諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【中二病でも恋がしたい!】まさに言語ゲーム(Sprachspiel)概念そのもの?

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改めて振り返ってみると「中二病」とは、概ね最初は特定の「集-立Ge-stellシステム特定目的実現の為に持てるリソース全てを総動員しようとする姿勢)」に依存する形で発生しつつ、言い広められる過程でその拘束下から脱した「言語ゲームSprachspielそのもの」の一つなのかもしれません。

例えば「中二病でも恋がしたい!2011年〜)」の世界観。文化親類学的に全体像を俯瞰してみると、凸守早苗を全面屈服させた「もりさま/モリサマー」こと厨二病全盛期の丹生谷森夏の「マナ呪力源)」は「マビノギオン聖典編纂」だった事になります。とはいえ凸守早苗の敬意の対象はあくまで「(ネットで流布しているマビノギオン聖典そのもの」および、その文面から再構成される「もりさま/モリサマー」の聖性のみなので(むしろ期待を裏切る)現実の丹生谷森夏には原則として反感しか感じません。
*そしてこの状況からの脱却こそが凸守早苗にとっての中二病状態からの脱却という事になる。アニメオリジナルキャラだからこそ可能だった完全なる症例の全貌提示とも?
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「中二病でも恋がしたい!」もりさま・モリサマー - Wikipedia

丹生谷森夏が中学時代に中二病だった頃に自称していた二つ名。小説では「もりさま」、アニメでは「モリサマー」となっている。

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小説では素敵な発言を連発していたらしく、巫部曰く、「こんなくだらない世界なんか壊してあげるから!」と言っていたそうだ。丹生谷本人は「邪気眼では無かった」と言っているが、勇太は彼女の言動から、少しはそういう時代があったのではと思っているが、丹生谷が封印しようとしているので本当のことは分からない。
*まぁ出発点は概ねカール・マルクスが「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の中で述べた「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」なる人間解放論や、オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)の「革命家に勝利などない。体制転覆に成功した途端、新たなる反体制への弾圧が始まる(それでも私が抗い続けるのは、持って生まれた本質的宿業がそういう内容だからだ)」なる永劫回帰論あたり。それ以前の貴族的悲観主義に彩られた個人主義ロマン主義はむしろ「筋金入りの本物の悪党の考え方」に分類される様になっていく。

アニメ版ではレースをかぶりティアラを着けた容姿。ネットを中心に活動し、数百年の時を生きて愛の重要性を説くという設定。呪文を唱えて妄想世界に移行し、ポンポンに由来する魔道砲シルフィードを身体の左右に装備する。能力発動時には宇宙空間からも確認できる膨大なエネルギーを発する。精霊の力を得て対象を呪うことも出来るが、100回唱えないと発動できない。 

ソ連時代の民話収集家ウラジミール・プロップの分析によれば(特定の生産手段や道具といった「集-立(Ge-stell)システム」が決定的役割を果たさない)狩猟採集段階の部族間に伝わる説話ほど「魅力Charm)」といった特定個人の人格的影響力のみが「操作者-操作対象-世界そのもの」の三位一体的世界観における「操作者」として信頼される傾向が強まる。
シャーマニズムアニミズムの世界観では「(同じ操作に対しては必ず同じ反応を返す)操作対象」が想定不可能なので「世界そのもの」から「操作者」が「直接」力を借りる構造としてしかイメージが発展し得ないとも。

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*狩猟採集段階…ここでいう「生産手段」は狩猟・漁業・採集なども含む。既に原始的な農耕や牧畜に手を染めているケースもあるが、肝心なのはどの生産手段も「それだけでは食べていけない=「集-立(Ge-stell)システム」として選好して精神依存する決め手に欠く」状態にある事。ただしもちろん「本当に道具を一切使用せず、特定の生産手段への精神依存も有さない究極の原始部族」など理論上しか存在しない。ゆえに後期ヴィントゲンシュタインいうところの「言語ゲーム(Sprachspiel)そのもの」も、後期ハイデガーいうところの「真理(alítheia)そのもの」も人間界に純粋な形では存在し得ない事になる。

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*特定個人の人格的影響力のみが「操作者-操作対象-世界そのもの」の三位一体的世界観における「操作者」として信頼される傾向が強まる…貨幣史でいうと「試金石」登場以前の世界観とも。要するに客観的評価が存在しない以上「(刻印された)発行者の影響力」がその価値に直結する。この思考様式が最後まで現存するのが芸術の世界だから、ハイデガーの技術論が(最終的には生産者が誰でも生産物の価値が増減しない段階に到達する)集-立(Ge-stell)システムと芸術を対比させたのは必ずしも間違いではない。

②そして「特定の集-立Ge-stellシステムの勝利」すなわち(田畑だけ耕していれば食べていける)農耕民や(家畜さえちゃんと育てられたら食べていける遊牧民や(強力な弓矢や銃を手に入れた)狩猟民や(道具が充実して効率的な漁を行う様になった)漁民などの登場は概ね「説話における特定個人の魅力(Charm)などに依存しない決定的道具の登場」に対応する。

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*要するに説話の「主役」が「獲物を自在に呼び寄せる呪術師的猟師」から「大量の獲物を保証してくれる魔法の弓矢」などに推移し「三種の神器」の様な(特定の職務継承に不可欠な)レガリア(羅regalia、英regalia)の概念も登場してくる。「古事記(712年上梓)」や「日本書紀(720年完成)」や「風土記(713年編纂令発布)」はおろか(明治維新以降に活発化した)アイヌ説話収集事業でも完全な形では辿れなかったこうした説話形成過程をウラジミール・プロップが明らかにし得たのは(上掲の意味合いにおける狩猟採集段階にとどまる部族が数多く存在した、特に19世紀後半から20世紀前半にかけての)シベリアにおけるツングース文化圏(共通語が存在せず文化混錯も最小限にとどまる)の存在が大きかったとされる。そしてまさしくその発見こそが「ドラゴンや魔法使いに(伝説の武器を振り回す)戦士が挑む」ヒロイック・ファンタジーの世界成立の重要な契機となったのだった。

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*この時点で「操作者」は「操作対象の能力をちゃんと引き出せる人物」へと推移するが「操作対象」の所有権が流動的になったので「操作者は正しく操作対象を操作しているか?」が問われる様になる。とはいえ、まぁ多くの説話が概ね在地有力者の支配を正当化する起源譚として伝承される関係から「(我々の先祖たる)正しい操作者は、操作対象を正しく操作してない操作者からこれを奪わざるを得なかった」なる物語文法に従わざるを得なかった。同時に「(どうせ誰も正しい用途に使わないなら)操作対象そのものを破壊してしまえ」なる不遜な思考様式も割り込んでくる。

*ここで興味深いのがジェームズ・フレイザー金枝篇(The Golden Bough、1890年〜1936年)」から出発したロバート・E・ハワードの「英雄コナン・シリーズ(1932年〜1936年)」が「(ルソー辺りが提唱者とされる)聖なる野蛮人」の概念にのみ立脚して特定の伝説的武具に頼らない姿勢を貫いた辺り。

要するに「火薬・紙・羅針盤」なる世界三大発明が世界を席巻し「火器を豊富に備え、羅針盤によって適切なタイミングで適切な場所に戦力を集中する常備軍を、文書行政に立脚する中央集権的官僚体制が徴税で賄う近世/近代国家」同士の闘争が全てとなる時代以前の世界観へのノスタルジアはそういう形で出発したという次第なのである

*しかしながらTRPGやコンピューター・ゲームの様な「プレイアブルな環境」への若者の熱狂はこうした「近代主義者の逃げ道」としての構造を次第に侵食していく。それが1990年代までに起こった事。

③そして、かかるゲーム上の概念の普及がむしろその範疇に収まらない「マナ呪力の源泉)」となる「畏怖の対象」の明示化を促する流れを加速させる。「中二病」概念の発祥もこれに由来しており、すなわち「マビノギオン聖典の編纂過程」は元来はこんなおどろおどろしいイメージを伴っていたと推測される。米国人女性推理作家パトリシア・コーンウェルの「検屍官(Post Mortem、1990年)」を第1作とするシリーズで活写された「サイコパスマクロコスモスと自分ミクロコスモスの重ね合わせたがる心理」。それはむしろ中二病というより、欧米におけるゴス(Goth)なる表現が似つかわしいといえる。
*「セブン(Se7en、1995年)」

*「ブレア・ウィッチ・プロジェクト(The Blair Witch Project、1999年)」

④しかしながら「あらゆるコンテンツがコピー可能で発表者の思惑とは切り離されて流布する」インターネットの世界においては「マビノギオン聖典の様な畏怖の対象としての呪物」がその本質性を保ち切れない。それどころか「マビノギオンを著者より深読みして敬意を集める偽物」まで登場。米国宗教右派の依る「キリスト教原理主義」もこの類で、その立場ゆえに「聖書は最初から英語で執筆された」と痛過ぎる主張まで展開したりもするのである。

*「中二病でも恋がしたい!(2011年〜)」が切り取ったのはまさにこの状況といえる。その観点からすれば、実は後世においては貴重な歴史証言となり得るかもしれない。

「イマジネーションで少ないネタを埋めていくというのが、多分中二病の原点みたいなところがありますよね」と小田嶋の言う通り、中二病にも想像力が重要で、それは古代ギリシャの時代からあると藤村さんは言います。事実、古代ギリシャでも思春期の人間が不可思議な行動をとっていたことが残っているそうで「“ヒュブリス”という、一言で言うと傲慢とか、自分の身の丈に合わないことをするという意味の言葉があります。思春期の青年が神や怪物に挑んだり、自分の身の丈に合わないことをすると“ヒュブリス”と言って神の罰が下ることがあるんです」と藤村さん。

この日は、中二病についてさまざま議論を交わしましたが、最後は中二病の未来について。若者たちは離れ、言葉自体が死語になるのか……藤村さんはその可能性はあると言います。しかし「似たような症状や精神状態は古代ギリシャのときからあるので、きっとこれからも続くのではないかと思います」とも話していました。
*そもそも例えばカバラー(ユダヤ神秘主義)なるもの、マグリブ(アフリカ北岸のチュニジア以西)からアンダルス(イベリア半島南部)にかけてを支配したムラービト朝(1040年〜1147年)やムワッヒド朝(1130年〜1269年)の改宗圧力を嫌って南仏沿岸のプロヴァンス地方に逃げ込んだ先進的なセファルデイム系(スペイン系)ユダヤ人と後進的なアシュケナジム系(ドイツ系)ユダヤ人が邂逅した結果生まれた産物。タルムード(イスラム圏で編纂された口伝集)ばかりか古代ギリシャ哲学の果実を取り込んだアラビア哲学まで駆使する前者に対抗すべく、後者は(自分達の拠る唯一の聖典たる)トーラー(モーゼ五書)の「精読(という名の神秘主義構築)」は走り、その発想の新しさがさらにセファルデイム系ユダヤ人の好奇心を刺激して「ゾーハル(光の書、13世紀)」の様な体系に編纂されたりしたのだった。
カバラーとスーフィズム ー現代におけるユダヤ教とイスラームの秘儀的信仰と実践 | 同志社大学 一神教学際研究センター CISMOR
カバラーと真言密教の秘密

とはいえ、まぁ1990年代から2000年代にかけて「(後期ヴィントゲンシュタインいうところの言語ゲームSprachspiel様々な意味合いにおいてコンピューター上で駆動する」 という認識が広まったのも中二病文化にとってはマイナス要因だったかもしれません。要するにこのまま衰退して消滅して終わる訳でもなさそうだ?