諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【事象の地平線としての絶対他者】「分類不可能」なる分類がUFOや妖怪を生み出すメカニズムについて

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どうやら「ヘーゲルからカントへ、そして再びヘーゲルへの回帰」みたいな単純な往復史観は時代遅れ。今や多様で多態的な「事象の地平線としての絶対他者との接近遭遇(Close encounter)」が問題なのです。
*これまで無造作に「事象の地平線」なる言葉を用いてきたが、どうやら「後期ウィトゲンシュタインいうところの言語ゲーム(Sprachspiel)にとっての事象の地平線」と認識するのが正しいらしい。前期ウィトゲンシュタイン形而上学を否定する為に「語り得ないものについては沈黙せざるを得ない」としたが、実際の言語ゲームは「それでも語らざるを得ない何か」について語り続ける事を強要されるのである。

接近遭遇(Close encounter) - Wikipedia

ハイネック博士 (J. Allen Hynek) の分類による「未確認飛行物体(unidentified flying object、UFO)やこれに関連すると推測される何かとの目撃、接触」事案の段階表示。

ハイネック博士自身のの分類では接近遭遇には大きく分けて3段階ある。

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  • 第一種接近遭…遇空飛ぶ円盤を至近距離から目撃すること。

  • 第二種接近遭遇…空飛ぶ円盤が周囲に何かしらの影響を与えること。

  • 第三種接近遭遇…空飛ぶ円盤の搭乗員と接触すること。

その他の人の手によって4段階目以降も定義されている。

  • 第四種接近遭遇…空飛ぶ円盤の搭乗員に誘拐されたりインプラントを埋め込まれたりすること。また、空飛ぶ円盤の搭乗員を捕獲、拘束すること。

  • 第五種接近遭遇…人類と宇宙人とが直接対話・通信を行うこと。

いくつかの人や団体によって6段階目以降も提案されているが、統一された定義には至っていない。以下はその一例である。

  • 第六種接近遭遇…接近遭遇の結果、死傷が発生すること。

  • 第七種接近遭遇…人と宇宙人との混血種が産まれること。

  • 第八種接近遭遇…宇宙人による侵略。

  • 第九種接近遭遇…人類と宇宙人とが公的に交流を行うこと。

航空管制技術の発展には「(鳥などの小動物や敵対国の飛行機といった)管制下にない飛行物体とついての分類と対応のマニュアル化」が欠かせなかったが、その結果、逆に「どうにも分類不可能な何か」が残ってこれが一般に広まって思わぬ形で発展を遂げたとも。

テッド・チャンの原作「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1998年)」から盛り込まれていた設定なのかもしれませんが、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督映画「メッセージ(Arrival、2016年)」には、より具体的に「宇宙人は迷走する我々を導きに現れた救世主」なるプラカードを掲げた市民団体と「侵略者を一刻も早く撃退せよ!!」なるプラカードを掲げた市民団体の双方が宇宙船着陸地点を囲むフェンスに押し寄せます。
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H・G・ウェルズ宇宙戦争(The War of the Worlds、原作1898年、ラジオドラマ化1938年〜、映画化1953年〜)」以来お馴染みの「人類の異星人に対するアンビバレントな態度」ですね。

その一方で宇宙人のイメージはアンドロイドやゾンビの概念同様に移民などのマイノリティの暗喩としても動員されて来たのです。

日本においても本草学が発展した結果、やはり同様に以下の様な「どうにも分類不可能な何か」が残って妖怪概念の大源流となっています。

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*実際、貝原益軒大和本草(1709年)」の段階で既に「天狗」「河童」「水虎」などの定義がほぼ固まっている。ただ「(様々な怪奇現象の原因となる)髪の毛の塊の様なもの(?)」みたいに、後世に継承されなかった分類も数多く含む。

貝原益軒の著作としては「養生訓」がもっとも有名であるが、彼の主著は「大和本草」であろう。宝永6年(1709)に刊行された。80歳のときのことであった。彼は若いころ医学を学び、黒田藩には儒者として仕えたが、優れた本草学者でもあり、本格的な本草書を日本ではじめて書いている。これが「大和本草」である。

本草はもともとは薬用植物についての学問である。中国の本草書で有名なのは、明代に書かれた「本草綱目」(1596)であり、本邦には1607年に渡来している。「大和本草」は本草綱目の分類法に益軒独自の分類を加えて、1362種について由来、形状、利用などを記載したものである。2巻の附録と2巻の図譜を合わせて全巻で20巻におよぶものである。単なる翻訳、翻案ではなく、長年かけた観察、検証の結果である。

  • 「天狗」…山中における様々な超常現象において「不可視の原因」に帰せられる事が多かった何か。後世には「小豆とぎ」「砂かけ婆」などバリエーションが増える。

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  • 「河童」…水際における怪異譚を統合する過程で、既存の定義の参照のフィードバックを通じてイメージが固まった何か。貝原益軒が「大和本草(1709年)」の中で「ポルトガルにも存在し、骨が残っている」と指摘してる点が興味深い。

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    *明治以降の博物学の世界においても、当初は特定地域におけるローカルな怪異現象の総称の一種に過ぎなかった「座敷童」が、全国誌によって紹介されたせいで日本全土に出没する様になった実例が存在する。この種の統合現象が妖怪のイメージ形成の起爆剤となってきた。

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  • 「水虎」…「河童の一種」だが、生物というより「水のエレメンタル」の様な存在。貝原益軒は「本草綱目(1596年)」に実際にあった項目と結びつけている。
    *近代以降は「普段は水底に生息しているが、人体に寄生する事も可能なアメーバの様な存在」としてイメージされる事が多くなった。

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ここで案外重要なのが江戸時代におけるインテリ階層、すなわち儒学者の対応。「君子鬼神怪力を語らず」を信条とする彼らは、儒学的合理性保持の為に全ての怪奇現象を「狐狸貉」すなわち鉄砲で退治可能な害獣のせいに帰そうとしたのでした。
*とはいえ別に自ら「狐狸貉退治運動」に邁進した訳でもなく「本当に大騒ぎになったら大元を射殺すれば事は済む」と想像して安心するだけに終わっている。この辺りの自尊心を守るのが最優先の思考様式は「民主集中制」を儒教における「現実の政治や外交より大義名分を確立する党争より重視する(カール・シュミットいうところの「敵友理論」)」とか「こうした政治原理の重要性が理解出来ない民草は黙って我々の善導に従うしかない(カール・シュミットいうところの「例外状態」)」といった概念を介して受容した「福本イズム」に心酔した大日本帝国時代の講座派社会学者を通じて日本の左派リベラルにしっかり継承されているとも。

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*ここで興味深いのが、彼ら儒学者が「江戸時代のエレキブーム」すなわち三味線文化の日本席巻に際しても同種の対応を取ってるあたり。「若者達は狐狸貉に化かされてるだけで、やがて我に帰る筈だ(放っておけば良い)」。つくずく儒教古典から早々に「楽記」が欠落した事が悔やまれる。

  • こうした「必ず殲滅しなければいけない絶対的宿敵」を想定し、民をその殲滅に精神動員して実存不安や現実の不満を紛らわせようとする思考様式は、毛沢東が粛清の口実に「AB=アンチ・ボルシェビキ(Anti-Bolshevik)団殲滅」を用いた手口を連想させる。遂行側としてはむしろ「絶対的宿敵」が正体不明で駆逐も不可能な方が都合が良い。幾度でも同じ手口が使いまわせるからである。
    第二次世界大戦後の冷戦にも同種の構図が見て取れる側面が。

    *最近日本で猖獗を極めている「安倍しね」運動についても、倒閣運動というより(最後まで自民党を倒せなかったが故に、むしろ左翼陣営の結束を固めるのに役立った)20世紀の「ナチ曽根しね」運動の「成功体験」へのノスタルジアが支えている側面が強いとも。

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  • この話は自らも迫害を直接経験したピーター・ドラッカーが、ナチスの典型的思考様式について「自らへの批判を回避しつつ「正義の絶対的批判者」の仮面を被り続ける為、次々と仮想敵を提唱しこれへの攻撃の最先鋒に立ち続ける事」と看過した事とも重なってくる。ただしナチス方式には、少年ジャンプ掲載の漫画の様に「勝利の積み重ね」が無限に「さらなる強大な敵の設定」を要求し続ける欠点が存在。かくしてナチスドイツは「国内におけるユダヤ人と共産主義者の殲滅」に飽き足らずヨーロッパ統一や独ソ戦への邁進を余儀なくされていく。

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    *この思考様式は思想の左右を問わず顕現する。例えばフランス革命当時の「ジャコバン派の恐怖政治(仏:la Terreur、英:Reign of Terror、1793年〜1794年)」。ジロンド派が思いつきで始めてしまった革命戦争のせいで周囲を敵軍に囲まれ「あらゆる場所にスパイが紛れている!!」なるデマが広まった結果、告発検事率いる革命裁判所、各コミューンが選出した「反革命派取締のための監視委員会」、9人から成る公安委員会などが次々と設置され、数万人が銃殺やギロチンや正統な裁判なしでの私刑や獄中死の犠牲となったばかりか王党派拠点においては大砲の霞弾(榴散弾)による大量虐殺や「見つけ次第、妊婦の腹を裂き赤子を竃に放り込む」民族浄化作戦が遂行されたのだった。こうしたヒステリックなパニックは戦況が落ち着くにつれ沈静化し、それに代わって「殺し過ぎた罪悪感」が台頭してくる。そして体制内で「誰をスケープゴートに差し出すか」についての醜い内ゲバが発生し「それまでの処刑担当者の一括処刑」でこの事態を切り抜けようとしたロベスピエールが、逆に処刑人達のクーデターによって斃される形で革命は終焉を迎えるのである。

これは一体何なのでしょう? こうした後期ウィトゲンシュタインいうところの言語ゲーム(Sprachspiel)がUFOや妖怪ばかりか、ある種の膠着状況(あるいは最終的破滅に向けての無限エスカレーション)を顕現させるメカニズムについては、あるいはマルティン・ハイデガー(1889年~1976年)の「技術への問い(Die Frage nach der Technik、1954年)」の方がいささか真相に迫っているかもしれません。その驚愕の結論は別として。

技術は人間を生産に駆り立てるが、その人間が自然を利用する様に、強制的な徴発性を根源に内包する。この総動員メカニズムをハイデガーは「集-立(Ge-Stell、ドイツ語で台架・支持枠・骨組みなどの意)」と呼んだ。
*この思考様式自体にはマックス・ウェーバーの「鋼鉄の檻」理論との共通性が見て取れる。誰かの発明というより20世紀前半のドイツ人のコンセンサスだったのだろう。

  • 「集-立(Ge-Stell)」は「真理(Aletheia)」が備える開示作用に逆らう。
    *「アレーテイア(Aletheia)」…その語幹にある「レーテ(lethe)」は「忘却(forgetfulness)」のことで、これに反意の接頭辞が付いていた形。すなわち「忘却したままに決してさせてはおかないもの」「どれほど記憶の底に沈んでしまおうと、なにかに隠蔽され、覆いつくされてしまおうと、なにかのことで必ず浮かび上がってくるもの、顕わになるもの…」こそが真理という古代ギリシャ的思考様式。あるいは当時発見された「試金石」の概念とも密接な関係があるかもしれない。なにしろ当時の英雄は(脅威や迫害から身を守る為に)どんなに姿を隠していても「試練」を経てその真の姿を現わしてしまうものと相場が決まっていたのだから!!

    *そもそも科学は「直接全体像を理解しようとするには巨大過ぎる世界そのもの」を漸進的に解読する為にアプローチ方法を(それぞれの問題意識が人間が確かに理解可能な範囲に留まる様に慎重に設計された)無数の試行(Trials)に分断する。またオブジェクト志向プログラミングも問題解決過程の最適化を目して名前空間を慎重に設計し、各クラス間に(丁度良い具合に互いを黙殺し合う)カプセル化を施す。その全てが(身分制社会をそのまま温存しようと試みる様な)真理(Aletheia)から遠ざかる振る舞いといえなくもないのである。ただし、こうした「(記述された)科学の世界」と「(記述を最適化する責任を負わされた)科学者の世界」はもちろん異なる。「語り得ないものについては沈黙せざるを得ない」と述べた前期ウィトゲンシュタインの論理哲学はむしろ論理哲学者に対してリアルタイムで「語り得ないものについて語らずに済む為の最適化」を要求し続けるのである。

    *ここで余談。スペル違うけども、もしかしたら、ここでいう真理(Aletheia)って王子様の助けを待つだけの姫君ではなく、自ら考え、行動する、やさしさと勇気と知恵を兼ね備えた、新しいヒロインを目指したダイアナ・コールス「アリーテ姫の冒険(The Clever Princess、原作1983年、片渕須直監督によるアニメ映画化2001年)」のヒロインたるアリーテ姫(Princess Arete)の名前の由来だったりする? 少なくとも冒頭「魔法は人間の手が生み出すものなのだから、全ての人間の手にそれを成し遂げる可能性があるはず。この私の手にだって…」なる姫の独白から始まり、彼女の「全てに受動的な大人の女性というステレオタイプな精神的牢獄」からの脱獄が描かれるこの物語もまた「真理(Aletheia)の顕現」を扱っている事実は動かない。

    *原作が「フェミニズム童話のマスターピース」と呼ばれているせいかディズニーが配給を手がけたせいか、片渕須直監督映画「アリーテ姫(Princess Arete、2001年)」は、CLAMPちょびっツ(原作2000年〜2002年、TVアニメ化2002年)」や広江礼威BLACK LAGOON(原作2001年〜、アニメ化2006年〜2011年)」や「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road、2015年)」と並んで「国際SNS上の関心空間に集まる第三世代フェミニスト」の基礎教養にしっかり組み込まれている。彼女らにいわせれば、アリーテ姫や「ちょびっツ」における「ちぃ(Chi)」や「怒りのデス・ロード」における「逃げ出した妻達(Wifes)」の様な「救済を待つ姫君」タイプも「BLACK LAGOON」のレヴィや「怒りのデス・ロード」におけるフュリオサ・ジョ・バッサの様な女戦士タイプも「女性の心を幽閉するステレオタイプの精神的牢獄」なのであって、真に目指すべきは任天堂ゲーム「メトロイドシリーズ (Metroid series、1986年〜) 」におけるサムス・アラン(Samus Aran)の様な「あらゆる事について自分の心だけに基づく正しく判断が下せる自由人」なのだという。「女は戦いを始めない。それを終わらせる為にのみ戦う」なる標語も存在し、サムス・アランの宿敵たる「メトロイド(Metroid)」も、その正体は「全てを吸収して戦争の為に動員する究極の生命兵器」。これが世界に顕現すべき真理(Aletheia)の最終形態?

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    *「女は戦いを始めない。それを終わらせる為にのみ戦う」…彼女達は「ワンダーウーマン(Wonder Woman、1941年〜、2017年映画化)」も「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー(Rogue One: A Star Wars Story、2016年)」のジン・アーソ(Jyn Erso)もこの枠組みで掌握している。

  • そして「集-立(Ge-Stell)」は自然全てを「用立て」様とする(=自然を有用性という観点からのみ露わにし、持てるエネルギーの全てを引き渡せと要求し続ける)。私たち人間が意識的にそうしているのではなく、背後から「集-立(Ge-Stell)」がそう嗾(けしか)けているのだが、「技術を使う」立場から「技術に使われる」立場に転落した人間は容易にはこの構造に気付けない。
    *米国プラグマティズムPragmatism実用主義)が、元来はカントの「懐疑主義的哲学」に対する「神は我々が問題解決に必要とする諸要素を必ず我々の認識範囲内に置いておいてくださる」なる狂信的信仰心の表明から出発してる事を思い出した。マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus、1904年~1905年)」ではないが、こうした思考様式は必ず科学的業績や資本主義的成果の積み上げを「全てに優先されるべき人類全体の責務」と考える即物主義に行き着いてしまう。

    *国際的にデフレ・スパイラルを回し続け「中産階層の壊滅」「貧富の差の拡大」などを仕掛け続けているのもこの種の思考様式である事実もまた動かない。

  • こうして人間は真理だけでなく、自分自身をも見失ってしまう。その意味合いにおいて技術は「危険(英Danger、独Gefahr)それ自体」だが、技術は初め、芸術でもあったのであり、芸術、とくにポイエーシス(Poiesis)つまり詩作(Poesy)には人類を救済する力が本質的に備わっている。例えばヘルダーリンが残した文学の様に…

    ポイエーシス(Poiesis)は原義では「創造」を意味する。プラトン「饗宴」の規定によれば「あるものがまだそのものとして存在していない状態から存在(to on=ト・オン)へと移行することについてのいっさいの原因」。すなわち「まだ無秩序のうちにあるものにタクシス(Taxis=人工秩序)をもたらす」事。
    *「人工秩序=タクシス(Taxis)」…これに対して「先験的に存在する自然秩序」をコスモス(Cosmos)という。オーストリア学派を代表するフリードリヒ・ハイエク(Friedrich August von Hayek、1899年〜1992年)は、この「人工秩序=タクシス(Taxis)」なる用語を英国法学由来の「法実証主義(英legal positivism, 独Rechtspositivismus)」と結びつけて語っている。

    • しかしプラトンは「国家」においては、人のポイエーシスが存在論的にも認識論的にも十分な根拠をもちえないことから、高次の哲学的ポイエーシスの可能性を許容しつつ、とりわけ文芸創作としてのポイエーシスを現象のミメーシス(mimēsis=模倣的再現)にすぎないものとしてその原理的および事実的危険性を指摘している。
      *そう、プラトンはあくまで自然法(英natural law、独Naturrecht、羅lex naturae、lex naturalis)至上主義者だったので個人の自由な多様性や多態性を前提とする芸術活動そのものに意義を見出せなかったのだった。

    • 一方アリストテレスは『詩学』(悲劇創作論)において、ミメーシスとしてのポイエーシスをその蓋然(がいぜん)的な真理性において積極的に評価し、歴史的記述(ヒストリアー)とは異なる詩的記述(ポイエーシス)の存在理由を、詩作が人間的生における普遍的なありよう(katholou=カトル)を呈示するところにあるとしている。
      アリストテレス哲学自体が「個人の自由な多様性や多態性を前提とする芸術活動」を肯定してたというより、それへの注釈を通じて欧州に受容されたアラビア哲学者の思考様式が果たした役割が大きい。新プラトン主義の流出論(Emanationslehre)に基づいてスンニ派古典主義を完成させたガザーリー/アルガゼル(Ghazālī / Algazer、1058年〜1111年)の「神の叡智そのものは無謬で唯一無比だが、その流出過程で様々な矛盾が蓄積してバリエーションが生まれどれが正解か解らなくなり、最後には(神の叡智と絶対矛盾する)悪まで生じる」なる思考様式、そしてこれへの反駁を試みたイブン=ルシュド/アヴェロエス(Ibn rušd / Averroes、1126年〜1198年)が後世に残した(前提の違いによる)ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の並存の可能性。

      *だが「一見、創造主の正義に完全に逆らっているとしか見えない悪にも神の意向はちゃんと内包されている」としたライプニッツの神義論(theodizee)は、リスボン地震(1755年)という従来の正義と悪の概念を破壊する大災害の到来によって崩壊。こうした歴史展開がフランス啓蒙主義 / 百科全書派に穿った大穴を抜きに後世のロマン主義運動台頭は説明出来ないのである。

    つまり「魂の教導」という観点から詩作の虚構(プセウドス)の危うさを論難したプラトンに対し、アリストテレスは同じ観点から虚構というよりはポイエーシスのもたらす可能的世界(ありうべき世界)の現実的効果(驚きやカタルシス)を重視し創作論の祖となった。

    *そしてテュービンゲン大学で神学生としてヘーゲルシェリングとともに哲学を学び、古代ギリシアへの傾倒から生まれた汎神論的な「ヒュペーリオン(Hyperion、1799年)」を文学界に残したヘルダーリン(Johann Christian Friedrich Hölderlin, 1770年〜1843年)…
    1200夜『ヘルダーリン全集』フリードリッヒ・ヘルダーリン|松岡正剛の千夜千冊

環境論の観点から反近代主義者に参照される事が多い論文。なにしろこのハイデガーの観点からは、最近話題の「持続可能な開発(Sustainable Development)」も「自然を永続的に用立てしようとする大がかりな策略にすぎない」という事になってしまう。
*ここで興味深いのがリヒャルト・ワーグナーニーベルングの指環(Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」における「不正な手段にによって構築された、一刻も早く滅ぼすべき対象」たるニーベルング族を奴隷化したアルベリヒの地下工場や至高神ヴォータンの居城ヴァルハラのモデルとなった「霧の街ロンドン」や、フリッツ・ラング監督映画「メトロポリス(Metropolis、1926年)」において同様の役割を与えられた「労働者の奴隷化によって栄える資本家フレーダー家の本拠地メトロポリス」のモデルとなった「悪徳の街ニューヨーク」こそハイデガーいうところの「集-立(Ge-Stell)」そのものなのに、まさにそのイメージを元ネタとする敵の暴走に立ち向かう「メトロイドシリーズ (Metroid series、1986年〜) 」のサムス・アラン(Samus Aran)がその殲滅を望まず、あくまで平和利用の可能性を追求し続ける辺りかもしれない。そもそも科学や技術の進歩が家事労働を担う主婦の苦労を軽減し、重機導入に伴うガテン系職場の負荷軽減が女子参入の障壁を大幅に下げた現実を思えば「それ以前の社会こそ正しかった」なる意見に頷こう筈がないとも。そもそもサムス・アラン自身の能力も、装着したパワードスーツに拠る所が大きいし…

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要するに何かを集団的に追求しようとする立場に立つ限り、科学の世界も技術の世界も「語り得ない事については沈黙せざるを得ない」前期ウィトゲンシュタインいうところの論理哲学(羅Logico-philosophicus、独Logisch-Philosophische Abhandlung)の立場に留まり続ける事は許されず、後期ウィトゲンシュタインいうところの「副産物として妖怪やUFOの様な怪異を次々と発生せしめる羽目に陥る言語ゲーム(Sprachspiel)への没入を余儀なくされるという事なのかもしれません。人工知能研究がシンギュラリティ(Technological Singularity=技術的特異点)問題を引き起こしてしまった様に…

要するに「全てが数値化(可視化)され、それへの依存度が強まっていく世界」にあっては「可視範囲外の諸要因」や「アルゴリズム上の誤謬」が社会全体に与える影響が「それ以前の世界」より致命的なものになり得るという話なのですが…

実は反近代主義者が回帰を主張する「それ以前の世界」って、こういう(実は太古の昔から存在した)現実に無頓着だっただけなんですね。まさしく「自動車がなければ、みんな昔みたいに(人夫が担ぐ)駕籠に乗ればいいだけじゃない」と平気で宣(のたま)う「インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層」の妄言…

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そういえばアーサー・C・クラークが「誰もが容易く下僕を見つけられた時代は良かった」と嘆く友人に対して「金持ちが容易く下僕を見つけられた時代には、我々の大半がその下僕だったのだ」と諭したというエピソードもありますね。