諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【進化の多様性と多態性】「仮想(virtual)」でなく「現実(Real)」を信じたがる日本人。

スティーブン・スピルバーグ監督映画「レディ・プレイヤー1(Ready Player One、2018年)」の結末を「説教臭い」と考える人が意外に多い様です。
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 実際のセリフはこういう内容でした。

「(臨終の間際になって)ようやく悟ったんだよ。現実世界がどれほど恐ろしくて、どれほどつらい場所であっても、真の幸福を見いだせるのは現実の世界だけだとね。現実の世界はリアルだからだ。私の言いたい事がわかるかい?(That was when I realized, as terrifying and painful as can be, it's also only place where you can find true happiness. Because reality is real. Do you understand?)」

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①この台詞は共同でGSSを設立した後で退社したパートナーのモローが後年、自伝の中で語った「GSSはもはやゲームソフト会社ではなくなり、おそるべき変化を遂げていた。OASISは牢獄となり、人類は自分達をそこに閉じ込めた。誰からも顧みられなくなった人類文明がじりじりと崩壊に向かっている間、世界は数々の問題からただ目をそらしてそこに隠れている」なる指摘に対応している。
*これ実は「産業革命導入による大量生産・大量消費文化の浸透が、消費の主体を王国貴族や聖職者といった伝統的インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層(不労所得階層)から実経済を担う産業階層にシフトさせた」西ヨーロッパ諸国の資本主義的成熟から完全に置き去りにされた「オーストリアハンガリー二重帝国(独Österreichisch-Ungarische Monarchie または Kaiserliche und königliche Monarchie、ハンガリー語Osztrák-Magyar Monarchia、1867年〜1918年))体制下の世紀末ウィーン文化」にも感じた事。当時独特の生き辛さについて帝政そのもののせいとせず「全ての原因は性欲の抑圧」とした精神科医フロイト、「夢の中だけ人は自由になれる」とした画家クリムト、何でも茶化す事でかろうじて精神的衛生状態を保っていた読書階層…

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②同時に「(痛み=realityなんて全部消しちゃえる仮想空間の現実realの危うささ」への警鐘ともなっている。別に「仮想Virtualを捨て現実Realに回帰せよ」と主張している訳ではない点に注意。

 誤解の発端は英語の「Virtual」を「仮想」と翻訳してしまった事にある様です。

https://ashinoyoshi.tumblr.com/post/99138970986/virtual

ashinoyoshi.tumblr.com

そもそも現在ネット上で国際的に最も言い広められてる世界認識論の一つはライプニッツの「窓のないモナドMonade、単子」から出発し、 1980年代に入るとドラッグを捨て「コンピューターによる脳の再プログラミング」構想に軸足を移したティモシー・リアリーの人間解放論を経て21世紀に入ると「窓のあるモナド」に到達しか感があったりします。

アムステルダムの出版社から「弁神論(1710年)」を匿名で発表したライプニッツの「モナド (Monade、単子)論」

モナド (Monade、単子)は「魂」に類比的に捉えられる存在にして複合体をつくる単純な(部分を持たない)実体とされる。自然における真のアトム(=不可分なるもの)であり、これを宇宙における真の存在者とする。

それは同時に表象(perception)と欲求(appetite)を備え、自発的に世界全体を自己の内部に映し出し世界全体を認識するとともに、その内部に多様性と変化を認め様とし、この内的差異によって互いに区別される。

ただし「モナドには窓がない」。従って他のモナドから影響を蒙る事はないが、神が創造時に設けた「予定調和」によって他のモナドと調和的な仕方で自己の表象を展開する、すなわち意志に応じて身体を動かす。

①人界の動き(ミクロコスモス)を天体の動き(マクロコスモス)と関連づけようとする試み。この世界観では「人間に善悪はなく定められた宿命があるのみ」という事になる。オーギュスト・ブランキの「陰鬱なる永劫回帰論」を思わせる。

②こうした考え方の延長線上にインターネット上の「Meme(遺伝子)論」は登場してきた。ただしそこにおける「単子(Monade)」はもはや「窓がない=予定調和に従ってのみ自己の表象を展開する」だけの存在などではない。互いの振る舞いを模倣し合ったり、あるいは反面教師にしたりしながらインターネット上の世論を動かしていく主体の最小構成単位とされている。

Q:「Turn on Tune in Drop out」とはどういう意味ですか?

Aティモシー・リアリー博士当人はこう説明しています。

  • "'Turn on' meant go within to activate your neural and genetic equipment. Become sensitive to the many and various levels of consciousness and the specific triggers that engage them. Drugs were one way to accomplish this end.
    「Turn on」というスローガンで主張したいのはRAVEせよ自分に嘘をついてでも盛り上げよ)」という話ではなく「(自らを包囲する外界に対するさならるJust Fitな適応を意識して自らの神経を研ぎ澄まし、生来の素質を磨け」という事である。あらゆる状況に自らを曝せ。そして自分の意識がどう動くか細部まで徹底して観察し抜け。何が自分をそうさせるのか掌握せよ。ドラッグの試用はその手段の一つに過ぎない。
    *「ドラッグの試用はその手段の一つに過ぎない」…実際、当人も後に「コンピューターによる自らの脳の再プログラミング」の方が有効という結論に至っている。その意味では「汚れた街やサイバースペース(cyber space)への没入(Jack In)」も「デスゲーム(Death Game)に巻き込まれる事」も「異世界に転生する事」も手段としては完全に等価。

  • 'Tune in' meant interact harmoniously with the world around you - externalize, materialize, express your new internal perspectives. Drop out suggested an elective, selective, graceful process of detachment from involuntary or unconscious commitments.
    「Tune in」というスローガンで主張したいのは「内面世界Inner Spaceの完成を目指せ」という話ではなく「新たに掴んだ自らの内面性を表現せよ」という事である。自己感情を外在化し、具体化し、それでもなお自らを包囲し拘束する現実と「調和」せよ。
    *「Tune in」は「Turn in」とほぼ同義。ここで興味深いのはどちらにも「警察に届ける(問題解決を公権力あるいは専門家に委ね、後はその指示に従順に従う事)」というニュアンスが存在するという点。そして直感的には「in」の対語は「out」となるが「Turn out」とは「自らを包囲し拘束する現実」を「全面否定して引っ繰り返す」あるいは「諦念を伴って全面受容する」事。「Tune out」とは「黙殺を決め込む」事。だがあえてティモシー・リアリー博士はこうした選択オプションを嫌い「自らを包囲し拘束する現実」を突き抜けた向こうに「外側(Outside)」は存在しない(あるいはどれだけ無謀な進撃を続けても「現実」はどこまでも付いてくる)とする。無論(自らも専門家の一人でありながら)「問題解決を公権力あるいは専門家に委ね、後はその指示に従順に従う」という選択オプションも許容しない。マルコムX流に言うなら「「誰も人に自由、平等、正義を分け与える事は出来ない。それは自ら掴み取る形でしか得られないものなのだ(Nobody can give you freedom. Nobody can give you equality or justice or anything. If you're a man, you take it. )」、日本流に言うなら「誰にも人は救えない。それぞれが勝手に助かるだけだ」といった感じ?
  • 'Drop Out' meant self-reliance, a discovery of one's singularity, a commitment to mobility, choice, and change. 
    Drop Out」というスローガンで主張したいのは「(本当の自分自身であり続けるために現実社会から離脱せよ」という話ではなく「自立せよ」という事である。再発見された自らの個性に従った動性、選択、変化に専心せよ。
    *「Drop Out」は「Get off」とほぼ同義。ここで言いたいのはおそらく「解脱せよ」という事で、まさに「縁(自らを包囲し拘束する現実)からの解放」を主題とした原始仏教における「解脱」の原義はティモシー・リアリー博士の説明とぴったり重なる。ちなみに「Drop in」は「突然ぶらりと立ち寄る事」で、「オトラント城奇譚」作者として知られるホレス・ウォルポールが1754年に生み出した造語「セレンディピティserendipity、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること)との関連が認められる。「Get on」は「大き力に便乗する事(そしてそれによって成功を収める事)」。

Unhappily my explanations of this sequence of personal development were often misinterpreted to mean 'Get stoned and abandon all constructive activity.'"

残念ながら、こうした私の自己発達に関する言及は「ドラッグでラリって建設的なすべての行動から遠ざかる」というように誤解されている。 

そもそも、カンブリア時代になってやっと「」を獲得した生物は、そのまま「現実そのもの」を認識している訳ではないのです。

1998年に進化生物学者で古生物学者のアンドリュー・パーカーはカンブリア爆発の原因として、有眼生物の誕生による淘汰圧の高まりをあげた「光スイッチ説」を提唱した。

これは生物の歴史上、はじめて眼を持った生物(三葉虫)が生まれ、積極的に他者を捕食することによって眼をもっていない生物に対して有利となった。眼と、硬組織を獲得した生物がその捕食に対抗できるようになったという説である。そのために化石記録は短期間で爆発的に多様化したように見える。

つまりパーカーはカンブリア爆発を「多くの門が同時期に一斉に硬組織を獲得した(したがって急に多くの化石が残る様になった)現象」と推定している。

箱男』は、ダンボールの大きな箱を頭からかぶって、箱の中に生活用品いっさいを吊るして、家もなく街をさまよう男の物語でしたが、今思うと、この「箱の中の世界」は、奇妙にモナドの様態と似ている気がします。「箱」が「内部」と「外部」を完全遮断していて、男の自我は、「箱の中の世界」そのもの……もっとも、この箱には、外界を覗くための「窓」が開けられていた。ここは、「窓を持たない」モナドと違う?

しかし、私は、この「窓」も含んで、なぜかモナドとの類似を感じてしまいます。箱の窓に映る「外界」は、本当に「外の世界」といえるのだろうか……

われわれの「目」も、そうだと思います。目は、皮膚の一部が長年の「進化」で変化してできたものだと言われていますが、水晶体というレンズで光を取り入れる段階で、すでに「外界の光景」そのものではなくなっている。しかもその上、眼球に入った光は網膜で電気信号に変換されて脳に送られる。ああ……もうこの時点で、実は、「外界の光」とはまったく縁が切れた、単なる「情報」になってしまっている。

そういう意味では、われわれの肉体そのものも、一種のモナド的な機構で働いているのかもしれません。肉体の外側を覆う皮膚層でいろんな情報処理を行い、その結果が神経により脳に伝達される。脳は、自分は直接外界に触れていると思っているかもしれないけれど、実はそれは、「処理された外界の投影」にすぎない……

 

 

むしろ日本人が一般的に信じている「現実そのもの」 の認識が危ない?