諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【財務省福田淳一事務次官辞任】「事象の地平線としての絶対他者としてのスケベオヤジ」を巡るセクハラ事件?

財務省福田淳事務次官の事件、4月19日0時の発表でなんとなく全体像が浮かび上がってきた気がします。

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財務省福田淳事務次官が女性記者へのセクハラ発言の報道で辞任を表明したことに関連してテレビ朝日が記者会見を開きました。この中で篠塚浩報道局長は「セクハラを受けたとされる記者の中に当社の社員が含まれ、調査の結果、セクハラ被害があったと判断した」と発表しました。

「取材情報を第三者に渡したことは不適切」

また「社員からセクハラの情報があったにもかかわらず、適切な対応ができなかったことは深く反省している。また社員が取材活動で得た情報を第三者に渡したことは報道機関として不適切な行為で遺憾に思っている」という認識を示しました。

「2次被害の心配から自社で報道せず」

篠塚報道局長は女性社員については「1年半ほど前から、取材目的で福田氏と数回、会食をした。そのたびにセクハラ発言があり、みずからの身を守るために録音を始めた」と述べました。

そして「今月4日に呼び出しを受け、1対1での飲食の機会があったが、その際にもセクハラ発言があり、途中から録音をした。後日、上司にセクハラの事実を報じるべきではないかと相談したが上司は『本人が特定され、2次被害が心配される』ことを理由に『報道は難しい』と伝えた」と述べ、自社での報道を見送った経緯を明らかにしました。

そのうえで「この社員は、財務事務次官という社会的に責任の重い立場にある人物の不適切な行為が表に出なければセクハラ被害が黙認されてしまう、という強い思いから週刊新潮に連絡し、取材を受けた」と述べました。

財務省に正式に抗議する」

また「福田次官はセクハラ行為を否定しているが、セクハラ行為は事実であると考えており、財務省に正式に抗議する予定だ」と明らかにしました。

セクハラ認めず次官辞任は残念 女性社員

さらに「社員は、セクハラの事実を認めないまま福田事務次官が辞意を表明したことをとても残念に思っている。財務省は調査を続けて事実を明らかにしてほしい、と話している」ことを明らかにしました。

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ちなみに発表内容の実況

この問題、これまでこのサイトが構築してきた「歴史は事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクルとして回ってきた」なる価値観に照会すると主要登場人物が以下に絞られる展開となりますね。

①ただひたすら間近の女性全てに卑猥な言動を繰り返すという点において行動に一貫性が見受けられる「事象の地平線としての絶対他者」としてのスケベオヤジ

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  • 「自由論(On Liberty、1859年)」において「文明が発展するためには個性と多様性そして天才が保障されなければならず、これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」と宣言したジョン・スチュアート・ミル古典的自由主義は、かかる存在を原則として肯定する。

    *「夜明けのバンパイア(Interview with the Vampire、1979年)」で一世を風靡したアン・ライスは、この問題について「吸血鬼に自ら近付く者はすべからず全員、究極的には吸血鬼を倒したいか、眷属の一員に加わりたいか、あるいはその犠牲者になりたがっていると第三者から指摘される覚悟を決めなければならない」と整理した。まぁ相手がレスタト・ド・リオンクール(演トム・クルーズ)の様な美貌の貴公子だった様な場合については、当人がいかなる判断を下しても古典的自由主義は立場上それを支持するしかないのである。


    *日本でこの観点は「シャンブロウ(Shambleau)問題」とか「CV櫻井孝宏問題」と呼ばれている。

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    *その一方で仕掛ける側も仕掛ける側で展開次第ではシャーロット・ブロンテの長編小説「ジェーン・エア(Jane Eyre、1847年)」におけるロチェスター伯爵の様にミディアムに焼かれたり、ブラム・ストーカーのゴシック小説「吸血鬼ドラキュラ(Dracula、 1897年)」におけるドラキュラ伯爵の様に退治され、死体を焼いた灰を流水に流される覚悟を決めなければならない(どちらも「田舎の在地有力者」に過ぎず(その絶対的影響力が及ばない)都会のヒロインとは割と対等の立場での対決を余儀なくされるのは決して偶然ではない)。古典的自由主義が提唱する「平等」とはそういう苛烈な性質のものなのである。

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    *この問題の究極解の一つはトニー・スコット監督の手になるスタイリッシュな恐怖映画「(The Hunger、1983年)」において、おイタが過ぎて「しまっちゃうオバサン」に棺桶へと収納されてしまう「吸血鬼の旧恋人(演デヴィッド・ボウイ)」かもしれない。冒頭に流れるバウハウスの主題歌「ベラ・ルゴシの死(Bela Lugosi's Dead、1979年)」が問い掛ける「不死者の死」問題…

    *もう一つの究極解が部下のリザ・ホークアイ(Riza Hawkeye)に「もし自分が道を踏み外したら殺せ」と命を託している荒川弘鋼の錬金術師(2001年〜2010年)」のロイ・マスタング(Roy Mustang)の関係とも。そもそもリザはリヒャルト・ワーグナーニーベルングの指環(Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」において「(権力者の手によって)力の源を奪われた先住民」ライン川の乙女の面影を継承している。それではここでいう「権力者」とは一体何者か。該当するのは「(不穏な方法で権力を勝ち取った)ニーベルング族の統治者」アルベリヒや「(さらに強大な権力で彼を打ち負かし、さらに不穏な方法でそれより高みにのし上がった)ヴァルハラ城主」ヴォーダンだが、英雄ジークフリートに敗北して気落ちして以降のヴォーダンは、次第にアルベリヒのルサンチマンに取り込まれていく。そしてロイ・マスタングもまた、同じ試練を潜る抜ける展開に。

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  • しかし実際にはこうした「事象の地平線としての絶対他者としてのスケベオヤジ」の多くが女性側が自らの自由意志を完全な形では発揮し得ない構造を備えた社会システムに付け込んで自らの身の安全を図りながら快楽だけ貪ろうとする。そして古典主義的自由主義はまさに上掲の原則論的立場からかかる構造的な「権威主義的エロティズム」を告発し、排除を試みる。

    *「自由人(Libertin=リベルタン)」の矩(のり)を超えて生涯の大半を監獄と精神病院で送羽目に陥り、皮肉にもかかる拘束ゆえに貴族主義的ロマン主義文学の大源流として大成したマルキ・ド・サドMarquis de Sade、1740年〜1814年)。彼のサディズム文学の背景にあったのもまたこの権威主義的エロティズムだったが、同時に「シャバの動向が気になって仕方がなく、可能な限り情報を集めてこれに迎合する姿勢を生涯貫いた筋金入りのマーケッター」でもあった彼はこれを行使する「悪人達」を最後の数行で必ず破滅させる事によって「二次元エンド」の始祖ともなったのであった。

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    二次元エンド

    *そもそも19世紀後半のフランスを揺るがせた「ポルノグラフィ(Pornographie=直訳「売春婦芸術」)問題」の根幹は「エロティズムは神話や聖書物語の世界に準拠する場合のみ許される」なる当時のアカデミズム界の欺瞞を暴く為に新鋭芸術家側が「売春婦とその顧客の非対称性」を持ち出して「政治利用」し「それはあくまで各個人が密かに楽しむものであって、決して公共圏で語って良い話題ではない」と考える守旧派の伝統的価値観を侮辱し激昂させた事にあったのである。ちなみに当時の新鋭芸術家側は同時に「芸術は有色人種を作中に登場させてはいけない」なるタブーも破った。

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    *欧州に「カーマ・スートラ妓生心得」の内容が伝わった時代でもある。欧州においてはやっと19世紀になってから始まった「ポルノグラフィ論争」は、古代インドにおいては既に古代ローマ帝国との交易で原始資本主義が驚異的発達を遂げた紀元前語には既に「毟れる奴からは尻の穴まで毟り取れ。それは決して善ではないが、必ずしも悪とはいえない」なる商業至上主義の一応の肯定という結論に到達していたのだった。かくして「女は聖母でなければ売春婦」なる欧州男性の二極化した伝統的思考様式の崩壊が始まるのである。
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    *ちなみに「ジョン・スチュワート・ミル古典的自由主義震源地たるイギリスにおいては保守党による女性と労働者の動員や取り込みが巧みで、選挙権拡大運動に際しては「リベラル」を奉じる自由党や「社会主義」を奉じる労働党が一貫してこれに反対し続けるという奇妙な展開となった。こうした展開においてイデオロギーやら人道主義やらによるポジショニングは全く役に立たなかったのである。

    *こうした話、日本においては例えば20世紀末から21世紀初頭にかけての権威主義的エロティズムの崩壊と、それに同期したエロゲー世代交代に対応する様である。転回点となったのはエルフ「おやぢシリーズ(1995年〜2001年)」において「見張りを誰が見張る?」問題が浮上したあたりとも。

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    *国際的にもSM文学の世界観が女性のフランス人覆面作家ポーリーヌ・レアージュ(Pauline Réage)の小説「O嬢の物語(Histoire d'O、1954年、映画化1975年)」や団鬼六の緊縛文学(1961年〜1989年)より出発し「アジアの神秘的性技への傾倒」なるトレンドを生み出したアジア系フランス人の女性作家エマニュエル・アルサンの手になる「エマニュエル夫人(Emmanuelle、原作1959年、映画化1974年)」、御伽噺の世界にSMや同性愛や下克上の概念を持ち込んだルイジアナ州在住のフランス系アメリカ人女性作家アン・ライス「眠り姫(Sleeping Beauty)シリーズ(1983年〜1985年)」を経て英国人女性作家E・L・ジェイムズ「Fifty Shades of Greyシリーズ(2011年〜)」などに至る過程で(近年の「健康な」BDSMプレイと重なる)権威主義的エロティズムからの脱却が計られた。その一方でより純粋化された形で「男性の暴力性と戦う女性」を描くスェーデン人推理作家スティーグ・ラーソン「ミレニアム(millennium)・シリーズ(2005年〜2007年、大1作「ドラゴン・タトゥーの女(The Girl with the Dragon Tattoo、2005年)」ハリウッド映画化2011年)」や英国人推理作家トム・ロブ・スミスチャイルド44(Child 44、原作2008年、映画化2015年)」やフランス人推理作家ピエール・ルメートル「その女アレックス(Alex、2011年)」といった所謂「残酷推理物」が登場。

    映画『チャイルド44 森に消えた子供たち』コラム

    *「残酷推理物」…まさしく外山恒一「良いテロリストのための教科書」が指摘した「"差別問題”というのはキリがありません。差別に反対し、実際に反差別運動に熱心に関わり、自らの無自覚な差別性をも克服する努力をどこまで続けても終わりがないんです」を地で行く展開。そして一時期あらゆる本屋に平積みされていたこのジャンルの書籍が2010年代後半には忽然と消え失せるのである。そこに時代の潮目があったとも。

    *一方、同時進行で英国人作家ダイアナ・コールス「アリーテ姫の冒険(The Clever Princess、原作1983年、アニメ映画「アリーテ姫(Princess Arete)」公開2001年)やカナダ人作家マーガレット・アトウッド「侍女の物語(The Handmaid's Tale、原作1985年、映画化1990年、Huluドラマ化2017年)」やオーストラリア映画マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road、2015年)」といった「闘争における勝利ではなく真の意味での多様性と多態性を目指す」第三世代フェミニズムの観点から「家父長制に縛られた守旧派男性のしんどさ」に相応の理解は示す作品も順調に登場。まぁ同情はしても邪魔になれば殺すかその影響範囲から逃げ出すだけで、それは「事象の地平線としての絶対他者に対する伝統的に正しいとされてきた最終的対処法」でもあったのである。最終的に2010年代後半に残ったのは堅実に実績を積み上げてきたこの系譜?


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    *こうした国際的展開から俯瞰すると「JKハルは異世界で娼婦になった(2017年)」は「守備兵皆殺しの場面」などで強引に駆け足で遅れを取り戻そうとした感も。

  • 21世紀に入ると国内外双方で「権威主義的エロティズム」を肯定的に考えない傾向が急速に広まった。すると最近の一連の不祥事はセクハラ問題自体というより、こうした歴史的トレンドに置き去りにされた「スケベオヤジ」が起こしているとも考えられるのかもしれない。

    *ここで案外重要なのが「(1970年代まで容認されてきた)バイオレンス&エロス容認派」も「(彼らへの反感から生まれた)バブル享楽派」も次世代以降には一緒くたに「時代遅れ」の烙印を押されてしまっているという認識。

②こうした存在から嫌な目に遭わされたくなければ、女性はそれから必要にして十分なだけ距離を置くか(少なくとも自分の視野内からは)駆逐し尽くすしかないのだが、彼女の上司はそれを許さず(録音装置を隠し持って)接触を続ける様に命じたという。
*「はいアウト」その1案件。そして既にこの方面の背景にも「当事者にそうした行動を強いる社会的システム」が存在する事が指摘され始めている。

  • 職場を舞台にした上司と部下との間で起きた事件」という点でセクハラ要件を満たす。詳細は「当事者保護」の為に明かされていない。庇護されているのはむしろ「セクハラを働いた側」なのである。

③その後、怖気付いた上司が発表を見合わせる。上掲の「上司」と同一人物かは不明。
*「はいアウト」その2案件。もちろんこの方面の背景にも「当事者にそうした行動を強いる社会的システム」が存在する事が指摘され始めている。

  • 上司が部下に対するセクハラ行為を揉み消そうとした事件」は他にも挙がっており、こちらもこちらでまとめて「職場を舞台にした上司と部下との間で起きた事件」としてセクハラ要件を満たす。そしてここでも庇護されているのはむしろ「セクハラを働いた側」となる。

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ここで重要なのは、大義名分との関連性とは無関係に、何らかの社会的システムを私的に悪用すればするほど罪が加重される「スケベオヤジの所業」と「そういう相手への接触を強要し続けた上司のセクハラ行為」と「そういう相手から受けた所業をあえてもみ消そうとした事によって発生した上司のセクハラ行為」 を区別して考えるという事。それでは、この前提を踏まえた上で以下の分析に目を通していきましょう。

 そもそもこの発表以前に別件で既にこんな議論がありました。

テレビ朝日は「女性社員は、上司にセクハラの事実を報じることを相談したが、上司は『難しい』と伝えた。適切に対応ができなかったことを、深く反省している」とした。

この発表を契機にマスコミもついに「一方的被害者」の側から「加害者」の立場へと転落してしまった? 

慌てて遂行される「アリバイ工作」

有望視されてるのが「末端の暴走」説…
*もし新潮にデータを売った女性記者が、ドラキュラ伯爵に対して「これはもう駆逐するしかない」なる決意を固めたヘルシング教授の様に「必ず財務省福田淳事務次官を退任に追い込む」と決意した戦士だったとしたら? それはもはや「セクハラ」ではなく「ハニトラ」と呼ばれるだけでは? ましてや朝日が発表を見合わせたデータを新潮に売った振る舞いは「正義」と定義可能なのか?

いずれにせよ突然表面化してきたのは、待っていたのは「盗聴」が日常化し、誰もが加害者だけでなく被害者となり得る状況…
*そういえばポール・バーホーベン監督映画「氷の微笑(Basic Instinct、1992年)」、マイケル・クライトン原作映画「ディスクロージャー(Disclosure、1994年)」、デヴィッド・フィンチャー監督映画「セブン(Seven, 劇中の表記は"Se7en"、1995年)」、トマス・ハリスの原作小説の2度目の映画化「レッド・ドラゴン(Red Dragon、2002年)」といった20世紀末から21世紀初頭にかけて国際的ヒットを飛ばした作品は揃って「加害者側の勝手な心理で選ばれたターゲットが理不尽な徹底攻撃を受ける」物語ではなかったか? そしてそれは「(郊外の住宅街や団地の様に地縁が希薄な地域で)隣人の正体が狂人や連続猟奇殺人犯である可能性への恐怖」を扱ったスティーヴン・キングモダン・ホラー小説やゾンビ・アポカリプス物から「実はこの世界の存在そのものがフェイクで、我々は全員「中央集権的な何か」から知らない間に徹底的に搾取されている」なるグノーシス主義的(反宇宙的二元論的)世界観を提唱して世界中を熱狂させたウォシャウスキー兄弟(今は姉妹)の「マトリックスThe Matrix)三部作(1999年〜2003年)」へと到達する展開に。ただしこの過程でこうしたプロセスは観客の期待を決定的な形で裏切ってしまって途切れる。こうした歴史的うねりの巻き添えを食った作品として原作大塚英志 / 作画田島昭宇の漫画「多重人格探偵サイコ(MPD PSYCHO、1997年〜2016年)」を挙げる向きも。

 


*「80年安保論者」の多くが1990年代には「オカルト革命への志向」が存在し、2000年代におけるネトウヨナショナリズムへの熱狂に推移したと考えたがるが、実際に進行したのはむしろ(ここで列記した様な)実存不安の高まりが思想の左右を問わず「他者への寛容」の精神を奪い取っていくプロセスではなかったか? そして当然の如く2000年代後半から次第に「揺り戻し」が訪れたが、この波に乗れなかった「守旧派」がさらに先鋭化していく展開に…

 困った立場に追い込まれたのは、それまでマスコミを擁護してきた論客達。
*既視感があると思ったら「北朝鮮が拉致を認めた2002年以降の日本国内有識者層の混乱」。ただ当時はまだインターネットのの発達が十分でなかった為に「過去の改竄」が遥かに容易だったのである。

なにしろ朝日新聞は「我が社が獲得し(そして握る潰そうとした)ネタを新潮に売った女性記者の行動は不適切で当人も認めている」と公式声明を発表し「(セクハラを働いた)上司を完全に守り抜く」体制を固めてしまった訳ですから。上掲の「女性記者の正義」なる思考様式と真っ向から対立していて、どちらか一方しか選べないのです。
*「女性記者の正義」…それ自体がさらに「セクハラ撲滅はそれ自体が正義であり、その為ならあらゆる手段の行使が許される」と「財務省福田淳事務次官、ひいては現在の日本政府を倒す為事自体が正義であり、その為ならあらゆる手段の行使が許される」という大義名分のコンフリクトを抱えているからややこしい。

パワーワード「ギリギリセーフ」誕生

 そして遂にネットでは「朝日新聞は日本で初めてこの問題で謝罪して歴史に名を残した。どんな悪事を働いてもこれまで一度も謝罪したことがない日本政府とは格が違う」とか「賄賂を支払って朝日新聞を沈黙させた日本政府のセクハラ許すまじ」なんて斜め上の方向に吹き上がる人まで登場。 
*正直「朝日新聞の記事なら盲目的に信じてきた人々」は、こうした常に朝日新聞を一方的被害者と想定する擁護論をこれからも次々と生み出し続けていくであろう。「吸血鬼は最終的に皆殺しにされるんだから、彼らに対しては何をしたって罪にならない」なる思考様式は常に、スペイン異端審問の様にそれが政敵一掃や財源確保の常套手段として恒常化する(遂には支配階層が強要しなくとも官民が私的利益の追求も兼ねて勝手に忖度してそれを推進する様になる)危険を抱えているから恐ろしいのだが、こういう展開はさらにその枠外で起こる。

さらに強烈な自打球。それまで「セクハラ被害者に名乗り出る事を求めるのは人権侵害」と連呼していた野党とマスコミが当該女性記者やその上司の実名をあっけなく漏洩してしまったのです。人権意識が欠如しているのはどっち?

財務省福田淳一次官のセクハラ疑惑を巡り、報道各社の女性記者に調査協力を要請している問題で、同省を取材する報道機関でつくる記者クラブ「財政研究会」は十八日、被害女性が名乗り出ることで本人の特定など二次被害につながる恐れがあり、協力要請は受け入れられないとして、抗議文を同省に提出した。

財政研究会には、東京新聞を含む二十四の新聞社、テレビ局、通信社が加盟している。

さらにリークと特定が進行。

こういう話もありますが、なにしろ当の「被害者側」がどんどん燃料投下…

「福田逆に偉い」説も登場。
*そういえば筒井康隆の短編に「エスパーの尋問に、ただひたすら下ネタを脳裏に思い浮かべ続ける事で対抗する」というのがあった。

ふと思い出したのが韓国で盧武鉉(2003年〜2008年)大統領が主導した「記者クラブ解体」。その背景にはハンギョレ新聞やOh My Newsといったネット・メディアと(「東亜日報」や「朝鮮日報」や「中央日報」といった)オールドメディアの水面下における抗争があった様で「(フリー記者による)女性記者の実名暴露と、その野党議員の容認」の背景にあったのもまた、同様の事情だったかもしれません。

*改めて外山恒一「良いテロリストのための教科書」における「“差別問題”というのはキリがありません。差別に反対し、実際に反差別運動に熱心に関わり、自らの無自覚な差別性をも克服する努力をどこまで続けても終わりがないんです」なる一説を思い出す。「吸血鬼は最終的に皆殺しにされるんだから、彼らに対しては何をしたって罪にならない」なる思考様式の行き着く果てもやはり、最終的には古代ギリシャ神話における「大地に撒かれたドラゴンの牙から生まれる兵士達」すなわち「敵を認識すると倒し切るまで際限なく湧き続けるが、敵を見失うと今度は最後の一人になるまで殺し合う」状況の顕現させるだけなのでは?

いずれにせよ急速に表面化してきた最大の問題点がこれ。

 

遂には「男女が二人きりになるのは取材じゃない」説まで登場。「そもそも女性の取材を禁止すればこういう問題は怒らない」という意見と「女性の取材を拒絶するなんてセクハラ。それはそれで法制定で不可能にしなければならない」という意見が並列的に登場。

 

 そして思わぬ人がMeToo

その一方で新しい動きも? 

実際起こってるのは「(女性記者によるある種の「枕営業」の温床となってきた)記者クラブ」と「(セクハラ禁止など近代的基準を前提とする)OPENな報道環境」のコンフリクトで、問題の最終的解決は記者クラブ廃止とか放送法廃止によってしか図れないのかもしれません。

この問題、もしかしたら欧米を騒がせた(そして日本のマスコミが完全シャットダウンした)ルパート・マードック帝国の盗聴スキャンダルみたいな飛んでもない方向に発展していくのかもしれません。

いずれにせよスーパーマンも新聞社を退社する時代って事なんでしょう。

ところで同僚のロイス・レイン女史はどうなったんですかね?

ロイス・レイン(Lois Lane) - Wikipedia

DCコミックスの出版するアメリカン・コミックス『スーパーマン』に登場する架空の人物。ジェリー・シーゲルジョー・シャスターによって創造され、1938年のアクション・コミックス誌第1号で初登場した。スーパーマンの妻であり、ジョナサン・サミュエル・ケントの母親。本名はロイス・ジョアンヌ・レイン・ケント(Lois Joanne Lane Kent)。

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そのキャラクターは、モデルのジョアン・カーター、女優のグレンダ・ファレルが演じた1930年代の映画「Torchy Blane(1937年〜1939年)」に登場する女性記者から影響を受けた。名前は女優のローラ・レインから。

Torchy Blane - Wikipedia

実在した女性ジャーナリスト、ネリー・ブライの影響も受けている。

ネリー・ブライ - Wikipedia

ネリー・ブライ(Nellie Bly、1864年〜1922年)は、女性を対象とした記事にとどまることなく、男女を問わず一般の市民に注目し、時には彼らの社会に潜入して、その生活や仕事を取材した。工場で働いて、児童労働、危険な職場環境、そして低賃金の実情を実地に観察して記事にしたこともある。彼女の記事の内容に広告主から苦情が出るようになると、上司が記事内容を制限しようとした。ブライはこれに従わず、1886年から87年にかけてメキシコに行き、現地の貧困や汚職についての記事を送った。しかし、この仕事は、メキシコ政府が彼女を国外追放にしたため続かなかった。ブライはピッツバーグに戻ったものの状況に満足できずに別天地を求め、上司に次のようなメモを残した。「ニューヨークへ発ちます。私の活動を期待していてください。ブライ」

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1887年、ブライは「ニューヨーク・ワールド」紙の記者となり、汚職や犯罪や虐待を暴露する調査報道(当時は「暴露記事」と呼ばれることが多かった)の先駆者となった。彼女は自ら女子精神病院に入り、退院してから、精神病患者に対するひどい待遇を暴く記事で「ブラックウェルズ・アイランドの精神病院は、人間をとらえるネズミ捕りだ。入るのはたやすいが、いったん入ったら出てこられない」と書いた。

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ブライの生き生きとした描写、勇気ある暴露記事、そしてそうした記事がもたらした数々の改革にもかかわらず、彼女の最も有名な業績は、ジュール・ベルヌの「80日間世界一周」を再現したことである。1889年11月14日、ブライは新聞社の支援の下に、ニューヨークから2万4899マイルの世界一周の旅に出発した。そして、72日6時間11分14秒という新記録で地球を一周し、ニューヨークに帰ってきた。この旅は広く報道され、新聞の読者は毎日彼女の進路を追い、ブライは国際的なセレブリティーとなった。
*世界一周旅行中に日本、中国、香港、ブリンディジコロンボ、サンフランシスコなど訪問。日本には5日間滞在し、横浜、東京、鎌倉などを観光した。日本の印象はすこぶるよかったようで、帰国後に出版した旅行記の中で、日本のことを「愛と美と詩と清潔の国(the land of love-beauty-poetry-cleanliness)」と評し、見聞きしたことや人々にいかに魅了されたかを綴っている。

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アメリカン・コミックスのシルバー・エイジと呼ばれる1950年代から1970年代にはロイス・レインを主人公としたスピンオフ作品『Superman's Girl Friend, Lois Lane』が出版された。1970年代から1980年代にはスーパーマンの関連キャラクターを主役にしたオムニバス作品『スーパーマン・ファミリー』のシリーズに登場した。2015年からはロイス・レインを主人公にしたヤングアダルト小説が刊行されている。

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長年にわたり様々な作家によってクラーク・ケントの同僚記者、スーパーマンの恋人や夫婦という関係性で描かれてきた。1960年代にマルチバースの概念が導入されると作品によって設定が異なり、「アース2」では1978年にスーパーマンクラーク・ケント)と結婚、「アース3」や『スーパーマン: レッド・サン』ではレックス・ルーサーと結婚している。以下はプロフィールの一例。

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  • 軍人である父サム・レインと母エラ・レインの間に生まれ、ルーシー・レインという名前の妹がいる。気の強い行動的な女性で、その行動力と運からデイリー・プラネット新聞社の記者の中でもスクープを手にする事が多い。
    *同時に「深入りし過ぎて犯罪組織に捕縛され、スーパーマンに助けられる常連」でもあったのである。「囚われの姫君像」から「自ら行動する女性像」への過度期にしばしば見られたキャラクター造形? そこには「女性は分別が足らず、行動が軽率なので最終的には男性の助けを必要とする」的な含みも…

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  • ある日、飛行機事故に巻き込まれたところを偶然居合わせたクラークに助けられ、その時の様子を記事にして空を飛ぶ謎の人物を「スーパーマン」と名付ける。クラークがメトロポリスに移住しスーパーマンとして活動を始めてからは、その活躍をペリー・ホワイトジミー・オルセンと共に追い続ける。
    *こうした展開はモーリス・ルブランの泥棒紳士アルセーヌ・ルパン・シリーズが先鞭をつけた感あり。コナン・ドイルシャーロック・ホームズ物にも類似例ならあるが「その活躍が毎回、新聞の三面記事として伝えられる」展開はルパン以降となり、日本初の特撮ヒーロー「月光仮面」に継承される。

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  • その一方で、デイリー・プラネット新聞社へ入社した「クラーク・ケント」と徐々に親しくなり付き合い始め、紆余曲折を経てクラークからのプロポーズを受け入れた。その後、クラークからスーパーマンと同一人物であることを明かされる。「デス・オブ・スーパーマン」でスーパーマンが死と復活を果たした後、ロイスとクラークは改めて交際を再開し「スーパーマン: ウェディング・アルバム」で結婚した。

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  • ジョナサン・サミュエル・ケントを出産後はカリフォルニア州へ移住し、匿名作家として生計を立てる。ジョンの成長後、ケント一家はニューヨーク州ハミルトンへ移住、デイリー・プラネット新聞社へ記者として復帰した。

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フライシャー・スタジオの「スーパーマン(Superman、1941年〜1943年)」を通じて戦後日本に紹介されている。

そういえば朝日新聞天声人語が「スーパーマンは何も分かってない。正しいのはあくまで我々」と罵倒する一幕もありました。むしろ今こそこの愚行を反省して欲しい…

とはいえ、ここへきてメディアの足並みが揃わなくなってきたのは「報道の健全化」という観点から良い傾向とも? これまで日本のマスコミが放ってきたある種の全体主義色が少し薄らいだ印象もあるんですね。