年)」

    *こうした残酷な「大人の誕生」の物語は、ミヒャエル・エンデの原作「はてしない物語(Die unendliche Geschichte、1979年)」でもしっかりと描かれた。

  • アーシュラ・K・ル=グウィンが前半三部作(1968年~1977年)に続いて「ゲド戦記:帰還(Tehanu, The Last Book of Earthsea、1990年)」を発表した時。

    アーシュラ・K・ル=グウィン著「ゲド戦記:帰還(Tehanu, The Last Book of Earthsea、1990年)」

    元巫女テナー「私達自身が自由そのものなのね」
    元大賢人ゲド「そう思う」
    元巫女テナー「力を失う前の貴方は自由そのものに見えた。でも何を代償に得た自由だったの? 何が貴方を自由にしたの? 私はといえば、太古の精霊達に仕える女達の思い通り、まるで粘土細工みたいに練り上げられただけだった。ううん太古の精霊達じゃない。女達が仕えていたのは男達だったのかも。儀式も、その内容も、執り行う場所もみんな男達が決めていたんだもの。その後で私は自由となり、ほんのちょっとの間貴方といて、それからオジオンの所に行ったけど、それは私の自由そのものじゃなくて、選択肢が増えたから選んだだけ。そして今度は農場と、その主と、二人の間にもうけた子供達の三者に役立つ様にまた自分を年度の様に練り上げる道を選んだ。考えてみたら私はずっとそうやって器であり続けてきた。いつ、どこで。どんな器たらんとしてきたかは覚えてる。でも材料は? 対価は? 命の躍動するまま生きてきたつもりだったけど、一番肝心の自分が判らない」

    テナーの独白「(英雄王の討伐によって海賊稼業が続けられなくなり、テナーの農園の継承権を主張しに舞い戻ってきた息子のヒバナを目の当たりにして)ヒウチイシ(テナーの夫の名)の答も二十年いっしょだった。イエスかノーかをけっしていわないで、ものをきくこちらの権利を拒んでしまうのだ。こちらが知らないのをいいことに、逃げ場をいつものこして。なんて貧しいの。なんて情けないちまちました自由なの」「ヒバナは朝ご飯の時もじっと坐って待ってるだけ。ヒウチイシはいつも母親にかしずかれ、妻にかしずかれ、娘にかしずかれてきた。父親ほどの男でもないくせに。その事を判らせてやらないといけないのだろうか」
    ゲド戦記は前半三部作(1968年~1977年)が所謂「家父長主義的アメリカ」がヒッピー運動などによって動揺を余儀なくされた時代に執筆された「人間を拘束する伝統的影響力が必然的に生み出す強大な反動とどう対峙していくかという物語」だったのに対し、後半三部作(1990年~2001年)は両者が対消滅を起こし忘却の彼方に去った後に、残された人々が「(当時自分達が執拗に求めた)自由とは何だったのか」見失ってしまう物語となっている。まさしく安部公房が「砂の女(1962年)」の冒頭で掲げた「罰がなければ、逃げる楽しみもない」の世界…
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    *そもそもJ・R・R・トールキンの手になるハイ・ファンタジー「ホビットの冒険(The Hobbit, or There and Back Again、1937年)」「指輪物語The Lord of the Rings、執筆1937年〜1949年、初版1954年〜1955)」において語られる「呪われた富に対して背を向ける態度」なるテーマ自体がヒッピー世代に気に入られた主要因であり、かつ作品展開の限界を示していたとも。

    *この限界は既にそのさらなる大源流ともいうべきリヒャルト・ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環(Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」において仕込まれていたとも。

  • インターネット技術普及に伴うサイバーパンク文学の対象の中年化・老人化

こうした閉塞的状況が「風の谷のナウシカ(1982年〜1994年、劇場版アニメ化1984年)」連載完了後に宮崎駿監督が手掛けたMV「On Your Mark(1995年)」には投影されているとも。
宮崎駿監督自身も若い頃に両作品から強い影響を受けた事を認めている。

宮崎駿が描いた原発メルトダウン後の世界 – On Your Mark | memo

 まず出発点はこの辺り。

世界中に「怒り」が蔓延する中で、特に最近、日本で話題になるのが、キレる高齢者だ。駅や病院などでの暴力、暴言、犯罪などが取りざたされ、高齢者に対する若い世代の反感の声が強まっている。まさに、世代間闘争の様相を呈しているが、なぜ、日本の高齢者は「不機嫌」なのか。そこに処方箋はあるのだろうか。

朝日新聞の声欄では、「キレる高齢者が増えている」と指摘する若者の意見に対し、高齢者の立場からさまざまな意見が寄せられている。

「暇なんだ」「話し相手が欲しい」「自分にイライラしている」「私たちは一生懸命働き、そのおかげで日本は先進国入りをし、東京オリンピックまでやれた。お国のために働き続けてきた私たちの言動を大目に見てほしい」「昔のように3世代が一緒に暮らすことも、お寺で法話を聞いた後に他の信者と会話を楽しむことも少なくなった。人生に対する不安や不満を誰も本気で聞いてくれない。老年期は寂寥(せきりょう)感がつのるばかり」などといった声が集まった。

中高年のキレやすさを端的に示すデータはない。しかし、全国のJRと私鉄計33社が2016年夏に発表した「鉄道係員に対する暴力行為の件数・発生状況について」によると、15年度の暴力行為は792件で、20代以下は127件(16%)、30代は149件(18.8%)、40代は140件(17.7%)、50代は153件(19.3%)、60代以上は188件(23.8%)、不明は35件(4.4%)となっている。

40代以上の中高年が481件で60%を占めている計算となる。駅員にキレるのは自制心がなく、精神的に未熟な若者のイメージだが、実は中高年が多くキレているのだ。

ブログ「プラセボのレシピ」での情報発信を行う医療法人社団榎本会榎本クリニック池袋の山下悠毅院長は「なぜ、いい年をした中高年がキレるのか。そんな思いの方は少なくないと思います。しかし、私に言わせれば、むしろ中高年だからこそキレるのです」と指摘する。


そもそも怒りをコントロールできないのが“キレる”ということ。その怒りを理解するには、大まかに3つの視点があるという。

まず始めに、「怒りは二次感情である」という点だ。

私たちは「楽しい」「おいしい」「悲しい」「驚き」といった様々な感情を日常の中で体感している。これらは一次感情と呼ばれ、反射的・反応的な感情だ。しかし、こと「怒り」に限ってはこれらと異なり、二次的に自分が生み出す感情なのだ。山下院長は「怒りはあくまでも二次感情です。そして、その二次感情を生みだす一次感情は不安です。つまり、すぐ怒る人は極めて不安耐性の低い、いわば『ビビリな人』なのです」と話す。

たとえば、道を歩いていて、乱暴な運転手のせいで車とぶつかりそうになり、歩行者が「危ねーじゃねーか!」と運転手にキレたとする。しかし、歩行者の本音は、実は「怖かったじゃねーか」なのだ。まずは「怖かった」という一次感情が湧き、その後「次はしないでほしい」という防衛本能から、怒りという二次感情が生まれ「危ねーじゃねーか!」と怒鳴るというわけだ。


「長年生きてきた中高年は、多くの不安を抱え続けています。頼るべき親もいない、先生もいない。そして、人は先が見えないと不安になりますが、実は先が完全に見えきってしまっても、同じくらい不安になるのです」

「この先も同じ会社にいて、給料はいくら、お小遣いはいくら、買えるものはこんな感じ、妻とはこう、子どもとはこう、そしてそのまま定年を迎えて死んでいく…。こんな状況では誰も希望は見出せません。つまり、先が見えない不安、そして先が見えきってしまう不安、この2つの状況が相まって不安が強くなってしまう方がいるのです」

こうして常日頃から、中高年が心に抱き続けている不安。それはいつ爆発するとも知れないマグマだまりのように、心の中に溜まり続ける。

「人の心の中には“不安を溜めるバケツ”があり、私たちが日常の中で感じている様々な不安はそのバケツに溜まっていきます。そして、それがいっぱいになったところに別の不安が生じると、ついには不安がそのバケツから溢れ出し、それが「怒り」という二次感情となって出現するのです」(同前)

つまり、直前に起きた出来事だけでキレるのではなく、むしろ問題の本質は、日常的にその人の心のバケツが不安で満たされてしまっていることにあるのだ。実に些細なことも、人間には「不安」として認識される。たとえば睡眠不足や疲労、残業やネットなどでの夜更かしも、中高年のキレを加速させる要因なのだという。

次に「人が怒る理由の9割は別の理由だ」という点がある。

たとえば、サラリーマン中高年にとって、“かわいい後輩”と“いけすかない後輩”がいるとする。かわいい後輩が遅刻しても、「しょうがねえなあ」と思う程度だ。しかし、いけすかない後輩が遅刻すると、「あのバカ、なに遅刻してるんだ」と腹が立つ。つまり、後輩の“遅刻”という出来事自体は、怒りとは関係がない。いけすかない後輩を怒るためのアラを日頃から秘かに探していて、それ見えた瞬間、「待ってました!」とばかりに怒り、キレるわけだ。

山下院長は「キレる人の心には、怒っても反撃できない人を見つけると『チャンス!』となり、その相手がミスなどをした瞬間『オレの日常の怒りをぶつけよう!』といった無意識の構造が働いています。それで駅員や窓口の係員、子どもなどにキレるわけです」(同前)

確かに、駅員にキレる中高年も、ヤクザがどんなマナー違反をしたからといって、キレたりしないだろう。

「それはヤクザを見ても『チャンス』とはならいからです。つまり、不安の強い人は、本人の中の無意識が、キレる相手や理由を探しているのです。そして、そうした心の動きについて、人は自分では気がつくことができないのです」(同前)

最後に「怒りは自己紹介である」という点だ。

「他人の遅刻に厳しい人は自分も遅刻魔なんです。後輩の服装に厳しい人は自分が若いときに服装がだらしなく注意されていますし、『空気読め』が口癖の人も同様で、自分はどこか空気を読めていない人だと思っています」

なにか逆さまにも見えるロジックだが、ここにも人間心理の微妙なアヤがある。

「そもそも『自分は空気を読むことが苦手』というコンプレックスがなければ、空気を読む、読まないということに、意識のアンテナが立たない。そして、そんな人は 空気を読めてない人を見つけて怒ることで、『自分は空気を読めている』と安心したいのです。つまり、駅員さんに『仕事をちゃんとしろ』とキレる人は、『自分は仕事をちゃんとしていない』と心のどこかで思っているのです」(同前)

この3つのどれか、もしくは複数が、中高年が公共の場にもかかわらず、突然キレてしまう理由だという。では、どうしたら“キレない中高年”になれるのか。

「自分が本当にやりたいことがある人は、それ以外のことはすべて雑音(どうでもいいこと)になります。目標に向かって動いている人は、他人が何をしてようと、人から何を言われようが、そんなことには無関心になれる。結果、他人にキレないわけです。せいぜい、『あー、世の中にはそういう人もいるよね』程度です」

「加えて、自分の進むべき方向性が明確になっている人は、日々の生活の中でも充実感が生まれ、心のバケツに不安も溜まらないのです。そして、これは怒りのマネジメントとして大切な話なのですが、その目標は壮大なものである必要はなく、はたから見たならほんの小さな目標でもいいのです。しかし、それが他人から与えられたものではなく『自分が設定した』、ということが重要なのです」(同前)

近年、キレる中高年が増えているのは時代的な側面も関係しているという。

「終身雇用や年功序列制度の時代には、年を重ねるごとに給与や役職は上がり続け、尊敬も得られるという不文律が存在していました。しかし現在、終身雇用の制度は崩れ、年功序列もなくなり、パソコンができなければ無能のレッテルを貼られてしまう時代になってしまった」

「加えて、昔はいわゆる『年の功』というものがありました。年を重ねれば自然と知識量も増え、質問されたり、それがゆえに尊敬もされたのです。しかし、現代は知識がものを言わない時代です。知識量でスマホに勝てる人は存在しませんからね」(同前)

あらゆる職場や個人にパソコンやスマホを普及させた、ビル・ゲイツスティーブ・ジョブズの功績がキレる中高年を大量生産しているのか。いずれにしても、現代の中高年が充実感や安心感を抱きにくくなっていることは間違いないようだ。

なるほど、このブログとの関連でいうと以下の過去投稿とつながってきます。

日本は昭和25年(1950年)まで旧制中学まで進級するのが全若者人口のうち1割〜2割、旧制高校を経て大学にまで進級するのが1%未満という超教育格差社会だった。これが2人に1人が進学するほど大学の大衆化の進んだ社会に変貌したのだから動揺がなかった方がおかしい。
*古い分析なので年代解釈にはズレがある上、個人差が著しい事から簡単な世代論に還元出来ない。とりあえずそのまま再録。
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①敗戦後の日本に送り込まれてきたGHQ大日本帝国が超格差社会だったが故に(世界的不況を背景として)社会全体から「学士様」と尊ばれる大卒者でさえ就職出来ない「大学は出たけれど」時代の到来が「とりあえず戦争さえあれば昇進が早まる軍人や政商」を新たな(自分達も目指し得る)政治的エリートとして推戴する軍国主義時代を準備したと考えた。その結果、昭和25年(1950年)に旧制中学や旧制高校は廃止となり、教育の均等性をより高めた所謂「6.3.3制」がスタートする。
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②当時教育を受けた世代は「1%〜20%のエリート」と「80%〜99%の一般人」から構成されていたが、さらに以下の様な世代に分類される。

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  • そもそも曲がりなりにも戦前の安定期に相応の教育を受け、終戦直後の第一次出産ブームに乗じて所謂「全共闘世代」を生み堕とした親世代(現在は90代?)は「政治的エリート」が愚民を善導するのは当然と考えており「聖戦」が敗北に終わっても政治不信を強める事はなかった。しかし、だからこそ逆に昭和54年(1979年)に共通一次試験が導入されるまで「(東大をはじめ旧帝国大学が集中する)1期校に入れなければ、革命でも起こさない限り一生落ちこぼれのまま」という危機感が2期校の大学生の間に蔓延。焦燥感から「よど号ハイジャック事件(1970年)」「山岳ベース事件(1971年)」「テルアビブ空港乱射事件(1972年)」「あさま山荘事件(1973年)」などを次々と引き起こす過激派への人材提供の温床になっていく(現在では60代〜40代)。
    *所謂「毛沢東テーゼ」すなわち「余裕ある金持ちは社会がどうなろうと柔軟に立ち回る。新興階層はかえって体制に従順な生活保守派の温床となりやすい。革命家を輩出するのは常に従来の生活レベルが保てなくなる恐怖に脅える没落層、しかもそれに属する若者層」を想起させる。ちなみに「毛沢東テーゼ」は「生活保守派を革命に有用な没落層に転じさせるには匪賊をけしかけて破壊と殺戮の対象とし守るべき日常生活を奪い尽くしてやれば良い。その後匪賊を討ち果たせば、彼らは歓喜の涙を流しながら革命の戦列に加わるのである」と続く。
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  • 一方、戦間期に若者時代を過ごしたせいでロクな教育を受けられず、最前線と銃後で下っ端として酷い目に遭わされ続け、生活不安に明け暮れる終戦直後の焼け跡期に子供を産んだ親世代(現在は80代?)は「(それが学士様だろうが大日本帝国時代の将校様だろうが)政治的エリート」への不審感が強い一方で自分達の子供には真っ当な教育を受けさせてやりたいと考える生活保守派(その自分中心主義故に犯罪率も前後の世代に比べて格段に高い)の温床となった。この傾向はその子供の世代(大衆が新左翼運動に見切りを付け、海外旅行ブームの前史的にカニ族(北海道を巡るバックパッカー)が流行した1970年代前半に青春時代を送り、資質ある人が作家などより官僚や学者や金融損保関係といった手堅い方面に向かった一方で「競争は嫌いだ」などと口にしつつ常に競争してしまう現代の50代)にまで継承される事態となる。
    *当時の学生運動がこうした生活保守派を説得出来る可能性は皆無に等しく、だからこそ革命を志す若者達はますます焦燥感から高圧的かつ暴力的となり、最終的には過激派に転じていかざるを得なかったとも。
    http://livedoor.blogimg.jp/guutei/imgs/7/c/7cb7c905.jpg
  • そしていよいよ1970年代に入ると高度成長の恩恵がやっと実感される様になった昭和30年代(1955年〜1965年)に生を受け、小学校時代に「エンターテイメント文化の世代交代」を経験し、マスプロ化された中学、高校、大学に通いつつ1970年代後半には第一世代アニメファンやジュネ派といった最初期サブカル層を輩出する真の意味での戦後世代(現在の四十代)が登場してくる。
    *上世代との対抗上、登場当初のこうした享楽志向は「思想」としての体裁をとる必要があった。しかし1980年代から1990年代にかけてそうした構造が破壊され問題意識の内面化が進行。
    http://pds.exblog.jp/pds/1/200910/23/31/c0160031_15162758.jpg

いうなればGHQの「外からの教育改革」によって「大衆はセクト争いに勝利したエリートに勝手についてくる」という前提そのものが、根幹から破壊されてしまった事が学生運動の原因。そして当時の「怒れる若者」が年を経て「怒れる老人」に変貌。

ある意味(映画に無軌道なエロスとヴァイオレンスを求め続ける)全共闘世代と(TV番組に安らぎを求める)生活保守世代の「絶天地通」が成立する契機となったのが「1969年ショック」とも。

「1969年」ショック

東大安田講堂陥落(1969年1月、大学側より依頼を受けた警視庁機動隊が学生運動家のバリケード封鎖を粉砕。同年の東大受験は中止)が陥落すると学生運動家達からバイブルの様に崇められていた「白土三平の忍者漫画」が一気に人気を喪失し「近未来における人類破滅を暗示するジュブナイルSF小説」も紙面から消え、その空隙を埋める形で以下の様な20世紀一杯続くロングセラー作品が目白押しとなる。

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  • 「アニメ版サザエさん…突然打ち切りになった「白土三平忍者アワー」の後番組としてスタート。

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  • 藤子不二雄ドラえもん(原作1969年〜1996年)」…それまで掲載されてきた「人類の滅亡を暗喩するジュブナイルSF小説」に代わって児童誌の顔に。

    http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150810003340_comm.jpg

  • 山田洋次監督作品「映画版男はつらいよシリーズ全48作(1969年〜1995年)」…「今の人間の感覚には合わない」と弾劾され絶滅寸前だった伝統的任侠物のパロディとして製作されたTV版(1968年)が思わぬ反響を呼んで映画化開始。
    *TV版の最終回で渥美清演じる寅次郎は死んでしまったが、それを惜しむ声が殺到したのが発端となっている。

    https://www.tora-san.jp/resources/img/files/pc_scene04.jpg

こうした展開に飽き足らない若者層は益々映画館に足を向ける事に。しかしその数は必ずしも映画業界側を納得させる規模ではなく、次第にハリウッド映画の国際展開に飲み込まれていく。

かくして1980年代から2000年代にかけて「大人の理不尽に怒った若者達」が年老いて「常に笑っていたい若者達」の仮想敵と認定され、さらに彼らが年老いて「デフレの焼け跡から這い上がってきた新世代の若者達」の仮想敵と認定される流れが展開…

1970年代当時の「大人な雰囲気」の正体、実は「公民権運動に黒人が勝利したのを契機とする黒人搾取映画(Blaxploitation)やカンフー映画といった非白人の活躍する映画の大ブーム」、特に監督を辞めプロデューサーに徹底したロジャー・コーマンが手掛けた「残酷女刑務所(1971年)」「ビッグ・バード・ケイジ(1972年)」「女刑務所/白昼の暴動(1974年)」の三部作を嚆矢に東映ピンクバイオレンス映画元祖「女囚さそりシリーズ(1972年〜1973年)」などのバリエーションを国際的に生み出した「女囚映画(WOMEN IN PRISON MOVIE)」辺りが元祖。ちなみに後者には学生運動に破れ鬱屈した若者達の間でカルト的人気を博した「日活ニューアクション(1968年〜1971年)」の衣鉢を継いだという側面もあったのである。

しかしながら1980年代に入ると商業主義的背景もあって表面上は「青春グラフティ系ミュージカル」に刷新されてしまう展開を迎える。
*「青春グラフティ系ミュージカル」…大映ドラマを通じて日本のお茶の間にも浸透。

同時進行で「家父長的権威主義の衰退」なる膿の排出が遂行され「大人の世界」は「歴史の掃き溜め」送りに。キーワードは「大人への叛逆から厨二病」「(エロティズムの権威主義からの脱却を鍵とする)エロゲーの世代交代」辺り。

*「権威主義的エロティズム」の自認とそれからの脱却過程…まさしくつかこうへい脚本「蒲田行進曲(初演1980年、深作欣二監督による映画化1982年)」における銀ちゃんとヤスの関係。これに対して日本女子は「伊賀の影丸けっこう仮面の拷問シーンにハラハラして密かに付箋を挟む」横山光輝/永井豪段階を経て「男に強制されないと性に向き合えない」レディースコミック段階を通過して「自らの内面に潜む暴力性と生涯向かい合って暮らす覚悟を決めた」魔法少女段階へと進化して世界中の女子にある種の規範を示し、その結果「白馬の王子様」の需要が急減する展開を迎えたのであった。

*そして21世紀に入ると国際SNS上の関心空間にアニメキャラの全裸幼女の抱き枕写真をアップして「我が夫となる者はさらにおぞましきものをみるであろう」と豪語する匿名女子アカウントまで現れる。日本発の「早乙女乱馬」や「高坂桐乃」や「柏崎星奈」といったキャラクターは、世界中の女子に受容されていく過程でこんな不可逆的変化まで国際的に引き起こしてしまったのだった。

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新井詳「中性風呂へようこそ(2007年)」より

どうして父親は娘から嫌われるのか?

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①昭和型マチズモ
*1978年当時の子供達の憧れはTVや漫画の不良で、みんな真似してた。子供にとって大人とは「何をしても痛がらない存在」で、虐め方も「言葉・力・人数の統合芸術的虐め」。「今の方が精神を傷付ける言葉を使うので昔より過酷」というが、当時は至る所で喧嘩が行われて鋳たので目立たなかっただけ。「子供は喧嘩するもの」と思われていた。

  • 男も女も「(不潔さ、ペチャパイといった)性別的弱点」をモロ出しにするのが「人間味溢れる演出」として流行。

  • 中性的な人やオカマを酷く嫌う。オカマは大抵不細工に描かれ、迫られて「ギャー」というギャグが頻発。

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  • 美形でお洒落な男は大抵気障で鼻持ちならない役。

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②バブル世代特有の(トレンディドラマ的)「男の幸せ」「女の幸せ」のくっきりしたキャラ分け。
*「そんなに男が女より強くて偉くて選ぶ権利がある世界の女ってすっごくつまらない」「なら男になった方がマシ」とか言い出す

  • 恋愛決め付け論「女の人生は男で決まる。御前も何時かいい男をみつけて可愛がってもらうんだぞ」
  • 美男に否定的「ヒョロクテ弱そうな男だ。女みたい」
  • 処女崇拝「(飯島愛を指して)こんな風になったらオシマイだぞ! 傷モノになるなよ!」
  • 母づてに聞かされる「新婚早々、浮気されて苦労したのよ。お父さんもなかなかやるでしょ?」
  • ホモやオカマを極端に嫌う(これ男? 気持ち悪っ!!)
  • 役割決定論「ボタンつける練習するか? 将来彼氏につける練習に…」

要するにどちらも1960年代までは確実に全国規模で根を張っていた(家父長権威主義を含む)戦前既存秩序の残滓。1990年代以降には通用しない。

こうして20世紀的価値観は過去の遺物に…

逆を言えば、かくして日本人は国際社会への適応能力を高めてきたとも。

こうした流れの背景に「家族のあり方」の変化があったとも。  

私は1982年生まれで、子どもの頃、周囲には「不良」と呼ばれる人たちがたくさんいました。『スラムダンク』や『幽遊白書』など当時の人気マンガも、多くの主人公が「不良で乱暴者」というキャラ設定でした。その不良がモテなくなったというのはどういうことなのでしょうか。
*そして「不良少年」がいたから「不良少女」もいたのである。

戦後、最もワルかったのは「新人類世代」

そもそも、不良はどれくらいいるのでしょうか。警察庁の「少年の補導および保護の概況」という資料をみると、警察に検挙・補導された非行少年が該当年齢1000人あたりで毎年何人いたのかがわかります。なお14~19歳の「刑法犯少年」は検挙、10~13歳の「触法少年」は補導です。

資料によると、刑法犯少年が戦後最も多かったのは1983年頃でした。ちなみに、校内暴力事件の発生件数もこの年にピークを迎えています。この頃10代だった世代は、ちょうど今の40代後半から50代前半です。時代によって少年非行の取り締まりの強化度は変化するでしょうし、戦後間もない頃はそれを取り締まる余裕が警察にもなかったとも考えられますが、それらを度外視すれば、今、40代後半~50代前半のいわゆる「新人類世代」は「戦後最もワルい10代を過ごした世代」と言えそうです。

これはその時代の感覚ともあっているはずです。実は、刑法犯少年の数がピークを迎えた1983年は尾崎豊が『15の夜』でデビューした年でもあります。言い方を変えれば、彼は戦後最も10代がワルかったこの年に、盗んだバイクで走り出した、ということなのです。

その後の推移に目を向けてみると、「子ども調査」が開始された1997年あたりからもう一度、非行少年が増加した山が見られます。この頃にはテレビドラマの影響でバタフライナイフが中高生に大流行し、社会問題として大きく取り上げられました。(ただし、実際にこの頃増加した少年犯罪は傷害ではなく万引きなどです)。

そしてその後、非行少年は一貫して減少し、現在は毎年、戦後最低を更新し続けている状況です。不良という言葉の範疇には、罪を犯していない少年も含まれるはずですが、その中核となる非行少年がここまで減少しているとなると、不良と呼ばれる子どもの数全体も以前と比べてかなり減っているはずだと推測できます。

敵だった大人がソフト化した結果、子どもは逆らい続ける必要がなくなった

一体、不良はどこに行ってしまったのでしょう? そもそも、なぜ80年代前半や00年前後の子どもたちはこんなにもワルかったのでしょうか。それを読み解く視点の一つとして、子どもと大人の関係性の変化があげられます。

以前の大人は、子どもにとって自分たちが反抗すべき相手、敵でした。例えば尾崎豊の大ヒット曲、『卒業』では、自分たちを支配しようとする大人への不信感や、彼らに対する反抗心が明確に歌われています。自分たちを力づくで押さえつけようとする親や先生に対して、年頃を迎えた子どもが抵抗するという図式が、以前は典型的だったわけです。

では、今の子どもたちにとって、大人はどのような存在なのでしょうか。博報堂生活総研が実施した「子ども調査」のデータで、20年間の変化を見てみましょう。

まず、この20年の間に、大人は以前に比べて非常にソフト化していったことが分かります。不良が多かった20年前、1997年の調査時点ではまだ子どもの2割、1クラス35人の中で6~7人は先生になぐられたことがあったのですが、今ではほぼゼロです。両親にぶたれたことがある子も、20年前は母親からは8割、父親からは7割いましたが、今回の調査で初めて半数を下回っています。

その一方で、「自分の話を、お父さんやお母さんはよく聞いてくれる」という子は一貫して増加し、8割を超えました。いつも子どもを力で押さえつけ、それゆえに反発されていた大人は、少子化が進行する中で子どもを手厚くケアするようになりました。多くの大人が、よほどのことがない限り子どもに手をあげず、その代わりにしっかり対話するようになっているのです。

子どもが親から手厚くケアされていることを象徴する光景は、家庭訪問調査でも見ることができました。実は子どもたちが家庭内で多くの時間を過ごす場所は、この20年で子供部屋からリビングに変化してきているのですが、調査で訪れたほとんどの家庭のリビングには、子どもたちの小さい頃の写真や絵、工作、賞状が並び、親にきちんと見守られていることが具現化された場所となっていました。


もちろん、子どもが非行に走る要因は一つではありませんが、不良が世の中から姿を消した背景には、敵だった大人がソフト化した結果、子どもは逆らい続ける必要がなくなった、ということが大きく影響していそうです。実際に、大人のソフト化と連動して、子どももソフトになってきています。

*ここでは、どうしても「エロティズムに対する厳しい統制が敢行されていた19世紀末オーストリアブルジョワ社会の無意識化に渦巻く性的激情」を目の当たりにしたフロイトが「これぞ人間の本性」と考えたのに対し、その師匠シャルコーが「その激しさと歪さは抑圧に対する反動に過ぎない(一通り「噴出 / 蕩尽」が済めば落ち着くところに落ち着く)」と考えていた事を思い出さざるを得ないのである。

その一方でこんな指摘も。

私をスキーに連れてって(1987年) - Wikipedia

1987年11月21日に公開されたホイチョイ・プロダクション原作、原田知世主演の日本映画である。『彼女が水着にきがえたら』『波の数だけ抱きしめて』と続くホイチョイ三部作の第1作[注釈 1]。略称「私スキ」。スキーシーンを語る上で欠かせない映画である。第2回東京国際映画祭ヤングシネマ1987コンペティションへ出品された。

本作品内のスキー指導は、元アルペンレーサーの海和俊宏が行っており、劇中にも登場している。矢野の吹き替えで滑走しているのは、当時のトップデモンストレーターである渡部三郎である。

あらすじ

総合商社「安宅物産株式会社」に勤める矢野文男は、会社では冴えない商社マン。高校時代からのスキー仲間とゲレンデへ出ても奥手の文男は女性と喋れず、仲間が連れて来る女性にも全く興味をもたない。ところが一旦ゲレンデに出れば、誰もが舌を巻く名スキーヤーになる。

いつものようにスキー仲間の泉和彦・小杉正明・羽田ヒロコ・佐藤真理子と滑走していると、雪に埋もれ、もがいている女性・池上優を見つける。文男と泉が助け出した瞬間、文男は池上優に一目惚れしてしまう。その雰囲気を敏感に感じたヒロコと真理子は池上優と文男を強引にくっ付けようと計画を立て、優を巻き込んだ恋愛ストーリーへと発展する。

優との交際を始めた文男は、バレンタインデーに志賀高原スキー場で仲間と滑っていた。しかしこの日、文男が商社で携わるプロジェクトに大問題が生じる。いち早く緊急事態を聞いた優は一人で万座温泉スキー場を目指し、日没近くの山越えを断行する。 

彼女が水着にきがえたら(1989年) - Wikipedia

1989年に公開された原田知世主演の日本映画。『私をスキーに連れてって』『波の数だけ抱きしめて』と共に、バブル時代に公開されたホイチョイプロダクションズ原作の『ホイチョイ3部作』の第2作。

ウィンタースポーツをテーマにした前作とは代わってマリンスポーツをテーマにし、湘南エリアと東京湾内を中心にロケが行われた。バブル景気絶頂期の作品らしく、広告代理店の電通が中心になって行った、プロダクトプレイスメントを目的とした企業タイアップが非常に多いのが特徴である。

あらすじ

アパレルメーカーに勤める田中真理子は、同僚の石井恭世からクルーザーパーティに誘われる。二人は相模湾でパーティー仲間とダイビング中、彼らとはぐれてしまう。もとのポイントを求めて彷徨ううちに、偶然海底深くに沈む飛行機DC-3の残骸を見つける。二人があわや遭難というとき、偶然通りかかったヨット船「ツバメ号」の大塚と吉岡文男に救助される。

ツバメ号のクルーが溜まり場とする「クラブ・ヒッチ」に招かれた真理子と恭世は、壁に飾られた飛行機の写真に目を奪われる。その飛行機こそ、恭世と真理子が海底で見つけたDC-3であった。事の真相を察知したツバメ号のクルーは恭世と真理子を問い詰め、飛行機の場所を問いただす。このDC-3にはツバメ号のクルーが長年追い求めてきた、ある物が積まれていた。

波の数だけ抱きしめて - Wikipedia

バブル期に制作されたホイチョイ・プロダクション三部作のひとつであり、1982年の神奈川県・湘南にあるミニFMを舞台とした若者の青春を描いた作品である。モデルは、1983年に湘南に実在した海岸美化を訴えるためのミニFMラジオ局「FM Banana」である(和歌山にある同名のコミュニティ放送とは無関係)。

作品公開前年の1990年、いわゆる湘南地域一帯で開催されたSURF90に於けるイベント放送局のサーフ90エフエム「愛称:ジョーズFM、コールサイン:JOOZ-FM、周波数:76.3MHz」から、本作品中で76.3MHzが使用されている。この映画に刺激されたニュースキャスターの木村太郎が、神奈川県葉山町コミュニティFM「Shonan Beach FM」を開局させた。

また、挿入歌としてJ.D.サウザーネッド・ドヒニーなどのAORナンバーが使用された。このことから洋楽の使用許諾がなかなか得られなかったため、本作品は長らくDVD・BD化はされなかった。

冒頭のビートルが砂浜にスタックするシーンの直前に82年5月と字幕が出たのち、2人乗りの水上オートバイが映るが、当時はまだ二人乗りの水上オートバイは開発されておらず、ジェットスキーも1人乗りしか存在していなかった。

ホリチョイプロダクション自身が全く隠していませんが、こうした「(怒れる旧世代に対する)バブル時代なりの戦い方」には松竹映画「若大将シリーズ」という先例が存在したのです。それにつけても「TV普及の影響で市場規模が縮退していく日本映画産業の必死の試行錯誤の歴史」は複雑怪奇…

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  • 戦前には松竹映画が「小市民映画」を量産して、その(戦いわない)自由主義を右翼(軍国主義者)と左翼(社会主義者)から挟撃されている。

    *米国でも同時期には「スクリュー・コメディの達人」フランク・キャプラ監督が同種の迫害にさらされ、作風の変更を迫られている。

  • そして戦後には日活が無軌道な若者の青春を描く「太陽族映画」で国際的に影響を与えつつ、これを軌道修正して単なる石原悠次郎主演のアイドル映画に変貌させてしまう。

  • そして東宝の「若大将シリーズ(1961年〜1971年)」…黒澤明が自作映画の中で「有望な若者」扱いしてきた加山雄三が主演するアイドル映画…

    春日太一「仁義なき日本沈没―東宝vs.東映の戦後サバイバル―」

    東映は時代劇から任俠映画に向かう過程で、それまでの華麗な様式美の殺陣から、刀身の短いドスの特性を活かした生々しい肉弾戦の殺陣に変貌、それも任俠映画の人気の一因になっていた。一方、黒澤時代劇で殺陣の表現に革命を起こした東宝だったが、その荒々しい牙はいつの間にか薄れてしまっていた。

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    • 「時代劇」…1960年代前半には、黒澤明監督映画「用心棒(1961年)」や「椿三十郎(1962年)」といった「(人が人を生々しく斬る)リアル時代劇」が引き起こしたパラダイム・シフトによって、それまで東映映画が大量生産してきた「(スター俳優が様式美に従って華麗な殺陣を展開する)昔気質の時代劇」がたちまち時代遅れの遺物と化してしまった。

    • 「任侠映画」…対策として東映は時代劇スター俳優達をそのまま「義理人情に厚く正しい任侠道を歩むヒーロー」にシフトさせ、1960年代一杯は「チョンマゲを取った時代劇」と言われる虚構性の強い仁侠映画の量産によってなんとか食いつなぐ。そして観客層の変化によってこの路線も通用しなくなると仁義なき戦い(1973年〜1976年)」に代表される「実録ヤクザ物」へと、さらにシフトしていく展開をたどる。
      *「実録ヤクザ物」への転換は、フランシス・コッポラ監督映画「ゴッドファーザー (The Godfather 、1972年)」が日本でも大ヒットした影響も色濃く受けている。その「ゴッドファーザー」における「冒頭の結婚式がラストの悲劇的結末に結びつく展開」は黒澤明監督映画「悪い奴ほどよく眠る(1960年)」の影響を色濃く受けている(というか結婚披露宴で「妹を幸せにしなかったら殺すぞ」と脅迫した兄がその宣言を実践して父の後を継ぐバージョンそのもの)。こういう思わぬ形での「東宝映画から東映映画へのDNA継承の系譜」もあるのが映画史の面白いところである。

    代表的なのは1966年、岡本喜八監督の「大菩薩峠」でのエピソードだろう。ラスト、仲代達矢扮する主人公・机龍之介は狂気にかられ、周囲にいる新選組を凄まじい勢いで斬りまくる。仲代の鬼気迫る演技と岡本監督のスピーディなカット割りが合わさり、ド迫力のアクションシーンに仕上がっていた。だが、オールラッシュ(スタッフ向けの試写)を見た東宝映画の藤本真澄社長はラストシーンの改変を求めてきたという。


    「仲代が新選組の一人を刺すだろう? 抜く時にグッとエグる、あれイヤだねえ! ザンコクだよ! 刺したらサッと抜きゃあいいじゃないか?」


    これは、岡本なりにリアリティを求めて、こだわった描写だった。なぜそのような描き方をしたのかを説明するする岡本だったが、藤本は聞かない。

    「それは屁理屈だ。切れ」

    藤本は当時、馬場にこう語っていたという。


    「苦しくなったからといって裸にしたり、残酷にしたり、ヤクザを出したり……そうまでして映画を当てようとは思わない。俺の目の黒いうちは、東宝の撮影所でエロや暴力は撮らせない」


    だが、東映が1960年代の後半に一気に興行成績を上昇させていったのに対し、東宝は会社創立最高成績を1967年に挙げるものの、翌年から急降下していくことになる。


    岡田が読み取り、藤本が見誤っていたのは、映画館を訪れる客層の変化だった。これまでは映画館には幅広い層が来ていたが、1960年代後半から1970年代初頭にかけてにかけては二十歳前後の若者が主体になっていった。当時の若者の多くは、学生運動が盛んになる中で、従来にはない激しさと新しさを映画に求めた。その結果、イタリア発のマカロニウエスタン、アメリカ発のニューシネマ、日本でもピンク映画と、従来の価値観に「NO」を叩き付けるような反抗的な「不健全さ」が受けるようになる。


    東映はこうした時流に乗り、任俠映画とポルノ映画で隆盛を迎えるが「清く正しく美しく」の東宝は、時代に乗り遅れることになる。老齢を迎える森繁の「社長」シリーズや、三十歳を迎えるのに相変わらず爽やかな健全さで売る加山雄三の「若大将」が、こうした時代に受け入れられるはずもなかった。時代に対応できない東宝は「スター・タレントの養老院」と揶揄されるようになる。


    「今の時代、そんなの作っていても当たりませんよ」


    多くの批評家たちが藤本真澄に批判の声を浴びせた。「社長」シリーズのキャスティングの若返りなどがスタッフから持ちかけられるが、それでも藤本は「それでは『社長』ものにならん」としりぞけてしまう。


    これまでのパターンを変えようとしない藤本の路線は飽きられ、1968年になると観客動員は一気に落ち込んでいく。特に二週目の客足が悪く、客層の浅さが露呈してしまった。それでも、新たな客層を獲得するのは藤本体制下では困難な状況にあった。

    • 「その後の東宝」…1971年にはヤクザ映画への進出を図った。すなわち傍系会社の東京映画に東映の倍以上の予算をかけ、仲代達矢主演(脇には他社では主演級の安藤昇丹波哲郎江波杏子らを揃えた)の「出所祝い」制作させたのである。しかし同時期に東映が上映した高倉健の「昭和残侠伝 吼えろ唐獅子」の前に惨敗。その後はヤクザ路線からすっかり足を洗い、同年からは東宝が得意とする特撮映画「ゴジラシリーズ」を1975年まで制作した他、「日本沈没(1973年)」や「ノストラダムスの大予言(原作1973年、映画化1974年)」といった大規模パニック映画へと傾注していく。
      *この流れは「スペクタクル史劇」に見切りをつけたハリウッド映画界が(当初はスペクタクル史劇のスター俳優をそのままシフトさせた)大規模パニック映画が日本でも大ヒットした影響を強く受けている。

    *こうした東宝制作側の頑な保守的姿勢に対して反旗を翻したのが、当時の若者風俗を大胆に取り入れた「ゴジラ対へドラ(1971年)」だったが、この試みも1作で潰されてしまう。

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そして…

クイズ番組「IQエンジン(1989年)」 - Wikipedia

1989年1月10日から同年9月26日までフジテレビの深夜番組放送枠『JOCX-TV+』で放送されたクイズ番組。1980年代後半、人気を博していた『頭の体操』シリーズを基に構成されたクイズ番組。問題数は全396問。

心理的盲点を突いた問題や頓智を捻った問題が大半を占め、前半は多湖輝・雅孝司の著作を多く扱っていたが、後半は視聴者から寄せられた問題も扱われるようになった。また、一般的なクイズ番組と違って解答者はおらず、問題VTRを流した後に数秒間のシンキングタイムを設け、その後に解答を発表するという方式を採っていた。

問題VTRの映像では、当時まだ駆け出しであった第三舞台所属の役者を中心に起用された。その中でも大高洋夫小須田康人筧利夫勝村政信筒井真理子などのメンバーは、本番組がきっかけで巣立っていった。

最終回のみは問題が出題されずに出演者によるコント仕立てとなっており、その中で「本来は1クールの予定だったが、思いのほか好評で3クールまで引き延ばしになった」という経緯が、大高と小須田の口から語られている。

以下のシリーズがあった。

  • インディ大高インディ・ジョーンズのパロディ。全5問。大高扮するトレジャーハンターと現地ポーターの2人(小須田と筧)が、旅の先々で訪れる試練を乗り越えていくストーリー。
  • スパイ物語ゴルゴ13のパロディ。全2問。伊藤扮するエージェント・デューク伊藤の身に振りかかる、様々な危機的状況にまつわるもの。
  • IQクエスドラゴンクエストのパロディ。全3問。大高扮する勇者トロと小須田扮する戦士ランボーが、筒井扮する囚われのお姫様を救出していく物語。

この番組は、後にCS放送フジテレビ739で再放送された。

テレビ番組「カノッサの屈辱(1990年〜1991年)」 - Wikipedia

1990年4月9日から1991年3月25日までフジテレビの深夜帯(JOCX-TV2)で放送されていた、ホイチョイプロダクションが企画した教養風バラエティ番組。本放送終了後に数回特別版が放送されている。

現代日本の消費文化史を歴史上の出来事に(しばしばやや強引に)なぞらえて解釈し、あたかも教育番組の様な体裁を取って紹介(講義)する。案内人は仲谷昇が“教授”(レギュラー放送時)として登場する。仲谷教授の「やぁ皆さん、私の研究室へようこそ」は冒頭の決まり文句となっている。大学の講堂で講義が終了するところや、人ごみの中から始まることもある。題名の由来は1077年に起こった、時の教皇と皇帝の対立から生じたことで知られる西洋史上の重要事件「カノッサの屈辱」から。ただし、番組内容との深い関わりや意味はない。

番組内で取り上げられるものは歴史上の著名な人物や出来事にちなんだ名称で登場し、解説の際に使用される図版なども歴史資料風にアレンジされたものである。構成の小山薫堂によると、『未来への遺産』(NHK総合テレビジョン)の構成をパロディ化したものであるという。

深夜番組でありながら当時の若者に好評のうちに受け入れられ、1990年代前半のフジテレビの深夜番組黄金期を作り出した『JOCX-TV2』から続く一連の深夜枠で放送された個性的な番組群の中においてその頂点の1つに数えられる存在である。

フジテレビでは、番組の特番等による休止も多かった(番組では仲谷が「来週は休講と致します」というような表現で案内することが多かった)。したがって、製作のフジテレビよりかなり遅く始まったテープネット局の中には、9か月くらいで放送を終了した局もある。

マーケティング三部作・第二部

本番組が放送されていた枠(フジテレビ・月曜日深夜帯)ではホイチョイプロダクション製作の情報番組として、本番組の他に『マーケティング天国」『TVブックメーカー』という番組も放送された。「マーケティング天国」では現在を、本番組では過去を、『TVブックメーカー』では未来をマーケティングするというコンセプトがありこの3番組を「マーケティング三部作」と呼ぶ事もある。

TVブックメーカー』は本番組の放送終了後に後番組として開始されたもので、本番組内で賭けるお金の単位を「カノッサの屈辱」に因んで「カノッサ」とした(なお、仲谷はこの『TVブックメーカー』のオーナーという設定になっている)。

後続への影響

本番組と同時期の1990年代に放送されていたバラエティ番組『ウッチャンナンチャンやるならやらねば!』では、「加納さんの屈辱」というコーナーコントを行っていた。教授役は「若仲谷昇」(わかなかや のぼる)名義で内村光良が演じ、若仲谷教授の講義の邪魔をする中年の男「加納さん」を南原清隆が演じた。また、南原は「加納さん」名義でCDシングル『加納さんのいいんじゃないッスか』という歌をリリースした。

本番組の形式を模しての演出が行われることも多く、以下に一例を示す。

番組の放送終了後、池袋西武百貨店のロフトフォーラムにおいて「カノッサの屈辱」展が行われた。エントランスには仲谷教授の胸像が置かれ、番組で使用されたフェイクイラストレーション等が展示されていた。また、番組中で出題された「基礎力をたしかめよう」の全問題が配布された。

特別編

前述した通り、放送終了後も持続する番組の人気を受け、何度か特別編が放送されている。特別版では数名が仲谷教授を補佐する形や、後任教授となる形を取った。

2000年12月30日深夜 - 特別編1放送。

2007年2月6日深夜 - 特別編2放送。

2008年10月16日深夜 - 特別編3放送。

2009年12月14日深夜 - 特別編4放送。

20世紀最終講義

2000年12月31日0:30 - 5:00(12月30日24:30-29:00)に、20世紀に活躍した人々を特集し「20世紀最終講義」という名目で復活した(当時は「一度だけ」の復活とアピールされていた)。これは「20世紀最後の日に20世紀中にやり残したことを最後に完遂させたい研究を披露したいこと」(仲谷談)と、『TVブックメーカー』の最後のベティングが「ディズニーランドで投票できる20世紀最大の功労者は?」というものであったため(但し後にこの投票自体が中止)、その回答という裏コンセプトもあった。

仲谷教授も出演したが冒頭のみで、全体の進行として助手の西岡徳馬が出演。実際の講義内容はフジテレビ深夜番組全史であり、当時の番組に出演していたタレントたちの懐かしい姿が映し出されていた(レギュラー放送に比べてVTRの比率がかなり多かった)。

この講義では「新宿区河田町・大エイト帝国[4]遺跡から歴史的な発見があった」との説明があるが、これは現在の港区台場の社屋に移転する前の1997年3月まで使用していた旧社屋の事で、河田町から台場に移転するにあたって、放送ライブラリーの整理を行ったことに由来する。

カノッサの屈辱2007 バブルへGO!! SP

2007年2月6日 25:08 - 25:59に、『カノッサの屈辱2007 バブルへGO!! SP』として21世紀初の復活を果たした(当時は「一夜限り」の復活とアピールされていた)。2006年秋に急逝した仲谷“教授”に替って講義をするのは、本番組のサブタイトルにも冠されている映画『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』(ホイチョイプロダクション製作)に出演した縁で就任した伊武雅刀“教授”(彼には、『白い巨塔』などで既に教授役の経験もある)。その講義内容は「携帯電話の歴史」と題し、自動車電話の時代から「ナポレ孫=正パルト」の登場(ソフトバンクの携帯電話事業参入)までを網羅したものであった。

カノッサ秋の特別講習 タイヤ幕藩体制と海外列強の展開(2008年10月16日)

25:15 - 25:45に、フジテレビ系にて放映。“教授”役の人物などは一切登場せず、牧原のナレーションのみであった。ブリヂストンの歴史を中心にタイヤ古代史(1965 - 1970年)、タイヤ中世(1970 - 1981年)、タイヤ近世(1983 - 1987年)に分けて進行された。また、BSフジでも放送された。余談だが、番組タイトルが「カノッサの屈辱」ではない。

カノッサの屈辱 冬の特別講習〜ゲームの歴史〜 ゲーム宗教改革と民衆の勃興(2009年12月14日)

25:25 - 25:55に、フジテレビで放映。前回と同様“教授”役の人物などは一切登場せず、牧原のナレーションのみであった。任天堂ソニーのゲーム開発史を中心に進行された。しかし、終盤の一部分はファイナルファンタジー13の宣伝に費やされた。地域によって続けてファイナルファンタジー13の宣伝を兼ねたゲームセンターCX地上波特別版が放映された。

上品ドライバー(ELEGANT DRIVER) - Wikipedia

1990年代にフジテレビの深夜帯(JOCX-TV+(プラス))で放送されていた不定期テレビ番組。企画はホイチョイプロダクションである。

日産自動車の一社提供だったため、使われるクルマは原則として日産車であったが、例外として輸入車も使われていた。また、CMは番組中で、「ここからCMです」と劇中CMとしてやっていた。このパターンは、のちに日本テレビの「東京ワンダーホテル」「東京ワンダーツアーズ」でも使われた。

初期は上記の通り深夜に放送されていたが、後期には同じ日産提供であった「料理の鉄人」の枠(金曜23:00)で放送されたこともあった。

2007年2月、CS・フジテレビ721で「上品ドライバー1」を除いたシリーズ5作品(2,4,6,8,9)を再放送。ただし、劇中の日産車CMおよびニセ次回作(3,5,7)の予告編はカットされたが、翌月に予告編を含めた「フルスロットル版」が放送された。

シリーズ全体を通じて共通する内容は、自動車に関する文化、技術、問題などをもとにしたコメディドラマという点である。日産自動車の提供ではあるが自動車それ自体や、自動車をとりまく環境をおちょくった内容が多く、それでいて内容を通じて自動車に対する理解を得られるという特徴がある。ただし最も新しいものでも1998年の制作であることから、カーナビゲーションといった技術的な分野については今日では通用しない点も見受けられる。

シリーズを通じて出演しているのは俳優の西岡徳馬。作品によって研究家であったり、自動車教習所の教官であったりと役は異なるが、いずれも自動車に詳しく通じているという共通点がある。彼自身が主役の場合もあれば、主人公の周辺人物の場合だったりする。

作品には映画やドラマのパロディと思えるものもある。「教習所」は荒れた学園で生徒を更生させ、学園を立ち直らせるという古典的な学園モノのパロディで、「世田谷経堂迷路」はアポロタクシーの13号車が世田谷で迷子になり遭難するという、ハリウッド映画のアポロ13のパロディとなっている。

TVドラマ「天国に一番近い病院(1993年)」 - Wikipedia

1993年1月2日にフジテレビジョン系列で放送された単発テレビドラマ。正式タイトルは「'93新春ギャグドラマ!天国に一番近い病院」。 日本では比較的珍しいパロディ満載のコメディドラマで、『白い巨塔』などに代表されるいわゆる病院もののドラマをモチーフとし、病院内の医師間の権力闘争を背景に、数多くのギャグが繰り広げられる。

TVドラマ「ニュース速報は流れた(2009年〜2010年)」 - Wikipedia

2008年4月に開局されたフジテレビNEXTの開局記念番組で、在京民放局CS放送初のオリジナル連続ドラマ。第1話のみフジテレビONEなどでも無料放送された。

架空のテレビ局(TNN東都テレビ)が舞台で、北海道室蘭市に核ミサイルが落とされた、と小林亮平らが働く報道部にメールが届くことから事件は始まる。深夜から早朝にかけての8時間をほぼリアルタイムで追い、報道部で起こる事件や人間関係が描かれる。

TVドラマ「TOKYO コントロール(2011年)」 - Wikipedia

フジテレビNEXTで2011年1月19日より隔週で放送された3Dテレビドラマ。全10話。エンルートと呼ばれる航空交通管制をする東京航空交通管制部(以下、東京ACC)を舞台にしたドラマ。

ドラマは世界初の3D連続ドラマとなる。撮影はSONYの協力により100%3Dカメラで撮影されている。撮影に先駆け、プロデューサー、監督、カメラマンは、ロサンゼルスにある『アバター』の3D制作チームから指導を受けた。この指導から、3Dに適した脚本作りを行い、十分な準備期間を経て撮影に入った。2D放送の視聴者が多い事を配慮して、製作陣は3D版と2D版の2種類を制作し放送している。

番組の前には航空管制に関わるミニ番組『FLY! FLY! FLY! Tokyo Control』、番組後には、航空業界に関連のある場所を巡る『FLY! FLY! FLY!紀行』がOAされている。

2012年から、フジテレビ系列の地上波各局でも、帯ドラマ枠などで順次放送が開始されている。

2012年10月14日より、本作の2年後を描いた続編『TOKYOエアポート〜東京空港管制保安部〜』が、フジテレビ「ドラマチック・サンデー」枠で地上波放送され、本作の出演者の一部が東京ACCから羽田空港管制保安部への異動など、何らかの形で引き続き出演している。

日本上空を飛ぶ多くの航空機は、パイロットが勝手に飛ばしているのではなく、航空管制官が各航空機に指示を与えて飛ばしている。航空管制官というと、空港にある管制塔をイメージする人が多いが、空港管制は空港に発着する航空機を管理しているだけで、空港間はエンルート管制という管制チームが管理している。ACCは、日本に4つあり(札幌ACC、東京ACC、福岡ACC、那覇ACC)最も多くの航空機を扱うのが埼玉県所沢市にある東京航空交通管制部、通称東京コントロールである。 このドラマは、TOKYOコントロールで働く管制官達を描いたドラマである。

鈴木真紀(川原亜矢子)は、カナダコントロールで研修を受け、ヒューマン・ファクターの知識がある中堅管制官。彼女が担当するセクターにひとりの新人管制官・山田(川村陽介)がやってくる。山田の教官は木下(伊藤高史)。チームには厳しい上官の結城(時任三郎)がいた。 関東を担当するこのチームには日本で最も過密な空を管轄するだけあり、次々と事件や事故が起こる。その問題を、個性あふれる管制官達が解決していくのだった。

TVドラマ「TOKYOエアポート〜東京空港管制保安部〜(2012年)」 - Wikipedia

2012年10月14日から12月23日までフジテレビ系「ドラマチック・サンデー」枠で放送された日本のテレビドラマ。フジテレビTWOフジテレビNEXTフジテレビONEで2012年10月14日から放送されたスピンオフドラマ『TOKUNOSHIMAエアポート』[(全4話)、YouTubeで公開しているスピンオフ『敷島★珈琲 バリスタはまた見た!?』(全7話)も合わせて記述する。

地上波の連続ドラマとしては史上初の航空管制官がテーマ。東京国際空港羽田空港)を発着経由する乗客の命を預かる航空管制官と、航空業界で働く様々な人々の人間模様をリアルに描く。

ドラマチック・サンデー」枠ではフジテレビの自主制作第2弾となるが、自主制作第1弾『僕とスターの99日』(2011年10月 - 12月)はケイファクトリーが制作協力として携わっており、完全な自主制作となるのは事実上初(かつ唯一)となる。

フジテレビNEXTで放送された東京航空交通管制部(東京ACC)が舞台の「TOKYO コントロール」の2年後を描いた続編である。この為、前作の出演者の一部が東京ACCからの異動など、何らかの形で引き続き出演している。また前作が「航空路管制業務」と「進入管制業務」を取り上げているのに対し、今作は「飛行場管制業務」及び「ターミナルレーダー管制業務」がテーマである。

航空路管制 - Wikipedia

計器飛行方式 (IFR) で主に航空路を飛行中の航空機に対する航空交通管制である。形態は国によって異なるため、この項目では主として日本の航空路管制について説明する。

航空交通管制部 (ACC) の管制区管制所により行われる。日本が管轄する飛行情報区 (FIR)における航空路管制機関は4つの航空交通管制部と航空交通管理センター (ATMC) である。

  • 札幌航空交通管制部 (札幌ACC)
  • 東京航空交通管制部 (東京ACC)
  • 福岡航空交通管制部 (福岡ACC)・航空交通管理センター (ATMC)
  • 那覇航空交通管制部 (那覇ACC)

このうち、航空交通管理センター (ATMC) は太平洋上空の洋上管制区を管轄している。それぞれの航空交通管制部は管轄空域をさらに細分化したエリア(セクター)ごとに業務を行っている。最もセクター数が多い東京航空交通管制部の場合は、22のセクターに分けて業務を行っている。

2005年と2006年に種子島宇宙センターからそれぞれ打ち上げられた運輸多目的衛星 (MTSAT) であるひまわり6号とひまわり7号を用いて、洋上やVHF通信のブラインドエリアを飛行している航空機との間で、各種データ通信を行えるようになった。そのため、レーダーでの追跡ができない洋上において、運航本数を増やせるようになった。

MTSATを利用することで、飛行経路間隔(左右間隔)や航空路毎の管制縦間隔(前後間隔)の短縮が見込まれる。また、短縮垂直間隔 (RVSM) によって垂直管制間隔(上下間隔)を狭く、航法精度要件 (RNP) を満たす航空機の場合であれば、広域航法 (RNAV)により航空路の保護空域の縮小により並行経路間隔を狭くして運航本数を増やせる。

進入・ターミナルレーダー管制 - Wikipedia

進入管制業務は航空管制業務のひとつ。管制区管制所及びターミナル管制所により管制業務が提供される。 進入管制業務はターミナルレーダー管制業務より大きな管制間隔を必要とするため、比較的交通量の少ない空港に出入域する航空機に対して提供されることが多い。 レーダー管制下でない航空機に対して行う業務であり、レーダー覆域外の航空機に対しても業務提供できる。

ターミナルレーダー管制業務とは、交通量(トラフィック)の多い主要空港でレーダーを用いてターミナル管制所により提供されている航空管制業務のこと。さらに、日本での羽田空港のような交通量が比較的多い空港では出発機と到着機の管制は分けて行われるほか、関東(羽田・成田)や関西(伊丹、神戸、関空)のように複数空港の管制が一元的に実施されることもある(TRACON方式)。コールサインは、空港名のあとに前者はディパーチャー (departure)、後者はアプローチ (approach)が付される。ターミナルレーダー管制は、通常、空港事務所内のIFRルーム(管制塔の階下にある場合が多い)で行われる。

一般に空港周辺には、到着機の飛行コースである標準計器到着方式と、出発機の飛行方式・コースである標準計器出発方式が設定されている。

また、当番組は日曜日21時からの地上波での放送にさきがけて、前週分の再放送(キャッチアップ放送)を地上波の1時間前にあたる20時から21時に「フジテレビTWOドラマ・アニメ」にて放送(ノンスポンサー)を行っている。

あらすじ・登場人物

空港のグランドスタッフとして働いていた篠田香織は、航空管制官になる夢を叶えるために厳しい研修を終え、羽田空港管制部に配属される。勤務初日、緊張と興奮、不安が入り混じる中、管制塔へと向かった篠田が目にしたものは、緊急事態が起きても冷静に対応して人命を守る管制官たちの姿だった。早速、ベテラン管制官の竹内裕美と共に航空管制を行うことになった篠田は、ケアレスミスで事故の一歩手前となる事態を引き起こしてしまう。追い込まれた篠田は深く落ち込んでしまうが、上司の結城昇の管制官としての思いや渡辺健太の感謝の言葉を聞き、次第に立ち直っていく。

羽田空港

東京国際空港管制保安部

  • 篠田 香織(新人管制官)〈30〉演 - 深田恭子
    日本航空グランドスタッフから転職。趣味はジョギング。真奈からは最初「篠田っち」と呼ばれていたが、後に「ダッチ」に変わる。シミュレーター室訓練で前職を活かした「航空機が移動する時間とコスト」を考えた管制を提案するが航空管制業務で最も大切なのは「航空機の安全と秩序」だと訓練官の竹内に考え方を一蹴されてしまう。しかし、様々なところで空港関係者を観察しており、パイロットとの信頼関係を一番大事にする管制業務を行うことを目標に掲げている。
  • 酒井 真奈(管制官)〈24〉演 - 佐々木希
    幼少期はインドネシアで暮らしていた帰国子女。父親が日本語を教えるために「駄洒落」を引用していたため、会話の端々に駄洒落が混じる。空気を読まないKYキャラであり、香織や山下が畏怖する竹内や近藤にもひるまない。ワインエキスパートを含む資格11個を取得し、現在はロシア語検定を目指し勉強している。
  • 山下 佑司(管制官)〈24〉演 - 瀬戸康史
    オロネ24を敬愛する電車オタク。近藤から標的にされることが多くよくいじられている。「管制官に従っていれば間違いが起こらない」という考え方を誇示し、管制官の指示にパイロットが合わせるべきだと主張する。だが、同僚・航空関係者の志向・性格などが細かく分析されているノートを取り、相手の立場を考える管制をする香織の姿を見て、その頑な主張は軟化していく。
  • 近藤 幸宏(主任管制官)〈32〉演 - 要潤
    既婚者であり2人の子持ち。妻は成田空港の管制官。言葉遣いや態度は少々乱暴だが管制官としては優秀であり、的確な指示と冷静な判断で部下を牽引する。真奈からは「近ちゃん」と呼ばれている。喫煙者。
  • 竹内 裕美(主任管制官・訓練監督者)〈35〉演 - 瀬戸朝香(特別出演)
    香織を指導する訓練教官。愛称は「竹ちゃんマン」。NASAアメリカ航空宇宙局)での管制経験もあるベテラン。横浜の自宅からアルファロメオ・147で通勤し、空港内にある「アンジュ保育園」に息子を預け、激務な管制業務に耐えて邁進している。自身の希望によりカナダのICAOに出向する。管制官であった夫を交通事故で亡くしている。
  • 岡本 哲治(主任管制官)〈40〉演 - 長谷川朝晴
    東京ACCのある所沢を愛する。埼玉西武ライオンズのファン。夢は東京ACCへの異動。不気味なキャラクターのデザインが趣味。所沢ゆるキャラコンテストでの入賞歴あり。
  • 結城 昇(主幹管制官)〈48〉演 - 時任三郎
    元東京ACC主幹・次席代理。東京ACC時代の管制システムハッキング事件、同時多発ハイジャック事件による日本国内飛行禁止措置等、ロシア軍ミサイル誤発射に始まった自衛隊員による一連の事件の解決という功績が認められ国土交通省航空局に異動したが、上司から好意的に思われず、羽田に異動、主幹に就任する。航空保安大学校で講義しているときに熱心に授業を聞いていた香織と知り合う。TOKYO TOWERを統括する立場にあり、乗客・乗員の安全確保を最優先に考え、上司の判断に納得いかない場合は命令違反も厭わない。一方で管制官の労働環境改善という東京ACC時代からのテーマを掲げている。
  • 矢野 元治(主幹管制官)〈49〉演 - 梶原善
    元東京ACC主幹。飛行場・航空路共に数多くの経験を持ち、結城とは札幌ACC時代からのブレーンでもある。すでに知り合っている結城を除いて管制官の中で最初に優しく香織に話しかける。将棋が趣味で、よく管制を将棋に例える事がある。東京ACC管制システムハッキング事件で高価な駒を結城に使われた経緯を持つ。
  • 久保 悟演 - 大高洋夫(第2話)次席管制官。川上 栄一演 - 大塚ヒロタ
    管制官。氷室 一生(先任管制官)〈48〉演 - 別所哲也国土交通省航空局から東京ACCを経て異動。妻は東京ACC勤務の管制官。1年先輩でもある結城とは一度、東京ACCで一緒に働いていたが、9年前に同期でもある現在の妻が起こしたインシデントを境に対立関係にあった。その7年後、東京ACCハッキング事件を機に和解し、一連の事件解決に奔走。航空局に異動した結城の後任として東京ACCに再赴任。その後出世して羽田の先任に就任。再会した結城と協力関係にある。
  • 田辺 明(管制部長)〈57〉演 - 螢雪次朗
    元東京ACC先任。東京ACC時代から結城とよく対立する。実は経験豊富な現場叩き上げの人物で、GPSに頼らない一昔前の方式も知っている。20年前には氷室を育てた訓練教官だった。

日本航空JAL

  • 桐島 悠〈30〉演 - 佐藤江梨子
    グランドスタッフ。香織の友達。管制訓練で上手くいかず悩んでいる香織の相談に乗る。化粧が濃いことを同僚から指摘されている。
  • 城之内 玲子〈35〉演 - 山口紗弥加
    グランドスタッフ。飯田 博之〈24〉演 - 浅香航大パイロット候補生。現在は研修のためグランドスタッフとして勤務。シミュレーター訓練ではパニックを起こしてしまい、桐島や城之内にたしなめられる。
  • 流川 ユキ演 - 野村麻純
    航空整備士
  • 槙野 仁〈43〉演 - 神尾佑
    航空整備士
  • 工藤 美希〈29〉演 - 上原美佐
    JAL運航管理室ディスパッチャー。
  • 西川 俊一 演 - 忍成修吾
    ボーイング777副操縦士。香織・圭介とは元同僚で友人。777の機種ライセンスを取得するためにJAL112便で飛行テストに望むが、プライベートジェット機の影響や管制官・山下との無線交信上での意思疎通が出来ていないことが原因で、航空機が風に煽られて上手く着陸出来ずに残されたチャンスは1回を残すのみとなってしまい、この機会を逃すと資格が剥奪されるという危機に陥る。後に山下と懇親会で偶然再会し、口喧嘩に発展したことからライバル関係になる。香織のコックピット搭乗研修ではJAL302便副操縦士として同席する。
  • 本上 圭介〈30〉演 - 平岡祐太
    パイロット研修生。治療のため休職中。香織の恋人である。車両事故の後遺症で下半身に麻痺が残り、旅客機のパイロットになる夢が絶たれてしまい、心を閉ざし自宅にひきこもっている。香織からの着信も応答せず拒否していたが、周りの支えによりリハビリを行う決意をして病院に通院し、その際に出会った小児ホスピスの患者を対象にした全日空のイベントを見て、再び空の仕事に関わろうと決意、ディスパッチャーとして職場復帰。当面は運航管理者補助業務をこなしながら、運航管理者試験合格を目指す。

国土交通省空港事務所

東京航空交通管制部

  • 中島 ハル(管制官)〈29〉演 - 野波麻帆
    所沢の東京ACCに来て5年目。気象予報士の資格も持っている。ICAOに出向する竹内の後任で羽田空港に異動。竹内の羽田勤務最終日まで訓練を受ける。敷島とは過去に一悶着あったらしい。
  • 神田 綾香(管制官)演 - 橋本麗香(第8話・最終話)
    東京ACC管制官。JAL302便航空計器不具合や羽田空港停電トラブルに対応する。

敷島珈琲

  • 敷島 貴志〈33〉演 - 野間口徹
    元東京ACC管制官。岡本の同期。京浜急行電鉄青物横丁駅近くにある敷島珈琲系列店の店長。珈琲の豊富な知識があるが、自身はカフェインアレルギーのため一切珈琲は飲まない。店で珈琲を飲まない保安部の面々に苦言を呈することもしばしば。
  • 横山 博〈61〉演 - 小野武彦
    元東京ACC航空管制技術官。珈琲に対して豊富な知識がある同僚の敷島をヘッドハンティングし、定年退職後、吉祥寺で敷島珈琲を設立する。

その他

  • 大野 弥生演 - きたろう
    売店の店員。社員割引で買った売店の商品をサービスで渡すなど、香織のことを心配し気遣っている。また、空港内の事件や職員の内部情報に詳しい。
  • 竹内 空 演 - 泰斗
    ホールダウェイ裕美の息子。父親はアメリカ人。
  • 航空整備士 演 - 斉藤一平

ゲスト

  • 第1話 渡辺 健太 演土師野隆之介
    飛行機を利用するために空港へ向かっていた東京モノレール羽田空港線の車内で香織と出会い、搭乗時間が差し迫っている中で香織の咄嗟の機転で出発時刻に間に合った。
  • 第2話 クリメント 演アルノ・ルギャル
    病気を患う息子に会うために来日するが、過去に日本からの退去強制処分を受けており入国することは出来ず、密入国を図る。
  • 第2話 竹内の母 演 - 丘みつ子
  • 第3話 北川 演堀内正美
    ボーイング777機長兼運航部門指導教官。
  • 第4話 矢吹 典子 演 - 木南晴夏
    Jaluxワイン・フーズ部主任。ピエール・ルヴォーが作るヴィラージュ・ヌーボーを買い付け、羽田空港内での解禁イベントを計画するが、ピエール・ルヴォーからワインの風味が足らないので予定していた便に載せられないと言われてしまう。中途半端なワインで良いから間に合わせてくれと催促することは、完璧なワインを消費者に提供したいという彼の思いを裏切ることになる。どうにかワインをイベント日まで届けることは出来ないかと香織たちに相談する。
  • 第5話 田口 七美 演肘井美佳(最終話)
    全日空客室乗務員教育係。羽田空港近くの病院から操縦士と子供たちが写った古い写真が見つかり、知り合いの山下から依頼を受け、香織と共に記念写真が撮られた背景を調べることになる。調べを進める中でその写真は「小島フライト」と呼ばれている出来事だと判明し、小島フライトの背景を知るために小児科のホスピス病棟を見学した後、「子供たちのためにメモリアルフライト」を実現させようという香織の提案に賛同する。
  • 第5話 米山 貴子 演 - 仲村瑠璃亜
    全日空客室乗務員研修生。客室乗務員はプロフェッショナルな接客が要求されるが、プロとしての自覚や気構えが足らず教官の田口を悩ませている。
  • 第5話 真野 光演 - 新田祐里子
    全日空客室乗務員研修生。米山の同期。小島 鈴子演 - 池田道枝5年の歳月を費やし、会社側との交渉を重ねて「小島フライト」を実現させた小島健吾の妻。当時、客室乗務員として小島フライトに乗務していた。
  • 第6話 栗山演 - 橋爪淳(第7話)
    国土交通大臣。東京空港管制部の視察に訪れたときに羽田空港を日本のハブ空港へと位置づけ、航空機の便数を増やしていくのならば、管制官の労働環境を改善することが最優先事項だと主張する結城の話に耳を傾ける。視察後、政府専用機でオーストラリア出張に向かっていたが、離陸の際に脳梗塞を発症してしまう。
  • 第7話 斉藤 誠 演 - 菅原大吉
    東京空港管制部の他チームの管制官。香織が受けるレーティング試験の試験監督者。矢野とは将棋仲間でライバル関係にある。将棋大会で優勝経験がある
  • 第8話 見次演 - 神保悟志
    ボーイング777機長。香織のコックピット搭乗研修に搭乗したJAL302便に機長として同席するが、エンジンの動作状況を表示する計器やフライトディスプレイが故障し、安全な運航が出来ない状況に陥る。
  • 第9話 横山 誠 演 - 小村裕次郎
    JNCニュース報道記者。米政府機関に対する脅威が発生した;衛星を操作するプログラムがハッキングされ、航空関係のGPS衛星が使用出来なくなった影響でアメリカの主要空港がシステムダウンを起こした、とホワイトハウス前から伝える。
  • 第9話 遠藤 演 - 若杉宏二
    福岡ATMC管制官GPSシステムハッキング事件に伴う米国内飛行禁止措置発動の情報を羽田に伝える。
  • 第9話 三宅 演 - 飯田基祐(最終話)
    ボーイング777機長。JAL53便でニューヨーク・JFK空港に向かって飛んでいたが、アメリカ国内で飛行禁止措置が発令された為、日本に引き返すよう命令が下る。
  • 第9話 上本 仁史 演 - 小倉智昭(最終話)
    東京国際空港空港長。
  • 最終話 鈴木 真紀〈38〉演 - 川原亜矢子
    アメリカ連邦航空局勤務。元東京ACC主任管制官。結城と氷室は東京ACC時代の上官。現在は世界の航空安全向上の為に連邦航空局へ出向中。氷室にGPSシステムハッキング事件の捜査状況と、事件に伴う米国内飛行禁止措置に関する情報を伝える。元上官の結城の事を気にかけている。

この様に当番組は2012年に放送された「ドラマチック・サンデー」の作品で唯一、家族をテーマにしていない。

 ところで「TOKYO コントロール」「TOKYOエアポート」が製作されている間にも航空業界は全くの別物に変貌しつつあったのです。

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  • 格安航空会社登場による「高運賃に胡座をかいた既存航空会社の放埓経営の破綻」の進行。
    格安航空会社(Low-cost carrier, LCC) - Wikipedia
    IATAカルテルの成立

    1940年代後半から、1945年の第二次世界大戦終結に伴い、戦勝国である連合国諸国において民間航空が再興した。また軍で使用されていたダグラスC-47(DC-3)型機やC-54(DC-4)型機、アブロ ランカストリアンやアブロ ヨークなどの大型レシプロ輸送機が安価に払い下げられたことから、アメリカや一部のヨーロッパ諸国で航空旅行が一般化してきた。1970年代に至るまで、ほとんどの大手航空会社(Legacy Carrier, LC)は国際航空運送協会(IATA)と航空会社、各国政府の間で決められた事実上のカルテル料金体系を維持しており、乗客は割高な国際航空運賃を一方的に押し付けられていた。

    アメリカでは、1938年にフランクリン・ルーズベルト大統領が当時アメリカの「国策航空会社」的存在であったパンアメリカン航空のファン・トリップ会長のロビー活動を受けて設立したCAB(アメリカ民間航空委員会)の決定により、国際線を運航できる航空会社が限られていた。サービスにさらに、その運賃設定もCABと航空会社が一方的に決めていたこともあり、このような国際線のカルテル体制が他国に比べてより一層盤石なものとなっていた(パンアメリカン航空は1950年代に世界初の「割引運賃」を導入したが、元々の航空運賃が非常に高価であったこともあり「格安」と呼べる金額ではなかった)。

    アフィニティ・チャーター

    1958年に、パンアメリカン航空が世界初の座席数が100席を超える大型ジェット旅客機であるボーイング707型機をニューヨーク-ロンドン線に導入した。それに続いて、1960年代に入ると、日本航空エールフランス航空、英国海外航空やヴァリグ・ブラジル航空などの国営や準国営を中心とした航空会社がボーイング707型機やダグラス DC-8型機、コンベア880型機などの大型ジェット機を相次いで導入した。

    大手航空会社の急激な新鋭機の導入を受けて、長年の間ヨーロッパ大陸北アメリカ大陸間の主要な移動手段であったオーシャン・ライナー(大型客船)が完全に衰退した上に、それまで使用されていた大型レシプロ輸送機がチャーター航空会社を中心とした中小の航空会社に格安で払い下げられたこともあり、国際線の航空運賃の下落が期待された。

    IATAカルテルは前項の通り外交や政策からIATA非加盟の航空会社も操作し1970年代までの間に一般旅客が格安運賃で航空機を使って国内外を移動する手段は、イギリスのモナーク航空やレイカー航空、アメリカのデンバー・ポーツ・オブ・コール航空などのチャーター航空会社が運航する、わずかにIATAによって認められていた「アフィニティ・チャーター(旅行クラブの会員など、なんらかの関連性があるメンバーのみで乗客が構成された団体ツアー向けチャーター便)」などの特殊かつ条件付き手段にほぼ限られていた。例外はいくつか有りアイスランドのアイスランディック航空(Loftleiðir英名:Icelandic Airlines・en)はジェット化タービンエンジン旅客機への更新が遅れ就航中の北大西洋横断便でアイスランド経由は所要時間が長くローカル航路にあたり、1964年[2]この航路にターボプロップエンジンのカナディアCL-44型機を新規導入した際は全席をエコノミー仕様でIATAが割増で認めた追加料金「ジェット料金」は当然対象外で低速長時間飛行の代わりに低価格料金を設定して旅客にアピール、時間に縛りがないバックパッカー達がこぞって搭乗した。 パンアメリカン航空や英国海外航空、サベナ航空やルフトハンザ・ドイツ航空などの大手航空会社は、このような「IATAカルテル」によって守られた割高な国際線の運賃体系と無競争状態、そして政府からの援助の下で高い収益を上げ、それを元にして現在から見れば「放漫経営」である経営状況だった。

    座席供給過多

    1970年代に入り世界各国の大手航空会社が、これまでの国際線や国内幹線における主流機材であったボーイング707型機やダグラスDC-8型機、コンベア880型機などの倍から3倍程度(100-200席に対して300-450席)の座席数を持つワイドボディの大型機を相次いで就航させた。導入された機材には、パンアメリカン航空のトリップ会長の肝いりで開発され、その後パンアメリカン航空日本航空、KLMオランダ航空やユナイテッド航空などが競って導入したボーイング747型機や、マクドネル・ダグラス DC-10型機、ロッキードL1011・トライスター型機などがある。大型機の就航が一段落した1970年代半ばには多くの大手航空会社において座席数の供給過多が深刻化した上に、矢継ぎ早の大型機の導入による設備投資が経営を圧迫した。

    1973年10月に中東において発生した第四次中東戦争や、これを受けて同月に起きたオイルショック、1978年末のイラン革命を受けて起こった第二次オイルショックを受けて世界的な長期不況に陥り旅客数が減少し、収益が悪化した。

    その結果、多くの大手航空会社は空席を埋めるために、これまで自らの身を守り続けてきた「IATAカルテル」の範囲を大きく離脱しない範囲で、自主的に割引運賃を導入せざるを得なくなった。

    「格安航空会社」の誕生

    フレデリック・レイカーによる会社設立以降、長年の間アフィニティ・チャーター便を運航していたレイカー航空が、これまでの「企業本位」ともいえる不自然な状況を打破すべく、既存の大手航空会社の割引運賃を大幅に下回る格安な運賃により、「スカイトレイン」のブランド名で1977年にロンドン(ガトウィック)-ニューヨーク(ニューアーク)線などの大西洋横断路線に参入した[6]。当初の運賃設定は食事などのサービスは含まれていなかったものの、従来型の3分の1の価格で人気を集め、初年度で黒字決算を達成している。

    レイカー航空は、格安運賃を求める多くの利用者(その多くは大学生などの若者のバックパッカーを中心とした個人客であった)から支持を受けて、イベリア航空アリタリア航空、サベナ・ベルギー航空などの、「IATAカルテル」の恩恵を受けて割高な国際航空運賃を維持していた既存の大手航空会社を押しのけ、1981年には大西洋横断路線において6位のシェアを獲得した。

    対岸のアメリカでも、1978年にジミー・カーター政権によって施行された航空規制緩和(英語版)(Airline Deregulation Act)(新規航空会社の設立や路線開設が事実上自由化された)の影響を受けて、1981年にドナルド・バーによって設立され、既存の大手航空会社の割引運賃を上回る格安な運賃で大西洋横断路線やアメリカ国内線に就航したピープル・エキスプレス航空や、それに先立つ1971年に設立され、航空規制緩和を受けて急速にその規模を拡大していたエア・フロリダが、格安航空会社のはしりとして脚光を浴びた。

    大西洋横断路線を主軸にしていた格安航空会社は、パンアメリカン航空やトランスワールド航空、ブリティッシュ・エアウェイズなどの大西洋横断路線を主要な収益源の1つとして運航していた既存の大手航空会社やIATAの意を汲んだイギリス、アメリカ両国政府による政治的圧力を受けたといわれる[9]。レイカー航空はポンド・USドル間の為替が不利に転じたタイミングで15機の飛行機に対する債務を抱えたことや、競合するパンアメリカン航空等の大手航空会社が従来の3分の2の運賃に引き下げたことで競争が激化し収益が悪化した事を受け1982年に倒産した。

    レイカー航空の倒産は、同じイギリスのリチャード・ブランソンによるヴァージンアトランティック航空設立に大きな影響を与えた。

    また、同じく大西洋路線を格安運賃で飛ばしていたピープルエクスプレスもアメリカン航空等のCRSシステムを駆使した戦略(ピープルの競合路線において席数限定でピープルと同じ運賃に引き下げる)により乗客を奪われ、更にフロンティア航空の買収負担による収益悪化が致命傷となり1987年にはコンチネンタル航空に吸収合併された。

    IATAカルテルの崩壊

    格安な国際航空運賃を求める消費者の声は収まることがなく、このような消費者の声に答えるべく、1970年代には新興の航空会社が各地で低価格サービスを開始しては程なく破綻を繰り返した。その一つ、1975年タイのエア・サイアムはバンコク=香港=福岡=ホノルル=ロサンゼルス線を運行、1976年12月29日に運航停止した。

    1980年代に入るとヨーロッパやアメリカ、日本などの多くの先進国においても、キャセイパシフィック航空大韓航空シンガポール航空などのIATA非加盟(現在は3社とも加盟している)で、既存の航空会社の割引運賃を大きく超える安価な運賃を売り物にした航空会社の勢力が増してきた。その上、IATA加盟航空会社でないことから、エコノミークラスにおいてアルコール類や映画用イヤホンが無償で提供された。多くの会社がカルテル運賃に囚われない団体ツアー向けの航空券などの格安航空券を個人向け市場に流通させたために、国内線、国際線を問わず世界的規模で価格競争が進んだ。

    同時期には「IATAカルテル」が代表する、既存の大手航空会社と政府が結託した結果起きていた航空運賃の高止まりに対する批判の声も高まった。同時に、IATA加盟、非加盟双方の航空会社間での価格競争が進んだ結果、1980年代半ばにはIATAに加盟している既存の大手航空会社においてもカルテル運賃システムが崩壊した。

    これらを受けて、既存の大手航空航空会社もIATA非加盟航空会社のそれと肩を並べる正規割引運賃を相次いで導入した。そのほかに、団体ツアー向けの格安航空券を旅行代理店などを通じて個人向け市場に流通させるようになり、航空会社同士の価格競争がさらに進んだ。

    サウスウエスト航空の成功

    新興格安航空会社が大きな成功を収め、無駄を省き効率を追求したビジネスモデルが世界各国で高い注目を受けた。 その例として、アメリカのサウスウエスト航空は航空規制緩和の影響を受けてアメリカ南西部を中心に地道にその勢力を伸ばしてきた。アイルランドライアンエアーは、1992年に合意されたEUの航空市場統合(航空自由化)後に、より安価な航空券を求める市場の声に対応して、ヨーロッパ圏内の中・近距離国際線における格安航空会社としての新たなビジネスモデルを確立した。イギリスのイージージェットは、インターネット経由の直販というビジネスモデルを前面に押し出してコスト削減と個人旅客の取り込みに成功した。

    南北アメリカやヨーロッパにおけるオープンスカイ政策の展開や、アジア(特にASEAN諸国内)における同様の政策の展開や各国における所得の向上を受けて、1990年代後半から2000年代初頭にかけて、サウスウエスト航空やライアンエアーのビジネスモデルを受け継いで、アジアやオーストラリア、中南米などでも各国の国内線や近距離国際線を運航する格安航空会社の起業が相次いだ。

    格安航空会社の台頭

    格安航空会社の運賃に対応できなくなった既存の大手航空会社の乗客の多くがこれらの格安航空会社に流れたことや、価格競争の激化によって既存の大手航空会社のシェアは下がった。2001年9月に発生したアメリカ同時多発テロ後の国際航空旅客の一時的な減少や、2003年3月に開戦したイラク戦争以降の原油価格の高騰などにより経営状況は悪化した。2000年代に入るとスイス航空やサベナ航空、ユナイテッド航空ヴァリグ・ブラジル航空などの、かつてのIATAカルテル下では繁栄を謳歌していた既存の大手航空会社が相次いで経営破綻、倒産し、そのうちのいくつかは姿を消すこととなった。

    デルタ航空ユナイテッド航空タイ国際航空シンガポール航空スカンジナビア航空やルフトハンザ・ドイツ航空などの既存の大手航空会社が、格安航空会社のビジネスモデルを部分的に取り入れた子会社の格安航空会社を相次いで設立した。格安チャーター便専門会社による定期運航の格安航空会社への相次ぐ業態変更や、オアシス香港航空のような長距離国際線を格安運賃で運航する格安航空会社や、シルバージェットのような長距離国際線のビジネスクラスを格安運賃で提供する格安航空会社の登場など、航空ビジネスにおいて格安航空会社の存在は、業界の勢力図を塗り替えるほどの大きな影響を与えている。

    旅行代理店への影響

    格安航空会社の台頭の影響を受けて、さらなるコスト削減のために大手航空会社は格安航空会社のビジネスモデルである「インターネット経由の直販」と、さらなる安価な正規割引料金を取り入れた。その結果、旅行代理店経由での格安航空券の販売数が減少を続けており、「IATAカルテル」崩壊後の1980年代に世界各国に広まった「大手航空会社が団体ツアー向けの格安航空券を旅行代理店を通じて個人向け市場に流通させる」というビジネスモデルが終焉を迎えつつあるという評価も多い。

    多くの大手航空会社が旅行代理店へ支払う航空券の販売手数料の引き下げを行い、いくつかの航空会社は販売手数料自体の廃止を行った。これは、格安航空券の販売手数料を収益源の1つにしていた旅行代理店の収益構造の悪化を招いただけでなく、格安航空券の販売手数料を最大の収益源にしていた中小の旅行代理店の多くが事業停止に追い込まれた。

    淘汰

    格安航空会社の台頭は世界規模で進んだものの、2000年代後半に入り、比較的に格安航空会社の歴史が古いヨーロッパやアメリカにおいて、格安航空会社同士の客の奪い合いとそれがもたらす価格競争による収益性の悪化、2008年に入ってからの世界的な燃料の高騰を受けて、経営破綻に陥る格安航空会社が相次いだ。格安航空会社が市場規模に対して増えすぎた上、その成り立ちから経営体力が比較的弱く本格的な淘汰の段階に入っている。

    アメリカだけでも2008年の上半期だけで、フロンティア航空とATA航空、スカイバス航空、Eos エアラインズ、マックスジェット航空と5社の格安航空会社の経営が破綻した。アジアやヨーロッパ諸国においてもオアシス香港航空やシルバージェット、ビバ・マカオなど、複数の航空会社が経営破綻に追い込まれた。

    1990年代後半から2000年代にかけて既存の大手航空会社が子会社の格安航空会社を相次いで設立したものの、デルタ航空(ソング)やユナイテッド航空 (Ted)、カナダ航空(エアカナダ・タンゴ)、ブリティッシュ・エアウェイズ (buzz)、ニュージーランド航空(フリーダムエア)をはじめとして、親会社の顧客を奪ったり、価格競争に巻き込まれ、事業閉鎖や業態変更している例がある。

  • こうした業界再編の一環として2010年1月に会社更生法適用を申請し経営再建を行ってきた日本航空JAL)が、2012年9月19日に東京証券取引所に再上場。


    JAL破綻の直接の引き金となったのは2008年のリーマン・ショックだった。しかし、そうしたショックに耐えることのできない脆弱(ぜいじゃく)な企業体質が長年にわたって形成されてきたことがより大きな原因だといえよう。

    例えば効率の悪い大型機材を大量に保有せざるを得なかったこと。ここでいう「効率が悪い」とは、供給座席が需要に対して過剰になりがちであり、安売りをしてもなお空席が生じる便が多く見られることである。ただ、これは主に、日本の航空市場の特殊性に起因するものである。日本では、国内線の基幹空港である羽田空港が非常に混雑しており、大量輸送によって需要に対応していかなければならない状況が続いてきた。そのため、大型機材での運航が推奨されてきた事情がある。しかし、多くの地方空港が建設されていく中で、需要の大きさも多様化し、必ずしも大型機が望ましいとはいえなくなってきた。

    投資の失敗も大きい。ホテルなどの関連企業を増やし、総合的なサービスの提供による競争力の強化を図ったが、採算性の見通しの甘さから、採算性を見込めないものが本業の足を引っ張る結果となった。また、過去における長期にわたる為替差損も、JALの放漫経営の象徴としてよく取り上げられている。

    労働組合の問題もある。複数の労働組合が存在しているため、複雑な労使関係だけでなく、労々関係も企業経営を極めて難しいものとしてきた。その他にも、採算性の取れる見込みのない地方路線への就航を政治的な観点から行わなければならなかったことなど、破綻の要因は多く見いだすことができる。それだけ問題の多い企業であったことは確かだといえよう。

    JALの経営危機に対する対応として、国土交通省は2009年8月、有識者委員会(日本航空の経営改善のための有識者会議)を設置し、JAL自身に経営改善計画を策定させる形の緩やかな解決を図った。しかし、ちょうどこの直後に民主党政権が誕生し、特に前原誠司国土交通大臣(当時)の強力なリーダーシップのもとで、政府がJAL問題に極めて積極的に関与することとなった。

    まずは前原大臣が私的にJAL再建業務を要請した再生タスクフォースによって、JALの内部調査が徹底的に進められたが、政府と金融機関が出資する企業再生支援機構の設立に伴って、その業務は支援機構に引き継がれることになった。JALは2010年1月に会社更生法の適用を申請し、その後、支援機構の企業再生支援委員長で、これまで多くの倒産企業の管財人を務めてきた瀬戸英雄弁護士の指揮下、経営の建て直しが進められた。更生計画に基づき、金融機関による債権放棄(5215億円)と支援機構からの公的資金の注入(3500億円)を受け、株式は100%減資された。

    JAL再生の上で何よりも大きいのは、京セラ創業者で前原氏と親しい稲盛和夫氏がJAL会長に就任し、采配を振るったことだろう。京セラを「アメーバ方式」で世界的企業に成長させた稲盛氏の経営手腕による貢献は大きい。例えば、これまでJALでは、収支を見る上では路線ネットワーク全体を単位として捉えてきており、個別の路線収支は重視されてこなかった。これに対して稲盛氏は個別の路線収支の把握の重要性を徹底した。そして、特に幹部社員を中心として、経営感覚の向上を図ることをセミナーなどの実施を通して徹底させてきた。稲盛氏と瀬戸氏の存在なくしては、JALの経営改革はかなり難しいものとなっていたに違いない。

    路線別収支の把握以外に、具体的にどのような改革が行われてきたかを見てみよう。

    まず、効率の悪い大型機材は売却され、ボーイング737、767型機といった中型機を主体とする機材編成へと大幅に転換させた。その結果、大型機の操縦免許しか持たない高齢パイロットは職場を去らざるを得なくなり、後の訴訟問題へとつながっていく。

    関連会社も次々と売却されていった。相当数の関連会社が売却されていったが、その中には、収益性、将来性が高いと見られていたクレジットカード子会社のJALカードなども含まれていた。JAL再生がなったときには、こうした優良子会社を手放したことが後で大きな禍根になるのではないかといわれたくらいである。

    この過程で大幅なリストラも行われた。希望退職が数度にわたって募集され、かなりの人々がその募集に応募して会社を去っていった。

    残った社員の給与水準も切り下げ、ライバルの全日本空輸ANA)より2割程度低い水準に抑制された。給与体系は能力による差別化が進められ、パイロットや客室乗務員の待遇も大幅に改められた。特にパイロットに関しては、世間から批判の多かったハイヤーでの送迎は廃止された。また、以前は、実際に乗務していなくても一定時間は乗務していたものとして給与が支払われていたが、それも実際に乗務した時間に合わせた支払いに改められていった。

    このような改変は、強力な組合の存在に鑑みれば、従来では考えられないものであった。これが可能になったのは、支援機構という外部からの力が、組合を説得する上で大きな交渉力を発揮したことと、組合側もJALの将来に大きな不安を抱いて、改革に協力する気になったことがある。

    年金を大幅にカットすることも大変な苦労を伴うものであった。さまざまなやり取りがあった結果、最終的に現役50%、OB30%カットという成果を得ることができた。特に現役世代には不公平感はあろうが、ともかくも改革を実現できたことは大きな意義を持つものであった。

    こうした努力の結果、2010年3月期(2009年4月~2010年3月)には1337億円の営業赤字だったJALは、2012年3月期(2011年4月~2012年3月)に2049億円の営業黒字を計上するなど、想像もできなかったようなV字回復を遂げた。それも、世界的に見てもまれにみるような好業績を挙げるに至っている。2011年の東日本大震災という非常事態に遭遇したにもかかわらずにある。こうした結果に対して、業界周辺からはやっかみの声が出るまでになっている。再上場を目前にして、経営危機時の赤字の繰り越しによってJAL法人税を免除されている点をはじめ、さまざまな批判がなされており、自民党の航空問題プロジェクトチームが再上場反対や地方路線拡充を決議するなど、再上場に対する障害を形成するまでに至った。

  • その恐るべき航続距離の長さによって「国際的ハブ空港間をジャンボジェットで結び、」「ゲーム・チェンジャー」787(Boeing 787 Dreamliner、初就航2011年)の就航が引き起こしたパラダイムシフト。
    ボーイング787 - Wikipedia

    中型機としては長い航続距離が特長で、従来の大型機による長い飛行距離も本シリーズの就航で直行が可能とされ、需要がさほど見込めず大型機では採算収支が厳しい長距離航空路線も開設が可能となった。

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かくして、あれほどブルジョワ的価値観に抵抗した「怒れる若者達」は自らも保守化してその一員に変貌し1990年代以降は「産業至上主義の暗黒面」デフレ製作を支持する様になって自らの自尊心の拠り所を喪失し…

その「怒れる若者達」への反感から生まれた「バブル世代コンテンツ」は「日本におけるTV黄金時代(1980年代〜1990年代)」に主要イデオロギーを供給しつつ新時代対応を怠ってリアリティを喪失する展開を迎えてしまったのですね。