諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【進化の多様性と多態性】インターネットの進化は人類を道連れにする?

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最近、思わぬ過去投稿がアクセス・ランキング上で急浮上。

241夜『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ|松岡正剛の千夜千冊

インターネット時代に対応した表現に直すとこんな感じ?

Webブラウザに表示されるのはあくまで1ページずつである。そこに『薔薇の名前』の内容(コンテンツ)を表示しても最初は大半の部分が視野外となる。

ついで、ユーザーが『薔薇の名前』のテキストを辿っていくと、そのホットワードや書名の箇所にさしかかるたびに、そこから別のホットワードや書名の中身のどこかにリンクできるようになる。これもあらかじめテキストの各所にリンキング・アンカーを埋めておいたものなので、どのキーワード(あるいはそのキーワードを含む出来事)がどのキーワード(あるいは出来事)につながるかは、ユーザーは前もっては知らされない。

けれども、そのリンクを何度か辿っていくうちには、ユーザーは「エーコという編集エンジン」が用意したいくつかの設計思想にふれることになり、それと同時に『薔薇の名前』のテキストの目眩く汎立体性に気がついていく。そして、テキストのあちらこちらに埋められたキーワードあるいはコンテキストを何度もクリックしながら、その複雑多様な編集性を追体験することになる。

WEBブラウザに表示されたコンテンツを“読む”ということは、そういうことなのである。そして、エーコはそれをコンピュータを使わずして書物文章として実現したかったのだった。そこをぼくは試みにインターノーテーションとよんでみたわけである。

41夜『アジア音楽史』柘植元一・植村幸生編|松岡正剛の千夜千冊

東洋音楽の議論がながいあいだにわたって盛り上がらなかったのは、かつて兼常清佐が「日本音楽史は成立しない」と言ったことに端的に示されているように、楽譜がないことを問題にしすぎてきたからだった。

しかし、それは西洋的な楽譜がないだけのことで、読む気になればいくらも東洋的な楽譜はあったのである。いや、それは西洋的な意味での“楽譜”というものではなくて、むしろ人間の本来の記譜能力にもとづいたインター・ノーテーションだった。音楽家や音楽研究者たちは、それを読むのが面倒なだけだったのである。ぼくなどは、そのようなインター・ノーテーションのほうが五線譜などよりずっとおもしろい。

さらに別のことで言うのなら、アジアの中ではいまでもどこでも実際のアジア音楽が生きているのである。それをナマで体験すれば、楽譜など必要もなかったし、仮に楽譜にしたければ、それは研究者や音楽家がやってみればよかったはずだった。

ここでいう「インター・ノーテーションinternotation)」 とは、古代まで遡る学問の原始形態の一つ「注釈連鎖」の事でしょうか?

 マソラ (מסורה) - Wikipedia

原義は「伝統の伝達」を意味するヘブライ語ユダヤ社会に伝統的に伝えられてきたヘブライ語聖書本文(Masoretic Text)、およびを紀元5世紀頃から9世紀頃までの間これを正しく伝える役割を果たしたマソラ学者、さらにはその実践の為に聖書本文の周囲に母音やアクセント記号や句読点や注釈がつけられた写本、およびそうした注釈そのものを指す。
*神殿宗教段階から脱却した「啓典の民」にとって聖典の内容保全は自らのアイデンティティ維持の中核であった。その信念はキリスト教(特に「聖書のみ」を標榜するプロテスタント)やイスラム教(特にクルアーンのText critiqueやヒジャースの編纂に邁進してきたハンバル学派)にも継承されていく。

こうした注釈の中には釈義的な記述も存在するが、大部分は聖書本文を写し取る時に間違いが起こった場合にそのことが明らかになるようにするためのさまざまな注意書きである。ユダヤ教の伝統では、聖書を写し取るときはそのマソラも共に写し取るべきであるとされており、「マソラの無い写本は不完全な写本である。」と考えられている。

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ユダヤ教では、古くなり使えなくなった写本は必ずゲニザ(Genizah)に収容され、その後手続きを踏んで廃棄される(焼かれる)ため、古い時代の写本は存在しない。しかしながらその写本は「決して記憶に頼って書いてはならず、必ず元となる写本を見てから書かなければいけない。」といったことを初めとするユダヤ教で定められた非常に多くの厳格なルールに則って作成されているために、古い時代の本文をよく保存していると考えられている。そのことは死海文書等に残されている古い時期の写本と内容を照合してもほとんど内容が変わっていないことからも確認できる。そのため、現在伝わっているヘブライ語聖書のテキストの中では最も原型をよく伝えていると考えられている。そのため現在ヘブライ語聖書の学術的な校訂本を作成するときは基本的にこのマソラ本文をもとにしている。

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マソラはそれが書かれる場所によって次のようにいくつかの部分に分かれている。それぞれの場所ごとに概ね何が書かれるかも決まっている。

  • 巻頭マソラ」…一つの書物の冒頭に書かれるもの。巻末マソラと合わせ、小マソラや大マソラで書かれた注意書きが再度まとめた形で書かれる他、ある書物が全体で何文字あるのか、あるいは全体でいくつの単語があるのか。ある単語は全部でいくつあるか。ある書物のちょうど真ん中の文字はどれになるのかといったことが書かれている。
  • 縁のマソラ」…大マソラと小マソラの総称
  • 大マソラ」…欄の上と下に書かれるもの。小マソラに記載された特異な表現がその書物の中で、または聖書全体の中で何カ所有り、他にはどこに現れるかといったことを書く形で小マソラに記載された注記がより詳しく説明される。
  • 小マソラ」…欄と欄の間に書かれるもの。大きすぎる文字、小さすぎる文字、つり上がった文字、ちぎれた文字、逆転した文字、閉じたメム、開いたメム(※メムは/m/の音価ヘブライ文字)、点、空白(ビスカー)、分離符、ケリー・ケティーブ、写本家(ソーフェリーム)の訂正、写本家の省略といったマソラ本文に存在するさまざまな特異な現象が注記される。また写し取るに当たって間違いやすい、特異な単語・特異な表現についての注釈なども存在する。
  • 巻末マソラ」…一つの巻物の末尾に書かれるもの。内容は巻頭巻末マソラと重なる。

これらのマソラとマソラを付されている本文そのものを照合することによって、聖書本文が誤り無く写し取られているのかどうかを確認することが出来るようになっている。

その一方で、こういう流れもあります。

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  • 仏教はインド発祥だが、そのインドから直接伝わった聖典中央アジアや中国で膨大な量の注釈が書き加えられる形で次々と新たな観点が付与されてきた。

    大乗起信論(1世紀〜2世紀) - Wikipedia

    インド撰述の他の論書に引用されることがなく、チベット語訳も存在しないため、中国で撰述されたという説もある。

    550年頃(554年説もあり)に真諦によって翻訳された漢訳1巻と、実叉難陀による漢訳2巻がある。実叉難陀訳は、独立した訳ではなく真諦訳本を整理した、一種の改訳と考えられる。そのため、本書の内容を扱う場合、専ら真諦訳が用いられる。

    本書では、「大乗」(摩訶衍)について「衆生の心がそのまま大乗である」と述べ、「一般平凡な衆生の心に仏性がある」という「如来蔵」思想を説き、「大乗起信」とは、これへの信仰を起こさせるという意味である。本書は大乗仏教に属する論書であるが、本書で言う「大乗」という語は、一般に大乗仏教という場合の「大乗」とは必ずしも内容が同じではない。いわゆる般若経などに説かれる自性清浄心と、いわばその発展思想である「如来蔵説」を述べ、これを「本覚」と呼んでいる。阿賴耶識に言及し、唯識説を展開するが、中国や日本の法相宗が主張する唯識説とはやや異なる。

    注釈書が数多くあり、中でも中国僧慧遠(浄影寺)による『大乗起信論疏』2巻(浄影疏)と、新羅僧元暁による『大乗起信論疏』2巻(海東疏)と、日本僧法蔵による『大乗起信論義記』3巻は、特に起信の三疏と言われている。

    その他には、『大乗起信論義記』を修正した宗密による『大乗起信論疏』4巻(注疏)や、智旭による『大乗起信論裂網疏』6巻、子エイによる『起信論疏筆削記』などがある。

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  • 古代ギリシャ哲学も、欧州に伝わる過程で(東ローマ帝国から追われシリアに逃げ込んだキリスト教徒やセファルダム系ユダヤ人やアラビア哲学者の注釈付加によって各時代の要請に合致した解釈上の変貌を遂げてきた。

本文はそのままに「注釈」で各時代や地域への適応を果たしていく路線…まさしく後期ウィントゲンシュタインいうところの言語ゲーム(Sprachspiel)の世界?

すっかり参ったヴィトゲンシュタインは、草原でサッカーに興じる子どもを眺めていた。「オレは、言語というものを、きっちりと決められたルールに従って運用されるシステムだと思っていた。たとえば、目の前でサッカーをやってる子ども達のように。けれども、その根幹が、本当はこんなにあやふやなものだったなんて!」このとき、ヴィトゲンシュタインは、「言語の意味や定義さえ完璧なら、あらゆる哲学上の問題なんて一瞬で解けるんだよ!(ドヤァ」とやってた過去の自分(前期ヴィトゲンシュタイン)の思想が、完全に崩れ去ったことに落胆していただろう。

ぼーっと子どもらを眺めるヴィトゲンシュタイン

そのうち、妙なことに気づいた。なんか、一人の子がボールをもって走り出した。「おい、サッカーじゃなかったのか? ラグビーか何かか?」。ところが、今度はボールをぶつけ合いはじめた。「おい、君ら何をやってるんだ?」そのうち、一人の子が高くボールを投げたのをきっかけに、なんだか高く投げ上げる競争のようなことをはじめた。「おい、一体何を……」「一体どんなルールでやってるんだ…どんなルー……」その瞬間、天啓が走った。ルールがあるように見えていたのは、幻想だった。ルールなんてなく、彼らはただ遊んで(ゲームをして)いただけだった。つまり、ルールなどなくても、ゲームをする上で支障がなければ、ゲームは続くのだ。人は言語を使って「ルールに基づき意味を伝える」という作業をしていると思っていたけれども、本当は、ただ「言語を使って遊んでいた(ゲームをしていた)」だけだった。ルールは「やりながら、その都度でっち上げて」いるんだ。それで物事は、進むのだ。

これがつまり、後期ヴィトゲンシュタインと呼ばれる思想の根幹となった「言語ゲーム」という思想だ。

こうした志向性の全く異なる2つのベクトルの対峙は、コンピューター工学の分野における「(ノイズを少しでも減らそうとする情報エントロピー」や「(コンテンツとして流れる内容を活発化させる為にその多様性や多態性流動性を促進しようとする情報コミュニケーション論」にそのまま継承された感があります。

①共産圏が資本主義圏とのコンピューター開発競争に決定的に遅れを取り始めた1960年代。まさにその時代に現在のOS概念や基本部分(カーネル)の技術の大半が完成。マルチタスク実現に不可欠な「論理ポート」設定が行われたのもこの頃。
*人間は本当に忘れっぽい。仮想化(Virtualization)というと多くの人間が「(IBMが開発した)同一論理アドレスによってメモリとHDDを連続的に扱える様にしたメインフレームの記憶システム」を連想するが、当時の真の画期は(同様に同一論理アドレスによって様々なデバイスとのコミュニケーションが連続的に扱える様になった)論理ポートの発明にこそあったのではなかろうか?

②1971年にBBNのレイ・トムリンソンが世界初のネットワーク経由の電子メールを送信 (RFC 524、 RFC 561)。そして1973年にはもう既にARPANETトラフィックの75%を電子メールが占めていた。同年にはFile Transfer Protocol(FTP)の仕様「RFC 354」が定義され、実装もされてARPANET上でファイル転送が可能となる。
*米国において1985年に開催されたTCP/IPワークショップに250の業者代表が参加した事がTCP/IPの普及と商用利用増加に繋がっていく。ただし需要の爆発的急増は1990年代後半に入ってからで、日本においてもこの時期以降、ドメイン登録数や電気通信事業者数が急増した。かくして「IPアドレス+ポート番号」を介したネットワーク・コミュニケーションの普及が始まる。

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*まず「専門知識の再配分装置」として選択されたのはメーリングリスト(ML=Mailing List)システムだった。そして次第にその役割を電子掲示板が継承していく。
メーリングリスト(ML=Mailing List)の歴史

日本のメーリングリストの歴史は比較的古く、1980年代後半には存在していたといわれています。

メーリングリストは電子メールの発展と密接な関係があります。1980年代当時、電子メールを扱える人はごく一部で、スーパーコンピュータの利用者といった専門技術者が事務的な連絡として用いるのが主な活用で、その際にメールアドレス(当時は利用者ID)をリストにして同時連絡をするためにとられた手段がメーリングリストの原点といわれています。商用パソコン通信も1980年中ごろから始まったものの、まだ漢字を扱える環境が少なく、カタカナを使っていたのがあたりまえの状況でした。

1990年代に入り、大学や研究機関でインターネットが普及するようになると電子メールの利用も活発化し、メーリングリストも有志で立ち上がるようになってきました。自作ソフトで使用してのメーリングリスト開設が多く、まだまだ専門知識がなければできないような敷居の高いものでした。テーマも学術的な専門分野や趣味を扱うものが主流でした。

1994年ごろから、個人向けインターネット接続プロバイダが設立され、個人でも簡単にインターネットを利用できるようになり、一部でメーリングリストの開設サービス提供も行われるようになりました。その後まもなく、インターネットブームが巻き起こり、メーリングリストの数も急激に増え、当時少なかったフリートーク系のものが続々登場するようになってきました。メーリングリストは、手軽なコミュニケーションツールとして有用であることが認知され、メーリングリスト専門の開設プロバイダも誕生し始めたのもこの頃からでした。

メーリングリスト(ML=Mailing List) - Wikipedia

複数の人に同時に電子メールを配信(同報)する仕組み。用途としては、特定の話題に関心を持つグループなどで情報交換をする場合に利用されることが多い。元は郵便を利用したものであったが、今日においては専ら電子メールを用いたものを指す。その動作原理は「登録メンバーの電子メールアドレスのリストと、メーリングリスト宛ての代表電子メールアドレスを用意しておき、代表アドレスへ送信されたメールを、リストに登録されたメンバー全員のアドレスへ転送する」といったもの。 サーバソフトウェアとしてはLISTSERV、majordomo、fmlなどが利用されてきた。

LISTSERV - Wikipedia

複数の電子メールアドレスのうちのどれかにユーザが電子メールを送ると多くの人に届く、という形のものとしては初の電子メーリングリストソフトウェアである。

◎その原型は(手作業で保守される)電子メールサーバ上の設定ファイル(特定のアドレスあてのメッセージをどこに転送するかの一覧を記したテキストデータ)であり、リストの所有者(リストを変更する権限を持つユーザ)がテキストファイルを直接編集して、購読者の電子メールアドレスを加えたり外したりしていた。しかしこの形式ではリストに参加したりリストから脱退したりしたければ、人間のリスト管理者に追加や削除を頼まなければならない。リストを討論に利用することがさかんになると、このような手続きは手間がかかると感じられるようになってきた。
*次第にメーリングリストをひとつのサーバに置いて貸し出す商用のサービスがあらわれ、多くの利用者がそこに移ったが、そういったサービスでメールを配送しつづけるには、リストの所有者に年間100ドルも支払わなければならなくなることもしばしばだった。こうした業者の多くはYahoo!のような専門業者に身売りしていき、次第にYahoo! Groups(2014年5月28日終了)などのサービスに吸収されていったのである。

◎1986年に、エリック・トーマス(Eric Thomas)はメーリングリスト自動管理の着想を得た。この年、パリの学生であった彼が、現在LISTSERVとして知られるソフトウェアを開発したのである。初期のソフトウェアの仕様はトーマスが開発したもので、これには人的な管理作業によらずにLISTSERVにコマンドを送ることでリストへの登録やリストからの登録解除ができる機能や、リストの所有者 (システム管理者とは別) が購読者の追加や削除をしたり、登録通知メッセージなどシステムメッセージの雛形を変更したりできる機能があった。LISTSERVはその後も革新を続け、1993年にはダブル・オプトインの機能 (登録コマンドを送ると送信者自身に登録確認の方法を書いたメッセージが自動返信される) が、1995年には初のスパムフィルタの機能が導入された。

◎1986年から1993年までフリーウェアだったが、現在はL-Soft (LISTSERVの作者エリック・トーマス〕が1994年に設立) が開発する商用製品である。とはいえ「リスト10個、リストあたりの登録者500件まで」という制限のついた無償版が同社のウェブサイトからダウンロードできる。

◎以降、ほかにもいくつかのリスト管理ツールが開発されるようになった。1997年のLyris ListManager、同年のSympa、1998年のGNU Mailmanなどがこれに該当する。

「listserv」の名は、会議室や掲示板のウェブサイトのような他のインターネット事業に対してもたびたび使われてきた。最も著名なものとしてはStandard Listserv Registry (SLR) (www.listserv.org) がある。これはlistservのメーリングリストを集め、インデクス化してウェブベースで検索可能にしたものである。

Majordomo - Wikipedia

Great Circle AssociatesのBrent Chapmanが開発したメーリングリスト管理ソフトウェア。Perlで記述され、UNIXやそれに類するオペレーティングシステムの上でSendmailと連携して動作する。“major domo”(ラテン語「家の長」) は家令を指す言葉である。

1992年から広く使われるようになった。このころはウェブブラウザはまだひろまっておらず、多くの人が電子メールは使えてもワールド・ワイド・ウェブへのアクセスはできなかったのでメーリングリストへの登録やリストからの登録解除を (現代の読者にとってはめんどうな方法と感じられるかもしれないが) システムへの指示を記入した電子メールメッセージを送ることで実現したものである。

fml - Wikipedia

Perlで書かれたメーリングリスト管理ソフトウェア。Perlと同じ(Artistic License)ライセンスとしている。1993年から、深町賢一により開発およびメンテナンスされている。多機能のため人気が高い。

ネット上の他のサービスとの相互乗り入れも多く、かつてはネットニュースのニュースグループとの相互乗り入れも多く行われてきた。しかしながら1990年代よりネットニュース上のEMP/ECP(excessive multipost/excessive crosspost)の増加や、帯域の増強に伴いニュースグループを介さずに個々のメンバーがメールを受け取ることに支障がなくなってきたことより、ニュースグループとの相互乗り入れによるメーリングリスト側のメリットが薄れ、相互乗り入れは減少する傾向にある。代わってワールドワイドウェブ(WWW)の普及に伴い、WWWと相互乗り入れ、ないしウェブページ上にアーカイブを公開するメーリングリストが増加している。

電子掲示板との違い。

1990年代前半に入ると、電子掲示板(BBS=Bulletin Board System)が、インターネットの普及前に全盛だったパソコン通信の主要なサービスの一つとなる。それに起因する何らかの理由により、"BBS" という言葉は「掲示板システム」という意味のほかに、「ホスト局」というものとほぼ同義として用いられる事が多なり「ホスト用ソフト」と呼ばれるものが、しばしば「BBSソフト」とも呼ばれていた。
*電子掲示板(BBS=Bulletin Board System)…コンピュータネットワークを使用した環境で、記事を書き込んだり、閲覧したり、コメント(レス)を付けられるようにした仕組み。これを利用して情報交換や会話・議論などを行うことができる。単に「掲示板」と呼んだり、英語表記の略語で "BBS" と呼んだりする。掲示板を電子的に実現したようなものであることから、「電子掲示板」と名付けられた。主に、パソコン通信やインターネットのウェブなどの上で実装される。

◎ネットニュースや多くのインターネット掲示板では事前登録など不要であるが、メーリングリストの場合、リストに登録するための事前手続きが必要になる(コマンドを記したメールを特定のアドレスに送信するか、管理者に参加申込みをする)。このためハードルが高いと感じられることも多い。

◎またインターネット掲示板等の場合、自分がそのサイトを見にいかなければそれで済んでしまうが、メーリングリストのメールは一般のメールとともに日々送信されてくる。このため、投稿数の多いメーリングリストや複数のメーリングリストに加入すると、毎日膨大なメールが届くことで、メールサーバに割り当てられた容量のパンクや、(パンクしないまでも)内容が読みきれなくなってしまうことがある。(要するにメールの管理振り分けに手間がかかる)メールを多数に同報するシステム構造に起因する、各種セキュリティ上の問題点がある。

このようなことや、ADSLFTTHといった、いわゆるブロードバンドインターネット接続の普及から、グループなどでの情報交換手段としては新規のメーリングリスト開設は下火となり、代わりに(登録制の)電子掲示板(BBS)への移行が進行。

③HTTP/0.9(RFC1945,1991年)の仕様は紙に印刷すれば1枚で済むような非常に簡素なドキュメントであったが、HTTP/1.0(RFC 2068,1996年)とHTTP/1.1(RFC 2068,1997年)2度のバージョンアップを経たHTTP/1.1の仕様書は実に176ページ近くの分量に膨れあがった。HTTP/1.0からHTTP/1.1への移行を促したのは「それまでのIPアドレスのみで相手を特定する方式では「人員問題により自前でWebサーバが運用出来ない企業のホームケージがホスティングを依頼されたISP (Internet Service Provider) の同一サーバ上に大量に存在する状況」に対応出来なかった事で、この問題の解決方法としてName Base Virtual Hostの概念が固められ、World Wide WebにおけるWebページなどのリソースがUniform Resource Identifierによって指定される仕様(HTTP を使用してリソースにアクセスする時はhttp: が先頭についた URL を使用する仕組み)が制定されるとたちまち普及して1998年にはインターネット上の通信の75%がHTTPによるものになった。
経済産業省「インターネット普及率の推移」

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  • そしてバックエンドのデータベースにアクセスしながら動的にHTMLデータを生成するPHP(1995年)やDynamicHTML(1997年)の登場によって「(そこまでは何とか紙による表現も不可能ではなかったHypertext構造」の(もはや紙による再現が不可能となる)仮想化が始まってしまうのである。

     PHP (プログラミング言語) - Wikipedia

    サーバーサイドで動的なウェブページ作成するための機能を多く備えたHTML埋め込み型の構文を特徴とする「Hypertext Preprocessor」。

    デンマーク系カナダ人のラスマス・ラードフ(Rasmus Lerdorf)が個人的にCで開発していたCGIプログラムである "Personal Home Page Tools" (短縮されて "PHP Tools" と呼ばれていた)を起源とする。 元々はラードフ自身のWebサイトで簡単な動的Webページを作成するために用いられていたが、その後データベースへのアクセス機能などを追加したPHP Toolsを1995年にGPLの下で公開。 オープンソースライセンスの下で公開されたことにより同ツールの利用者が増加し、機能の追加を行う開発者たちの貢献もあって、幾度かの大きなバージョンアップを経て今日に至っている。 

    ◎ 元来はプログラミング言語と言えるものではなく、単にテンプレート的な処理を行うだけであったが、度重なる機能追加やコードの書き直しにより、2017年現在リリースされているPHP 5やPHP 7は目的によらず汎用的に使うことの出来るスクリプト言語となった。

    特にApache HTTP ServerやnginxといったWebサーバーソフトウェアから動作させるスクリプト言語として選択されてサーバーサイドWebアプリケーション開発に利用されることが多い。

    ダイナミックHTML(DHTML=dynamic HTML) - Wikipedia

    静的なHTMLの内容をCSSJavaScript等のクライアントサイドスクリプト言語を用いて動的に変更するウェブ技術を指す抽象概念。視覚的な訴求効果の高いHTMLドキュメントを作成できるなどとして、1997年に起こったネットスケープマイクロソフトのブラウザ戦争で生まれた。

    1997年当時は JavaScript からHTMLを参照、制御する方式が各社不統一であり、ウェブブラウザごとに別々の JavaScript を書く必要があった。この状況を打開すべく1998年10月にW3Cはクライアントサイドスクリプト言語とHTMLドキュメントの緩衝材としての役割を果たす Document Object Model(DOM)を勧告。これによりDOMをサポートする新型のブラウザ(Internet Explorer 5.0 や、Netscape 6.0、Mozilla FirefoxOpera 7.0 など)であれば、ブラウザを問わずひとつの記述で HTMLドキュメントを参照、制御できるようになったのである。

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  • だが、考えてみればこうした動きはハイパーテキスト概念に元イメージを提供したヴァネヴァー・ブッシュが The Atlantic Monthlyに寄稿した「As We May Think (AWMT、1945年)で発表したMemex(MEMory EXtender=記憶拡張機)システムへの原点回帰ではなかったか?
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    Memex - Wikipedia

    memex はブッシュによれば「一種の機械化された個人用ファイル兼ライブラリ」である。マイクロフィルム、乾板写真、アナログコンピュータを使い、索引付けした膨大な知識の保管所へのアクセスを可能にするもので、どんな知識でもほんの少しのキー押下で呼び出せるという。

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    それは個人が使用する電気機械式装置として描かれており、大きな自己完結型の図書館を構成し、それにリンクと注釈という形で「連想の航跡」を追加したり、他人の連想の航跡をたどって読んだりできるとしている。

    使用するテクノロジーは、電気機械式制御、マイクロフィルムのカメラとリーダーなどで、それらを大きめの机に全て組み込む。マイクロフィルム化された図書館はその机の中にほとんど納まっているが、ユーザーは必要に応じてマイクロフィルムのリールを追加・除去できる。

    机の上面は傾斜のある透過型スクリーンになっていて、そこにマイクロフィルムを投影して読むことができる。また、最上部にはプラテンがあり、手書きのノート、写真、メモなどをそこに置き、レバーを押下することで未使用のフィルムにそれらを撮影して収めることができる。

    そのビジョンは1960年代の初期の実用的なハイパーテキストシステムの着想を与えたとされている。ブッシュが As We May Think で示したmemexなどのビジョンは1930年代と1940年代の既知のテクノロジーから外挿したもので、ジュール・ヴェルヌの考え方やアーサー・C・クラークが1945年に提案した静止衛星による通信などと近い。ブッシュの提案したmemexはマイクロフィルムのコマとコマにリンクを設定できるが、現在のハイパーリンクのように文書の中の単語や文節や画像をリンクすることはできない。

  • ヴァネヴァー・ブッシュの発想はあくまで「(絶対に庶民の手には届かないスタンドアローンの個人書斎」レベルだったが、ウィトゲンシュタインの「言語ゲームSprachspiel)」概念は、最初から広範囲で大人数間における概念共有を前提とした内容だったのである。

    ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - Wikipedia

    第一次世界大戦(1914年〜1918年)下のドイツで書き進められたウィトゲンシュタイン論理哲学論考(独Logisch-Philosophische Abhandlung、英Tractatus Logico-philosophicus、執筆1918年、初版1921年)」は、論理操作の対象として扱えるのは「(カント哲学でいう「物自体」に該当する、人間の認識能力上の制約からそれ自体に直接到達する事は不可能な現実空間」から論理空間に転写された「Bild=事実の模型」と、その認識上の相互関係のみとした。

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    • 我々が世界と認識し反応している何かの正体はそういうもの」という直感は、たまたま手に取った雑誌中における様々な言及の相互関係について思いを馳せた時に閃いたという。それはまさに(写真の様な非文字情報や憶測を多分に含む不正確な認識を含む写像の寄せ集めに過ぎず、むしろだからこそ「言語=事実の模型の集合体」として成立していたのだった。

      ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』命題2.1~2.225を読解するmeteorite1932.wordpress.com

      野矢茂樹氏は『「論理哲学論考」を読む』にて、「像」は「言語」と呼び換えてもよいのではないかと書かれています。それは、「言語」というものが典型的な「像」だからでしょう。私は、「言語」というより「記号」と呼んだほうが適切なように思いますが、「思考の限界は言語においてのみ引かれうる」という『論理哲学論考』の目的とあわせて考えると、「言語」といういい換えは分かりやすいと思います。

    • (前期)ウィントゲンシュタインいわく「対象それ以上分解する事が不可能な認識上の観測結果の最小単位の集合体が世界の実体を形づくる。それゆえ対象は合成されたものではありえない2.021)。もし世界が実体をもたないとすれば、命題が意義をもつか否かは、他の命題が真である否かに依存することになる2.0211。そのとき真であれ偽であれ世界の像を描くことはできないだろう2.0212)」。もしかしたらここで言いたいのは、当人がそれを「(科学実証主義的判断から素直に」と認めるか「(グノーシス主義=反宇宙二元論的」あるいはカール・マルクス流の「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性は認識範囲内の全てに抗う形でしか獲得出来ない)」なる信念から」としか捉えられないかは別として「認識上の観測結果を積み上げる努力を怠れば、世界(観)は像を結ばない神や王権や国家や(スターリンの掲げた)マルクスレーニン主義の様な外的存在に「正しさ」の保証を依存せざるを得ない)」という事ではなかろうか。

      *ある意味「尽くしの思想に憑依された」啓蒙主義思想に立脚するルソー「ジュリまたは新エロイーズ( Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761年)」における「あえて世界観が特定の像を結ばない様に配慮してるかの如き」散漫さと、「自らの認識に合致する世界観を編み出そうと足掻く」ロマン主義ゲーテの「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers、1774年)」における「世界観が像を結びそうで結んでくれない」苛立ちの鋭い対比。「(数学や物理学に立脚する)科学の世界における科学実証主義に基づいた知識の厳密かつ反証の余地を的確に残した積み上げ」は、人文学の分野への応用を試みるや否やこうして苦行の様相を帯びてしまう事も。

    • もう一つの狂った処方箋が「啓典の民」独特の「聖典原理主義」。これは「神が下賜した聖典は完璧無謬の存在なのだから、その記述の否定は一切許されない」とする過激思想で歴史的に様々な問題を引き起こしてきたばかりか、今日なおしばしばニュースを騒がせ続けている。

      *進化論を否定して所謂「テネシー猿裁判」を起こしたり、「(その信仰が「欽定訳聖書」特に「ジェイムズ王訳(King James VersionあるいはAuthorized Version、1611年)」から出発しているが故に)聖書は最初から英語で書かれていた」と言い広めたりしてきたキリスト教原理主義者達。

      *アラブ・ナショナリズムの観点から「東ローマ帝国を(外国人王朝たる)オスマン帝国が滅ぼした事実」が認められず「我々には、その末裔たる西洋社会を滅ぼす聖務がある」と主張するイスラム過激派(サラフィー=ジハード派)。なにしえお西洋文明とも伝統的に共有されてきたスンニ派古典思想の精髄、すなわち「神の叡智自体は無謬だが、現世への流出過程で誤謬が累積して(一見解決不能な)対立や悪が生まれた」とする基本的コンセンサスすら認め様としないのだから妥協が成立する余地がない。

    ②一方、死後発表された「哲学探究(Philosophische Untersuchungen、1953年)」において(後期)ウィントゲンシュタインは「ハエをハエ取り壺から出してやる」様に、従来の哲学から失われてしまった「言語ゲームSprachspiel)」性の復権を求めている。

    • ある意味、彼のこの立場を想定外の形で継承したのがジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著「哲学とは何か(Qu'est-ce que la philosophie?、1991年)」とも。哲学の存在意義は哲学者ごとの多様性と多態性流動性であり、例えその主張に矛盾があっても(如何なる状況がそうした哲学登場の社会的背景にあるか見定める事なく)批判の対象としてはならないとした。

      諸概念のあいだには、いかなる水準においても、まったく階級差が存在しない。

      新しい諸概念は、わたしたちのものである数々の問題と、わたしたちの歴史と、そしてことに、わたしたちのもろもろの生成と関係しているのでなければならない。それは永遠のものではないが、だからといって一時的なものであるということになるのだろうか?


      批判ばかりして創造しない者、概念が消え去らないように守りを固めるだけでそれに復活の諸力を与えることのできない者、これは哲学にとって厄介者である。

      哲学は議論を嫌悪している。哲学にはつねに他のなすべきことがある。討論は、哲学にとって耐え難いものであって、そうであるのは、哲学が自分を過信しているからではなく、反対に、自分に確信がないため、より孤独な他のいくつかの道を進まざるをえないからである。

      ドゥルーズガタリは哲学と科学を次のように区別してみせる。既に見たように哲学に関わるのは概念であり、それは内在平面と概念的人物(そして、哲学地理)に支えられている。他方で科学に関わるのは「機能(ファンクション)」であり、それは「準拠平面」と「観測者」に支えられるというのだ。これは、哲学者がそれぞれ異なる平面と人物像に依拠しているのに対し、科学者はみなで同じ平面と人物像に依拠しなければならないことを意味する。分かりやすく言えば、科学者によって前提となる観測者のイメージが別々であってはならない(そして、日本やアメリカといった地理的条件の差異が科学に影響を及ぼすべきではない)、ということだ。

      この区別は驚くべきものである。というのも、あらゆる哲学が別々の平面と人物に支えられている限り、他者の概念の正誤を判定することなど無意味であり、したがって哲学者どうしの議論は不毛にすぎないからだ。《わたしたちが、哲学書の多くについて、それは誤っているという言い方をしないのは、そう言ったところで何の意味もないからである。むしろわたしたちは、それは重要でも面白くもないという言い方をするだろう》(p145)《哲学は議論を嫌悪している》(54p)。ドゥルーズガタリは、コギトの「思考する」と「存在する」の間に「時間」を導入した者としてカントを挙げている。だが、カントがデカルトより論理的に正しいというわけではない。単に二人は、互いに異なる内在平面と概念的人物を有しているのだ。こうして哲学は科学よりも芸術の類に近づいていく一方で、論理学などは科学に充当される(もちろん芸術に関わるのは「被知覚態(ペルセプト)」および「変様態(アフェクト)」であり、それらは「合成=創造平面」と「美的形象」に支えられているという説明はされているが、ここでは扱わない)。

      私が思い出すのは、國分功一郎スピノザの方法』(2011)である。そこではデカルトの哲学が他者への説得を試みるのに対し、スピノザの哲学は他者への説得を試みないというテーゼが発見されていた。ドゥルーズガタリもまた、他者への説得を試みない哲学者だと言うことができる。事実、彼らのうち議論を本格的に嫌っていたらしいジル・ドゥルーズこそ、スピノザに幾度となく言及した哲学者なのだ。《したがって、スピノザこそ哲学者たちのキリストであり、そしてもっとも偉大な哲学者たちでさえも、その使徒にすぎないと言ってよいだろう》(p107)。國分が書くように、重要なのは説き伏せ従わせることではなく、誘い導くことである。

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    • こうした幾重にも問題を抱えた言語ゲームSprachspiel)概念がコンピューター上で駆動可能となったのは、たまたま「術者が神秘なる力の観想を通じて世界そのものに働きかける」言語神秘学の世界観が「操作を通じてCPUに働き掛けて接続デバイスを動かすアーキテクチャーとたまたま一致していたからでもあったが、その際にどうしても「語り得ないものについては沈黙しなければならない」ルールに従って(CRTや液晶画面やタッチパネルの画面経由で情報を受け取りながら、キーボードやマウスやタッチパネルの画面経由で情報を入力してくる)操作者の存在を一旦「(言語ゲーム外部=完全視野外」に押いやる必要があった。
      現象学と未来技術の「言語ゲーム」

      ヴィントゲンシュタインは「言語ゲーム」なる概念を用いて(現実の生活から乖離した)形而上学的論考より(普段の生活の中に埋め込まれたある種のプログラム(説明よいうより訓練)を通じて習得される)多様で多態で流動的な「日常言語」に目を向けさせ様とした。
      *あくまで与えられたアルゴリズムに従って動作するだけのコンピューターの「言語ゲーム」は、もちろん現時点ではこうした意味合いにおける多様性も多態性流動性も一切備えておらず、それどころか将来も備える事はないかもしれない。しかしとにかく一旦両者の領域が完全に切り分けられた事により「案外アルゴリズム数理モデルなどでこなせてしまう事」が次々と発見され実用化されていく情景が可視化される展開を迎えたとはいえる。

      *そして何より「何もかも人間任せにして進化をやめてしまった猫」と異なり、コンピューターは(人間の手を介してとはいえ)着実に進化し続けているのである。

      そして近代の生活世界の特徴は,次々と新たな革新を繰り返す技術の「自己増殖性,自走性(エリュール)」に限界を設けるどころか,むしろそのような技術によってもたらされる変化を次々と飲み込み自明化し,自然化するところにあり、コンピューター技術を巡る諸概念も既にその一部として組み込まれている。
      *むしろ目覚ましい多様性や多態性流動性を発揮しているのは、コンピューターなる概念を獲得し、かつその上で稼働するコミュニケーション手段を「言語ゲームの展開場所」に選んだ人間の方といえよう。その人間を駆り立てている「集-立(Gestell)システム」の全体像とは一体如何なるものか。これからの時代はそういう事を問われる様になる。

      ところでフッサール現象学の場合は当初より「世界の外的現実についての信念」をカッコに入れて世界の現象の純粋な現れを一切の予見なく観察し、その成果を「現象学的還元」によって認識の主体の有する志向性をフィードバックし続ける構造が採用され続けてきた。言語ゲームSprachspiel)習得過程を「説明というより「集-立(Gestell)システム」に動員される過程で受ける訓練の賜物」と考えるウィントゲンシュタインの理論とは相補的関係にあると目される。

      *「説明というより訓練の賜物」…魔術的リアリズム文学運動を彩った主要作家の一人でもあったエンルスト・ユンガーもそうだったが、第一次世界大戦に兵士として参加した経験が色濃く垣間見える。その点フッサールやその弟子だったハイデガーはどうしても「旧世代=戦前派」の影を引きずっている様に映ってしまうのである。

      *ところでフッサール現象学には、後期ウィントゲンシュタインの「言語ゲーム」概念同様にそもそも「現実」と「仮想」を峻別する基準が存在しない。こうしたスタンスこそが21世紀においてはますます重要になってくる。

      *奇しくも20世紀末は(人間の知性の模倣を志向した)第二世代人口知能が挫折し、(純粋な数理モデルとして与えられた目的の効率的達成を目指す)第三世代人工知能の躍進が始まった時期にも該当する。「言語ゲーム(Sprachspiel)の地平線としての絶対他者としての人間」は、やはりこの領域の内側にも留まる事が出来なかったのである。

      *また当時はソーカル事件(1995年)によって「きちんとした数理モデルを組み立てた訳でもないのに衒学的に擬似的構図を振り翳す似非ポストモダニストの淘汰」が始まった時期でもあったのである。同時期にはサイバーパンク文学においてもインターネット技術の発展に取り残された著者の淘汰が進行している。
      ソーカル事件 - Wikipedia
      きみはソーカル事件を知っているか?

    哲学と言語の関係についてはこういう言葉も残している。「哲学とは言語によって我々の知性が呪縛されていることに対する、戦いである」「言語はさまざまな道の迷路である。一方の側から来ると勝手がわかるが、他方の側から同じ場所に来ると、勝手がわからなくなる」「哲学の、全ての雲塊が言語論の一滴へと凝縮する」。つまり「言語あっての人間」という立場から「その言語を人間は如何に扱うべきか」について始終考え続けた人物であった訳である。

    第12回モヤLT発表資料 

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 ④そして2012年になると「インターネット・トラフィックのリッチ化回覧内容がテキストから静止画・GIF・音声・動画などへとモバイルシフト」なるトレンドが一挙に表面化してくる。

  • 20世紀末に国際的に多くのパラダイムシフトが発生していたにも関わらず、その事が急激な変化を引き起こさなかったのはマシン・スペックやマネタイズ手段が全然追いついていなかったから。
    *ちなみにApple社がQuickTimeコーデックを発表したのが1991年12月02日。Microsoftが動画再生用APIのVideo for Windowsを発表したのが1994年。そして同時期から実用化が始まったVOD(Video on Demand)システムが実用レベルに達したのが、クライエント側がブロードバンド化し、サーバ側に実装する新型ロードバランサーが登場した2004年以降となる。そして2007年にはAWSが登場しFacebookの躍進が始まる。そういえば(すぐにYotutube上において視聴回数を競い合う様になった)初音ミクジャスティンビーバーが登場したのも2007年…

  • 当時のスペックに適応し過ぎて次の時代に乗り遅れたのが日本の「iMode」。

  • CD-ROMタイトル中心に所謂「ハイパーメディアクリエータ」が活躍したのもこの時期。またエロゲー全盛期でもあった。オンラインRPGの黎明期でもある。

  • 旧世代のデジタルエンターテイメントが衰退に向かい始める一方、「同人18禁ゲーム」の世界でTYPE-MOONが 「月姫(2000年)」「Fate/stay night(2004年)」「空の境界(2004年)」を、「自主制作アニメ」の世界で新海誠監督が「ほしのこえ(2002年)」「雲のむこう、約束の場所(2004年)」を、「Web小説」の世界で米澤穂信「〈古典部〉シリーズ(第1作Web掲載2000年、刊行2001年〜)」と河原礫「ソードアートオンライン(Web連載2002年〜2008年、刊行2009年)」を発表。これらの作品が2010年代を牽引する展開を迎える。

  •  2010年代に入ってからの第三世代人工知能、特に画像認識分野における急成長も「インターネット・トラフィックのリッチ化」の恩恵を大幅に受けたとされています。要するに「アルゴリズムよりエサデータセット)」の世界…

    機械学習を行うため学習用データセットを作る必要があり、その過程で関わった人がそのドメインについて異常に詳しくなってしまうという、機械学習エンジニアあるあるな話題の具体例を取り上げました。

    機械学習をやる上で、作成したモデルよりも自分が詳しくなるのは、自分でデータセットを作る以上避けては通れません。

    読んでくださっている人の中には、こういうことを機械学習で判別したい!、というネタを持ってる人がいると思います。 だけどども、そのネタに都合よく使える正解データはあまりありません。

    ここで大半の人は、自分でデータセット作るのは面倒だし、やめとこうとなります。

    だけれども、そこで頑張ってデータセットを作ってみると、その分野の第一人者になれるほど詳しくなるというオマケが付いてきます。もしそれがもともと好きな分野ならば、さらに知識がついて楽しい感じになります。

    逆に、その分野について詳しくないけど気になっている、というものならば、詳しくなれるチャンスです。機械学習の知見も身についてお得です。

    機械学習をやろうとすると、作業時間の8割ほどはデータセットの加工に費やされることになります。 データ分析の分野でもそうですが、そのデータのドメイン知識がないとうまくいきません。

    であるならば、自分の興味のある分野でデータセット作成から行うことが、機械学習を学ぶコツだと思っています。

2045年には人類より優れた知性を獲得した人工知能の反乱が!!」とか叫んでる場合じゃなさそうですね。

2045年問題」を知らない方の為に先にこれを簡単に説明すると

コンピュータ技術が今のスピードペースで発達し続けると
ある地点で地球全人類の知能を超える究極のコンピューター「A・I」が誕生し

その「A・I」がその後更に自分よりも優秀な「A・I」を作りあげ、
更にその「A・I」が次のもっと優秀な「A・I」を作り…

といった具合に「A・I」が「A・I」を連鎖ねずみ算的に作り続けて宇宙天文学数字的な爆発的スピードプロセスでテクノロジーを自己進化させ、人間の頭脳レベルではもはや予測解読不可能な未来が訪れる・・・

つまり人類最後の発明は最初の「A・I」を開発することであり、
ここが技術的特異点(シンギュラリティ)と呼ばれるポイントなのだそうです。

そして、そのポイントを超えた後は知能を持った無数のコンピューターが人間の代わりにテクノロジーを進化させる時代が訪れ、

その最初の「A・I」が完成するのが計算上おそらく2045年であろうという推測だそうです。

なんだか映画「ターミネーター」に出てきたスカイネットを連想させるような話ですが、現在識者の間ではこの問題が大マジメに論じられています。

現実に進行中なのはもっと地味ながら、さらなるパラダイムシフトを数多く誘発しそうな不可逆的変化…

さて、私達はどちらに向けて漂流しているんでしょうか?