諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【急進王党派右翼の白】【急進共和派左翼の赤】【ならば三色旗の青は何?】夢魔=亡霊(Geister)としてのブルジョワ寡占支配体制について。

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日本にも「(白と赤で構成される日の丸国旗に忠誠を誓うのは一刻も早く地上から滅ぼし尽くすべき因循姑息な守旧派売国奴だけである」なる奇妙なイデオロギーカール・マルクスいうう所の「夢魔=亡霊(Geister)」)が蔓延っていますが、フランスにおける「(白と赤と青で構成される三色旗の白は伝統的に王党派のシンボルカラー、赤は急進共和派のシンボルカラー、なら青は何を象徴しているのか? それについて決して語られてはならない」なる認識には、さらに病んだ根深い何かを感じずにはいられません。

「因循姑息な守旧派売国奴…欧米の白人至上主義がしばしば振り翳すとされる「人類平等主義者たる我々は人種差別と黒人だけは絶対許さない」なる言い回しや、中国や韓国の反日急進派の一部がしばしば振り翳すとされる「日本人は人道主義と人類平等の理念を実現する為に(その存在自体が人類全体にとって不愉快極まりない東南アジア人や黒人同様)一刻も早く地上から滅ぼし尽くすべき先天的ナチス民族(もちろん究極的にはアイヌ民族琉球民族も含む)」なるスローガンや、「黒人公民権運動の正統な後継者」達がしばしば振り翳すとされる「アメリカは先住民たる黒人とインディアンとエスキモーが侵略者たる白人(White Men)を皆殺しにするその日まで人道主義と人類平等の理念に到達しない」なるイデオロギーを想起させる。ここで重要なのは、こうした全ての理不尽極まりない絶対的に矛盾した諸概念が「究極の自由は専制の徹底によってのみ獲得される(すなわち絶対君主の如き特定個人の願望充足を最優先課題に掲げると、残りの全員が彼に絶対忠義を誓う臣民の立場に貶められる)」自由主義のジレンマと「(どんなに論理的に破綻しても自らの嫌悪するネガティブな価値体系を自らが絶対悪のレッテルを貼った特定の人格に集約せずにはいられない)常識=言語ゲームの枠外に追い出された諸概念を全て事象の地平線の向こう側に跋扈する絶対他者に押し付けようとする心理」の共同作業の産物として漸進的に仮想的に形成されてきたという認識。あくまで(パンを無限に薄切りにし続けると体積と表面積が一致するといった)微積分的飛躍を経て導出される理論上の結論に過ぎず、本当に直接口にする馬鹿など実在しない(ただしその事によって人道主義や人種平等の理念の観点から擁護される余地もまた存在しない)という点に注意しなければならない。

*こうして地上に「神」や「悪魔」や「妖怪」といった概念が撒き散らされる展開を迎えるのである。どれも理論的に読み解く事は不可能で、かつ完全に読み解かれた時に最後を迎える点で共通している。

大変興味深い事にフランス社会学者はどうやらこの「」を「夢魔=亡霊Geisterのシンボルカラー」と認識してるらしいのです。いきなり問答無用で(フランス人にとって外挿概念である事を暗喩する)ドイツ語。カール・マルクスルイ・ボナパルトブリュメール18日Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte、1852年)」からの引用ですが、そもそもは1848年に発表された「共産党宣言Manifest der Kommunistischen Parteiまたは共産主義者宣言Das Kommunistische Manifest)」の冒頭における「ヨーロッパに幽霊が出るEin Geist erscheint in Europa共産主義という幽霊である。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる、法皇とツァー、メッテルニヒとギゾー、フランス急進派とドイツ官憲。」なる表現が初出で、その概念の大源流はローレンツ・フォン・シュタイン「今日のフランスにおける社会主義共産主義Der Socialismus und Communismus des heutigen Frankreiches、1842年)」中における「フランス共産主義」への言及に由来しているらしいので話はややこしくなってきます。とどのつまりそれって、共産主義の概念そのものがしっかりフランス起源という事じゃないの?
*最も重要な注意点、それは「共産主義宣言(共産主義者宣言)」におけるこの提言が前時代的(中世的)な秘密結社的・バブーフ的ユートピア主義共産主義結社からの脱却を図ったこの文言が、歴史上最初に生まれたドイツ人共産主義秘密結社「正義者同盟(der Bund der Gerechten)」の変身願望に基づくものなのか、それともマルクスエンゲルスの創意の反映なのか今日なお不明とされ続けている点にあるとも。さらに指摘を進めるなら著名な結語「万国のプロレタリアートよ、団結せよ!(Proletarier aller Länder vereinigt Euch!)」についても、その文面中において直接表面的に語られるのが「(白をシンボルカラーとする)王党派」すなわち「産業者階層(国王や皇帝を裁定者として頂く可能性をあえて否定しない一切の生産活動従事者集団、すなわちブルジョワ階層と労働者階層の呉越同舟状態)の独裁に反対する王侯貴族や聖職者といった不労所得階層」との対決姿勢のみでありながら、既に「農民階層」すなわち「フランス革命を急進共和主義に傾けて暴走させた歴史的主体たるサンキュロット(浮浪小作人)の供給階層だったにも関わらず(革命戦争やナポレオン戦争当時の恩寵を背景に自作農化 / 保守化し)2月 / 3月革命(1848年〜1849年)当時は蜂起した都市住民を次々と肝心なタイミングで裏切って戦線離脱してその殲滅過程を嘲笑しながら傍観したばかりか、以降は王党派やボナパリストを支持する側に回った売国奴の群れ」へのルサンチマンや復讐願望が盛り込まれつつある事について後世の人間はどう考えるべきかという問題もある。まぁこうした価値観の混乱が猛威を振るって既存価値観の一切を信じられなくなった時代だったからこそ、マルクスが「修正主義=社会民主主義の祖」ラッサールの経済的協力下において発表した「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」における「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」なる提言が全欧州を席巻する様なパラダイム・シフトを引き起こした訳である。

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  • ここで思い出すのが「そもそも米国情報部工作員出身で、第二次世界大戦中はファシズム支配下のイタリアでの地図作成作戦、戦後は日本の学生運動への浸透作戦に従事した」アレックス・ランドルフ(Alex Randolph, 1922年〜2004年)なる人物がデザインしたボードゲームガイスターGeister)」。そういえば、このboard gameにおいても「(絶対正義を象徴する」「(絶対悪を象徴する」「(両者の究極的不調和を隠蔽する言語ゲームとしての」はシンボルカラーに採用されていたりする。かくしてカール・シュミットの政治哲学のいう「敵-友関係Freund-Feind Verhältnis理論」や「例外状態Ausnahmezustand理論」を背景として表面上は「容赦なき仮想敵との全面戦争」を大義名分位掲げつつ「内部異端分子の粛清の繰り返しによる思想の同化作業」が進められていく。

    Alex Randolph - アレックス・ランドルフ

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    ジョルジョ・アガンベン『例外状態』: ものろぎや・そりてえる

    例外状態は独裁ではなく、法の空白。イタリアのファシズム体制も、ドイツのナチズム体制も、いずれも現行憲法(アルベルト憲法ヴァイマル憲法)を存続させたまま、法的には定式化されなかったが、例外状態のおかげで合法的憲法と並立する第二の構造物をつくり上げた。「法学的観点からこのような体制を正当化するのには「独裁」の用語はまったくふさわしくないし、そのうえ、今日支配的となっている統治パラダイムの分析にとっても、民主主義‐対‐独裁という干からびた対立図式は道をまちがったものと言わざるを得ない。」

    *たまたまアレックス・ランドルフ氏当人と話す機会があり、このゲームのデザインが「日本の学生運動への米国情報部の浸透作戦」中に得たインスピレーションに基づくものだったという話を直接聞かされたが、その作戦自体や「第二次世界大戦中におけるファシズム支配下のイタリアでの地図作成作戦」の内容の詳細については一切聞けなかった。既に当人は亡くなられているので墓場に持って行かれた形だが憶測自体は完全に不可能という訳でもない。

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  •  ここでいう「フランス共産主義すなわち、ローレンツ・フォン・シュタインが「今日のフランスにおける社会主義共産主義」の中で取り上げた社会運動)」は、あくまで農村出身で(共和制ローマの軍事力を「ローマ市民=小規模自作農」が支えた古代ローマ護民官グラックス兄弟に憧れ「人民の護民官Le Tribun du peuple)」を自称し、いわゆる「バブーフあるいは平等主義者の陰謀1796年)」を企図してギロチンの露と消えたフランソワ・ノエル・バブーフ(François Noël Babeuf、1760年〜1797年)や、この考え方に傾倒して少数精鋭集団による直接行動を経て権力奪取を企図する一揆主義(BlanquismeあるいはPutchism)を掲げイタリア独立運動とフランス7月革命に関わった(神秘的儀礼と位階制を特徴とする)秘密結社「炭焼党イタリア語Carbonari(カルボナリ)、フランス語Charbonnerie(シャルボンヌリー))」に参画した「永遠の革命家」「ヨーロッパで最も危険な男オーギュスト・ブランキLouis Auguste Blanqui , 1805年〜1881年)の様なジャコバン派内におけるさらなる急進分子(すなわち赤系統)の思想を指す訳ではなかったが、ボルシェビキを率いてロシア革命を制したレーニンの手によって「(マルクス自身の全面否定にも関わらずこれこそが共産主義思想の大源流」と規定され、スターリンの手によって「マルクスレーニン主義(マレ主義)」と命名される展開を迎える。
    *ただしそもそもバブーフの平等主義やブランキの一揆主義が真の意味での平等社会ではなく、伝統的神秘主義思想に基づく顕密体制、すなわち実際に富と政治を独占する少数精鋭のブルジョワ=インテリ=政治的エリート階層(そしてソ連時代の特権階層としての「ノーメンクラトゥーラ(ナメンクラトゥーラ)」)と、その事実を視野外に隠された圧倒的多数の庶民階層で構成される「(「精緻な学問的大系に立脚する支配階層の信仰」と「それに善導される素朴な庶民信仰大系」の峻別といったある種の情報格差に基づく)新たなる身分制社会」の創出を目指した事は決して忘れてはならない。

    ノーメンクラトゥーラ(номенклату́ра、モスクワ方言ナメンクラトゥーラ) - Wikipedia

    ソビエト連邦における指導者選出のための人事制度を指す言葉。転じて社会主義国におけるエリート層・支配的階級や、それを構成する人々を指す言葉としても用いられた。後者の場合は「赤い貴族」、「ダーチャ族」とも呼ばれる。

    この言葉は本来、ラテン語の「nomenclatura名簿)」から来ている。これは各級党機関が役職につける人物の承認や罷免のために用いた一覧表を指す言葉であったが、やがてその一覧表を用いた制度や、承認された人物やその縁者を指す言葉として用いられるようになった。

    ソビエト連邦は階級の存在しない社会であることが建前とされた。しかし実際の統治はソビエト連邦共産党による一党独裁制度であり、政治に携わる人物は全て党の任命と承認を受けた人物である必要があった。そのため党が役職と役職に就く候補者の名前を一覧表にして用意するシステムが行われた。

    この仕組みはウラジーミル・レーニンの時代にすでに萌芽があり、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンは重要人物を「Tovarishch Kartotekov同志キャビネット)」としてリストアップしていた。スターリンはこのリストを役職配分に活用し、やがて公式な制度となった。当初は書記局の人事に用いられていたが、党機関だけでなく政府・社会団体・研究所・教育施設にも適用されるようになった。第二次世界大戦後に成立した東欧社会主義諸国でもこの制度は導入された。

    この一覧表に掲載された人物は役職に就いていない候補者も含めて党の承認を受けた重要人物であり、別荘や年金などあらゆる面で優遇された。また一覧表に掲載されるかどうかは上位者の承認が不可欠であり、派閥や縁故主義の温床となった。その総数は1970年代には75万人、家族を加えれば300万人となり、人口の1.2%を占めた。

    この制度はソ連の反体制派の作家ミハイル・ヴォスレンスキーが1970年代に「ノーメンクラツーラ」を著わしたことで西側社会にも知られるようになった。ユーゴスラビアの元副大統領ミロヴァン・ジラス(Milovan Đilas)もノーメンクラトゥーラ層を「新しい階級」と呼んで批判した。

    ペレストロイカの開始以降ソ連でも批判が開始され、1989年にノーメンクラトゥーラは制度としては廃止された。しかしソ連崩壊後もノーメンクラトゥーラ層の一部は新生ロシアの政治家や新興財閥(オリガルヒ)となり、新たな階層(シロヴィキ)を形成し現存し続けている。

    *「ルネサンス作家」塩野七生は、こうした意味合いにおける「フランス共産主義」のさらなる大源流をレパント交易振興を背景とする貨幣経済浸透に逆らってフランシスコ修道会(Ordo Fratrum Minorum、創立1209年、教皇庁による認可1223年)やドミニコ修道会(Ordo fratrum Praedicatorum、創立1206年、教皇庁による認可1216年)を登場させた聖堂参事会運動(Capitulum、自らが蓄える富を嫌悪して聖書の使徒行伝にある様な素朴な信仰生活に憧れる様になった都市富裕層が始めた富の共有や奉仕活動への従事)に見てとる。これを認めると「フランス共産主義」のさらなる起源はイタリアにあった事になるが、ただし「イタリア・ルネサンスはフランソワ一世のレオナルド・ダヴィンチ招聘やメディチ家のフランス王室への御輿入れを通じてフランスに導入された」なる「神話」を大変気に入っているフランス人自身がこういう考え方を認める事は決してない。
    フランシスコ会 - Wikipedia
    ドミニコ会 - Wikipedia

  • その一方で実際の「フランス共産主義すなわち、ローレンツ・フォン・シュタインが「今日のフランスにおける社会主義共産主義」の中で取り上げた社会運動)」の最終勝者となったのは、フランス革命自体を単なる「既存秩序の破壊」としてのみ評価し「(王侯貴族や聖職者といった不労所得者の伝統的君臨を否定し、国王や皇帝のみを全体の裁定者として頂く産業者独裁体制」を提唱したサン=シモンの産業至上主義(すなわち青系統)が産んだ「三百家」とも「権力に到達したブルジョワジー」とも呼ばれる政治的エリート階層による寡占支配体制であった。そしてまさにこの展開こそが皇帝ナポレオン三世統治下の第二帝政フランス(1852年〜1870年)やプロイセン宰相ビスマルクの主導下誕生したドイツ帝国伊藤博文が留学して直接ローレンツ・フォン・シュタインの教えを受けた大日本帝国への産業革命導入と躍進の原動力となっていく。

  • ところで19世紀前半当時のフランス共産主義者は同時に民族主義者でもあり「不労所得者たる王侯貴族や聖職者はノルマン人の末裔、実経済を担う産業階層はゴールガリ人の末裔」といった認識が共有されていた。これがゲルツィンらロシア人知識層に伝わってスラブ民族主義、すなわち「スラブ民族は、長年ドイツなどから渡って来た外国人支配階層の手によって自らの民族的アイデンティティを奪われて来た」なるルサンチマン思考様式に変換される。
    *間違いなくこうした思考様式もまた「夢魔=亡霊(Geister)の青」系統のイデオロギーには流入しているが、下手に表面化させると「白系統」の貴族主義や「赤系統」の急進主義の「ええとこどり」を狙った不純な側面が露呈するので、あくまで「三色旗の水面下」に隠れようとするという次第。

    1830年代の教育改革の必要性から、一般向けのフランス史が書かれるようになる。代表的なのがミシュレの『フランス史(第一巻は1833年)』であり、ここから「われらが祖先ガリア人」という表現が普及していく。フランス人の意識としては、貴族はフランク人、民衆はガリア人の系統だという意識が今でもあるが、これは18世紀前半にブーランヴィリエ伯爵が打ち出したものである。ミシュレらの「われらが祖先ガリア人」という表現には、民衆的フランスこそ真のフランスだという意識がある。
    *サン=シモンはさらに一歩踏み出してむしろノルマン人こそが貴族や聖職者の起源で王家のみがフランク族の末裔と考えた。あくまでイメージの問題なのでどちらが正しいという話でもない。

    農奴解放令実現に影響を与え「社会主義の父」として有名な人物の一人とされる帝政ロシアの哲学者アレクサンドル・ゲルツェン(Aleksandr Ivanovich Herzen、1812年〜1870年)は、1812年にモスクワにて、地主の私生児として誕生。彼の母はドイツのシュトゥットガルトからの移民で官僚の娘、姓は「彼の心の子」という意味合いを兼ねて、ドイツ語で心臓を表すherzからとられた。

    14歳のとき盟友オガリョフと共に雀が丘(現レーニン丘)でデカブリストの遺志を継ぎ,農奴解放と専制政治の打倒に生涯を捧げることを誓う。

    1829年モスクワ大学物理数学科に入学,オガリョフとサークルを革命的組織,サン・シモン,フーリエらフランスの社会主義思想に傾倒した。

    卒業した翌年の 1834年逮捕され,5年間シベリアに流刑。流刑地から帰還後,西欧派最左翼として哲学論文「科学におけるディレッタンティズムDiletantizm v nauke、1843年)」 ,長編小説「だれの罪かKto vinovat?、1847年)」 などを発表,40年代の思想的,文学的活動の指導者となった。

    47年西ヨーロッパへ亡命,52年ロンドンに「自由ロシア出版所」を設立,新聞「Kolokol、1857年~1867年)」 などを刊行,国外にいて専制政治と戦い,ロシアの革命運動に大きな影響を与えた。ほかにロシア思想史上の貴重な文献である回想記『過去と思索』を残している。

    1870年にパリで死亡。その時は人々に忘れ去られたも同然だった。

    *ゲルツェンはしばしば「ロシア的反知性主義(欧州からもたらされた合理主義に対する懐疑者)の父」とも称されるが、当人はその「欧州人の末裔」でもあったという辺りが根深い。

    *詳細は不明だが、この移行に際しておそらくサン=シモンの掲げた「18世紀は破壊の世紀だった。19世紀は建設の世紀でなければならぬ」なるスローガンがバクーニンクロポトキンといった無政府主義者の「破壊なき創造はありえない」なる主張へと変換される。

    941夜『神もなく主人もなく』ダニエル・ゲラン編|松岡正剛の千夜千冊

    1848年の革命。この革命の前後でいっさいが起動した。フランス二月革命である。

    ルイ・ブランが工場労働者を産業軍の内側に逆編成する計画を発表し、マルクスエンゲルスが『共産党宣言』を刊行し、そしてアナキズムが狼煙を上げようとしていた。

    それまでにすでにアナーキーな「時の機」は熟しつつあった。シュティルナーの『唯一者とその所有』が既存社会の打破のための結社の自由を謳い、偶像の思想を破壊することを奨め、国家の生存を真っ向から否定した。またプルードンが『貧困の哲学』を書いて、「アナルシ」(an-archie 権力の不在)という言葉を“anarchie”と綴り字をつなげ、貴族主義にも君主主義にも、共和主義にも民主主義にも、連合主義にも組合主義にも属さない立場がありうることを暗示した。これがアナキズムという言葉の生誕だった。

    そこへロシアにいたバクーニンが、急ぎ足で燃えるパリに戻ってきた。これで準備が整った。

    バクーニンはそれまでは、汎スラブ主義的な民族主義活動の中にいた。社会主義の前哨戦からはまったく孤立した存在である。それが1848年をさかいに極度にラディカルになっていく。

    リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner、1813年〜1883年)がロシア人無政府主義者バクーニン(Михаи́л Алекса́ндрович Баку́нин /Mikhail Alexandrovich Bakunin、1814年〜1876年)に唆される形で2月/3月革命(1948年〜1949年)の一環として遂行されたドレスデン蜂起(1849年)に参加。全国で指名手配され、フランツ・リストを頼りスイスへ逃れ、チューリッヒで1858年までの9年間を亡命者として過ごすこととなった。

    この時期に執筆された「ラインの黄金(Das Rheingold、作曲1854年、初演1869年)」には「(当時資本主義的発展の牙城だったロンドンをモデルとする)魔都ヴァルハラ」に屈服したニーベルング族、臣属しながら蜂起の機会を狙うロキ、支配階層に怨念を抱く先住民としての巨人族やラインの乙女達といった民族主義的主題が豊富に盛り込まれている。「スラブ民族主義者」バクーニンの影響が指摘されている。

    ただし、その後バイエルン国王ルートヴィヒ2世パトロンとなった事から「指輪物語四部作」は見た目上、上掲の「氏族譚」としてトリミングされ発表される展開を迎える。そして魔都のイメージの源泉をロンドンからニューヨークに移した「メトロポリス(Metropolis、1926年)」においては、むしろこうした民族主義的主題は「階級間対立」として描かれる事に。

    神聖ローマ帝国の解体により1806年ザクセン王国の首都となり,以後,中東部ドイツの先進工業地帯の中核都市に発展した。三月革命最後の闘争といわれる49年5月のドレスデン蜂起の伝統を受け,19世紀後半には社会運動,労働運動の拠点となり,ドイツ社会民主党の重要な地盤であった。1918年11月ザクセン共和国を宣言,20年カップ一揆に直面したワイマール政府は一時ここに避けている…

    バクーニンプルードンのような協同的アナキズムには満足していなかった。むしろ革命家の前衛組織による破壊活動が先行し、この破壊によって生まれた突破口から民衆の建設活動が溢れ出てくるようなプランをもっていた。協同アナキズムではなくて、一握りのアナーキーな革命家の出現こそが必要だと考えていた。

    だからこう言うのも憚らない、「革命家は前もって死を宣告された人間である」。この瞬間、「命を持っていきたまえ」という革命家を先頭に立てるアナキズムが発芽した。

    マルクスについてはここでは何も書かないが、ごくごく象徴的にいうなら、プルードンからマルクスバクーニンという二人の反抗児が出てきたということなのだ。

    問題はしかし、そのマルクスバクーニンが対立したことである。1848年に同じように革命を計画した二人が対立したことは、いままさに生まれつつあるコミュニズムを真っ二つに分断していった。

    ロシアの貴族に生まれたバクーニンは、すでにプラーグやドレスデンで革命のための叛乱を組織し、サクソニアで捕らわれて死刑の宣告をうけ、ロシア送還ののちは6年にわたって幽閉されていたという経歴がある。また、その後にシベリア流刑となってはここをドラマテイックに脱出して、日本・アメリカをへて12年目にヨーロッパに戻ってきたという世界遊民的な経歴がある。

    一方のマルクスバクーニンのようには行動をおこしてはいない。あくまでイデオロギーを見極め、社会を分析して、そこに革命の計画がありうることを展望した。バクーニンが遊民なら、マルクスは常民だった。世界をぐるりと駆けめぐったスラブ派のバクーニンには、こういうマルクスのようなあり方には承服しがたいものがある。

    加えてとくにバクーニンが嫌ったのが、中心を手放さない「鞭のゲルマン帝国」である。

    マルクスはそのドイツに育ち、その厄災(つまりドイツ・イデオロギー)を切り払うために立ち上がったのであるけれど、そこには、バクーニンから見れば、いくらでもゲルマン的な権威主義が残響していたのであろう。

    それでも1864年、ロンドンで第1インターナショナルが結成されたときは、マルクスバクーニンは「革命」の可能性と労働者の連帯組織の萌芽を前にして、まだ互いに相手の出方を窺っていた。

    ところが1869年、第1インターのバーゼル会議ではバクーニンは財産相続の廃止を訴えて、これを拒否された。ついにバクーニンは「私は共産主義が大嫌いだ。それは自由の否定だ。共産主義は社会のすべての勢力を国家に吸収させようとしている」と言い出した。

    こうしてバクーニンの組織する社会民主主義同盟は第1インター加盟を許可されず、マルクスの構想は一歩も踏み出せないままに、あの1871年パリ・コミューンを迎えることになる。

    パリ・コミューンは、労働者と小役人と思想傾向のタチが悪いジャーナリストと阿呆なアーティストたちが、パリの崩壊を食い止めようとしてつくりあげた継ぎ接ぎだらけの都市戦場である。

    そこにジャコバン党、ブランキ主義者、プルードン派、第1インター加盟者たちがあっちこっちから乗りこんできた。ランボオも駆けつけた。しかし、パリは急激に燃え、パリは急速に沈んだ。
    690夜『イリュミナシオン』アルチュール・ランボオ|松岡正剛の千夜千冊

    ランボオ安政元年に生まれて、明治24年に死んだ。明治維新をまたいだフランス人である。小泉八雲岩崎弥太郎の4つ下、坪内逍遥内村鑑三の5つ上になる。

    ランボオが16歳のとき、明治3年にあたるのだが、フランスでも時代を揺るがす大変動がおこっていた。ナポレオン3世とプロシアのあいだで戦闘が開始され(普仏戦争)、パリが包囲された。それが9月で、その直前の8月に、ランボオはシャルルヴィル高等中学校の授業を抜け出して敵軍の包囲網を夢中でかいくぐり、戦乱のパリに立った。

    このときのランボオは無銭乗車の科で逮捕され故郷に送り返されている。が、17歳でふたたび出奔。今度はパリ・コミューンに沸き立つパリをうろついた。大佛次郎が『パリ燃ゆ』に描いたパリは、ありとあらゆる思想と矛盾と人間が噴き出ていた。フランスの近代は、日本の近代が明治維新ではなく西南戦争に始まったように、フランス革命に始まったのではなく、このブランキズムの矛盾に満ちたパリ・コミューンに始まったのだ。

    そして、ここでアルチュール・ランボオの大半の革命思想と言語思想は燃え尽きていた。けれども、あと2年だけ、ランボオは詩人であることに時間を割いた。そして詩を捨て、パリ・コミューンにはなかった「世界」に向かって、大歩行者になった。

    労働者の自由な活動によってもパリを救えなかった事態に対して、さっそくマルクスは各国にプロレタリアートの党をつくって、これらが国家権力を掌握できるように全運動を組み替えることを計画した。それなら第1インターこそはその国際本部となるべきだった。


    しかしこんな提案はアナキストには承服しかねるもので、1872年のハーグ大会でマルクスは多数派をとれなくなった。アナキストたちはサン・ティミエに集まって、バクーニンの指導のもとにいわゆる“黒色インターナショナル”をおこす。この時点では、マルクスよりもバクーニンの追随者のほうが多かったのである。

    1876年にバクーニンが死に、アナキズムの活動を支えていたジャム・ギョームが引退すると、天秤はぐらりと逆に動いた。

    いや、マルクスのほうにすぐ動いたのではない。インターナショナルな活動から締め出されたアナーキーな粒子が、バクーニンの原郷ロシアに飛び火してナロードニキの動きとなり、さらにテロリズムの様相を呈していったのである。これは意外な転換だった。

    1881年のアレクサンドル2世の暗殺はこうしておこる。この先鋭化したテロは、フランスではティエールの像の爆破となり、炭鉱都市モンソーの教会焼打ちに、さらに各地の教会爆破に連鎖した。モンソーの焼打ち事件では65人のアナキストが逮捕されるのだが、そこには次の時代の指導者の一人クロポトキンが入っていた。

    2年後、マルクスが死ぬ。コミュニズムアナーキーな混乱のなかで、なんらの稔りもないままに19世紀を終えた。

    アナキズムのほうは1897年の第2インターナショナルのロンドン大会に、クロポトキン、マラテスタ、ルイズ・ミッシェル、エリゼ・ルクリュ、グラーヴが揃って乗りこんでいったのたが、たちまち除名され、やはり前途を断たれたかのようである。

    こうしてコミュニズムアナキズムも、20世紀を前にして頓挫してしまったのだ。

    アナキズムの標語「神もなく主人もなく」

    ルイ・ルーヴェの『世界アナキズム史』には15世紀ドイツの格言が扉に印刷されていた。それが「神もなく主人もなく」である。

    1870年、オーギュスト・ブランキの最も若い弟子のシュシュは、皇帝の人民投票にあたって「神はもうたくさんだ、主人はもうたくさんだ」というリーフレットを配った。それを受けてかどうか、晩年のブランキも新たな雑誌を創刊したとき、それに「神もなく主人もなく」というタイトルをつけた。これをクロポトキンが一人の反逆者のために使って広めた。

    1893年、オーギュスト・ヴァイヤンはフランス下院に爆弾を投じて逮捕された。逮捕されただけでなく、議会はこれをきっかけに暴力行為準備集会取締り法を強引に可決した。この審議のときにアレクサンドル・フランダンは下院の高い演壇から叫んだものだ、「アナキストたちは神もなく主人もないのです」。

    その後もこの壮絶で感動的な標語は、あたかも間歇泉のごとくにアナキストたちの唇を震わせた。第一次世界大戦終了後のパリでは、アナーキーな青年たちが自分たちのことを“Ni Dieu Ni Maitre”と自称した。

    *そしてここで顕現した「秩序と無秩序の対立」という図式がハイファンタジー創作文学へと継承されていく。

  • その一方で19世紀末におけるマルクス主義は「修正主義=社会民主主義」そのものに他ならず、フランスのブルジョワ寡占体制はドイツからこれを輸入。こうした資本主義的発展の果実再分配にあたって労働者が徹底排除された事への鬱屈が20世紀初頭に「権力の側からの暴力フォルス)」と「権力に対する暴力ヴィヨランス)」を厳しく峻別し、後者のみを称揚するジョルジュ・ソレル「暴力論Réflexions sur la violence、1908年)」を、さらには「権力奪取後も反権力を自称し続けるファシズムやナチズムを準備する展開を迎えたのだった。

    *これまで私はボローニャ出身で「父はファシスト英雄、当人は筋金入りの共産主義者」なる複雑な背景を有するパゾリーニ監督が遺作「サロ、またはソドムの120日(Salo、 or the 120 Days of Sodom 1975年、邦題『ソドムの市』)」において「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」というジレンマに突き当たったとしてきたが、実際に作中でナチス幹部が語る台詞は「我々ファシストだけが無政府主義を体現している。力による無政府主義だ」である。上掲の様な歴史的背景を踏まえるとこの思考様式の究極的深刻さが伺える。

    https://www.evernote.com/shard/s45/sh/8d6fef07-186b-4c03-b255-9b0afab8a1a7/8ac3107eafec398f582557116a66b4bf/res/51ae2335-190e-48eb-81f7-0b6de0afb814/o0480028812899071807.jpg?resizeSmall&width=832

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    *そしてこうした閉塞感を打ち破る為に新たな無政府主義の国際的アイコンとして選ばれたのが、ある意味松本零士の創造したキャラクター「宇宙海賊キャプテンハーロック」だったのである。

    1201夜『アナーキズム』浅羽通明|松岡正剛の千夜千冊

    アナーキズムの名著)9冊目に松本零士の『宇宙海賊キャプテンハーロック』が選ばれたのは、意外だった。ぼくは松本マンガはまったく読んでこなかったし、実はアニメ『宇宙戦艦ヤマト』も一度として一回分の放映すら見なかったので、いったいどうして松本マンガがアナーキズムの“名著”に入るのか、さっぱり見当がつかないのだ。

    浅羽君によれば、『宇宙戦艦ヤマト』というのは、人類を破滅から救うための決死の任務を担う戦士らの使命感を、大日本帝国ナショナリズムと重ねて描いたものだという。そこには「公」への献身と自己犠牲の賛美があって、それが戦後教育の「個のおすすめ」に対する反論だったらしい。もっとも、アニメがそうなったのはプロデューサー西崎義展の意図で、松本の原作にはそこまで描かれていなかったとも言う。

    それが『宇宙海賊キャプテンハーロック』では、松本と監督りんたろうと脚本家上原正三によって、無気力な地球人を見放してでも、あえて決戦で散っていくキャプテンや副長の精神と行動が描かれていくことになったらしい。そしてそれは、かつて福田善之が『真田風雲録』で、60年安保の全学連の闘士たちの姿を、豊臣の滅亡をものともせずに散っていった、かの真田十勇士の姿に重ねたものと匹敵するというのである。

    ぼくも福田の『真田風雲録』や『袴垂れはどこだ』は、当時衝撃をおぼえた舞台だったので、浅羽君が言いたいことの半分はわかるのだが、なにしろ松本アニメを知らないので、これ以上のことは判定がつかない。ましてアナーキズムとの関連も、よく見えない。

    けれども、『真田風雲録』と『宇宙海賊キャプテンハーロック』とのあいだの15年間で、日本が徹頭徹尾に「プチ個人主義」に向かってしまったことの理由を問おうとすると、そしてそれがあるとき『キャプテンハーロック』や大友克洋・矢作俊作の『気分はもう戦争』になったことを説明しようとすると、このアニメの意味を浮上させるしかないらしい。

    その15年間で何が日本におこったかといえば、70年代にはオイルショックチープシックと「シラケ世代」が、80年代にはポストモダン思想とジャパンバッシングと「新人類」が、90年代はレーガノミックスとMBAの君臨と「おたく」と「引きこもり」がおこった。そしてバブルが崩壊した。

    そんななか、もし21世紀のアナーキズムがあるとすれば、その方向は『AKIRA』や『新世紀エヴァンゲリオン』のほうにはみ出していたのではないか。短絡すれば、そういうことなのである。

    まあ、これも半分はわからないではないが、いったい「おたくアナーキズム」なんてものがあるのか、どうか。
    *ちなみに「アナーキズム」原著によれば、どうして宇宙海賊キャプテンハーロックが新たなアナーキズムのアイコンになり得たかというと「誰でも参加可能で参加以降も何も強制されない自由な結社」なる理想主義的側面と「革命達成の為の(後期ハイデガーいうところの)集-立(Gestell)システム、すなわち目的達成の為に手持ちリソース全てを投入し尽くそうとする総力戦体制」なる現実主義的側面を「(表面上は矛盾して見える)謎めいた偉大な計画に従って動く特定のカリスマ的人格」によって束ねる事に成功したからだという。だから海賊船アルカディア号には、あらゆる自由が横溢してる様に見えて「船長に無断で下船する自由」だけは存在しない。すなわち、それってより完成度の高い「指導者原理」や「集-立(Gestell)システム」に過ぎないのではないかという疑念が常につきまとう。松岡正剛のいう「おたくアナーキズム」とは、とどのつまりそういうもの。

    ドストエフスキーも指摘しているが、皮肉にも内面的に恒常的に「システムに組み込まれる恐怖」と戦い続けるアナキストは、その分だけ「自分が信頼出来る人格(すなわちカリスマ的人物や神)に帰依したい」という感情も高まるものなのである。その意味合いにおいて甘粕事件(1923年)で「殉教者」となった大杉栄は以降の日本無政府主義者にとって(「死人に口なし=究極の自由放任主義者」という意味合いにおいて、上掲の矛盾を解消する)格好の崇拝対象であり、かつ「体制に対する個人的復讐」なる大義名分の供給源となってきたという。むしろ甘粕事件の犠牲者となっていなかったら「ボルシェヴィズムにすら反対する究極の自由主義者」だった彼の様な人物が無政府主義のシンボルとして戦後まで崇拝され続ける事もなかったかも。

     *ああ、これこそまさに「1970年代末から1980年代初頭にかけて国際的に進行した何か」の要諦。それは一言で要約すると「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」なる政治次元のジレンマが「究極の個人主義は全他人の隷属化によってのみ達成される」個人次元のジレンマへと落とし込まれていくプロセスだった? 

ところで 「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」を著した米国政治学ベネディクト・アンダーソンは、こうした「実際の客観的フランス史」とは無関係に「想像上のフランス革命」が世界史を動かして来たと主張しています。でも本当に?

こうした「フランス史上の著名な欺瞞」にまんまと引っ掛かって来たのが日本の社会学者達だったとも。 

柄谷行人氏は「ルイ・ボナパルトブリュメール18日1852年)」注釈において民主主義が「主権者」としての国民の意志を代表するというのはブルジョア社会の「神話」であり、マルクスプロレタリアート独裁「神話」は「イデオロギー=死せるすべての世代の伝統」は武力闘争によってしか転覆できないとした。

ここでは、つい「仏陀仏教徒だった」「イエス・キリストキリスト教徒だった」「預言者アッラーイスラム教徒だった」と考えてしまう一般的誤謬が幅を効かせています。よく考えてみれば、教祖が自ら開闢した宗教の信徒であった筈など有り得ない事は誰でも分かりますよね? 仏陀バラモン僧、イエス・キリストユダヤ教徒、預言者アッラーは無道(ヘレニズム的折衷主義に立脚したアラビア半島内陸部の伝統的共同体の宗俗)の一員として出発したからこそ、それぞれ自らの信仰を樹立する為に「既存イデオロギー=死せるすべての世代の伝統」の限界を乗り越える必要があったのでした。道なき荒野に最初の一歩が刻まれる瞬間は得てしてそういうもの。ある意味「全ては勝ち誇る有識者の側の自己懐疑に始まる」とも?
*そして法華経における「久遠の仏」概念とか、キルコゲールの「久遠のイエス・キリスト」といった諸概念が後付けで誕生してくる。かくして20世紀後半には「安保教」なる新次元の宗教が産声を上げる事に。

それでは「フランス史上の著名な欺瞞」の正体とは具体的に一体何なのでしょう? それは「ルイ・ボナパルト皇帝ナポレオン三世普仏戦争1880年1881年敗戦によって失脚すると、彼が生み出した新興産業階層も消え去った」なる言い回し。実際にはフランス革命を通じて「出る杭は打たれる」教訓を得た彼らこそが、漁夫の利を得る形で寡占体制を完成させた「権力に到達したブルジョワジーbougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」の起源だった訳ですが、その事実を隠蔽する事によってかろうじて粛清対象とされるのを免れる事に成功したという恐るべき秘話。この「死んだフリ」こそが「幽霊・夢魔Geisterの青」なる妖怪を地上に放ったという顛末…